備考その9 災難

遼太郎の監視人になってから早くも2週間が経とうとしていた。だからどうという訳でもないが、何だかとても長く感じられた。それだけ新鮮な経験だったということか。確かに密度の濃い、濃すぎると言ってもいいほどの2週間だった。具体的に聞かれると何も答えられない気がするが。





ボーッと白い天井を眺めている僕に、シャワシャワと鬱陶しい音が容赦なく襲ってくる。堪らず僕はベットから起き上がった。無性に怒りがこみ上げて来るのを感じる。この一連の自分の行動をきっかけに、僕はおっさんとの出会いを思い出した。





僕は近くのコンビニに向かい、そこで昌平のおっさんに出会った。おっさんは友人の店と言っていたが、今考えてみるとただ単に協定を結んでいただけだったのかもしれない。だが、あの時のおっさんの表情は嘘をついている様には見えなかった。





ちょっと聞いてみるか。携帯の電源をつけた。機種がやや古いのか、起動が遅い。元々頻繁に連絡を取る人もおらず、監視中におっさんに連絡するときもヘッドホンで事足りる為、全く使っていなかった。余分な事を考えていると、携帯の画面がパッと明るくなった。パスワードを入力し、ホーム画面を開いた瞬間に何故か検索画面に切り替わる。キャンセルを押しても反応がない。腹が立って画面下部分を連打したが、やはり反応しない。

「……あーもう」

イライラが余計に募る。その刹那、タタタタタッとキーボード音が小さくなった。携帯の画面を見ると「か」という文字が物凄い数を成して連なっていた。携帯あるあるではあるかもしれないが、とても腹が立つ。取り敢えず「か」達は放置してホーム画面に戻り、自分の本来の目的を遂げようとする。


えーと、ん?何しようとしてたっけ。そうそう、おっさんに電話するんだっけ。


今になって考えると聞こうとしていた事は実にどうでもいいことであることに気づいた。

イライラと尿意がたまっていたので、少々お花を摘みに……。言ってみたかっただけだ。スルーして構わない。





汚物を出すと、少々怒りも収まった。やはり溜めるのは良くない。





先に僕の住んでいる部屋のトイレの説明をさせてもらう。何を唐突にと思うかもしれないが、少々付き合ってほしい。

ここではトイレの、いわゆる手を洗う場所が主な話だ。手を洗う洗面台の蛇口には、取っ手を捻ったり上にあげたり、ボタンのようなものを押したりと、色々あると思う。僕の場合はボタンのようなものを押して水を出すタイプだ。これが今日、僕に悲劇をもたらした。では、話に戻ろう。





僕の怒りは和らぎ、緊張感から解き放たれ、適度な幸福感に満たされていた。気持ちの悪い書き方だが、それほど溜まっていたのだ。そのせいで、いや、自分が不注意だったのだろう。僕の右手は躊躇いもなくボタン式の取っ手に迫った。そして押す瞬間。僕の視界に僅かな、しかし確かな点を視認した。僕の右の手の平の下に。



僕の手は容赦なく取っ手を押し込んだ。



それと同時にプチっと何かが潰れる音と共に、右手が強烈な不快感に襲われた。



それも序の口、強烈な匂いがトイレの中に充満し始める。えも言えぬような匂い。僕はこれを知っている。どうしようもなく、とにかく身体が拒絶するような壮絶な匂い。





カメムシだ





僕には右の手の平を見る勇気と理性がなかった。顔が自然とくしゃくしゃになる。周りから見たら正に「苦虫を噛み潰したような顔」だろう。手で潰しただけだが。僕は急いでキッチンの洗面台に向かう。一歩一歩が重く、長い。もう1つの洗面台が嫌に遠い。その間も右手の不快感は疼き続ける。





ようやく洗面台にたどり着き、水を全開に流し、その水流に右手を突っ込んだ。不快感は和らいだものの、未だに潰した時の感触が取れない。僕は一生懸命に両手を擦り、匂いや不快感を落とそうとする。もう一度言うが、僕はこの時理性を失っていた。





ふと我に帰り、右の手の平を見つめた。何となく黄色っぽく見える。そして僕は今までしてきた事の中に1つ、大きな過ちをを犯した事に気がついた。





僕は右手の匂いを落とすために両手を擦り合わせた。



何度でも言う。僕は強烈な匂いの染み込んだ右手を、健全そのものだった左手で、匂いを落とすために擦り合わせたのだ。





右手の匂いを嗅ぐ勇気のない僕は、恐る恐る左手に顔を近づけた。


***


食べるものは全て臭い。トイレに入ると、悶絶するような匂いが蔓延している。もう嫌だ。


***


僕はそれから、何かに触れる時は必ず確認するようになった。

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