Report.12

泉 仁志


「……はぁ」

アパートの一室の玄関前で僕は両手を見つめ、深くため息をついた。朝から気分が晴れない。というより一昨日から晴れてない。せっかくの休日が1日目で悲惨な状態になり、その爪痕が昨日今日と残り続けてるのだった。見つめていた両手をゆっくりと顔に近づけるとやはりあのエグい匂いが漂っていて、それを嗅ぐたびに右手の不快感を思い出すのだった。その匂いは不快な筈なのに、何故か癖のように、気がつくと手の匂いを嗅いでいた。

気を取り直して、鍵を取り出した。







中に入ると弁当のおじさんと遼太郎が親しげに話していた。遼太郎はおじさんの事を苦手とか言っていた気がするが。そのおじさんが僕に気付いた。

「おはようございます。ではお願いします」

それだけ言うと、おじさんはいつもの如く、さっさと出て行った。調子はどうですか?と聞く事すらできなかった。もう風邪は治ったのだろうか。

「なあ、おじさんいつここに来た?」

そう言って遼太郎の方に向き直ると、遼太郎は不思議そうな顔をしてキョロキョロと部屋を見回していた。

「昨日」

相変わらず周囲を気にしている。それも気になったがそれ以上に引っかかる事があった。

「昨日来たのか?んじゃ、一昨日の夜誰がお前を見てたんだ?」

この流れだと英里じゃないか。遼太郎はキョトンとした顔で答えた。

「え?誰って、英里だけど」

「お前……」






「お前そんな事気にしてたのか」

遼太郎はお腹を抱えて転げ回っている。

「男女が一つ屋根の下とかそうとしか考えられないじゃん……」

苦し紛れに言い訳を放つ。

「想像しすぎだろ。俺はそんな卑しい真似はしないよ」

ふふんっと遼太郎は鼻を高くした。その仕草が妙に英里に似ていて無性に腹がたつ。

「まあお前には千穂さんがいるもんな」

遼太郎はいつもの如く、ピシリと動かなくなった。




劇の公演は明日かららしく、今日はリハーサルをするそうだ。つまりメンバー全員が揃う時でもあるという事だ。遼太郎曰く、自分が入ってから初めてだそうだ。本番前日でようやく全員集合をしているとは、呑気な気がしてならない。本当に上手くいくのだろうか。僕は見るだけなのに心配になってきた。



因みに遼太郎がキョロキョロしていたのは、何か不快な臭いが漂っていたらしい。僕には全く身に覚えはない。


覚えはない。









「お疲れ様でしたー!」

どこかで聞いた声が耳に入り、僕は目を覚ました。まず視界に入ったのは、笑顔で駆け寄ってくる遼太郎だった。

「いやぁ、楽しかった。舞台に立つのはいいねぇ〜」

遼太郎は子供の様な無邪気な笑顔を浮かべている。周りは相変わらず冷めた目で遼太郎を見つめている。

「上手くいったのか?」

遼太郎の無邪気な笑みが細い笑みに変わる。

「無論。てかまた寝てたのか」

「え?いや……うん」

遼太郎の口角がさらに上がった気がする。

「ま、お前らしいといえばお前らしいな」

「はいはい悪かったね。んで、前言ってたあの男は大丈夫だった?」

細い笑みは瞬時に消え失せた。

「ああ。何もなかった。少し不気味だけどね」






帰路につく僕たちの間に会話はなかった。



***


海崎 颯人


騒がしい居酒屋の一角で携帯の着信音が鳴り響いた。周りの騒音はその音をかき消しており、その音が耳に入ったのは持ち主の俺だけのようだった。俺は携帯を耳に当てる。

「颯人!お前今いつもの居酒屋に居るか?居るよな?」

声色から焦りが滲み出ていた。

「今監視人が誰かに追われてるみたいでな。お前の近くだからちょっと外見て来てくれ」






俺は会計を済ませ、やや上機嫌で店を出た。

何やら罵声が聞こえる。店から出て左手から、逃亡する2人組とそれを追いかける3人組のチンピラの姿があった。




俺は手前を走っている2人組の1人に視線を奪われた。




強烈な違和感があるのだ。

丸でそいつ自体が歪むように。

そいつのまわりが歪むように。




ピントが合わない感覚と似ている。涙が滲んでいるかのようにぼやけており、はっきりと視界に捉えることができない。




俺はそこで初めて監視人に出会った。


***


泉 仁志


何もなかった。

遼太郎の言ったそれは本当なのだろう。舞台さえ始まればあの男も、そうそう手出しは出来ないだろうから、しばらくは安心だ。そんな考えとは裏腹に、僕の胸騒ぎは一向に収まらなかった。




永遠を思わせる長い沈黙は、やはり終わりを告げる。

「仁志……」

とても小さい声だった。注意しなければ聞き落としてしまいそうなほど。遼太郎は僕に話しかけた様子はなく。前を見たままいつものように歩いている。

「後ろに誰かいるだろ」

遼太郎は前を見たまま、小声で僕に話しかけていた。まるで僕らの会話を誰かに悟られたくないように。僕は後ろに一瞥くれたが、特に異常は感じなかった。僕は小声で返した。

「誰もいないぞ」

遼太郎は普段通りだ。

「お前は俺以外に見えないんだろ?ならしっかり見てくれ」

そうだった。すっかり忘れていた。僕は歩みを止め、振り返った。



人が疎らに行き来していく。一人一人の視線は定まっておらず、何かに追われているようにも見えた。そんな中で1人、焦点を一点に絞り、確固たる歩みを進めている者が目に入った。




遼太郎を睨んでいた男だ。




僕は小走りで遼太郎の元に駆け寄った。

「つけられてる」

本当にこんな事があるとは思ってもいなかった。自分でもまだ半信半疑なくらいだ。だが間違いなく、その男の目線は遼太郎に向けられていた。何かしなければならないが、何をしていいのかまるでわからない。遼太郎は平静を保っていた。それを見ていると、僕自身の度胸の小ささを突きつけられている気がした。とにかく冷静に……。少し離れたところに右に入る道が見えた。

「遼太郎、次の角を曲がったら走るぞ」

遼太郎はゆっくりと頷いた。普段は使わない道だが適当に行けば何とかなるだろう。今は振り切る事が大前提だ。問題があるとすれば、遼太郎やそれを追う男でもなく、足が遅く持久力のない僕が2人に置いて行かれないかという事だけだ。

角に差し掛かった瞬間に僕らは走り出した。男にその様子を見られたらしく、男の走り出す姿を視界の端に捉えた。僕は定期的に後ろを見ながら走り続ける。男が角を曲がったあたりで僕は何かにぶつかり、そのまま尻餅をついてしまった。遼太郎がそれに気づき、僕の元に駆け寄ろうとする。声が聞こえたのはちょうどその時だった。

「ってぇ〜な、にいちゃんよぉ〜」

僕がぶつかったのは3人組のチンピラの1人だった。

3人は僕ではなく、遼太郎に絡み始める。

「おい、ぶつかっといて謝りもしねえのか?あ?」

「舐めてんのかてめえ」

「やんのかオラァ」

3人組が口々に文句を言っているのを、遼太郎は死んだ魚の眼で見ていた。後ろを振り返ると、あの男がだいぶ近づいてきている。僕は立ち上がり、走り出した。

「遼太郎!走れ!」

遼太郎の目に光が戻り、一気に走り出した。3人組も遅れて走り出す。

「おい!待てオラァ!」

「逃げんじゃねぇぞオラァ!」

「殺すぞオラァ」

オラオラうるせえなオラァ。僕が見えない事を利用してボコボコにするぞオラァ。

少し離れた居酒屋らしき場所からオールバックの、いかにも裏の世界に住んでいる大男がややご機嫌な様子で出てきた。オールバックの男がこちらの騒動に気づき、無表情で僕を見つめる。嫌な寒気と違和感が僕を襲って来たが、それを深追いする暇は今はない。僕らはそのままオールバックの男の傍を通り過ぎた。オールバックの男はそれを見届けると、僕らを追っている者たちに視線を向けた。そして、その男は。

「おい待てって言ってんダァァッ……」

3人組の先頭を走っていたチンピラの顔面に無数の傷跡が刻まれた拳がめり込んだ。チンピラは吹っ飛ばされる形で倒れ、そのまま動かなくなった。僕は思わず立ち止まり、その光景に見入っていた。他のチンピラ2人はややビビりながらオールバックの男に絡み始める。

「お、おいおっさん。あんた何したかわかってんのか?あ?」

「ふざけてんじゃねえぞオラァ」

その男はチンピラを無視し、傍を通り過ぎようとしていたストーキング男の胸ぐらを掴んだ。

「……そんなに急いでどこに行くんだ?」

ストーキング男とオールバックの男が並んで初めて気づいたが、オールバックの男はかなり大柄かつ細身だ。

掴まれたストーキング男は狂乱し始める。

「は、離せぇぇぇ」

ストーキング男は何を言っているのかわからないほど叫び始めた。

「うるせえな……」

大柄な男は大きな舌打ちをし、掴んでいる男を投げ飛ばした。ストーキング男は苦しそうに喉を抑えている。

先ほどのチンピラは懲りずに絡み続けていた。

「おいおっさん、無視してんじゃねぇぞオラァ。あ?」

「おい聞いてんのか?」

男は不気味な笑みを浮かべて呟いた。

「……ギャーギャーうるせぇな」

直後、バキャッと何かが砕ける音が響き、チンピラの1人が鼻血を出しながら吹っ飛んだ。大柄な男はいつの間にか右手を振り切っていた。

「……え」

1人残されたチンピラは呆然と、地に伏せた2人を見つめている。大柄な男は飛び上がり、取り残されたチンピラの顔面に容赦なく回し蹴りを叩き込んだ。最後のチンピラも、やはり吹っ飛んでいった。

「うわあああぁぁぁぁぁ!」

ストーキング男はどこからかナイフを取り出して振り回していた。大柄な男は躊躇なくそれに近付いて行く。そしてストーキング男のナイフを持つ手を掴み取った。どうしてそんな事ができるのか、僕には理解出来なかった。

大男はそのままその手を背負いこみ、相手を地面に叩きつけた。叩きつけられた男は息が出来ないのか、ナイフを手放し激しくもがいている。大柄な男はナイフを遠くに蹴り飛ばし、一服し始めた。一息つくと男は再び僕を見つめる。そこでようやく違和感の正体に気づいた。






オールバックの男は「僕を見ている」のだ。わかりやすく言えば、「僕が見えている」のだ。

僕は底知れぬ恐怖に襲われた。タバコを咥えた男は無表情のまま顎をしゃくった。振り返ると遼太郎が遠くで手を振っていた。僕はその男に一礼をしてその場を去った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る