第39話 プラチナ色の帳(とばり)
「瞬君! 瞬君!」
天城明日乃は、半狂乱の宇多川鏡子と、鏡子を必死で抱き止める五百旗伽子の姿を、すぐそばで見ていた。
鏡子は、泣きながら、瞬の名前を叫び続けいる。預言がどうの、ブレスレットがどうのと、明日乃には意味不明の片言を繰り返していた。
ふだん明るく、落ち着いた印象のある鏡子の姿からは、想像できないほどの取り乱しようだった。
だが、明日乃にも、朝香瞬が死ぬかも知れない、と分かっていた。
伽子の表情も、真っ青だった。
大河内の手もとで、火球は見えなくなった。つまり、大河内は、火球をテレポートさせたわけだ。瞬に向かって消えた火球は、瞬の体内に直接、入ったと見ていいだろう。
鏡子が金切り声をあげた。何度も、瞬の名前を呼ぶ。
強力なラベンダー光が鏡子の身体から発せられ、明日乃と伽子を包んていく。
動作光がフェードアウトすると、明日乃たちは、騒然とした競技場にテレポートしていた。バトルフィールドには、係員たちが殺到し、物々しい雰囲気だった。
伽子の腕から、鏡子が身を振りほどいた。瞬に駆け寄ろうとした鏡子は、途中で、係員に制止された。
それでも鏡子は、泣きながら、瞬の名前を呼び続けている。
「瞬君! 瞬君!」
鏡子は狂ったように叫ぶ。だが、瞬はぴくりとも動かない。
明日乃は立ちつくして、パニック状態の鏡子の後ろ姿を見ているしかなかった。
この日行われた準決勝の間、明日乃はずっと、鏡子の隣に座っていた。
鏡子は、良家の子女らしく、姿勢正しく座り、両手を膝のうえで握りしめながら、試合を食い入るように見つめていた。
明日乃は、まだ「恋」という感情を知らなかった。同じオブリビアスである瞬は、恋をしているようだが、明日乃には、ついに持てない感情なのかも知れないと、思っていた。
だが、その明日乃にも、わかった。
宇多川鏡子は、朝香瞬に恋をしている。
明日乃の知らぬうちに、鏡子は、瞬のことを「朝香君」ではなく、「瞬君」と呼ぶようになっていた。
恋する相手が突然、失われたら、つらいに違いない。
明日乃はまだ、泣いた覚えがなかった。もし鏡子と同じ立場なら、明日乃もまた、涙を流すのだろうか。
涙は、出ない。泣き方も、知らなかった。
だが、明日乃の心の中は、今にも降りだしそうな黒い雨雲に、どんよりと覆われている。今にも雷鳴がとどろき、降り出しそうだ。もしも、瞬がこのまま命を落としたら、二度とふたたび、明日乃の心に光がさすことはないだろうと、感じた。
(……胸が……重い……苦しい……痛い……。
……なぜ……どうして……?
……宇多川さんの気持ちが、わかる気がする……。
……わたしの身体には、何の痛みもないのに……
……どうして、わたしはつらいの……?
……朝香君が……傷ついたから……?
……死ぬかも、知れないから……?
……わたしに二度と、微笑んではくれなくなるから……?)
朝香瞬一郎殺害の使命を負う明日乃が、殺害対象の落命に心を動かされるとは、皮肉な話だった。研究所の瑞木所長が聞けば、おだやかな口調で、一笑に付すに違いないが。
瞬のかたわらには、ボギーが長い身体をたたんで、かがみこんでいた。めずらしく真剣な表情をしている。担架に乗せた瞬を運ぶ指示を、係員に出していた。
鏡子が泣きながら、ボギーにすがりついた。
「教官は、時間操作ができるんでしょ! 逆行して、瞬君を助けてください!」
ボギーは苦い顔で、小さく頭を振った。
「オブリビアスには、効かねえんだ。応急処置は済んだ。これから、軍の救急病院にテレポートする。ついて来い」
鏡子は、担架の上の瞬にすがりついて、瞬の名前を繰り返し叫んだ。
だが、瞬が眼を覚ます気配は、まるで、ない。
ボギーは、発動モーションさえ見せずに、瞬の担架ごと、何人かを赤銅色の光に包んだ。
赤銅光がフェードアウトした時、明日乃もまた、病棟にいた。近くにいた伽子まで、テレポートさせられていた。
テレポート先は、市ヶ谷にある第四軍の附属病院らしい。軍属だったボギーは、勝手を知っているのだろう。ボギーはふだんと違い、テキパキと指示を出していた。
***
宇多川鏡子は、泣きじゃくった。
泣きだすと、止まらなかった。大災禍で、優しい母を失った時も、泣きたいだけ、泣いた。その時の感情と、似ていた。
それほどに瞬は、鏡子にとって、大切な存在となっていた。
絶交中なのに、伽子のやわらかい胸に取りすがって泣いたのは、伽子がすぐそばに寄り添っていたことと、伽子が、鏡子と瞬の関係を知っていたからだろう。
ボギーによるテレポートの後、瞬はただちに、集中治療室に運ばれた。鏡子たちは、中に入れてもらえなかった。
鏡子はずっと、泣いていた。
やがて、ICUから、誰かが出てきた。涙で、姿が、良く見えない。
ボギーのようだった。鏡子が、駆けよる。
「教官! 瞬君は?」
「まだ、生きている」
ボギーの言葉が、鏡子の心に突き刺さった。
裏を返せば、「まだ、死んではいない」という意味に過ぎなかった。予断を許さない状態が続いているのだろう。
ボギーが、鏡子の肩にそっと手を置き、壁ぎわの白いベンチに座らせた。
ボギーは鏡子の隣に座り、長い脚を組んだ。
「鏡子。お前、確定存在って、聞いたこと、あるか」
泣きながら、うなずいた。
≪確定存在≫とは、時間操作による過去の改変ができない存在を指す。時間操作の歴史の中で、確認されるようになった存在だ。
普通の人間は、過去改変の影響を受ける≪暫定存在≫とされる。
例えば、事故死した人間でも、事故前に逆行して危機を回避すれば、事故がなかった歴史が上書きされ、存在を維持できる。
これに対し、≪確定存在≫に関しては、過去改変ができない。そもそも逆行自体が拒否されたり、逆行し過去を改変したつもりでも、別の因果律を経て、必ず同一の結果がもたらされる。
確定存在は、預言者に多いと言われた。優れた預言者であればあるほど、確定存在に近くなる。
鏡子の祖母、宇多川鶴子も、確定存在だと聞いていた。
「忘却の日からまだ、数か月だ。わからない話のほうが、多い。だが、どうやらオブリビアスはみんな、確定存在らしいんだ。理由は知らんがね。つまり、後出しじゃんけんは、通用しない。オブリビアスの場合、一度死んだら、それで終わりって、話になる。時空間操作ができなかった昔のようにな」
言葉のかわりに、涙しか、出てこなかった。今は、瞬が生きて欲しいと、それだけを願った。
「骨折とか、命にかかわらない怪我なら、軽い時間操作で、俺も治せたんだがな。瞬の場合は、致命傷だった。俺のサイじゃ、通用しなかった」
鏡子が嗚咽(おえつ)すると、ボギーが背をなでてくれた。
「通常、パイロキネシスの火球は、予科生レベルなら、光壁を通過させられない。だが、体内にあれが入ると、やっかいだ。なぜ、即死をまぬがれたのか、不思議なんだがな……」
瞬の体内が焼けただれていると思うと、耐えられなかった。鏡子の身体が、意思に関係なく、激しく震えだした。
***
和仁直太は、鹿島長介とともに、外の空気を吸うために、出た。
いつまでも泣いている鏡子の様子は、見ていられなかった。
直太にとって、鏡子はいつも強く、優しく、美しい女性だった。その鏡子が、子どものように泣く姿は、見ていて、胸が痛んだ。
どうやら鏡子は、試合前日に大切なブレスレットが切れたために、瞬が助からないと思い込んでいるらしい。
瞬の手術は、長引いていた。
一進一退の状況が続いている様子だった。
陽が、傾こうとしている。
直太が、長介と、テレポートを使いながら、病院に何とかたどり着いた頃には、もう夕方近くになっていた。
鏡子に電話をしても、かからなかった。兵学校にさんざん、問い合わせをしたが、個人情報の壁に阻まれた。
その後、ようやく担任であるボギーの所在だけは教えてもらえ、瞬の居場所がわかった。
「なあ、長介。瞬、助かるよなぁ?」
「う、うん……大丈夫だよ、きっと……」
預言者でもない長介に、わかるはずもない問いだが、直太は同意を求めずにはいられなかった。
だが、直太は内心、畏友(いゆう)の朝香瞬が亡くなり、宇多川鏡子に恋人がいなくなった場合のことを、考えてしまう。醜い感情を打ち消そうと、首を大きく横に振り、自分にも言い聞かせる。
「そうや、大丈夫や。あいつが死ぬはずがない」
「……お、大河内君が、最後に火球を放った時、一瞬、何かが光った気がしたんだ……たぶん、サイの動作光だと思う」
「ほんまか? 瞬が、発動しおったんやろか?」
「わ、わからないけどね……。ほんの一瞬だったし、座席の位置によっては、見えなかったと思うけど……」
「どんな色の光やった?」
「……ぎ、銀色っていうのかな……きれいな色だった……どこかで見たような、気がするんだけど……」
長介の言葉の終わらないうち、直太は、視界に入ってきた少年に向かって、いきなり啖呵を切った。
「こら、大河内! どのツラ下げて、来おったんや?」
大河内のふてぶてしい表情に、直太は、むかっ腹を立てて、胸倉をつかんだ。瞬と鏡子に代わって、殴りとばしてやりたかった 。
「おら! 何とか、言わんかい!」
「ち、ちょっと、やめなよ、和仁君!」
長介が間に入ってきたが、直太が揺さぶると、大河内は、情けないほど弱々しく、よろめいた。
あわてて長介が、大河内の身体を支えた。
「お、大河内君が、あの試合で放ったサイは、僕なら、半月ぶんの発動量だ。とっくに、発動限界だよ。とても、立っていられる身体じゃないはずだ」
「知るかい、そんな話! 使いこなせへんクセに、中途半端なサイ、使いおってからに! 瞬と鏡子ちゃんに、謝らんかい!」
大河内は、胸倉をつかむ直太の腕に、力なく手をやりながら、首を横に振った。
「予科生レベルのTSコンバットでは、使用サイの種類に、制限はもうけられていない。パイロキネシスを使っても、ガロアの防壁さえ張っていれば、致命傷など、負ったりはしない」
「まさか、お前。瞬が悪い、言うんちゃうやろな?」
大河内は不愉快そうに、そっぽを向いた。
「放せよ、和仁」
大河内は、自分を支える長介の手をふり切って離れると、病棟へ向かおうとした。
「瞬が、まだ防壁張れへんのは、お前、知っとったやろが!」
「……朝香は、死なねえよ」
「何で、分かんねん!」
直太が大河内の肩をガシリとつかむと、大河内がふり向いた。
「最後に、審判のクロノスが介入したろうが」
大河内が、直太の手をふり払った。
「お、大河内君、それって、君がパイロキネシスを発動した直後の――」
「ああ、プラチナ色の防壁だよ。一瞬だったが、さすがはクロノスだよ、強力な光壁だった」
再びきびすを返した大河内は、病棟に向かってゆっくりと歩み始めた。
「瞬には会えへんぞ。夜中までかかる手術らしいからな」
「宇多川が、いるだろ? あいさつは、しとかないとな」
大河内は背を向けたまま応じたが、一、二歩、歩いたところで、そのままうつ伏せに、倒れこんだ。
直太と長介が、駆けよる。
「こら、大河内! しっかりせんかい!」
直太が、助け起こすと、大河内が苦笑いした。
「へっ、俺様としたことが、情けねえザマだぜ。歩けねえほどサイを発動させられた挙げ句に、準決勝敗退なんてな」
「え? 試合、どうなったんや? お前が最後、ポイント取ったんとちゃうんか?」
「そうだ。でも、俺様の、反則負けさ」
後にされた主催者側の正式発表では、終了時刻と同時に、大河内による第四チャクラへのヒットが認められた。
だが、審査員から「規定発動量を超えるパイロキネシス発動の有無」につき、問題提起がされた。
現場に残された動作痕とビデオ解析の結果、規定発動量二〇〇ミリガロアを超える発動があったことが、確認された。
サイ発動の種類に制限はないが、競技者の安全確保のため、予科の新人戦では危険性の高いサイについては、規定発動量が定められている。大河内は規定に反したため、反則負けとなったわけだ。
「坊ちゃん! やっぱり、こんな所に!」
兵学校でもたまに見かける、大河内家のお抱え運転手の叫び声だった。小太りの腹を揺らせながら、直太たちのほうへやってくる。
「騒ぐな、ハル爺。俺様は、ただの過労だ」
「数日は安静にされませんと。病院をテレポートで抜け出されるなんて、むちゃな真似を」
「お前たちが、俺様を出してくれるわけがないだろうが」
大河内は責任を感じ、無理をして、病院を抜け出したのだろう。
「病院も、大騒ぎでしたわい。さ、早く戻りますぞ」
サイの過剰発動による心身の疲労に、最も有効なのは、安静だとされている。
「肩を貸せ、ハル爺」
ハル爺に支えられながら、大河内は、直太と長介を見た。
「朝香と宇多川に伝えておいてくれ。反則については、謝る。俺様も、発動量をコントロールできるほどの腕じゃ、なかったわけだからな」
「わかった。伝えといたる」
よろめきながら去っていく大河内の背に向って、長介が叫んだ。
「お、大河内君!」
ふり向いた大河内を、長介が称えた。
「君は立派だったよ、大河内君。試合でも、試合の後も」
「ほざけ、鹿島。敗者は、例外なく、みじめなんだよ」
直太と長介は、再び歩み始めた大河内の後ろ姿が、消えるまで、見つめていた。
あの身体状態で、テレポートを発動するとは、大河内も、瞬の負傷に対して、よほど責任を感じているに違いなかった。
「ところで長介。結局、誰が、優勝しおったんやろ?」
長介は、カバンから携帯端末を取り出すと、新人戦のサイトにアクセスした。
直太も脇から、のぞき込む。
「お、オニキス組の、天野翔っていう人だね……」
もう一つの準決勝では、序列五位の小熊千夏が、一〇八位の天野翔というダークホースに敗れた。
大河内に勝利した瞬が出場できなかったから、結局、第二兵学校では決勝戦が行われず、優勝者も、不戦勝で決まったわけだ。
「そいつ、ワシが予選で負けた相手やないか」
「じ、準決勝まで、すべて一分以内で、瞬殺しているらしいね。こんな同期生がいたんだ。すごいや……」
直太の記憶も、同様だった。
試合開始直後、黒の動作光がきらめいたかと思うと、チャクラを痛打されて、終わっていた。凄まじい速さだった。
直太が弱くなったのかと落ち込んでいたが、どうやら、相手が悪すぎたらしい。
「瞬とは別の意味で、化け物やな。何で、ワシら、一年次で、ソイツに、気づかんかったんやろ?」
「……お、オブリビアスみたいだね。朝香君と同じだ……」
長介が優勝者を取り上げたニュース記事を見つけたようだ。
TSコンバット新人戦は、将来のクロノスを占う行事でもある。各社が報道していた。
「まあ、これで、瞬も、全国代表になれたわけやし。退学の話も、なくなったわけやな」
瞬の手術が成功し、生きていられれば、の話だが。
「そ、そうだね。戻ろうか、和仁君」
***
鹿島長介は、天城明日乃と二人、待合室に取り残された。
悲嘆のあまり気を失った鏡子は、別室で休んでおり、伽子がつき添っていた。ボギーは喫煙ルームにこもり、さっき直太は、トイレに行った。
長介は、ちらりと明日乃を見た。
うつむき加減の明日乃は、彫像のように、行儀よく鎮座していた。
明日乃の思考の中には、長介など、存在しないに違いない。
長介は、よく緊張するタイプだった。
試合の時のように、緊張が極限状態に達すると、かえって開き直れるのだが、明日乃の前では、うまく行かない。もしかしたら、試合よりも、緊張しているのかも知れなかった。
「あ、天城さんも、朝香君のことが、心配なんだね……」
明日乃が、漆黒の瞳で、長介を見た。
別に、にらんでいるわけではない。
分かってはいるが、それでも、人によっては、反発を買いそうなくらい、冷ややかな視線だった。
「……どうして、そう、思うの……?」
「……だって、僕たち、友達だもんね……」
「…………ともだち……?」
明日乃は、噛みしめるように、言葉を発した。まるで、自問自答でもするように。
「そ、そう。友達……」
「……友達って……なに?」
素朴な問いに出くわして、長介は懸命に思案した。
「む、難しい質問だね……。その人が苦しんでいたら、いっしょに心配してあげられる。その人が幸せだったら、いっしょに喜んであげられる。……そんな関係、かな……」
明日乃は、まっすぐに長介を見た。あわてて、視線をそらした。
長介には、明日乃の心のうちが、読めない。
長介はこれまで、幼なじみの宇多川鏡子に、ずっと憧れていた。鏡子に認めてもらおうと、努力してきた事情もある。
だが、鏡子ほどの女性に、自分が相応しいとは、思っていなかった。鏡子は、長介にとって、ずっと高嶺の花であるべきだし、現にそうだと思っていた。
鏡子ほど美しい少女は、他に、五百旗伽子くらいしか、いないと思っていた。が、長介は、伽子が苦手だった。格上の≪三旗≫で高慢だし、いっしょにいても、一方的にしゃべられるだけで、意思疎通ができなかった。優しく、親しみやすい鏡子に惹かれたのは、当然だった。
だが長介は、この春、生まれて初めて、鏡子よりも美しい女性に、出会った 。
もちろん最初から、長介には、とうてい手の届かない女性だと、思ってはいた。だが明日乃は、鏡子にはない儚(はかな)さがあり、脆(もろ)さに似た弱さを持っているように、感じた。
明日乃を守ってあげたいと、思った。
その想いを、恋だと指摘されるなら、長介も否定はしない。高嶺の花がもうひとつ、増えただけの話なのだが。
「……そうね……朝香君は、友達、なのかも……知れない……」
数分後にようやく発せられた明日乃の言葉は、ほろ苦さを帯びて、長介に伝わった。
明日乃は、まだ、朝香瞬以外の同級生を「友達」とは認めていないのかも知れない。
明日乃が立ちあがって、窓際に向かった時、長介は気づいた。
試合終了のまぎわ、カメラのフラッシュのように閃いた光は、いつか明日乃が瞳につけていた、吸い込まれるようなプラチナ色のカラーコンタクトと同じだった。
「あ、天城さんの霊石って、なに?」
たいてい時間差がある明日乃の答えがされる前に、直太が戻ってきた。
「明日乃ちゃん、すまんなぁ。ジンジャーエール、自販機で売っとらんかったわ。せやし、似たようなやつ、買ってきたで」
明日乃は、直太から差しだされた三ツ矢サイダーを、黙って受け取った。
「ほれ、長介。お前はトマトジュースや。文句ないやろ?」
「あ、ありがとう」
***
宇多川鏡子は待合室に戻った。
さっきは、どうやら泣き疲れて、眠ってしまったようだった。
瞬の受傷のあと、自分でも信じられないほどの錯乱状態におちいった記憶があった。だが、今は、落ち着いていた。
深夜になっても、朝香瞬の手術は続いていた。
夜の待合室では、物音ひとつしなかった。
鏡子の左隣には、天城明日乃が座っていた。
明日乃なりに、寄り添っているつもりだろうか。翼を捥(も)がれた天使の彫像のように、姿勢正しく、黙って端坐(たんざ)している。
実に無口な少女だと、鏡子は思う。明日乃は、不気味なくらい、自分からは言葉を発しなかった。
オブリビアスの瞬には、つき添ってくれる家族が、いない。
さっきまで、ボギーと直太、長介もいたが、今は、ボギーに誘われて、夜食を買いに出ていた。単に、ボギーがタバコを吸いたかっただけかも知れないが。
ソファにだらしなく横になっている五百旗伽子が、大きなあくびをした。
伽子まで、待合室に残っている理由は、はっきりしなかった。
本当に鏡子を心配しているのだろうか。あるいは、瞬に横恋慕しているのだろうか。
伽子は昔から、鏡子の持っている物を欲しがった。欲しい物を、必ず手に入れようとした。伽子が次兄のケンに恋をしたのも、鏡子が兄を慕っていたからだと、思う。
「オブリビアスって、面倒くさいわねえ。時間操作が通用しない確定存在なんてさ」
「天城さんも、オブリビアスなのよ。言葉に気をつけなさい、伽子」
伽子は身を起こして、鏡子の右隣りに座ると、鏡子ごしに、明日乃の顔を露骨にのぞき込んだ。
鏡子の前で、二人の美少女が、にらみ合っている。
「ふうん。明日乃、あんたも、瞬に、気があるんだ」
初対面の相手でも、勝手に、ファースト・ネームで呼ぶのが、伽子のク
セだ。しかも、遠慮会釈なく、思ったままを口にする。
だが、伽子の問いは、鏡子も、気になっている点だった。
伽子の「あんたも」の中に、鏡子のみならず、伽子自身が含まれるのかも、気になり始めてはいたが。
ずっと休んでいた明日乃が今日、突然、登校した。
予科生である以上、明日乃が、授業の一環である新人戦の観戦に出席するのは、当然だ。それはいい。だが、病院で夜半、手術が終わるまで、ずっとつき合っているのは、なぜだろうか。
「……気が、あるって?」
無神経なほど落ち着きはらった明日乃の問い返しに、伽子はいらだちを隠さなかった。
「あんた、日本人でしょ? ホレてるって意味に、決まってるじゃないの」
明日乃は黙って、うつむいた。
半身を起こした伽子が容赦なく、沈黙を破った。
「どうなのよ、あんた? ハッキリなさいよ! 大事な婚約が、かかってんだからさ」
なるほど伽子は、宇多川、五百旗の婚約の帰趨を確認する目的で、残っているのもかも知れない。明日乃には、意味がわかるまいが。
考えこんだ様子で、明日乃はうつむいた。
伽子は椅子の背にもたれて、大きく伸びをしてから、腕を組むと、だらしなく天井を見あげた。
「愚問だったわね。鏡子みたく、ここに張りついているんだから、聞くまでもない、か」
技術革新がいくら進んでも、ワンテンポ遅れて聞こえる衛星放送のように、明日乃がぼそりと答えた。
「……朝香君は……友達……だから……」
鏡子は、明日乃の顔を凝視した。
「友達?」
明日乃がこくりと、うなずいた。
「友達ねえ……。明日乃。あんた、実効年齢、いくつだっけ?」
「……知らない」
瞬も同じだが、オブリビアスには、異時空滞在記録もないから、実効年齢を推定するしかない。
「オブリでも、友情と恋愛の違いくらい、覚えてるんじゃないの? 友情ってのはね、必要とされる時に、相手に与えるものよ」
伽子は、明日乃のまそばに、顔を近づけた。
「でも、恋はね、違うの。誰かを好きって意味は、例えば瞬なら、瞬のことを、日がな、ひねもす、四六時中、考えているってことよ。気づいたら、いつもソイツのことを思っている、そういう心理状態が、恋なのよ。相手も同じなら、晴れて、恋愛成立ね」
明日乃は、がん宣告でも受けたように、真剣な表情で考えこんだ。
「瞬もそうだけどさ、男は、顔だけで、決めないことね……」
明日乃のゆっくりした反応と、苦い沈黙に耐えられなくなったのか、伽子は、また大きくのびをして、口を最大限に開けながら、やかましく、あくびをした。
「……あなたは、なぜ、ここにいるの?」
明日乃の問い返しに、伽子は一瞬、どぎまぎした様子だったが、すぐに胸を張った。
「ば、バカね。あんたも、鏡子も、変な誤解、しないでよね。鏡子を見たでしょ。いろいろ事情があって、今は絶交中だけど、鏡子とはいちおう、幼なじみだし、義理があるから、いっしょにいてやっただけよ。言っておくけど、あたし、瞬みたいにキザなヤツ、タイプじゃないから 」
待合室の扉が開き、医師の白衣が見えた。
鏡子は、氷の手で心臓をつかまれたような思いで、医師の言葉を待った。
********************************
■用語説明No.39:確定存在
確定された時空間を歩む者。
時間操作士と時流解釈士に多い。確定存在については、基本的に過去改変が不可能であり、確定事象しか生じないとされる。
確定存在に関わる周辺者の過去を改変した場合でもい、確定存在そのものに生ずる確定事象は変更できず、同一、または同種の事象が必ず出現し、最終的に辻褄が合わされる。
オブリビアスは確定存在であることが確認されている。
*********************************
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます