Ep.01 転属~Change~
「旧アメリカ合衆国国防総省……えっと、五角形の、大きな建物……ここかな?」
少女がぼそりとつぶやく。
風に揺られて、茶色のショートヘアがふわりと揺れる。
その少女の手の中には、一枚の地図が握られている――アメリカ西海岸の地図だ。
「それにしてもさすがアメリカだなぁ……遠いとは聞いてたけど、飛行場から車で三時間、その上歩いて三十分もかかるなんて……」
そう言う少女の額には、大粒の汗が浮かんでいる。暑さではなく、疲れによる汗だ。
なぜ彼女がこのような場所――アメリカにいるのか。その理由はほんの一日前にあった。
――それは、あまりに唐突な出来事であった。
「
「ええっ!?」
執務室に大きな声が響いた。よほど大きな声だったらしく、叫んだ本人も顔を赤くして黙り込んでしまう。
「その言動は何だ、もし俺がもっと上の階級だったら今すぐ独房行きだぞ」
上官らしい人物が脅すように言った。だが、その口調とは裏腹に、口角は嘲笑しているかのように上がっている。いつものことだ。こういう、腹の中を読ませない工夫があって、上官になったような男だ。
「それとも、何だ? 不満でもあるのか?」
「いえっ、何でもありませんっ!」
雪が急いで訂正する。この男は怒らせたら怖い。特に、笑いながら冗談のように人を切り捨てるところが恐ろしい。実際、雪の友人も数人、この男によってクビにされているのだ。
雪だけは気に入られたのか何かは知らないが、全然クビにされる気配はないが。
「でも……どうして私なんでしょうか?もっと優秀な人材は他にいるはずなのに……」
雪はふと湧いた疑問を口にした。
だが、返ってきたのは「上からの指示だ。俺は知らん」の一言だけだった。
――現在の軍部において基本的に上官、特に幹部クラスへの反逆は地位の転落を意味する。
質問をしたり提案をしたりするだけで独房送りにする者さえいる以上、この男の判断は妥当なものだったと言えるだろう。さすがに、倫理的に正しいとまでは言えないかもしれないが。
「安心しろ、この国の物と比べても、アメリカの軍の飛行機や輸送車の性能はいい。あちらの軍の使者……だったか? が基地までは案内してくれるらしいから、向こうへは何の苦労もなく着くだろう。頑張ってこい」
上司の男は、ゆったりとした口調でそう続けた。
雪が部屋を出ると、軍服を着た白人の男性が立っていた。話を聞くと、どうやら案内を担当する人物とは、この人らしい。
雪はそのまま使いの人物に連れられ、近くの飛行場から、小型機に乗ってアメリカへ出発した。
飛行機でそのまま十数時間、その後、輸送車両で三時間の道のりを経て、ようやく米軍エリア12本部基地、旧国防総省のペンタゴン前まで来たのである。
――そして、現在に至る。
「それにしても大きい建物だなぁ……入口ってどこにあるんだろう?」
雪は周囲を見回す。特に大きな建物ということもあってか、入口さえも見つけるのが大変だ。まあ、日本の建物と雰囲気が大きく異なるということも原因の一つではあるのだが。
「貴様、そこで何をしている」
突然、雪は背後から呼び止められた。
振り返ってみると、そこには身長の高い、金髪の少女が立っていた。米軍の軍服であるところを見ると、どうやらここの所属のようである。
「ここは民間人は立ち入り禁止だ。もし向こうの看板を見ていなかったのなら今回は許してやるから、さっさと立ち去るがいい」
金髪の少女が雪の方に近づきながらさらにまくしたてる。口調が怖い。というより、恐ろしい。
「もし何らかの意図があって侵入したとなれば、実刑は免れん。たとえそれが故意でなかったとしても……」
「あの、すみません」
「謝って済む問題ではないんだが」
「ああいえ、そういう意味ではなくて。私、本日付けでここの第十七迎撃歩兵小隊、第二分隊に配属された者……なんです、けども。日本と違って、入り口が何処なのか分からなくて、ついウロウロと……」
雪は慌てながら言った。わざわざ長い時間をかけてきたのに、こんなところで捕まるわけにはいかないのだ。
「……本当か?」
「はい! 芹沢 雪、っていいます! あれ、連絡とか……」
「来ているさ。今日とは聞かなかったが」
「あぁ、なるほど……じゃあ、これで誤解は解けましたか?」
「無論だ。……とすると、お前があのアオイの後任というわけか」
金髪の少女は、怪しいものでないと分かると、すぐに優しい笑顔になった。さっきまでの怖い態度がまるで嘘であったかのようだ。
「私はお前の所属予定の部隊の分隊長、アーリー・ジョーンズだ。よろしく頼む」
金髪の少女――アーリーはゆっくりと右手を差し出した。口調は非常に淡々としているが、意外としっかりした人物らしい。
「いや、転属は二人と聞いていたものでな。まさか別々に来るとは思わなかった。驚かせてすまない」
「二人? 私の他にもまだ転属してくる人がいるんですか?」
雪は訝しむように、尋ねた。
まさか自分の他にも転属者がいるとは思わなかった。アメリカの大使にも、日本での上司にも、そんなことは一言も言われてなどいなかったからだ。
別に、隠すようなことでもないだろうに。
「ああ。フランス空軍から一人、転属予定の者がいる。それがどうかしたのか?」
「いえ、特に理由はないのですが……すみません、お手数をおかけしてしまったようで」
雪はなんだか申し訳ない気分になった。特に、これから上司として付き従うことになるであろう人物に対してだという事もその哀感を助長していたのかも知れない。
「まあいいさ、今はもう誤解が解けたんだ。さて、中を案内しよう。ついて来なさい」
アーリーは慰めるように雪の肩を叩くと、雪を連れて入り口へと向かった。
連れられた先の扉から中に入ると、雪はその建物の内装に唖然とした。もともと政府機関の建物であったと聞いていたとはいえ、その途方もない大きさと美しさは、雪の想像をはるかに超えていたのだ。
「驚いたか? まあ、当然だろう。この建物の改装にはアメリカの国家予算の一部が使われているんだ。前線基地にする際、まとめて内部構造も全て取り替えた。とはいえ、基本的な外観までは、変わっていないんだがな」
なぜそんな事を知っているんだろう、と雪は怪訝に思ったが、アーリーはそんな事はお構いなしだというかのように説明を続けた。
ちなみに、それは初期から戦線にいるメンバーなら普通に知っている情報なのだということは、雪は後から知った。
「一階は武装庫、二階がトレーニングルームと娯楽施設、そして三階からは他のチームの部屋のある階だ。お前の、というか我々の部屋は地下一階にある。私が先導するから、後ろからついてくること。いいな?」
「はい、了解しました」
アーリーが慣れたように階段を下りていく。エレベーターもあったが、階数を見るに、地上階のみのようだった。地下は後で増設された、ということだろうか。
階段を降りてすぐのところに、アーリーの部屋があった。二人が一つの部屋に寝泊まりするタイプ、つまりは二人部屋だが、彼女のルームメイトは不在のようだった。
「そうだ、お前に伝えておかなければならないことがあるな」
前を歩いていたアーリーが、ふと思いついたように振り返った。
「部屋の中に誰もいないときは鍵を閉めておくこと。これは鉄則だ。国や文化の違う人間も沢山いる。日本にいた時のように油断していると、痛い目を見るぞ」
「了解しました。……あの、そういう規則ができるってことは何か理由でも?」
雪は尋ねた。規則の由来を聞くのは特におかしな事ではない。それに、雪自身も理由に興味がないわけでもないのだ。
「いや、お前の前任の日本人が、プライバシーだとか防犯だとかにルーズな人間だったからな。何度か金がなくなったり、下着が盗まれたりしていたんだ。まあ、下着の件は本人の勘違いだったらしいがな」
アーリーが笑う。
雪としてはその件についてもう少し聞きたかったのだが、流石にやめておいた。下手に変な事を言って第一印象を悪くするわけにはいかない。
しばらく歩くと、雪の部屋――正確に言えば、これから雪のものになる部屋である――に着いた。アーリーのものと同じく、二人一組の部屋のようだ。
「ここがお前の部屋だ。まあ、名前が書いてあるから、それを見ればわかるはずだが」
アーリーが説明を始めた。確かに、ドアのところに日本語とローマ字で名前が書いてある。もう一人の名前はフランス語だけだったので、雪には読めなかった。
「ここにはお前以外にももう一人、さっき言ったフランスからの転属兵が入る。あと、家具は前任が使っていたままにしてあるから、自由に使うといい。風呂とトイレは部屋に一つ完備してあるから、そのあたりは心配しなくて構わないだろう。手持ち以外の荷物はまだ到着していないから、数日は暇だろうが我慢してくれ」
「ありがとうございます。……それで、あの、そちらの方はどなたでしょう?」
気がつくと、アーリーの後ろにもう一人、迷彩柄の服を着た人物が立っていた。
茶色の長い髪を後ろで結んでおり、不思議な妖艶さがある、端正な顔立ちの人物。だが顔立ちや肌の色からして、日本人やアジア人の類いではないようだ。
「はぁ……いるなら話しかけてもらえないと困るな、ウィル。いつもこちらが気付いているとは限らないんだぞ」
「ごめんごめん。いやぁ、何をやってるのか気になってね。こっそりついてきたんだ」
ウィルと呼ばれた人物が答える。アーリーと違って明るそうな人だ。
それに、アーリーよりも美形だ。整った顔立ち、とでも言えば良いのだろうか。
「そうか。まだ紹介していなかったな。こちらはアオイの後任で、日本から転属してきたユキ・セリザワだ。おそらくお前なら私より気が合うだろう」
アーリーが淡々とウィルに話しかける。
確かにアーリーの言う通り、ウィルの方が雪とは相性が良さそうだ。
「確かに、アーリーは人と気が合う事なんてほとんどないしね」
「余計なお世話だ」
アーリーがムッとした顔でウィルを睨む。
確かに、ウィルと比べればアーリーは気が合う友人を作りにくいタイプの人間だ。
「冗談。冗談だってば」
あはは、とウィルが笑う。
雪なら、こんなに怖い口調の人を笑うことなどできない。怖いもの知らずなのか、はたまた信頼しているからなのだろうか。
笑いが収まると、ウィルは雪の方に向き直った。
「……さて、僕からも自己紹介かな。ユキちゃん、だったよね」
「あ、はい。苗字でも名前でもご自由にお呼びください!」
「あはは、面白い子だね。僕はウィル・スチュアート。これからよろしくね、ユキちゃん」
ウィルは顔を傾け、にっこりと微笑んだ。
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