自分らしく②

 更衣室に入ると、すでにパイロットスーツに着替えた雪輝がベンチに腰掛けていた。いつものように彼の趣味である難しそうな理系の専門書に目を落としていたが、こちらに気付いて顔を上げた。


「遅かったな、千鶴」

「ああ……、来る途中色々あってな」


 笑顔のつもりが、苦笑いになっているのが自覚できた。


「顔色が悪いぞ。腹でも壊したか?」

「まあそんなとこ」


 適当に誤魔化して、千鶴は自分のロッカーへ向かった。すると、自分のロッカーの扉に見慣れない貼り紙をみつけた。


「なんだこれ……?」


 それが何かわかったとき、ただでさえ鈍く重い違和感の残る心臓を、氷柱のような冷たい何かでえぐられたようだった。


 貼り紙には、間抜けにデフォルメされたニワトリのイラストと共に『ニワトリごときが空を飛ぶな』『チキンはミサイルの的になれ』などと書いてある。このニワトリやチキンというのは、赤色人種、つまり千鶴のことだ。


 千鶴は貼り紙を剥がし、握りつぶした。どこかから嘲笑が聞こえてくる気がして背筋が冷たくなる。見下すようないくつもの目がこちらを見ているようで気味が悪く、全身を駆け巡ったのは怒りよりも恐怖だった。


 貼り紙を握りしめたままの手が、格納庫での余韻もあってがたがたと震えた。


「おい、千鶴!」


 不意に大声で呼ばれ、千鶴は我に返って顔を上げた。

 いつの間にか、ベンチにいたはずの雪輝がすぐそばに立っていた。


「何度呼ばせる気だよ」


 そう悪態をつく雪輝に「ご、ごめん」と謝った。するとその隙をついて、雪輝は千鶴が握り潰していた貼り紙を取り上げた。


「ちょっ――勝手に見るなよ!」


 千鶴が何度手を伸ばしても雪輝はそれを難なく避け、ついにはベンチに戻りつつ広げてしまった。内容を知った雪輝は一瞬驚きの表情を見せたが、すぐに冷ややかに目を細めた。


「陰湿だな」


 それだけ言って嘆息すると、千鶴と同じように紙をぐちゃぐちゃに丸めて両手でぎゅっと押しつぶし、ゴミ箱に投げ捨てた。


「だから言わんこっちゃない」


 雪輝がそれ見ろと言いたげに肩をすくめた。


 千鶴は内に溜まったいろいろなものを吐き出すように「あ~」と力の抜けた声を出しながら大きなため息をつくと、のろのろとロッカーを開けた。


「なんだかさ、ニワトリもいい迷惑だよな。同情しちゃうよ。今ならニワトリと友達になれそう」

「はぁ?」


 雪輝の呆れ声を聞き流しつつ、千鶴はフィンガーレスグローブを外してロッカーに放り込んだ。両手の甲には、大きな古い傷跡が走っている。

 千鶴は着替えながら続けた。


「赤色人種を指す差別用語になってるけど、ニワトリってけなされるような生き物じゃないと思うんだ。大きな尾っぽとか赤いトサカはかっこいいし、ヒヨコは可愛いだろ。それに食べたらおいしい」


 雪輝が「食べたらって、おい」と引き気味につっこんでくるが、千鶴は紺色のパイロットスーツを着込みながら続けた。


「みんな鶏肉や卵でニワトリの世話になってるのに、差別用語にするなんておかしいよ。だから俺は『ニワトリ』を差別用語だとは思わない。俺もニワトリみたいにみんなの役に立てるようになれたらいいな、ってさ」


 首元までチャックを上げ切って振り向くと、雪輝が不満気な様子で腕を組んでいた。


「だからニワトリって言われても平気だってか?」

「そう思えるよう努力はしてる」

「何のための努力だよ。自分が悪くなきゃ堂々と反論すればいいだろ。いつまでもそうやって能天気に受け流してるからなめられるんだよ」


 厳しく正論を言われてしまい、千鶴は苦笑した。


「あの貼り紙はさ、さっきのテストがあってのことだと思うんだ。制限時間内に敵機を全滅させて合格が確定したのは俺たちだけだったし、採点待ちの不安で仕方ない誰かがやったんじゃないかな」

「ふうん。それで?」

「ってことは!」


 千鶴はぐっと拳を握って真上に突き出した。


「俺と雪輝の最強タッグが繰り広げる操縦技術が、妬ましいほどにハイレベルだったってことだ! さすが俺と雪輝!」

「なんだそりゃ」


 雪輝は苛々に満ちた顔で言った。


「無理やり前向きに考えようとするのはやめろよ、気持ち悪い」

「えっ! き、気持ち悪い……?」


 雪輝のあまりにストレートな言葉を思わず反芻してしまったが、雪輝は躊躇なく千鶴を見据えて言った。


「そうやって自分のどす黒い感情を見ないふりしてキレイなままでいようとするところが気に食わないな。はらわた煮えくり返ってるならしっかり表に出せよ」


 雪輝は自分のロッカーへ向かう。読みかけの本を戻した代わりに紺色のヘルメットを取り出して、やや荒っぽく扉を閉めた。


「そんな勇気すらない弱いやつが、戦闘機のパイロットになるって? 笑わせるな。音速で飛ぶ兵器のトリガーを握るんだろ。その引き金を引かずに撃ち落とされるのがお望みなら、いつまでもそうしてヘラヘラしてりゃいいがな」


 言い捨てると、雪輝は更衣室からさっさと出て行ってしまった。


 千鶴はその姿を見送ってから、腕を組んで深く呻った。


「いつものことだけど、やっぱり雪輝は厳しいなぁ……。でもまあ、雪輝のことだからな」


 この後見られるだろう雪輝の言動を想像し、千鶴は笑いを堪えた。

 しかしすぐにその笑も消え失せてしまう。今はやはり笑っていられる気分ではなかった。


「弱い、か……」


 千鶴は静かにため息をつくと、ロッカーの扉を閉めた。普通に閉めたはずだったのに、荒々しい音が更衣室に響く。


「克服したはずなのに……」


 格納庫での出来事がよみがえった。

 赤い鳥の幻覚の恐怖は、発作を克服した今でもつきまとう。少し挑発されただけで現れた体の震えや動悸がそれを物語っている。


 どれだけあがいてみても、生まれながらに背負ったものからは逃れられないのだろうか。発作を抑えることに成功し、パイロット科でいくら技術を磨いても、認めてもらえることはおろか実務で操縦桿を握らせてもらうことも叶わないのだろうか。


 嘲笑に歪む青い眼差しと胸をえぐるような間抜けなニワトリの絵が、まだ脳裏から離れない。それを振り払いたくて、千鶴はロッカーに額を打ち付けた。

 思ったよりも大きな音が更衣室に響く。


「やっとここまできたんだ。……絶対にあきらめてたまるか」


 千鶴は自分に言い聞かせるように、強く深くそう呟いた。

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