011 猫も歩けば
「見せてくれてありがとね」
朝課外の後、穂希は将に礼を言った。彼女は椅子をずらし、体を将の方に向けている。彼の回答を写さなければ、答えられないところだったのだ。
「まさか最後の最後に当てられるとは思わなかったよな」
「それ! 絶対こっちまで回ってこないと思ったのに~」
椅子を揺らして悔しそうにする穂希。今日の朝課外の先生は、席順で当てていくタイプだった。いつ当たるのかの予想はできるが、授業が終わる寸前で彼らの列まで来るとは二人とも思っていなかった。後半に行くにつれてテキストの問題も応用問題ばかりになるので、嬉しくないことだらけである。
「でもほんと、席が近くて助かったー」
そうして彼女は脱力した笑みを浮かべた。練習問題もウンウン唸りながら解いていたし、勉強が人一倍苦手そうだと将は感じていた。
「勉強運がアップしてる気がするね! 獣道くん拝んどこっかな。ご
「……ご
なむなむと両手を合わせはじめた穂希にそっと指摘してやる。
「ん……」
ふと、教卓に人だかりができているのが将の目についた。係決めの紙の前で、女子グループが相談しているようだった。
「小脇くん、クラスまとめるの上手いよね」
彼の目線を追って、穂希が言う。
「去年のうちのクラス、誰も動こうとしなくて、ギリギリまで決まらなくて。でも、呼びかけただけでこんなに違うんだ」
「そうだな……あいつの本領だよ」
去年もそうだった。小脇がいるだけで、クラスが活気づくのだ。みんなが積極的に動いていた。
「あいつは俺と違って女子受けもいいし、残りもすぐ埋まるんじゃないか」
「なにその言い方」
「そんなわけねえだろ」
なんで俺があいつにやきもち焼くんだ。将が即座に否定すると、穂希はますます可笑しそうに肩を震わせるのだった。
ひとしきり笑ったあと、彼女は逡巡するような素振りを見せた。
「……ねえ、獣道くん」
やがて穂希はゆっくり口を開いた。
「さっき、小脇くんに勝手に保健係にさせられたじゃん」
「おう。冗談じゃないよな」
「良かったらそれ、自分にやらせてくれない?」
「えっ? ……えっ!?」
思わず聞き返してしまう。将にとっては願ってもない話だった。穂希は真剣な表情だ。冗談などの類ではないらしい。
「保健係やりたいと思ってて。あの時は流れで割って入れなかったけど、獣道くんがしたくないんだったら、代わって欲しいなーって」
「お、おう……」
まさか代わってくれる人が現れるなんて。思いがけない幸運に動揺する将に、穂希はくすりと笑う。
「知らないかもしれないけど、保健係って結構人気なんだよ」
「ああ、」
涼しいとかなんとか、小脇も言っていたことを将は思い出した。
向こうからの頼みだったが、彼にとってもありがたい話に他ならない。将は軽く頭を下げて、頼んだ。
「じゃあ……交代、してほしい」
○●○●○●
心がすっかり軽くなった将は、昼休み、三年校舎の二階にある図書室を訪れていた。将にとって、高校に入って初めての図書室だった。将は読書があまり好きではないので、そもそも利用する機会もなかったのである。そんな彼がどうして図書室にやって来たかといえば、自らの変身に関して、資料を探したいと思ったからだった。
あの忌々しい白猫、ぎんは言ってしまえば加害者だ。彼女を信用し、彼女の言葉だけを全て信じるのは危険だろう――というのが、将の考えだった。あれから猫への変身は二日に一回程度になっていたが、今後も回数が減るのか知る術は今の将にはない。ゆえに、自分で得られる知識は吸収しておきたいと思ったのだ。もしかしたら自分以外にもそんな経験をした人間がいるかもしれないし、この契約を解く方法だって見つかるかもしれない。……彼のこうした思考や行動はぎんに筒抜けなのだが、それでも調べておきたかった。
「とはいっても、どう調べたものか」
手当たり次第に探せばいいのだろうが、将にはそのアタリすらつけられなかった。本棚を前に立ち尽くした将は、入り口近くに書籍検索のコンピューターがあったのを思い出す。一旦戻ってそこで検索してみよう。
大きい括りで[変身][動物]という単語でサーチをかける。
結果はすぐに画面に表示された。
「お、おお」
そこそこ引っかかったことに若干の感動を覚えつつ、将は一番上に出てきた本を探しに向かった。
少し時間はかかったが、彼はなんとか見つけることができた。似たような通路に似たような背表紙の本が立ち並ぶ棚の中に、あった。オウィディウスの『変身物語』――元のタイトルはラテン語で、"Metamorphoses"と書かれている……メタモルフォーゼ、ズ? かな。将は特に何も考えもせずページを捲ってみる。何年も誰も手をつけてこなかったことを思わせる、乾いた紙とカビっぽい臭いが鼻をついた。
「う……」
一瞬本を戻したくなった。読書好きでない彼にはハードルが高かった。
こんなことをして何になるんだ、馬鹿馬鹿しい……それでもなんとか思いとどまって、昼休みが終わるまでは読んでみようと閲覧室に移動する。
図書室には読書や自習のための机や椅子がそこかしこに並んでいる。昼休みは始まったばかりだったが、既に読書や勉強に耽る生徒の姿は多かった。試験前でもないのに、そこそこ生徒がいるものなんだな――と、将は意外に思った。適当に人気のない机を選んで静かに腰掛ける。
将はこの図書館という空気そのものが少し苦手だった。物音を立てないように気をうし、それでどこか歪な空気が生まれているように感じるのだ。その上、図書館にいる生徒は何だか「そこにいるのがふさわしい」顔ぶれで、自分は浮いてしまうような気がしていた。そんなあれこれが彼を図書館から遠ざけていた。
『変身物語』。この本は著者がギリシア神話の中の、「変身」がテーマの話を中心に集めて編纂したものらしい。将はのろのろページを捲りながら考える。最高神がゼウスじゃなくてユピテルって書いてあるから、ローマ神話なのかな……? その辺はあまり詳しくない。
ここに集められた話は創作だ、と考えるのが普通だろう。しかし実際に猫に変身してしまう将にとっては、どれも他人ごとには思えなかった。もしかしたらこの中に、自分と似た境遇の人間が載っているかもしれない。
淡々と連なる文字に目を走らせていると、ふいに向かいの席の椅子がかたんと動いた。
「……?」
気になって顔を上げてみると、そこには九十九灯が座っていた。
「おわ」
将は驚いて大声を出しそうになったが、すんでのところでこらえる。九十九はやんわりはにかんで彼を見ている。
「獣道くん久しぶりだねー」
「う、うん、久しぶり……?」
明らかに挙動不審の将に、九十九はにこにこと笑うだけだ。将は薄々気づいてはいたが、彼女は天然なところがあるのだ。
「えーと、九十九さんはどうしてここに……」
「私図書委員なんだ。今日は当番」
「当番……って」
将は訊き返してしまう。そしてちらりと入り口付近のカウンターを見る。そこには司書の先生の姿があった――図書委員もずっとそこにいるものだと思っていた。
「返却された本の整理をしてたの。バーコードをぴってするの、どんくさいからかあまり得意じゃなくて」
「そう、なのか」
まともな返事ができないのが辛かった。偶然図書室で会っただけなのに、彼は緊張してしまっていた。九十九と接していると、いつも通りの自分ではいられなくなる。自分の駄目なところが浮き彫りになった気がして、それが嫌だった。できるものなら今すぐ叫びながら屋上まで駆け上って、身を投げてしまいたい――そんな彼の苦悩を知るはずもなく、九十九は将の手元の本に興味を示した。
「何読んでるの?」
「これは……テキトーに選んだ本で」
別に知られて困るわけでもないのに、途端に恥ずかしくなって誤魔化してしまう。それでも九十九は、
「あるある、私もよくやるなあ」
と謎の同意を示した。将は九十九の優しさに浄化してしまいそうだった。
「『変身物語』かー」
いつの間にかしっかりタイトルを見ていた九十九が言う。
「私も一年の頃に読んだことあるよ」
「ま、マジで?」
「うん。図書室にあるのはだいたい」
……さらりととんでもないことを言わなかったか。けれど、こんな本も手にとってるあたり、冗談にも思えないし……天然なんだろうけど色々侮れないぞ、と将は唾をのんだ。
「すごいな……じゃ、じゃあ、他にこういう話が載ってる本知らないか?」
「? こういうのって?」
「こう、人間が、違う生き物に変わる話だよ」
すると九十九は微かに眉根を寄せて、小さく首を傾げるのだった。それに合わせて長い黒髪がさらりと揺れる。
「変身譚――って、言うんだけどね。ひとが動物や植物や星になるようなお話のこと。海外の昔話に多いかも……うん、結構あるよ。獣道くんは、どういうお話がいいの?」
「……九十九さんのおすすめで」
将はしばらく考えた後、声を絞り出した。例えば、人が猫に変わる話――なんて言って、自身の秘密を感づかれるわけにはいかないと思ったのだ。
「そう? じゃあ――最近読んだ『狼女物語』とか! これも短編集みたいなものなんだけど、獣道くんの気に入る話も見つかると思うよ」
「わかった」
絶対に読もう。将は思った。
ありがとう、と彼が礼を言うのと同時、九十九は席を立った。あんまりサボっていると注意されちゃうから、とのことだ。まだ仕事の途中だったらしい……サボるなよ、と思う反面、話しかけてくれたことを嬉しいと思う将だった。
それから彼は再び読書に戻ったが、内容は頭に入らずまったく意味をなさなかった。
○●○●○●
結局、昼休み中に読めるような長さではなかったので『変身物語』は借りることにした。
変身譚、だったか。海外に多いと言っていた。それに、『変身物語』といい、九十九が言っていた『狼女物語』といい、やはり変身といえば狼がメジャーなのだろうか――さすがに穿ちすぎだろうか。いずれ日本の古典とかも当たってみるか……。
将が物思いに耽りながら歩いていると、廊下の壁にひとりの女子生徒がもたれかかっているのが目に留まった。考えごとをしていたのかその顔は下を向いていたが、彼の視線に気づくと、姿勢を正してこちらに歩いてきた。
「きみ、ちょっと」
鋭い声で将を呼び止める。何の用だろう……将は力んだ。すらりと背が高く、ほっそりとした女子だ。筆で引いたような整った眉と編みこみの入った黒髪で、制服のリボンや上靴の色が青色――三年生だった。ここは二年校舎の廊下である。どうして三年生が二年の教室の近くにいるのか将には分からなかったし、彼女にはとんと見覚えがなかった。
「私は
将が怪訝そうな顔をしていたからか、女子生徒はフルネームで名乗った。女子特有の高い声に反して、男勝りな口調だ。
「それで、きみは二年のABC組のどれかの生徒だよね?」
「そうですけど……」
いかにもデザイン科らしからぬ顔なのだろうか――それはそれで凹む将だった。
鶴岡先輩は将の返事に満足して、表情を和らげる。
「良かった。実は、頼みがあるんだ」
「――頼み」
「楽ってわけじゃないけど、大変というほどでもないよ」
楽でない時点で将は既に辞退したかったが、「何でしょうか」と訊いた。先輩が早口でどこか畳みかけるように言うのが、少し気になったのだ。
「ありがとう。じゃあ手短に話すぞ。こないだの金曜から、二年のデザイン科が合宿だったんだ。そして宿泊先でみんなダウンしてしまった」
……一体どんな鬼合宿だったんだろう。将は戦慄したのだが、先輩の言葉は彼の予想を外れた。
「食中毒。嘘みたいな話だが、教室を覗いてみたらガラガラだったから事実なんだろう」
「それは……災難としか言えないですけど、頼みって言われても」
「ああ。いや、彼らを看病してくれというわけではないよ。
今朝、体育祭の連絡があったと思う。デザイン科は、それに加えてパネル係も兼務することになっている。赤白青の組をイメージしたもの、それに入場門に置く、対になるパネルの計五枚を描かなければならない――だが現在我々は人手不足だ、このままでは間に合わない可能性がある。だから、それを手伝ってくれる人手が欲しいんだ。できれば部活や係に所属していない、さらに欲を言えば絵を描くのが好きだという生徒がいい」
鶴岡先輩は一息にそう言った。これは保健係よりも面倒だぞと思った将はすかさず、
「残念ながら力になれそうにないですね。俺、絵はそんな得意じゃないので」
と言った。できることならパネル係は避けたかった。放課後、居残りで絵を描いている生徒を将は見たことがある。もし引き受けたら、恐らく自分も毎日のように拘束されるだろう……それに、絵があまり上手くないのも事実だった。
先輩が引き止めにくるんじゃないかと構えていた将だが、彼女は大人しくうんうんと頷いた。――強引に参加させるつもりはないということか?
「無論、無理にとは言わない。きみにもきみの都合があるだろうからな」
それを聞いて将はほっと胸を撫で下ろす。このままやんわり断れば事なきを得そうだと思った。
「それじゃあ俺は――」
「だが、二年の皆に呼びかけることはできるだろう。できるだけ多く、助っ人を集めて来てほしい」
全然違った。いずれにせよ彼女は仕事を託すつもりだったらしい。戸惑う将に構わず、鶴岡先輩は続けた。
「絵が不得意だと言ったが、流石に普通科の生徒に、デザイン科に匹敵する画力を求めはしないよ。誰でも出来る、簡単な色塗りを手伝ってもらう予定だ。だから作業も我々の半分もないだろうな。ただ、絵が好きで得意な人がいると助かるのも事実だ。そういう人たちには我々と同じ作業を任せるかもしれない」
本人は凛とした顔をして、表に出さないようにしているのかもしれないが、それでも将には彼女の必死さが伝わってきた。頑張り屋。努力家。あるいはリーダー気質? いずれにしても、どれも将にはないものだった。何かに一生懸命になるのは嫌いだったし、面倒くさかった。嫌な性格だとは思う。しかし素直に先輩に同調もできず、将は言葉を濁すことしかできない。
「……でも、俺」
「お願いだよ」
鶴岡先輩は懇願するように細い声を出した。ふいに零れ落ちた彼女の本音は、将のごちゃごちゃしていた思考を完全にストップさせた。
「絵の才能なんて、どうでもいいんだ。本当に誰でもいいから」
「才能――」
オウム返しして、将はふと、引っかかりを覚えた。才能?
そのとき将は、あることを思い出した。
「……私はそのパネル係のリーダーだ。明日の放課後までに、その人数を私まで伝えに来てほしい。待っている」
先輩は柔らかい笑みを浮かべた。だがそれは、将には見ていて辛い笑顔だった。その肩を軽く叩いて、鶴岡先輩は大股で去っていく。
将はそっと肩に手を置いた。まるで岩でも置かれたかのように、ずっしりと重かった。
面倒だけど、本当に面倒だけれど、と将は自分に言い聞かせる。先輩のために自分ができることはあった。まず、それぞれのクラスに呼びかけすることだ。
彼は、確実に一人参加する生徒がいると確信していた。
楠穂希。彼女は中学生の頃、「画家」と呼ばれていた。
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