第1話「夢の世界へ」

 陽の光に照らされながら、キラキラと波打つ。綺麗と言うより美しいという言葉が似合うその長い銀髪は、彼女が激しく動く度に弛み、弾け、その一種官能的な魅力をもって、僕の目を釘付けにした。

 それは、ただの踊りと安易に表現していいものではなかった。自分を見ろと、人に魅せにかかるようなダンスとは明確に違った。かと言って、舞台の上で人の心を動かすバレエのように、感情が迸るようなものとも微妙に違う。どちらかと言うと彼女のその動きは、何かの武道のようで……。前に動画か何かでちらっと見たことのある、剣術の演武が雰囲気的には近いかもしれない。その鋭い動きと見事な銀髪のせいか、僕には彼女が、輝く刀剣のように見えた。


 息をするのも忘れて見惚れていると、何かの拍子に彼女とぴたりと目が合う。

 心臓が一度、大きく収縮した。

 その暖かな春の日を思わせる新緑色の瞳は、彼女の生命力の強さを表わすかのように力強い輝きを湛えながら、じっと僕を見つめた。僕はいよいよ彼女に魅了され尽くして、その瞳から目を離すことが出来なくなり、そして……。




「……って!」


 突然の頭への衝撃に、僕は我に返った。

 頭をさすりながら見上げると、担任の鈴木先生がジロリと僕を睨んでいた。


「え……?」


 鈴木先生が親指でくいっと僕の後ろを指すので振り返ってみると、これまた僕をジロリと見つめるクラスメイトの女子の姿があった。

 それでも状況を理解出来ないでいると、先生がまた僕の頭をぽかりとやった。


「提出するプリント。後ろから前に回せって言ったの、聞こえなかったか?」

「あ、ああ……。すいません」


 急いでプリントを前に回そうとして、僕はぎょっとした。


(げ!)


 高校に入ってからしばらくなかったのに、またいつの間にか書き連ねてしまっていたようだ。

 完全な創作ではない。事実に沿って、僕がその時感じたことを覚え書きのように記しただけだ。でもまさか、再び自分がこんなものを書けてしまう日が来ようとは……。


 僕は複雑な気持ちになりながらも、筆箱から消しゴムを取り出し、急いで自分のプリントに消しをかけた。

 

「何だ落書きかあ? もう高校生活も中盤、大人に片足つっこんでるんだから、時と場合を考えろよー?」


 バン、と強めに僕の背中を叩いて行く先生に、周りがくすくすとざわつく。僕はまたすいませんと小声で謝りながら、周りに分からないようにため息をついた。

 さすがに高校ともなれば皆そこそこ大人になるのか、中学の時に比べればかなりマシな反応だった。降って湧いた玩具を、面白がって容赦なく嬲るようなことは、もうしないらしい。

 先生が一言二言話して短いホームルームが終わると、クラスメイト達は早々と僕に興味を失くし、各々立ち上がって帰宅なり部活なりの準備を始めた。

 

「……ふう」


 それを見て、僕はずるいよなあなどと思いながらまたため息をつき、周りと同じように教科書やノートをカバンに詰めた。

 あの日から時を止めてしまった僕と違い、周りはちゃんと大人になっていっている。高校になっていよいよ本格化する塾や部活があったり、バイトや好きなことで学校外にコミュニティをもったりで、世界が広がったせいなのだろう。こうして必要以上に人を笑わなくなったのも、たぶんそのせいだ。他人のことよりもまず自分。そう考えるようになったのだ。


 ふがいない自分と違って、そんな風に何だか輝いて見えるクラスメイト達の姿に、もやもやとした気分になった。こんな時は、早く帰ってアレに限る。

 と、そう思ってカバンを肩にかけた時、ふいに後ろから名前を呼ばれた。


天野あまの君」


 2年生になって1ヶ月。新しいクラスでも徐々にグループ化が進む中で、未だ僕に友達と呼べる人はいない。去年も最初でこけた。そんな自分に話しかけるようなやつが、今さらいるのか?

 そう思いながら訝しげに振り返ると、クラスメイトの井浦が、少し緊張した面持ちでそこに立っていた。


「……何?」


 なるべく柔らかく言おうと思ったが、どうしても棘を隠しきれなかった。僕のその敵意を含んだ返事に、案の定井浦は少したじろいだ。


「あ、や、あのさ。大したことじゃないんだけど……」


 まるで猛獣とでも対峙しているかのようにビクビクしながら、井浦は胸の辺りで腕を交差しながら言う。


「あの、天野君て、マンガとか小説とか、興味ある?」

「は?」

 

 ギシ、と心臓が軋む音がした。


「何、いきなり」


 思わず僕は身構えてしまった。こいつとは一度も話したことがない。なのになぜ僕の急所とも呼べる場所を、こうも的確に撃ち抜けるのか。どこかから僕に関する情報でも得たのだろうか。だとしたら……。

 睨むように井浦を見つめていると、僕が警戒しているのが伝わったようで、井浦は首と両手を必死に左右に振った。

  

「や、その! 別に深い意味とかはないんだ!」そう取り繕ったかと思うと、今度は急にトーンを落としてまた言った。「ただ、その……悪いかなあとは思ったんだけど、好奇心に勝てなくて、どうしても見ちゃってね」

「…………何を」


 手のひらにじんわりと汗が滲み出すのを感じた。

 もはや訊き返す意味もない程先の言葉が読めてしまった僕だが、それでも一縷の望みを捨てきれず、あえて訊いた。

 でも次に井浦から出てきたのは、やっぱり想像した通りの言葉だった。


「さっきの、君の落書きだよ」


 分かっていたのに、僕は絶句してしまった。その言葉を聞いた瞬間、指先がどんどんと冷たくなって、背中にまで冷や汗が出始めた。完全な拒否反応だ。

 そんな僕を見て、井浦は暢気にも僕が続きを促しているとでも思ったのか、やけにニコニコとした顔で続けた。


「特にメモするようなことを先生が言っていた訳でもないのに、何だか一生懸命君が何か書いているから気になってさ。よく見えなかったけど、アレって何だい? 詩? それとも小説? やけに楽しそうに書いていたから、たぶん勉強の類じゃないよね。僕は好きでマンガを描いているんだけど、暇な時その辺にある紙についつい絵を描いちゃうんだ。だからもしかしたら天野君もそういう人なのかなって思って、思い切って訊いてみたんだ。どう? 違う?」


 僕が黙っているのをいいことに、井浦はなおも無遠慮に喋り続ける。


「もしそうなら、僕のやってる部活に来てみない? 創作研究部って言う、まあ文字通りの部活なんだけど。あ、僕はマンガだけど、小説を書いてる人もいるし、創作をする人なら誰でもウェルカムだから。特に何かしなければならないっていう縛りもないし、どうかなあ。仲間が増えると世界も広がると思うし、天野君にとってもいいと思うんだ……」


 放っておいたら永久に喋り続けそうな井浦に、僕は慌てて両手でストップサインを出した。

 人の良さそうな文系メガネだからって油断した。こいつは見た目通りのオタクだ。別にそういうやつに偏見がある訳じゃないが、めんどくさい面があるのは否めない。

 オタクというのは、こちらが少しでも隙を見せるとこうなるのだ。普段は人を警戒しているくせに、自分の好きなものに興味があるという人間を見ると途端に態度を変えて、自分の世界に引きこもうとしてくる。

 こういうやつには、はっきりと言ってやらないと伝わらない。その宗教の勧誘のようなテンションに少しげんなりしながらも、僕は井浦にきっちり断りを入れようと、口を開いた。

 ……はずだったのに、その前に井浦に割って入られた。


「あれ、天野君その右手……」と、井浦は何やら不思議そうに言った。「どうしたの? なんかすごい傷? みたいなのがあったけど」


 そこまで言われて、僕はようやく自分がしていることに気がついた。慌てて手を引っ込めたが、もう遅い。

 

「いや、別に何でも……」


 僕は心底自分に呆れていた。井浦のテンションに飲まれたからと言って、こんなバカみたいなミスを犯すなんて、どうかしている。

 今まで外でこれがバレた時は、僕が口ごもれば相手もそれ以上は追求してこなかったので、何とかなっていた。しかし、こいつはどうだろうか……。

 見たところちょっと天然が入っている感じだが、さすがにデリケートな問題だし、このまま黙っていれば何とかなるようにも思える。体に残っている傷なんて、手術跡とか大怪我の跡だとか、あんまり本人が思い出したくないようなものが多いのだ。そんなのは少し考えれば分かることだし、ちょっと空気の読めない人間でもそれくらいは推し量れるはずだ。

 

 と、少しでもそう思ってしまった僕は、大バカだった。

 井浦はやっぱり、典型的なオタクだった。


「天野君その傷……」


 井浦は何やらうずうずとしながら、声高に言った。

 

「カッコいいね!!」


 僕は耳を疑った。

 今こいつ、なんて言った?

 僕は思わず宇宙人を見るような目で井浦を睨んでしまったが、それでも井浦は止まらなかった。


「手のひらの真ん中に大きな傷……なんだろう、すごい創作欲が掻き立てられるよ……。誰かを守った名誉の傷……? いや、そういう単純なのもいいけど、何かこう……悪魔的な何かを封印している……っていう設定もいいか……? いやそれとも、封印するための穴……? 普段は閉じているけど、いざという時には開くことが出来て、一度封印した悪魔を出して使役することが出来る……。うん、うん……こっちの方がいい、か……?」


 そうして勝手に次々と僕の手に設定を加えていく井浦に、とうとう僕は限界を迎えた。


「ねえ、天野君はどう思……ッ!」


 僕は井浦の首元を乱暴につかみ、そのまま側にあった壁に叩きつけた。

 

「ぐ……っ!」


 肺が急に圧迫された井浦がくぐもった声を上げる。そのまま体を浮かすように首を締め上げると、何が起きたか分からないといった顔で呆けていた井浦は、そこでようやく顔に恐怖を滲ませた。


「いい加減にしろよ……。人のデリケートな部分に、ズカズカズカズカ……」 


 周りから痛い程の視線を感じる。教室にはまだ人がかなり残っていたから仕方ないが、もう止まれなかった。


「何様だよお前」


 本当に、何様だ。

 世界が広がるだろうから、自分の部活に入れ? 天野君にとってもそれがいい? アホか。親切心で言っているのかもしれないが、どうせ友達いないんでしょ? みたいな言い方が腹が立つ。そんなこと言って、お前だって似たようなもんなんだろうが。創作研究部なんて聞いたことがないぞ。部員何人だよ。

 そして何より腹ただしいのは、人の体の傷に対して、身勝手な恥ずかしい設定を加えていくこの無神経さ……。ここまで来ると、オタクだから仕方ないなんて免罪符はない。ぶん殴られても文句は言えまい。


「あ……う……」


 僕はそんなに強面ではないはずなのだが、井浦は僕から視線を外すことすら出来ずに、ガクガクと震えていた。

 もう完全に殴るつもりでいたが、僕はその井浦のビビり具合を見て、固く握っていた拳を開いた。

 どうでもよくなってしまった。こんな状態のやつを殴っても、こっちがいたたまれない気持ちになるだけだ。それにこんなに大勢の見ている中で人を殴るのは、やっぱりまずい。そんなことをすれば僕は一発でやばいやつ扱いになって、さらに孤立することになってしまう。


(はあ……)


 社会生活というものは、本当にストレスが溜まる。

 僕は嘆息しながら、井浦の首の拘束を緩めた。そしてかわいそうなくらいに怯えてしまっているこいつに、これ以上ビビらせないようなるべく優しく声を掛けた。


「……悪かったよ。ちょっとやり過ぎた」

 

 そう言ってやったというのに、しかし僕のその激しい落差のせいか、井浦は困惑した顔でこちらを見るだけだった。

 本当にめんどくさいやつだ。これ以上こいつに構っている時間が惜しい。僕はさっさと家に帰り、一刻も早くあの世界に行きたいところだというのに。

 しばらく待っても呆け続ける井浦にいい加減焦れて、僕はわざわざ表情までも緩めてやり、もう一度言った。


「悪かったって言ったんだよ。聞こえただろ?」


 何で僕の方が先に謝っているのかということにはとりあえず目を瞑る。こうでもしないと、こいつはずっとフリーズしたままだ。

 僕は軽く咳払いをしてから続けた。


「でも、俺の落書き云々の話はいいんだけど、この傷のことにはあんま触れて欲しくないんだ。あんまりいい思い出、ないから」


 そう言って肩の当たりをぽんと軽く叩いてやると、「あ、ああ……」と、ようやく井浦は電源が入ったかのように始動した。


「や、僕の方こそ、ごめん……。天野君が同じような趣味を持ってるかもしれないと思ったら、ちょっと嬉しくなっちゃって……。僕っていつもこうなんだ。本当にごめん……」


 僕はうん、と小さく頷きつつ、カバンを肩に背負い直した。

 「嬉しくなっちゃって」はやっぱり全然免罪符にはならないが、それでもまあ一定のレベルの謝罪の言葉は聞けた。今回はまあ、これで良しとする。

 しかしこいつの場合、もう少し補足もしておいた方がいいかもしれない。


「……あと、一応言っておくけど、あの落書きは、井浦が言うようなものなんかじゃない。ただの覚え書きというか、そんな感じのものだから」

「あ、そう……なんだ」


 井浦は見るからに落胆したが、もうこれ以上こいつを慮ってやる必要はない。

 僕は今度こそ井浦に背を向け、肩越しに言った。


「んじゃ、俺もう行かないと」

「ああ、うん。じゃあ……」


 何でもなかったということを周りにアピールするために、ひらひらと手を振ってやってから、僕は歩き出した。

 そうして色々気を使ったかいがあってか、周囲からの好奇の視線は、もうなくなっていた。

 どうやらうまくごまかせたようだった。これなら明日からもきっと、僕の平穏な日常は続いていくだろう。


 それを確認すると、僕は急いで下駄箱に走った。すばらしい速度で階段を飛ばし気味に下り、下校やら部活やらでわらわらと教室からあふれ出してくる生徒達を華麗にかわす。急に角から現れた先生に走るなと咎められても何のその。平謝りしながら生徒達の海を泳いでいけば、さすがに先生もめんどくさくなるのか、がっちりと捕まって説教を受けるまでには至らない。


 昇降口は、すっかり夕陽色に染まっていた。僕ははやる気持ちを何とか抑えながら、少しくたびれてきたローファーを履いて、外に出た。

 はっきり言って僕は学校は好きじゃないが、この時間、この2階の昇降口から見ることのできる景色だけは好きだった。鋭角に校舎に向かって射してくる夕陽が、少し物悲しくも、何とも言えない綺麗な景色を創り出すからだ。

 それは大げさでもなんでもなくて、一枚の絵のように見えた。地上にある全てのものが夕陽に灼かれてその色に染まり、モノの輪郭がにじんで、モノとモノとの境界線が曖昧になる。その半面、正面に立つ校舎や、テニス部のコートのフェンスが大きな影をこちらに伸ばし、影絵のようなはっきりとした輪郭を映し出す。そのコントラストが、たぶん僕がこの景色を綺麗だと感じる理由だ。


 でも、僕が少しだけこの景色を寂しいと思ってしまうのも、きっとそのコントラストのせいだった。

 皆はたぶん、この夕陽が創り出したような、輪郭がにじんだ世界に棲んでいる。自分と他人の輪郭がおぼろ気で、全てが等しく似たような暖色で塗りつぶされていて、何となく自分と他人が“繋がっている”かのように思える。そんな優しい世界にいる。だからきっと皆、安心して自分のことにかまけていられる。ただ何も考えず、前に進んでいける。

 だけど僕のような日陰者には、そんな安心などありようもないのだった。くっきりとした輪郭を持つ影絵のような世界に棲む僕は、自分と他人がどうしようもなく違うことを、嫌でも認識させられてしまう……。

 そのせいで毎日僕は、孤独との戦いだ。前になんか、全然進めやしない。


 おちおち景色も見ていられない自分に、ため息が漏れた。ちょっと立ち止まると、すぐに周りの事象を意味もなく自分に当てはめてしまって、ネガティブな思考に陥ってしまう。

 いかんいかんと頭を振り、僕は強く地面を蹴るようにして歩き始めた。

 そうやってゾンビのように過ごす毎日は、もう終わったのだ。

   

 いつものように裏門から出て、すっかり葉ばかりとなった桜を横目に、なだらかな坂を足早に下っていく。競歩のような歩き方が目立つのか、友達同士で帰っている奴らに変な目を向けられるが、構っていられなかった。僕は一刻も早く家に帰りたいのだ。


 僕の住むそのマンションには、学校から普通に歩いてもものの15分程度で着く。学校周辺の住宅街を抜け、駅前の商店街にまで行けば、もう家は目と鼻の先だ。電車を乗り継いで毎朝ひいひい言いながら来ているやつに比べると、断然近い。昼休みにちょっと家に帰って昼食を取ることすら、やろうと思えば出来る。

 しかし今の僕には、その極端に短いはずの通学時間でさえも、永遠に等しい時間のように思えてしまう。やりたいことがある毎日は楽しいけれど、嫌なことをやっている時の時間の感覚が伸びてしまうことだけが、どうにも痛い。

 僕は、早歩きから小走りへと歩調を速めた。


 いつもなら夕食の材料を買ってから帰るところだが、今日は商店街を突っ切って家に直行する。

 まだ冷蔵庫にいくらかの食材が残っているはずだから、今日は特に買って帰らなくても、あいつならどうにかできるはずだ。


 そうしてようやくマンションに着いた頃には、少し息があがっていた。でも僕はそれを整える時間も惜しくて、自動ドアが悠長に開くのも我慢できずに、開ききる前にするりとその間を抜けた。

 ああ、もうすぐだ。もうすぐ僕は、この世界から解放される。

 ちょうどよく1階に止まっていたエレベーターに乗り、僕は自分の部屋のある5階のボタンを連打した。

 早く、早く。

 エレベーターのドアが開くと、僕はそこからまた小走りに自分の部屋へと向かった。前にここで急に部屋から出てきた人とぶつかってしまい、謝ったり何だりで余計に時間を食ったことがあるから、完全には走らず、慎重に。

 そうして僕はようやく、本当にようやく、夢への入り口である自宅へと辿り着いた。


「ただいまー」


 本来なら一人暮らしの僕が言ってもしょうがない台詞ではあるのだが、これがあいつの起動のサインになっているのだから仕方がない。 

 僕のその言葉に、夕陽が差してオレンジ色に染まる部屋の奥から、返事が返って来た。


「おかえりなさいませ。禎大ともひろ様」

「うん。ただいま」

「少しお時間をいただければ、すぐに夕食をご用意出来ます。いかがなさいますか?」


 ルミはいつものように僕にそう言うが、逆光でシルエットしか見えないので話しづらい。とりあえずは、これを何とかさせることにする。


「あー……その前に、カーテンを閉めてもらえるかな。ちょっと眩しい」

「かしこまりました」


 いそいそとカーテンを閉める姿は、普通に僕と同じ年頃の女の子でしかない。高校に入ってからは毎日彼女の姿を見ているというのに、僕はこの光景に未だに慣れない。

 高校生がカノジョと同棲なんてけしからん。周りはそんな風に思うかもしれないが、全然そういうことではないのだ。彼女はカノジョではないし、そもそも彼女は、人間ではない。


 今日本で一番稼いでいる企業であると言われている、オリエンタル重工が開発したアンドロイド。通称、有機ロイド。それが彼女の正体だ。

 見た目は限りなく人間に近く、それでいて、話し方にロボット臭さもほとんどない。本物みたいな人工皮膚と、近年急に発達した人工知能技術により、アンドロイドはもう無機質なロボットだと揶揄出来るようなものではなくなったのだ。

 何だか少し変なネーミングではあるが、有機ロイドという名前はつまり、そういうことらしい。テレビで流されているやたらと説明臭いCMのせいで、すっかり覚えさせられてしまった。


 そんな有機ロイドのルミだが、こうして絵に描いたようなメイド服を着ているのは、祖父の趣味が反映されているからだ。最初からそれを着ていたわけでもなく、僕の趣味だから着せているというわけでも断じてない。

 まあ、別に嫌いというわけでもないから、わざわざ着替えさせる必要もまた、ない……。

 そもそも彼女は本物のメイドのように家事が得意なのだ。仕事も家事全般を行っているのだから、メイドの格好をしていても何らおかしいことはない。むしろあの格好は、TPOに即した素晴らしい服装だと言っていいだろう。


「禎大様」


 と、ちょうど彼女のことを考えながら部屋で着替えていたら、そのルミがドアをノックしてきた。


「うん? 何? 開けていいよ」


 靴下をぽいぽい投げ捨てながら返事をすると、ドアノブがゆっくりと下がり、静かにドアが開いた。


「失礼致します」


 そうして部屋に入ってきたルミだったが、僕の方をちらと見ると、入ってきて早々露骨に顔をしかめた。


「禎大様。汚れ物は洗面所のカゴに入れてください」 

「あ、ごめんごめん。完全に無意識だった」 


 そうしてわざとじゃないことをアピールしたが、速攻で嘘がバレる。じろりとルミに睨まれて、僕は思わず乾いた笑いを浮かべながら目をそらしてしまった。

 祖父が選びに選び抜いたという彼女は、僕から見てもとても器量良しなのだが、こういう風に少し怒った顔をする時は、なまじ顔が整っている分迫力が増す。

 

 初めて会った時も、僕は彼女をちょっとだけきつそうな子だなと思ったのを覚えている。その凛とした立ち姿と、肩の少し上辺りで切り揃えられた黒髪ショートカットを見て、少し固そうな印象を受けたのだ。一緒に暮らしてみると全然そんなことはなく、むしろ可愛らしい面の方が多かったわけだが。

 女子からは無視されたことはあれど、怒りの標的になったことはない僕は、彼女みたいな可愛い女の子に睨まれると、どうしてもこうやってしどろもどろになってしまう。たとえそれが本気のものではないと分かっていても、だ。男として情けないところだが、どうにもこの辺りは持って生まれたものなのか、なかなか治らない。

 

 そうして何となくルミの顔を見れないままでいると、彼女が言った。 


「私の稼働時間は限られていますから、細かいところはなるべくご自分でお願いしますね」


 その言葉に視線を戻すと、ルミはもうとっくに怒ってはいなかった。ただふんわりとした笑みを浮かべて、僕を見ていた。

 彼女は僕の性格を分かってくれているのか、こういう時、こうしてすぐに表情を緩めてくれる。言葉も少しだけくだけるのは、たぶん彼女なりの気遣いだろう。


 人間不信気味の僕にとって、彼女のこういうところはとても有り難かった。僕の心の機微をしっかりと感じ取って、押し過ぎもせず、引き過ぎもせず、絶妙なラインで受け答えをしてくれる。だからちょっとくらい生活面で厳しいところがあっても、僕は彼女にストレスを感じることはほとんどない。母親に小言を言われるのとは全然違う。もう本当に、根っこの部分から違う。

 これはいよいよ祖父に足を向けて寝られないなあなどと改めて思っていると、ルミが怪訝な目で僕を見ながら言った。


「……禎大様?」

「うん?」

「どうされました?具合でも悪いのですか?」

「いやいや、別に何でもないよ。ちょっと考え事してただけ」


 そう言ったのに、しかしルミはよほど僕が深刻そうに見えたのか、珍しく食い下がってきた。


「……学校で何かありましたか?」


 言われて僕は、少し答えに詰まってしまった。

 確かに何かあったかと言われれば、あった。僕のトラウマをえぐるような出来事が。

 

 でもそれは、もう解決した。井浦はもう積極的には僕に関わってこないだろうし、僕からあいつに話しかけるということも、おそらくもうない。だったらそれは、解決したのと同じだ。ルミが心配するほどのことじゃない。

 

「ほんとに何もないよ? いたって普通の一日だったよ」


 僕は努めて明るく答えたつもりだったが、それでもルミは、眉をひそめながらじっと僕を見つめた。

 ……全然納得いっていない顔だった。でも僕からは、これ以上何も言うつもりはない。

 確固たる意思を込めながら、じっと黙って見つめ返す。するとやがて、彼女の方が先に折れた。

 そうですか……といささか力なくこぼしたかと思うと、彼女は困ったように笑いながら言った。


「それなら、いいのです。でも何かありましたらすぐに仰ってください。必ずやお役に立ちますので」

「うん、ありがとう」


 ちょっとだけ心配性なところもあるルミだが、僕がそうしてお礼を言うと、ようやく曇りのない笑顔を僕に向けてくれた。


「では、禎大様。今日の夕食のことなのですが」

「うん」

「いつも通りのお時間でよろしいですか」

「うーん……」


 腹はたぶん減っている。でも食欲なんかよりも、どうしようもなく飢餓を感じるものが、他にある。

 

「今日はちょっと遅くてもいいかも。ちょっとアレに長めに入りたいんだ」


 そう言ってくいと親指でベッドの方を指すと、ルミは少しだけ目を細めた。

 

「……そうですか。禎大様のことですから大丈夫だとは思いますが、宿題などは……?」

「もちろん、そういうのは全部休み時間で終わらせてるよ。大丈夫」


 このところ連日でアレに入っているから、ルミは僕の現実の生活の方がおろそかにならないか心配なのだろう。

 でも僕がその辺りをおろそかにすることは絶対にない。僕はこの生活を取り上げられることを、何よりも恐れているのだから。

 

 僕がこうして一人暮らしを続けていられるのは、祖父から出された『学校の成績の維持』という条件をクリアし続けているからだ。ただ維持すればいいというわけではなく、高い位置を維持しなければならないという条件だからそうそう楽なものではないが、元々頭の出来は悪くないので、今でも何とかなっている。

 成績は定期的にルミが祖父に送ることになっている。彼女は命令には逆らえないようになっているので、ごまかすことは出来ない。僕が一人暮らしをするにあたり、世話役に有機ロイドである彼女が採用されたのは、そういう理由もあった。家事全般をやらせるのも、あくまで僕が勉強に集中出来るようにするためなのだ。 

 

 自由そうに見えて、実はがんじがらめ。そんな一人暮らし生活を初めて2年目だが、今僕は、そんな状況でも毎日が楽しくて仕方がない。

 それもこれも全て、あのベッドと、あのゲームのおかげだ。  


 ヒューマン・アシスト・システム。通称HASと呼ばれるその装置が世に出てきたのは、数年前。ちょうど僕が、中学に上がった頃のことだった。オリエンタル重工の医療向け部門が開発したそれは、今までの医療の形を変えてしまうほどの、画期的な代物だった。

 『毎日が人間ドック』というキャッチフレーズが示す通り、HASは人の体調を管理するための装置だ。人間がすっぽり一人入るくらいの透明な半筒状の装置で、基本はベッドに装着することによって運用される。寝ている間に人体を隅々までスキャニングし、翌朝には詳細なデータがPCやスマホのアプリなどにアップロードされる。その精度は従来の人間ドックのそれとほとんど差がなく、健康志向の高齢化社会という背景もあって、HASはあっという間に家庭に普及した。


 これだけ聞くと、高齢者や持病を持つ者にとってはまさに夢のような機械だが、僕のような若い健常者にはあまり恩恵がないもののように思える。でもそれは、大きな間違いだ。僕みたいなただの若者にとっても、これは夢の機械なのだ。

 HASは、一見畑違いの分野――近年伸び悩んでいたヴァーチャル・リアリティ技術――にまで深い影響を及ぼし、そこに革新的な進化をもたらした。

 その結果、ついに人間はたどり着いたのだ。“仮想現実”という無限の世界に……。

 

 HASの登場とともに、ヘッドセットを付けてそこに画面が映し出されたのを見てVRだ、などという時代は終わりを告げた。僕らがHASによって手にしたのは、そんな似非仮想世界ではない。VR分野における技術者達が目指した最終目標である、『精神まるごと仮想世界』だったのだ。

 素人の僕にはさすがに詳しくは分からないが、HASの人体スキャニング技術と、従来の神経工学などの様々な技術とが合わさり、それは達成されたらしい。VR技術は元々医療分野とも親和性が高い技術だから、その二つもそうだった、ということなのだろう。

 

 とにもかくにも、かくして仮想現実世界は現実のものとなった。それは様々な形で利用され、この数年の間に当たり前のものとして一般に普及し始めている。大きな壁をようやく越えたVR技術は、堰を切ったように、今もなお恐るべきスピードで進化し続けている。

 

 そして、僕は今その進化の最先端に身を置いている。仮想現実世界を使った画期的なゲームに、ついに、やっと、インする事が出来たのだ。


「じゃあ、もう行くから」 


 いよいよ我慢出来なくなって来て、僕はそう言ってルミとの会話を一方的に打ち切った。

 ルミももう分かっているのか、何も言わずに会釈だけして、早々に踵を返した。


 彼女が部屋を出て行くと同時。早速僕はベッドに飛び込むようにしてそこに横たわり、仰向けになってHASを起動した。

 ブウンと低い起動音がして、全身を包むための透明なカバーが下りて来る。程なくしてOSも立ち上がり、眼前にメニューウインドウが表示される。

 それを確認して、僕は静かに目を閉じた。後はもうHASの音声入力に向かって、あの言葉を言うだけだ。


 今日もやっとここまできた。あの世界に行けば、僕は解放される。虚飾も何もない、本来の自分に戻ることが出来る。

 大好きだったマンガや小説の創作は出来なくなってしまったけれど、散々空想してきた剣と魔法の世界に実際に行けるのなら、何も問題はない。あの世界に行くために、それを対価として支払ったのだと思えばいい。

 

 そうして最高の時代に生まれたことに感謝しつつ、僕はいつものように、静かに、ゆっくり、あの魔法の言葉を口にした。



「ダイヴ・イン“IslanD”」




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