番外編
~天野しずく 編~
はっとして起き上がり、ただの夢だということに安堵する。少女は額の冷や汗を拭うと、起こした上半身を倒して再び布団に仰向けになった。背中にじっとり湿った感触。かなり汗をかいていたらしい。
ちらりと脇の置時計を見やると、起床の時間まではまだかなりあることを知らせていた。彼女はふっと息を大きく吐いて眠りにつこうと目を閉じる。
天野しずくは友達を作るのが苦手だった。
自分が表情や感情を表に出すのが下手なことは自覚している。その所為で、これまで交友関係において幾度となく失敗してきた。だからこうして毎晩、悪夢となってフラッシュバックしてしまう。
早く朝になればいいのに。そうしずくは思った。朝になれば部活の練習ができる。罪悪感に苛まれることのない、ただただ没頭できるソフトボールだけが彼女の救いだった。
夢は、忘れたい記憶に限って掘り起こして見せつけてくる。新学期、同級生にぶつかってしまったことや、怖がらせてしまったこと――そして、ある男子生徒との会話とも呼べない会話。
「――っ!!」
声に出さずに叫び、しずくは布団に潜った。
どうして自分はこうなんだろう。いい加減、彼女も変わりたいと望んでいた。
○●○●○●
一学期も始まって数週間が過ぎた。放課後、部活を終えたしずくは、学校の隣にある公園のグラウンドをひとり走っていた。チームメイトと更衣室に行くと話題に困るので、自主練と言い訳して何周かジョギングをするのが日課だった。その公園は夕方になると人気がなくなって好きだった。
そろそろ皆の着替えも終わった頃だろうと走るのをやめ、更衣室へ向かおうとした彼女の耳がふいに水の音を捉えた。見ると、一人の男子生徒が公園の水道で髪を濡らしている。
……どうして外で髪を洗っているんだろう。男子ってよくわからない。じっと観察していると、向こうもこちらに気づいて蛇口を捻って水を止め、髪を拭いた。
「……天野さん」
目が合ったとき、ようやく彼が見知った人物であることに気づいた。その髪から滴る水に、あの土砂降りの日――始業式を想起させる。
その男子、獣道将は、隣のクラスの生徒だ。新学期に間違えて自分たちの教室に入っていたので記憶に残っている。そんな彼に、天野しずくは僅かながら親近感を抱いていた。常に失敗ばかりの彼女には、獣道という生徒が好ましく映った。
だから、ある朝彼とばったり出くわしたときはチャンスだと思ったものだ。案の定、上手く話をすることもできず、どころか強く当たってしまったのだが――今ではしずくは、今や獣道に申し訳ない気持ちをも抱いていた。彼に対する好意は同情であり、見下しているからだと気づいたからだ。
それだけではない。しずくは彼をネタに、友だちを作ろうとしたことを知られたくなかったのである。
今でも夢に見る、九十九灯とぶつかってしまった一連の出来事。九十九は教室を間違えた獣道に声をかけていた同級生だ。きっと悪い人ではないだろうと、あの日のしずくは判断した。彼には申し訳ないが、「今朝は変な生徒がいたわね」と話しかけるきっかけもある。そんないきさつで、彼女は、友達を作ろうとした。
罰が当たって当然だとしずくは思う。こんなことだから、いつまで経っても自分は駄目なのだ。今回は巡り合わせが良く九十九と友達になることができたが、このままではまた失敗を重ねてしまうだろう。
「すげー顔してるぞ。ちょっと肩の力抜けよ」
すると、そんな指摘が飛んできた。びっくりして獣道を見つめると、相手は呆れたように半目でこちらを見ていた。
悪い癖だ。話をしたいと思った途端緊張して、結果、言いたいことも忘れてしまう。その上、険しい顔になる所為で、相手からは睨まれているようにしか見えないだろう。だから、こんなことを言ってくれる男子はこれまで一人もいなかった。
「……? ……っ」
話そうと思っても、上手く声が出ない。
どうしてこうなるんだろう、と腹が立つ。しずくはいつも空回りしていた。雨の中クラスメイトを捜してストーカーまがいのつけ回しをしたり、会話したかった男子生徒を避けるような真似をしてしまったり。
そんなしずくに、獣道はなだめるように言う。
「あー、無理して話さなくていいから。その、えーと。俺が話題を振るから、それに答えてくれないか」
まるで全て分かっているとでもいうような口ぶりだった。それに驚いてしずくはますます身を堅くしてしまう。だが、いつまでも無反応ではいたくない。意志表示のために、こくこくと赤べこのように頷く。それだけで一杯一杯だった。
「天野さんは何してたの? 部活?」
「……自主練」
「そうなのか。ソフト部、だっけ。すげー上手いって噂、聞いたけど」
「そんなことない」
そんな調子で、彼はいろんな話をしてくれた。しずくはそれに短く返し、ぎこちない会話のキャッチボールが成立する。どうして自分と話してくれるのだろうと疑問に思っていたしずくだったが、次第にある推測が浮かび上がった。
彼は、何か悩みがある。誰かに打ち明けたいが、それができずにこうしてとりとめもない話をしているのではないか、と。
常日頃から苦悩を抱えているしずくだからこそ分かることだった。獣道の何でもない会話の裏にある感情を、敏感に感じ取ることができた。だが、だからといってどうすればいいのだろう? なんとかして彼の悩みを解消してあげたいが、自分は意志疎通が下手だ。
「……獣道、くんは」
震える唇をこじ開けて、しずくは思い切って問うことにした。
「何をしてたの。部活、とか」
「いや、いや。部活はやってない」
相手の目が一瞬泳いだのを、彼女は見逃さなかった。それが今更、自分を怖がってのものではないことくらいは容易に判断できる。獣道は、人一倍顔に出やすいのだ。
「随分遅くまで学校に残ってたのね」
「……まあな」
なんとなく、誤魔化されたのは分かった。干渉されたくない。そんな心の声が、うっすら聞こえてくるようだった。
関わられたくないと相手が思っているのなら、近寄るべきではない。彼女自身がよく知っていることだった。
「何か、あったの」
だから、短く言う。
「話、聞くことくらいはできるから」
偉そうに聞こえるに違いないだろうが、不器用な自分にできる精一杯だった。恐る恐る相手を見やると、獣道は恥ずかしそうにそっぽを向いて頭を掻くところだった。
「駄目だなあ、俺」
「……」
「天野にはバレバレだったわけだな」
「そんなこと」
ない、とは言えなかった。獣道は静かに腕の甲で目元を素早く拭う。しずくは見なかったことにしようと慌てて空を見上げた。いつの間にか空はオレンジから群青に変わろうとしていた。
「獣道くんは私に似てるから」
「はあ?」
しまったと思う。誤魔化そうとしたのに口が滑って余計なことを言ってしまった。案の定相手はぽかんとしている。
「なんでそう思うんだよ……」
将は次第におかしくなってきたのか、肩が震えはじめたかと思うと声を上げて笑い出した。
「だったらお前、もっと笑ったほうがいいぞ!」
まるで自分はよく笑うのだとでも言わんばかりの口調だった。しずくはむっとしたが、納得して頷いた。
「そうね」
それから、ほんの少しだけ獣道と会話を交わして、別れた。自分が彼の心の支えになれたかは怪しいところだったが、不思議と気持ちはすっきりとしていた。誰かと話して後悔しなかったことなど、いつぶりだろう。
今なら笑えているかもしれない、としずくは思った。
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