第二章 フェスティバル

憧れの看板娘①

 あれは初等学生の頃、まだ歳は十だった。

 櫻ヶ原大学病院での赤色人種特別定期健康診断の帰り、駅のホームでリニアを待っていると、甲高い音がはるか頭上を貫いた。

 驚いて見上げると、大好きな真っ青な空の中で、高速の戦闘機がまるで鳥のようにくるくると飛んでいた。


 千鶴は目を見開いて空を凝視していた。いつか行きたいと願ってやまないあの空の中を、スモークの長い尾を引いた戦闘機が我が物顔で自由に飛びまわっていたのだから。


 機体を軽やかに回転させながら風を切り、体勢を立て直して空を突っ切る。そして遠くの方で宙返りして方向を変えると、とんでもないスピードで去っていってしまった。


 視界から戦闘機が消えてしまっても、青い空には真っ白のスモークが残っていた。目はまばたきを忘れ、耳の奥には風を切る轟音がまだ残っている。その残響を、いつしか激しく打ち付ける自分の鼓動がかき消していった。


 心臓が、この体が、『これだ!』と叫んでいた。


 偶然見た戦闘機のアクロバットショーの一端。ほんの一瞬であったが、それは千鶴の心と体を生まれて初めて熱く震えさせた。


◆ ◇ ◆


 瞼を閉じて耳を澄ませると、あの轟音が耳によみがえる。長く伸びる白いスモーク、それを軽やかに青空に描いていく戦闘機。翼を広げ、まるで鳥のように。


「あの時は見上げているだけだったのになぁ」


 両腕を広げてベッドに仰向けになっていた千鶴は、そう呟いて目を開けた。静まり返った白い天井を見つめ、深くゆっくりと呼吸した。


「もう夢が叶うなんて、嘘みたいだ……」


 そしてしばしぼんやりと天井を見つめた。


「って、ぼーっとしてる場合じゃないんだ! 演目の確認、確認っと……」


 今日は訓練や講義が早めに終わっていたので、千鶴は寮の自室のベッドで寝そべりながら資料を手に取った。


 自室にいながら着替えるでもなく、いつもの白いつなぎのままだった。袖をまくりあげ、胸元は開けているので黒いTシャツが覗いている。フィンガーレスグローブも外していない。このスタイルが千鶴にとって一番楽なので、制服で出席する者が多い座学の講義でも、千鶴はこの格好で受けることが多かった。


 つなぎには、階級の代わりに学年を印した肩章と胸章があり、パイロット科を示す胸章がもう一つと、背中と上腕部には桜と翼をデザインした櫻林館学舎の校章ワッペンが縫い付けてある。


「音楽が鳴り始めて二十三秒後に離陸。スモークを出しながら五機全機で本部の上空を旋回して……櫻林館の真上で五機がそれぞれの方向に散開しつつ三回連続ロール……」


 千鶴はアクロバットショーの演目についての資料に目を通していた。例の次世代戦闘機をお披露目するフェスティバルのプログラムの一つとして、会場を盛り上げるために行われる。


 今回のアクロバットショーのパイロットは櫻林館の学生から選ばれていた。三年生から三名、二年生から二名の計五人だ。二年生からは操縦技術順で千鶴と雪輝が選ばれており、千鶴は四番機、雪輝は五番機を担当する。機体は青鷹というアクロバット専用機で、鮮やかな青と白のカラーリングが目を惹く機体であった。


 あの偉そうな金髪男が関わっているであろうフェスティバルを盛り上げなければならないと考えると癪ではあるが、そんなことよりもアクロバットショーに出られる嬉しさの方が何倍も勝っている。だから千鶴はあの一件は忘れて、全力でアクロバットショーに打ち込むことに決めていた。


「うーん、やっぱり資料を読んだって上達するわけじゃないよなぁ……。あー! 今日も自主練の予約とっとけばよかった、くそおおぉぉぉ!」


 独り言を叫びながらうつ伏せになって足をばたつかせていると、不意に部屋の扉が開いた。


「何してんの、千鶴」


 陽介の冷めた声が聞こえてくる。通信管制科の座学の講義が終わったらしい。


「あ、陽介おかえり」

「ただいま。で、どうしたの? また座学で赤点でも取った?」

「違うって!」


 不名誉な言いがかりを払拭すべく、千鶴はアクロバットの資料を見せつけるように掲げた。


「演目の確認! 青鷹と滑走路の予約とっとけばよかったなーって思ってさ。資料読んでるだけじゃ上達しないだろ? やっぱり実際に飛ばないとさ」

「さすが千鶴! アクロバットショーとなるといつも以上に力入ってるね」

「そりゃそうだって!」


 千鶴は上半身を跳ね起こした。


「だってさ、空の中をスモーク出しながらぐるぐる飛び回れるんだぜ! ロールしたり宙返りしたりさ! それを音楽に合わせてなんて、やっぱりアクロバットは最高だよ!」


 陽介は笑いながら机に講義の資料を置いた。


「アクロバットショーに出るのは千鶴の夢だったもんね。で、今から自主練行くの?」


 その問いに千鶴は腕を組んで呻った。


「当日予約は管制事務が良い顔しないんだよなぁ……。でも一応滑走路の空き状況だけでも調べてみるかな」


 すると、陽介が「そっかぁ」とわざとらしくため息をついた。


「それなら仕方ないね。さっき莉々亜ちゃんがブルーバードに千鶴を連れてきてほしいって言ってたけど、断ってきてあげるよ」


 そう言って陽介は「じゃ」と片手を挙げて早々に部屋を出てゆく。


「待て待て待てっ! 待てって、陽介のばかーっ! それを先に言えよ!」


 千鶴はベッドを飛び降りると、慌てて玄関に脱ぎ捨てていたミリタリーブーツに足を突っ込んだ。閉まりかけた扉のわずかな隙間から、陽介が「じゃあね~」と笑顔で手を振ってくる。


「行く! 行くってば! 今行くから待ってって、陽介さーん!」


 ブーツを履くと、千鶴は急いで部屋を飛び出した。

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