Report.5

泉 仁志


シャコシャコと歯を磨く音がする。机の上の時計は6時を指している。早すぎないか。未だに早起きに慣れていない僕は、まだ布団に潜り込んでいたい気分だった。

「お〜〜〜〜ふぁうぉ〜〜〜〜ごじゃいまぁ〜〜〜〜〜しゅ!」

歯を磨いている遼太郎がハイテンションな挨拶をしてきた。口から歯磨き粉を含んだ白い唾液が飛び散り、僕の元に降りかかる。

「うぇ、お前、馬鹿っ」

少々腹が立ったが就職に成功したのだから嬉しいのも無理はないか。





一通り身支度を終え、遼太郎の勤める事務所へと向かった。事務所に着くと、遼太郎をスカウトした男がいた。僕の中で彼は未だにホモ設定だ。

「おはよう、昨日のことはじいさんからいいたよ」

昨日こととは朗読のことだろうか。まああのおじいさんとは、そこでしか接していないが。

「やっぱり僕の目に狂いはなかったようだね」

ホモもとい男はキラキラした顔で言ってきた。

「上手くても、始めはレッスン的なもの受けてもらうから。まあすぐ終わるだろうけど」

だろうな。なんせ遼太郎だ。



この頃自分が本当に遼太郎の親みたいになっていて困る。



遼太郎(と僕)はレッスンのための部屋へ連れてかれた。そこは1つの壁が鏡になっていた。今までほとんど忘れていたが、僕の存在が認識されないのはヘッドホンの効力である。鏡に反射した僕の姿は確認されないのか不安である。男と遼太郎はスタスタと部屋の中に入っていった。扉が閉まると厄介なので、閉まる寸前の扉に体を捻りこませた。鏡にはしっかり僕の姿が映っている。いくら人知の結晶とはいえ、自然の法則には抗えないようだった。遼太郎には反射した僕の姿はしっかり見えているようで不安な表情をしている。一方男は全く目に映っていないようだ。

「あれ…先生来てると思ったんだけどな…。ちょっと呼んできますね」

男は駆け足で出て行こうとした。男の進路にいた僕は慌てて進路外に飛び出そうとした。咄嗟の事で足がもつれてしまい、男に当たりはしなかったものの、地面に腹を打った。男が出て行くと遼太郎がニヤニヤしながら手を差し出した。

「嫌味な奴だな」

憎まれ口を叩きつつ、僕は遼太郎の手を取った。





しばらくすると細身の男が部屋に入ってきた。僕は邪魔にならないように遼太郎の後ろの方に移動した。

「遅れてすいません、君が遼太郎君だね?」

「あ、はい」

「話は聞いてるから、適当に発声して柔軟して、それから知り合いの劇団のところに少し顔を出そっか」

遼太郎の様子など見向きもせずにペラペラと進めていく。僕はこの辺まではしっかり聞いてはいたが、続きを聞く気になれず、窓から外の景色を見ていた。

「んじゃまず発声からね。準備はいいよね?」

「…っはい」

説明から突然質問に変わったので一瞬言葉に詰まったようだ。僕はこれを逃さずに鏡に映る遼太郎に向かってニヤニヤとした。遼太郎は僕を一瞥し、色々混ざった表情を一瞬浮かべて視線を戻した。

「んじゃ、真似してってね」

「はいっ」

「あ え い う え お あ お え お」

「あ え い う え お あ お え お」

ここからしばらく謎のトレーニングが続いた。







僕は漫画家だ。週刊誌に掲載されて大ヒットを記録した。単行本の売れ行きもかなりのものである。僕は充実した日々を送っていた。ただ一つ不満があるとすれば出会いがないと言ったところか。今日も僕は漫画を描いている。漫画を描くのは、もちろん読んでもらって楽しんでもらいたいというのが一番の理由だが、描いている自分自身も楽しめるという事もある。僕は楽しんでいた。はずなのに。




誰かが僕を呼んでいる。




直後、脳天に鈍い痛みが走った。僕の意識は一気に澄み渡った。見ると部屋には遼太郎と僕だけだった。

「移動しますよ。早く立ってください」

「あー、ごめん」

立った瞬間、立ちくらみと足の痺れが襲ってきた。かなり変な体勢で寝ていたのだろう。立ちくらみは脳天の痛みもある。

「ほら、早く」

遼太郎は僕の手を思いっきり引っ張った。痺れた足が悲鳴をあげる。

「ま、待って。足が…」

「待てない。何回頭叩いたと思ってるのさ!」

そのおかげで頭がクラクラするんだが。将来ハゲたらどうしてくれる。






男の車に乗って10分ほど走ると、小さい劇場に着いた。かなりの古びた様子の劇場だ。おんぼろと言えばそれまでだが、風情ある、と言った方が雰囲気に合っている。





中に入るとより一層味が出ていた。男に連れられて楽屋を通り越し、奥のステージに着いた。そこには5人ほどの男女がいた。それぞれに予定があり、1/4ほどしか来れなかったそうだ。始めに遼太郎が緊張気味に挨拶をした。続いて男女が順番に自己紹介をしていった。僕は始めから聞く気すら起きず、持って来ていた紙に、先ほど夢で描いていた漫画を思い出しながら書き連ねていた。





1人で細い笑みを浮かべながら漫画の物語を考えていると、耳に女の声が届いた。

「ありがとうございました〜」

気づくとステージには男と遼太郎しかいなかった。何やら2人で明日の予定を立てているようだった。遼太郎のことを完全に忘れていたことを反省しながら遼太郎の元へ向かった。





男と遼太郎は事務所で別れ、徒歩で遼太郎のアパートに帰っていた。

「仁志……」

「うん?」

遼太郎は笑いを堪えるように話しかけてきた。

「お前、俺がステージで練習してるときさ、漫画描いてたろ?」

しまった、気に障ったか。とはいえもうバレていることだ。誤魔化しても火に油を注ぐだけだろう。

「あ、ああ、暇だったからな」

すると遼太郎は堪え切れなくなったように吹き出した。

「その時のお前の顔さ、ずっとニヤニヤしててすんごい面白かったぞ。と言うよりなんだか気持ち悪かった。全然集中できなかったよ」

ニヤニヤしていたのは自覚していたが気持ち悪いと言われるといい気はしない。客席でニヤニヤしながら漫画描いてるのだから遼太郎が正論だが。

「そんなにニヤついてたか?」

遼太郎はゲラゲラ笑っている。周囲の人は凄いしかめ面をしている。やはり遼太郎は気にしていないようだ。遼太郎の言葉はイラつきよりショックの方が大きかった。あの昌平のおっさんと似ていると言われた気分だ。あのおっさんの笑みは決して笑えないが。





家に着くと遼太郎は風呂にも入らず、死んだように寝てしまった。僕は静かに食事をとり、身支度を整えて布団に入った。こう言うのもなんだが、僕は遼太郎のように頑張ってはいないのですぐには寝付けなかった。昌平のおっさんが頭に思い浮かんだ。何故こいつなんだと思ったが、同時に他の疑問も浮かんだ。そういえばこのおっさんはこの頃朝早くに起こしてくることがなくなった。憶測を広げようとも思ったが、いつまでたっても結論が出そうにないので諦めて寝ることにした。




***


葉山 英里



「どっかで聞いたんだよねー」

そう言って私は目の前のストローを咥え、息を吹き込んだ。コップに注がれたオレンジジュースがブクブクと音を立てながら泡立つのを、私は他人事の様に眺めていた。

「ちょっと英里。みっともないよ」

そう言って私の親友––芽吹千穂は紅茶を一口含んだ。

「絶対聞いたはずなんだよねー」

再び息を吹き込む。

「思い出せないものは無理に思い出さない方がいいかもしれないわよ。取り敢えずそれやめなさい」

千穂は半ば呆れた表情を浮かべ、カップを置いた。

「無理に思い出さない方がいいか……。そうかもしれないけどモヤモヤするな〜」

次々と浮き上がり消えていく泡を眺めていると、スパンと心地よい音とともに脳天に軽い衝撃が訪れた。

「やめなさいって。聞いたことのある名前か……。もしかして運命の人だったりして」

千穂は軽く口を押さえて微笑んだ。

「それはないよ〜。そんなに調子が良かったら人生苦はないね」

私は肩をすくめた。

「何をジジ臭い事を……」

千穂は再び呆れた表情を浮かべ、カップを口元に運んだ。

「それはそうと、何か話があるの?」

今日は千穂に話があると言われて、この喫茶店にやって来たのだ。昼下がりの喫茶店は季節感と言うものは一切感じられなかった。

「そうそう、ちょっと話がね」

千穂はやや深刻な顔持ちでカップを置いた。

「もしかして、あいつの事?」

あいつとは千穂の彼氏である。今は元彼と言うべきなのだろうか、私には判断しかねる。

「そうと言えばそうかな。それにしても英里が幼馴染とは思わなかったなー」

千穂は困った様に笑った。

「あいつとは幼馴染というか腐れ縁というか……」

私や遼太郎が幼い頃の家庭状況が理由で関係を持ったのだが、今はどうでもいいことだ。

「……また、部屋に行くの?」

千穂は静かに頷いた。

「そっか……。止めはしないけど、気を付けてね」

「……ありがとう」

千穂はどこか悲しい笑みを浮かべた。

「それで、話って?」

「えーっとね。自意識過剰とか思わないで欲しいんだけど」

千穂はそう前置きをするとやや言いにくそうに口をモゴモゴさせた後、呟く様に囁いた。

「なんか、視線を感じるというか……。ストーカーされてるのかな?何て……」

千穂は容姿端麗、才色兼備、秀外恵中など当てはめたらキリがないが、大方そんな人物なのだ。

「あり得ない話ではないよね」

私はストローを咥え、再びオレンジジュース泡立てながら、千穂を見遣った。

「千穂は可愛いし何でも出来るし。羨ましいなー」

千穂はクスッと笑った。

「英里だって可愛いじゃない」

「そんな事ないよ。て言うか否定しないんだ」

ストローから口を離して肘をつく。

「ストーカーねぇ。本当にいるんだねぇ」

「他人事みたいに言わないでよね」

「ごめんごめん。私にできる事はないけど、心配だったらいつでも会いに来てよ」

千穂は微笑んだ。

「ありがとね」

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