第二章

しろくろスケッチ

010 一難

 新学期から二週間が過ぎた。なんとなくではあったが、将は自分のクラス――二年C組のことが分かってきたような気がしていた。


 C組には天野あまのしずくや、あるいは九十九つくもあかりのような、ある意味飛び抜けて目立つ生徒はいないようだった。強いて言えば小脇こわきしょうくらいだろうか。小脇はクラスに一人か二人はいるような、スポーツ万能の人気者、加えて、初対面だろうが誰とでも打ち解けることができる才能を持っていた。

 一方将も将なりに、クラスメイトと交友関係を持とうと四苦八苦していた。ただ、小脇のような立ち位置は御免なので、目立たない程度にそこそこの地位をキープし続けている。


 だが、現時点でのクラスにおいて、将はやや孤立していた。彼がクラスメイトと話すときにはいつだって小脇が近くにいたし、将一人で他の生徒と会話したためしがない。おまけに弁当だって一人でか、小脇と二人で食べることがほとんどだった。将自身は独りでいることは平気なのだが、学校生活を送る上ではこれは良くないということくらいは分かっていた。危機感くらいは覚える。

 これはそんな、彼が少し焦っていた時期に起こった出来事だ。



○●○●○●



 月曜日。将は欠伸を噛みしめながら二年の校舎に這入る。

 彼の通う、私立御津山みとやま高校は、学年ごとに三つの校舎がある。真上から学校を見ると、長方形の校舎が三つ、三角形を作っているのが分かる――ちなみにこの校舎の真ん中にできた三角形のスペースが裏庭である。

 教室はそれぞれの校舎の一階にあり、二階より上に、それぞれパソコン室だったり図書室だったりがある。体育館や食堂は三つの校舎の周りに建っている。渡り廊下で校舎ごとに移動できるようにはなっているが、十五分という休み時間で端から端まで移動するのにはそれなりに時間を消費するのが難点だった。将は詳しくは知らないが、かなりのデザイナーズスクールなのである。

 学級は、学年ごとにだいたいAからDの四クラス。Dは特別学級で、デザイン科の生徒が集められていた。御津山高校は、教育はもちろん芸術方面にも力を入れており、それらの進路を目指す生徒を多く受け入れている。


「おっ、獣道じゃーん」

 教室のドアを開けようとした将の後ろから、小脇が声をかけてきた。びくりとして将は振り返る。小脇は朝練が終わったばかりで、体操着姿だった。


「なんだよびっくりさせんなよ!」

「お前相変わらずホームルームの予鈴ギリギリに来るのな」

 小脇はがっちりと将の首に腕を巻きつけて、言った。将は抵抗したが、運動部の小脇に帰宅部の彼が敵うはずもなかった。小脇はそのままガラリとドアを開けて将を引きずりながら中に入る。生徒の目が二人に刺さった。


「おはようよう!」

 小脇は大声でそんな風に挨拶をしながら、さらに注目を集めていく。その間に将はなんとか拘束から逃れ、ふらふらと席についた。

 浮いてはいるものの、一周してそれがクラス受けしている小脇とは違って、将はここのところ悪目立ちが続いていた。今だって、小脇に挨拶を返す声は次々と上がっているのに、将にはそれがない。

 ……いや、人見知りでこちらから声をかけない俺が悪いのだ。将は自分を叱咤した。クラスメイトは悪くない。それに――


「今日も元気だねー、小脇くんは」

 話しかけてくる生徒が一人もいないわけではなかった。将のひとつ前の席に座るその少女は、椅子に腰掛けたまま体を捻ってこちらを向いている。


「おはよー」

「お、おはよう」

 なんだか気恥ずかしくなって、将は俯きながら返した。


 茶色がかった黒髪に、オレンジのメッシュ。丸顔で小柄、スカートの丈は改造されて短い。堂々と校則違反している生徒であった。ただ、服装検査のときはしれっと元に戻してちゃんとする程度には良識を弁えていた。そもそも御津山学校は校則が緩いので、咎められることはあまり無いのだが。

 くす穂希ほまれはこの学校では珍しい、将と同じ中学出身の女子だ。このクラスにおいて将の同中は、小脇と彼女の二人しかいない。中学生の将と楠はクラスが別だったため、高校生になってから互いに初めて会話をしたわけだが、なかなか気さくなやつだ、と将は思っていた。


「ねえねえ、朝課外のテキスト見せてくれない? あれ自信なくて」

「ああ、それなら……」

 こういうやりとりは慣れっこだった。将がテキストを引っ張りだして手渡すと、楠はぱらぱらとページを捲りながらぼやいた。


「獣道くん頭いいからなー、自分は容量悪いから、羨ましいよ」

 そのヘアスタイルこそ人目を引くが、それさえ慣れてしまえば、楠は良くも悪くも普通の女子である。

 ちなみに座席は、新学期早々席替えをしたので既に番号順ではない。今現在の将の席は教卓に一番近い列の、前から三番目。丁度教室の真ん中あたりだ。そして楠はその前の席で、こうしてたまに話しかけてくる。


 しかし――と将は思う。ぼっちの俺の近くに、こうして彼女のような接点のある生徒がいるというのは幸運なんじゃないだろうか?


「俺だってそんな成績よくねえけど……」

「小テストそこそこいい点とってるみたいじゃん。授業中居眠りしてる癖に」

「う」

 結構あれこれ見られていた。将が言い返せずにいると、彼女はくすりと笑って自分のテキストと照らし合わせはじめた。


「なんだろうね。そういう、元ができてる、みたいな。才能? 誰もが平等に持ってるわけじゃないのが、ズルいよね」

「ん……?」

 才能という単語に、将は何か引っかかりを覚えた。確か、楠だって才能が――


「なあ、楠さんさ」

「穂希って、呼んでほしい」

 このとき初めて、将から楠に声をかけた瞬間だったのだが、あっけなく遮られる。


「え?」

「楠さんって呼ばれるの、あんまり好きじゃないんだよね。読みが二音ってこともあるのかな、なんか、聞き心地が悪い」

 穂希はセミロングの髪をいじりながら、言った。

 名前の長い将にはあまり共感のできないことだったし、そんなことを言われたのは生まれて初めてだった。そして、彼は内心ドキドキしてしまっていた――下の名前で呼べってことだよなこれ! 楠、って呼び捨ててほしいとかじゃなくて、下の名前で!!

 獣道将はこういうシチュエーションに悉く弱かった。


「…………じゃ、じゃあ穂希さんで」

「なんか今すごい間があったけれど……獣道くんどうかした?」

「俺のことも将って呼んでいいからな!」

「いやそれはない」

「断言された!?」

 ショックを受ける将。あまり調子に乗るものではないらしい。


「はっは。獣道くんはウブなんですなー」

 楠は引き笑いを浮かべている。

 将の首筋を汗が伝った。おかしい、こんなはずでは……。


「ぐっ……否定はできないが、そういうことを言うくらいならお前、下の名前呼びに抵抗ないはずだよな」

「そういうのは、ちょっとハズイかな」

「お、お前……人に呼ばせておいてそれは……!?」

「あはは」

「笑って誤魔化すな!」

 その時チャイムが鳴り、会話は中断された。楠……穂希もくるりと前を向いて、何事もなかったかのように宿題の見直しを始めた。


 やがて担任の斉藤先生が教室にやってきた。簡単に諸連絡を伝えて、朝課外のために早足で出て行ってしまう。身体測定の結果が出たこと、それをもとに体育祭の組み分けができたため確認するようにということ、明日の放課後までに、体育祭の係を決めるようにとのことだった。

 担任がいなくなった途端、クラスは一気にざわついた。


 一学期最初のイベント、体育祭は五月に行われる。係活動には保健や用具などなど……クラス全員ぶんはないにせよ幾つか種類があるのだが、そのどれもが面倒なものだった。将は去年はなんとか逃れられたが、今回もそうとは限らないだろう。


「じゃあ俺、体操係しますわー」

 その時一際大きな声が上がる。クラスの喧騒が少し静まった。小脇だ。いつの間にか制服に着替えている。ブレザーの前は留めていないので、だらしない格好だ。

 小脇は教卓まで歩くと、先ほど担任が黒板に貼った紙に名前を書いた。


「俺体育委員だし。そのほうがいいだろ」

 そういえば去年もこいつは同じことをやってた気がするな……将はぼんやり思い出していた。体操係は前に出て体操したり指導したりしなくてはならない。そのため皆が避けたがる係の一つだった。誰も反対の声を上げないことから、不人気ぶりが伺える。


「あとは、用具係・招集係・誘導係・記録係・得点係・保健係だな――保健は獣道と末永の二人でいいだろ」

「えっ!? おい勝手に……!」

「その方がいいじゃんね。末永さんも別にいいよね?」

 小脇は将の制止もきかずに既に名前を書き始めている。将は素早く末永のほうを見た。窓際の一番後ろの席で、彼女はゆるゆると手を挙げた。


「ん、あたしは別にそれでいいよ」

「じゃあ決まりなー」

「何ィ!?」

 嘘だろ――あっさりと決められてしまい、反発しようと勢いよく立ちあがった将には見向きもせず、小脇は続ける。


「あとの係も、課外の後にとっとと決めちゃおうぜ。できるだけ強要とかはなしで。最悪埋まらなかったら推薦とか多数決になるけどそれはなるたけやりたくないしな」

 強要した張本人がそんなまともなことを言うなんて。将は信じられない気持ちで、涼しい顔で教壇を降りた小脇を睨む。


「おい、どういうつもりだよ」

「いいじゃん。保健係なんてシフトの間、扇風機のある救護テントで過ごすだけでいいし。正直楽な仕事だろ」

「なるほどな、涼しいのはいいな……って俺は働きたくねーんだよ!」

「働け」

 小脇はぽんと将の肩を叩いてそう言うと、自分の席に戻っていった。将もさすがにもう何も言い返せなかった。彼の言うことは酷く正しい。

 まあ、今年くらいは頑張ってもいいか――自分本位なことを考えながら、将はうんと伸びをする。


 この時点で彼は予期すらしていなかった。よく言うアレである。一難去ったあとには、また一難やって来るのだということを。

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