第34話 等々力渓谷



 翌朝、朝香瞬が、柔らかい身体に抱きしめられ、ラベンダー色の光に包まれると、宇多川鏡子がウィンクした。


「眼をつむっていて。すてきな場所に、連れて行ってあげるから」


 瞬は、言われた通りに、眼を閉じた。

 洗濯が完了し、たがいに制服姿だが、抱きあうのは、やはりまだ慣れていなかった。

 鏡子の香りが強くなった。光も強く輝いているだろう。


 新緑の樹々をわたる風の匂いが混じった。


「さ、着いたわ、瞬君」


 二人は、それほど大きくない鳥居の前に立っていた。二本のイチョウの大樹が、緑の葉をつけていた。


「……ここは?」

「等々力(とどろき)不動尊。実家の近く。まずは、必勝祈願しましょ」

 

 神社フリークらしく、鏡子から、祈願のやり方まで、順序良く、ていねいに指導された。


「よく兄と、ここへお参りをしたの」


 鏡子の、亡くなった次兄の話だ。鏡子の話に出てくるのはいつも、存命の長兄ではなく、次兄だった。

 瞬には、過去もなく、したがって家族もいないが、今では瞬も、宇多川家の人間関係が、だいたい分かるようになっていた。


「お守りは軽々に買っていはいけないんだけど、ここのはおすすめなの。瞬君に、身代わりお守りを買ってあげるね」

「僕が買うよ。鏡子さんにはいつもお世話になってばかりだし――」

「私のお守りだから、効くの。プレゼントさせて」


 神社フリークの話だから、否も応もない、鏡子が小さなお守りを買ってくれた。


 こぶりな境内の脇に、手作り感のある展望台があった。

 都区内には珍しい森を、並んで眺めた。空腹だった。

 夜ふかししたせいもあって、今朝は二人とも、遅かった。

 瞬は、研究所から戻った後、勉強机に向かったまま居眠りをしていたらしく、制服姿の鏡子に起こされた。

 寮の朝食の時間も終わっていたため、食事もしていなかった。


「じゃ、ブランチにしましょうか。いいお店があるの」


 長めの狭い階段を下りると、小さな滝があり、小川が流れていた。

 橋を渡り、川沿いを歩いた。好天の祭日で、都会のオアシスを訪れる人たちもいる。二人は、縦列で歩いた。


 鏡子が狭い道を選び、細い丸太でできた木の橋を歩く。

 いつもはドキリとするくらい大人びた様子を見せる鏡子だが、両手を水平にして歩く姿は、子供のようだった。


 五十段くらいの細長い階段が、左手に見えた。


「ここを上がると、うちなの。この前、ここを下りたでしょう?」


 真っ暗な闇に、ラベンダー色に浮かび上がる、天使のような鏡子の姿を思い出した。


 ぴちゃぴちゃ音を立てながら少し歩くと、頭上に橋があり、行きすぎる車が、何台も見えた。

 橋のたもと、鏡子について階段を上った先に、イタリア・レストランがあった。

 行き慣れているのか、鏡子は迷わず、入っていく。瞬が続いた。


 渓谷の樹々が見通せる、一番いい席に、向かいあって座った。瞬が寝ている間に、予約していたらしい。まさに、才媛だ。

 鏡子が澄ました口調で、オーダーした。


「Cコースに、自家製デザートを二人分、お願いします」


 テーブルに置いてあったメニューを見ると、Cコースは一番高く、Aコースの倍近くの値段がした。

 瞬も一応、準公務員だから、十分な給与をもらっている。だが、予科生が注文するには、やや高めだろう。直太や長介となら、Aコースを選んでいたはずだった。


「あ、このお店。宇多川の関係者だと全部、ツケでいいの。気にしないで、何でも、好きなだけ、食べてね」


 鏡子は、名立たる有力家、≪六河川≫の令嬢だ。

 瞬もまだ、宇多川屋敷の全貌を確認できてはいないが、おそらく敷地を一周するのに、二〇分近くはかかろうという豪邸だった。


 恵まれた境涯にある鏡子は、金銭感覚があまりないのかも知れなかった。かく言う瞬もまだリハビリ中で、忘却の日の前に、どのような経済状態だったかを、知るよしもないのだが。

 ピザとスパゲッティをそれぞれ三種類選べるコースだが、鏡子の提案で、シェアすることになった。


 すぐに前菜の盛り合わせが来た。さっそく手を伸ばす。

 イタリアパンにオリーブオイルをつけて食べる。あっという間に、なくなった。


「瞬君。ずいぶん、おなかが空いていたのね?」

「昨晩はせっかくのごちそうだったのに、何か疲れちゃって、結局、あまり食べられなかったから」


「じゃ、私のぶんもどうぞ。育ち盛りの男の子に、たくさん食べてもらいましょ。私、最近、あまり運動していないから」

「鏡子さんって、僕のお姉さんみたいだな」

「実効年齢は、瞬君よりも高いでしょうからね」


 ピザが来ると、鏡子が取り分けてくれた。鏡子が触ったものを食べるのが、好きだ。瞬の鏡子に対する感情はもう、ただの好意のレベルではなさそうだった。

 机に置いてあったタバスコを振る。


「瞬君……鹿島君も言っていたけれど、やっぱり、掛けすぎじゃないかしら?」


「長介にも、前に言われたよ。こんなに掛けるってことは、感覚がマヒしていて、何かの病気なんじゃないかって。でも、この前ね、僕がいたってまともだって事実が、判明したんだ」


 新人戦の始まる前、瞬は、直太、長介と吉祥寺駅に、夕食を食べに出た。コスパを考えれば、ラーメンという話になり、からいことで有名なラーメン屋の行列に並んだ。


「からさは、全部で十五段階、あった。『辛いので、お気をつけください』とは、書いてあったけどね。僕のレベルなら、当然七は行けるだろうって、思っていた。一〇でも楽勝かなって、思っていたんだけど、食べられなかったらカッコつかないし、七で注文したんだ。直太はレベル三、長介はレベル一だった」


「それで、食べられなかったの?」


「ムリ。半分以上、残したよ。三人とも、ね。もったいないし、僕は死に物狂いで頑張ったんだけどね。三分の一も食べられなかった。長介のレベル一を味見させてもらったら、何とか行けそうだったけどね」


「からくて、美味しかったの?」


「ううん。美味しい以前に、からすぎて、味わえなかったんだ。でも、僕たちの周りでは、レベル一〇とかを平気で注文していた。これで、いかに僕の調味料使用量が少ないかが、証明されたわけさ」


 鏡子は、あきれたような顔をしながら、スパゲティを取り分けてくれた。


「ところで、瞬君。昨日は、よく、寝られた?」


 微妙な質問だった。

 今から思えば、瞬は昨日、天国のような状態で寝ていた。


 瞬は途中で、胸が重苦しくて目が覚めた。

 気づくと、瞬の身体のうえに、鏡子が乗っかっていた。互いの肌と肌がそのまま触れ合っていた。

 ずっとそのままでいたかったが、そうも行かない。


 最終的に、起こさないように、鏡子の身体をそっとずらすと、起きることにした。

 休み休みだが、夕食の時から寝ていたし、鏡子の魅力ですっかり目が冴えてしまった。

 鏡子に掛け布団をかけてあげ、机に向かって、勉強を始めたのだった。


 その後、習慣で、研究所へ走りに行った。

 あの日以来、タコ入道が瞬の届け物を待ってくれているから、休校日でノートのコピーがない日は、その日あった出来事などを、手紙で書くようにしていた。

 鏡子はすでに、瞬に対する好意を示してくれている。明日乃について、色々言うのは気が引けた。


 結局、何とでも取れる表現をしてみた。


「うん、ありがとう。おかげさまでね。鏡子さんは?」


「二段ベッドの上に寝るの、初めてだったの。なんか、ワクワクしちゃった……」


 昨夜の妖艶な肢体を持った少女が、子供のように無邪気な笑顔を浮かべると、瞬は、女性という存在の深淵を、かいま見た気がした。


 デザートとアイス・コーヒーが来ると、鏡子の顔が真剣になった。試合の話だ。


「明日の試合、実質的には準決勝が、決勝戦だと考えていいと思うわ。大河内君に勝てれば、問題なく序列五位には、勝てるから」


 午前一〇時から準決勝、午後一時三十分から決勝の予定であり、瞬は、先に行われる第一試合に出場する。

 ちなみに、第二試合は、序列五位と、なぜか勝ち上がってきた序列一〇八位の試合だった。


「大河内君について、改めて説明しておくわ。彼とは幼い頃から、腐れ縁でね。知らない仲じゃないのよ 」


 ともに六河川の名家であるため、交流があるらしい。


「彼は傲慢だし、余り人に好かれるタイプじゃないけれど、才能がある上に、努力家なの。私や伽子のように、一つの技に磨きをかけるタイプじゃない。いうなれば、正当派ね」


 鏡子は、コーヒーをひと口飲んでから、続けた。


「彼は空間操作士たることに、強い誇りを持っているの。突出して優れた能力があるわけじゃないけれど、まんべんなく、何でもこなす」

「鏡子さん、彼はどんなAPを使うんだろう?」


「彼は、愛刀の≪日光助真(にっこうすけざね)≫以外は使わない。よほど思い入れがあるらしいわ。TSコンバットの源流は、剣道にある。だからでしょうね、少なくとも予科では、剣技を中心に考える傾向があるの。オーソドックス志向の彼は、剣にこだわっている。剣の腕は、瞬君には及ばないにしても、なかなかのものよ。サイも、半端じゃないわ」


 TSコンバットは、単なる剣道の試合ではない。所定のAPとサイを使用した戦闘競技だ。サイが勝敗を分けるのは、当たり前の話だ。


「お腹も落ち着いてきたし。それじゃ、行きましょうか」

 

 店を出ると、大きめの車道があった。

 鏡子が手をつないできた。

 驚いて見ると、テレポートをするらしい。


「家は見えているんだけど、歩くと、時間がもったいないから」


 確かに、敷地までは数分だが、それからが長そうだった。


「手をつなぐだけで、テレできるんだ?」


 いつも鏡子の手は柔らかく、少しだけ、冷たい。


「本当はつながなくても、大丈夫だと思うんだけどね。ちょっと距離があるから、万一の時、不安だし……」


 寮と宇多川家を行き来するテレポートで、必ず抱き合う儀式は、本当は不要なのだろうか。瞬としては、あの儀式を楽しみにしているのだが。


「ちなみに、テレに失敗したら、どうなるの?」

「落ちるでしょうね、途中で。すぐに再テレが必要な場合もあるわ」


 場所によっては、事故につながるだろう。

 重力に任せるしかない瞬には、危険なわけだ。まだしばらくは儀式を継続してもらえそうだ。

 もっとも、新人戦は明日で、終わるから、全国大会までは、今日がとりあえず、最後だろうが。


 ラベンダー色の帳が消えると、いつもの宇多川家の訓練室にいた。

 更衣室は一つだが、広いので、分かれて、着替えられる。

 瞬が更衣室を出てしばらくすると、ラベンダー色のコンバット・スーツを着用した鏡子が現れた。何度見ても魅惑的な姿で、飽きが来ないが、見惚れている場合ではない。

 伽子のド派手なスーツと比べると、鏡子の慎ましい性格がわかる。


「鏡子さん、APはこれで行こうと思っているんだ」


 瞬はザックから、黒い棒を数本取り出すと、キュッキュッとはめて、組み立てた。長さ一メートルほどの棒ができた。


「うん、なかなか考え込まれた構造だね」

「瞬君、それって……」


 鏡子が小首を傾げていた。


「今朝、大八木君に頼み込んで、借りてきた如意棒だよ。これで、戦おうと思う」


 予選二回戦の相手、大八木勲の寮に行って頼んてみたところ、喜んで貸してくれたものだ。これで、大河内を破れないか。


 鏡子は、考え込むように、如意棒を見ていた。


「いくら瞬君でも、どうかしら。剣技の達人を相手に、使い慣れている刀を捨てる理由は、なに?」


「鏡子さんが言ったように、同等レベルの剣士が戦って、サイを一方的に使われれば、ほぼ勝ち目はない。相手と違う武器のほうが、まだ、勝機を見い出せると思うんだ」


 如意棒と言っても無論、その昔、孫悟空が使った魔法の杖などではない。試合で、大八木が実際に使ったように、ここぞという時に、せいぜい一メートル延びるくらいだ。


「瞬君だって、如意棒なんて、使い慣れていないでしょう? それに、大河内君だって抜かりないわ、予選の情報も仕入れているかも知れない」


「だから今日、鏡子さんに特訓してもらうんだ。とりあえず、立ち会ってみてくれる? 君の≪ラベンダーの疾風≫で、来て欲しいんだ」



***

 宇多川鏡子は、愛刀≪小烏丸(こがらすまる)≫を、八相に構えた。

 瞬は、ふだんの柔和さを消し、真剣な表情で、左手を前に出し、右手に後ろ手で如意棒を構えている。

 鏡子には、瞬に、亡き次兄の形見である≪三日月宗近≫で戦って欲しいという素朴な気持ちがあった。

 瞬の如意棒を苦もなく破れば、瞬は、得物を宗近に変えるかも知れない。


 鏡子は精神を集中した。身体はラベンダー光に包まれている。いつでも、踏み込めるはずだ。

 だが、これまでと様子が違った。鏡子は、瞬に対し、おそれを感じた。

 本選で、伽子や長介を破った瞬の実力を見せつけられたから、瞬に対し、畏怖が生まれたのだろうか。


 鏡子は吹っ切るように、連続テレポートを開始した。

 幼少から訓練を重ねて、研ぎ澄ましてきた攻撃方法だ。サイ・レベルの高い上級年次を入れても、予科生全体で、鏡子のラベンダーの疾風をかわせる者など、ほんのひと握りだろう。


 おかしい。鏡子の連撃が、簡単にかわされている気がした。

 気のせいではない。これまでとは、明らかに勝手が違った。瞬のかわし方には、余裕があるようにさえ、見えた。

 伽子に勝利した瞬は、鏡子の攻撃をすでに見切っているのか。


 鏡子のサイが続かなくなる。


 鏡子が、息継ぎをするように攻撃の手をゆるめ、身を引こうとした瞬間、如意棒が飛んできた。小烏丸でかろうじて、払った。


「どうして、瞬君? こんなに短期間で、連続テレポートを完全に見切ったって、言うの?」


 瞬は微笑みながら、首を振った。


「いや、鏡子さんの疾風は、今でも、かわすだけで精一杯さ。君が、本当の力を出せていればね」


 鏡子は、はたと気づいた。


 鏡子は無意識のうちに、突然、間合いを無視して飛んでくるかも知れない如意棒を、怖れていた。

 連続攻撃の最中も、瞬が如意棒を持つがゆえに想定される反撃をおそれながら、連続テレポートを続けていたわけだ。


 朝香瞬という抜群の伎倆(ぎりょう)を持つ剣士が、飛び道具に近いAP(アタック・プロモーター)を手にした時、連続テレポートは、威力を失うのではないか。


「五百旗さんと戦っていた時に、気づいたんだ。大八木君の如意棒があれば、きっと楽だろうなって、ね」


 鏡子は、大きくうなずいた。

 瞬は、次の試合に勝つための戦略を、ずっと想い巡らしてきたに違いない。その結果、たどり着いた結論が、如意棒作戦だったのだろう。

 とすれば、今日の特訓は、いかに瞬を如意棒に慣れさせるか、に尽きるだろう。


「わかったわ、瞬君。いろいろなパターンで、テレポート、サイコキネシス、防壁をおりまぜながら、行くわよ」

「お願いします」


 瞬が、鏡子に向かって微笑んだ。



 陽が傾いたころ、宇多川鏡子は、瞬と並んで、天井を見あげていた。

 二人とも、汗だくになって、肩で息をしている。

 試合時間を想定して、三〇分ごとに休みを入れてはいたが、数時間にわたる攻防に、鏡子は心身ともに疲れ切っていた。サイも発動限界をとっくに超えている。


「やっぱり、鏡子さんは強いよ……」

「ううん、瞬君はますます強くなっていく。明日は、瞬君が本当に、優勝しそうな気がしてきた」


 鏡子は、数時間、太刀を合わせる中で、如意棒に慣れたが、それでも瞬の技術が向上していくにつれ、押され気味になった。大河内といえども、如意棒のような変則的なAPに、慣れているはずがない。

 瞬にも、充分に勝機があるように、思えた。


「……もう、私、限界。瞬君も、明日に向けて、身体を休めておいたほうがいいわ」

「ありがとう、鏡子さん。泣いても笑っても、明日で決着がつくんだね……」


 どこか寂しげな余韻に気づいて、鏡子は、頭を傾け、右隣りの瞬を見た。

 瞬が、自分を見ていた。

 

 勝てば、まだ全国大会があるが、とりあえずは明日で、瞬との特訓の日々も、いったん終わる。

 瞬が、宇多川家に来る理由も、消滅する。

 その後、鏡子と瞬は、普通の同級生どうしの関係に戻ってしまうのだろうか。


 ――それは、嫌だ。


 瞬は、自分をどう思っているのだろう。

 鏡子を嫌いなはずがない。間違いなく瞬は、好意以上の感情を、鏡子に対して抱いているはずだ。

 瞬は、自分と明日乃のどちらを、選ぶのだろう……。

 

「ねえ、鏡子さん。おなか、すいたね……」


 もしかして瞬は、鏡子を見ながら、恋ではなく、食べ物について、考えていたのだろうか。


「シャワーを浴びてから、食事にしましょ。今晩は、本館で夕食を作ってもらったから……」

「本当に、いつも、申しわけないね……」


「だって、瞬君は……」

 ――恋人だもの……と、鏡子は、続けたかった。


 だが、土壇場で、勇気が出なかった。鏡子は、天城明日乃に勝ったのだろうか。まだ、わからない。


「……おなか、空かすだろうって、思ったから、頼んでおいたの。それに、お祖母様も、まだ帰って来られないし、お父様が西ノ島に赴任されてから、独りぼっちだもの。……寂しいから」


 宇多川家に分家の親族は多いが、本家本筋は、≪大災禍≫の結果、鏡子のほか、祖母、父と長兄だけになった。


 瞬が半身を起こした。


「せっかくだから、遠慮なく頂戴させてもらうよ。シャワーもいただこう」


 二人で、更衣室に向かう。

 瞬は、着替えとバスタオルを確認してから、個室に入って行った。


 鏡子も、隣の個室に入った。シャワー室に入るガラス戸のタオルかけにバスタオルをかける。着替えを、ラックに置いた。

 汗だくになったコンバット・スーツを脱いで、裸になった。

 隣では、瞬がシャワーを浴びる音が聞こえている。


 もし今、鏡子が、瞬のシャワールームに入って行ったら、どうだろうか。

 いきなり抱きしめたら、瞬は拒否するだろうか。

 ……しない、はずだ。確信に近い、思いがあった。

 鏡子は、ドアノブに手をかけた。だが、立ち止まる。


 万が一、瞬に拒否されたら、その後、鏡子はどうすれば、いいのだろう。

 単に、瞬が新人戦を勝ち抜くことだけに、興味があるとしたら……。

 兵学校に在籍することだけを目的として、鏡子の特訓を受けているとしたら……。そんなはずは、ない。

 でも、今日も、明け方には、研究所に行ったではないか。

 瞬と明日乃は、最初から、どこか秘密めいた関係にある気がした。少なくとも、キスまでしてしまう関係だ。ただの同級生では、絶対にない。


 鏡子が思い迷ううち、隣でシャワー音がやんだ。

 瞬がバスタオルで、髪をふき始める音がした。

 時機を、逸(いっ)した。

 鏡子はしかたなく、シャワー室のガラス戸を開けた。

 気をゆるめると火傷しそうに熱いお湯を、頭から、かぶった。



***

 朝香瞬は、宇多川家の本館を出ると、暮れなずむ空を見あげた。

 すでに午後六時を回っているが、陽はまだ、残っている。

 瀟洒(しょうしゃ)な食堂で、実に豪勢な料理を、二人だけで、食した。王侯貴族にでも、なった気分だった。


 ラベンダー・アメジストのブレスレットを左手首につけ、薄いピンクのイブニング・ドレスを来た鏡子の姿は、輝いているようだった。

 だが、鏡子は、いつものように微笑みを浮かべてはいても、どこか元気のない気がした。


 長時間の特訓をしてくれて、疲れたのだろうと、思ってはいた。

 だが、もしかしたら、鏡子も、瞬と同じ気持ちなのかも知れない、と思った。


 瞬は、この二週間ほどの間、ずっと鏡子といっしょにいた。ほとんどの時間を、ふたりで、過ごしてきた。

 でも、明日からは、いっしょにいる理由が、なくなる。

 瞬と鏡子は今、中途半端な関係だった。鏡子が投げてくれたボールを、瞬はまだ、投げ返していなかった。

 自分の気持ちは分かっていた。

 もう、鏡子に対する恋愛感情を、否定できない。後は、明日乃に対する気持ちをどう整理するか、だけだった。


 仮に明日乃が、瞬を今でも単なる「殺害対象」としか、考えていないのなら、話はおそらく、単純だった。瞬は、自分を想ってくれる鏡子を、選ぶべきだろう。

 だがもし明日乃が、瞬をすこしでも、想ってくれているのだとしたら、瞬はどうすればいいのか。


「行きましょ、瞬君。駅まで、送るわ。渓谷を通りましょ」


 鏡子が、歩いて駅へ向かうのは、疲れているからか、それとも、瞬と少しでも長く、いっしょにいたいと、思ってくれているからか。

 言葉もなく、長い階段を下りた。鏡子のお気に入りの白いハイヒールの音がこだまする。

 陽はまだ残っているが、樹々に覆われた等々力渓谷は、昼間と違って、ずいぶんと暗い。疲れているだろうが、鏡子がラベンダー光で足元を照らしてくれた。


 長く続いた沈黙を、鏡子が破ってくれた。


「あの森のあたりに、横穴があるの。千数百年も前のお墓。三人が並んで埋葬されていたんだって……」

「どんな三人、なんだろうね……?」


 瞬はなぜか、自分と鏡子、明日乃の三人を思い浮かべた。

 すぐに、話題が尽きた。川音だけがする。


「ねえ、鏡子さん。前に、温泉つきの別荘があるって、言っていたよね?」

「うん。……新人戦が終わったら、行こうか?」

「そうだね。いいね」


 突然、鏡子のラベンダー光が輝きを増し、ソプラノが弾んだ。明らかに鏡子の態度が変わっている。子供のように、はしゃいでいた。

 箱根、軽井沢や伊豆、そこかしこにあるらしく、その説明を始めた。


 並んで石橋を歩いた時、鏡子の声が止まった。

 石畳みに、いくつもの球が落ちて撥ねる音がした。

 鏡子が短い悲鳴をあげた。

 ブレスレットのひもが切れたらしい。


「預言者のお祖母様にいただいた、大切なブレスレットなの……」


 二人で一時間あまり、ブレスレットの球を探した。

 瞬は、裾をまくって川の中に入り、落ちた球も、いくつか見つけた。暗がりでは探しにくい。鏡子の光も、太陽光には、かなわなかった。


「鏡子さん、球が転がって向こうの茂みに入った可能性も、あるよね」


 全部で十四個ある、大きめの見事な石の球が、あと一個、足りなかった。輝きで分かるが、相当高額な石に違いない。


 しょぼくれたというより、衝撃を受けたような鏡子の様子に、瞬は心が痛くなった。

 さっきはあれほど嬉しそうにしていただけに、落差が大きすぎた。よほど大事なブレスレットだったに違いない。

 いつも冷静で落ち着いた鏡子らしくない、取り乱し方だった。


「僕は諦めないよ。鏡子さん、見つかるまで、探そうよ」

「瞬君、もう、いいわ。石は別に、いいの……」


 瞬は拍子抜けしたように、川の中で、岸にいる鏡子を見あげた。


「でも、君にとって、大切な……」

「そうよ、大切な石。でも、私にはもっと、大切なひとがいるの」


 鏡子は、川の中に飛び込み、瞬に抱きついてきた。お気に入りの真っ白なハイヒールを履いたままだ。

 瞬は、大好きな匂いとともに、柔らかい鏡子を抱きしめる。


「どうしたの? 鏡子さん?」


 瞬は愛おしい少女に、やさしく問うた。


「お願い、瞬君……。明日の試合、棄権して」


 瞬は驚いて、尋ねた。


「え? ……どうして?」

「突然、ブレスが切れるなんて、変だもの……。不吉だわ 」


 その昔、下駄の鼻緒が切れれば、不吉だとの話はあったが、単なる迷信ではないか。鏡子らしく、ない。


「鏡子さん、でも、せっかく特訓したんだしさ。それに、ボギー先生には、決勝まで行けって、言われているし」

「大河内君は、強力なサイを使うわ。なのに、瞬君は、防壁を張れない。事故が起こったら、生命に関わるもの……」


「大丈夫だよ。そのために、鏡子さんが、身代わりのお守りを買ってくれたんじゃないか。準決勝では審判員も増えるらしいし、いざとなれば、クロノスが何とかしてくれるさ」


「お祖母様は、預言者なの。あのブレスは、私のお守り。未来予知をしているのよ」


 預言者の力が込められたブレスレットなら、単なる迷信ではないのだろう。何らかの不幸が迫っている可能性は、あった。


「未来はまだ、変えられるさ」


 鏡子が激しく首を振った。


「だめよ、だめだめ、瞬君。このブレスわね……大切な兄が亡くなる日にも、突然、切れたの……。その時も、一つだけ、見つからなかったわ。私、もう大切なひとを、失いたく、ないの……。お願い……」


 瞬の腕の中で、鏡子が泣き始めた。


 鏡子が顔をあげると、動作光に照らされて、涙を浮かべた瞳がラベンダー色にキラキラ輝いた。瞬は、明日乃のプラチナの瞳のように、美しいと、思った。

 瞬は、鏡子を守りたい、と思った。命に代えても……。以前に、明日乃に抱いた想いと、まったく同じだった。


「瞬君。私は、あなたが好きなの。好きでたまらない人を、失いたくないのよ」


 瞬は、間近で、鏡子の瞳を見つめた。


「ありがとう。僕も、鏡子さんが大好きだ。君を、たまらなく好きだって、分かってるんだだけど……僕には、どうしたらいいのか……よく、わからないんだ……」


「……分かってる。……瞬君が、天城さんを好きだってことは、知ってる。今朝だって、会えないのに研究所に行くなんて、好きだからに決まっているもの……」


 鏡子は、明け方に瞬が寮を出たことを、知っていたようだ。


「ごめんね……。同時に、二人の女性を好きになってしまった場合……どうしたら、いいんだろう……?」


 鏡子は泣きながら、笑った。


「とても簡単な話よ。どっちかをもっと好きになれば、いいだけ。だから私は、これからも、瞬君といっしょにいたい。……瞬君、お願い。明日は、試合に、出ないで。……お父様は裏で手を回したりするのを、とても嫌がる人だけど、退学の件は、宇多川の力を使えば、何とかなるかも知れないから……」


 六河川の有力家からねじ込めば、瞬の退学問題も、先延ばしくらいには、できるのかも知れない。

 だが瞬は、そこまで骨を折ってもらうだけの値打ちがある人間なのだろうか。


 鏡子のおろした髪から立ち上がって来る石鹸の匂いが、愛おしかった。


「鏡子さん。オブリビアスである僕には、逃げる場所なんて、ないんだ。僕には戻るべき過去がないから、新しく、作るしかない。君のおかげで僕は今、想い出を作りながら、人生を歩んでいる。ここまで来られたんだ。このまま、行けるところまで、行ってみせる」


「行かなくたって、いい! 瞬君は、私のそばにいて!」


 眼に涙をためて見つめる鏡子に、瞬はやさしく微笑みかけた。


「鏡子さん。僕ね、君には、いくらお礼を言っても、言い足りないんだけど、一つ今、はっきりとお礼を言いたいことがあるんだ……」


 鏡子は、涙で視界が歪んで見えないのか、何度かまばたきをしてから、瞬を見つめた。


「君は、僕の名前を、何度も呼んでくれた。長介との対戦で、コロセウムの客席から、君が僕の名を叫んでくれた時、僕はうれしかったんだ。天涯孤独の僕を、心から心配してくれる人がいる。僕の新しい名を呼んでくれる人がいる」


 瞬は、愛しい少女のラベンダー色の瞳に向って、語りかけた。


「あの時、僕は自分の今の名前を初めて、好きになれた気がするんだ。ようやく自分が、自分になったような気持ちだった。僕は、君が好きだと言ってくれる、自分の名前を守りたい。だから、朝香瞬一郎が逃げたとは、思われたくないんだ」


 鏡子は甘えるように、瞬の胸にすがりついてきた。


「もし僕が、婚約者から君を奪い取るつもりなら、僕は強くなければ、ならない。僕の君への想いが、いいかげんなものじゃないって、証明する必要があると思うんだ。長介にも、勝つって約束したから、それを守る必要もあるしね」


 瞬は、鏡子の背を優しく撫でた。


「鏡子さん、僕は預言者を侮るつもりはないよ。霊石は、確かに力を持っているさ。でも、人の運命を決めるのは、人だ。もし僕がここで逃げたら、君も僕も一生、そのブレスレットに縛られると思うんだ。だから、僕は、君に二つ、約束するよ」


 瞬は、腕の中にいる鏡子の耳元で、優しく言った。


「今日は暗いから見つからないけど、球は必ずあるはずだ。明日の試合に勝ったら、陽の光で、もう一度、じっくり探してみようよ 。川に落ちていたとしても、雨が降るまでは流れないと思うから」

 

 瞬の胸の中で、鏡子が顔を上げた。


「もう一つの約束。僕は明日、必ず勝ってみせる。お節介かも知れないけど、鏡子さんのために戦って、勝つ」

「お節介よ、瞬君。お願い――」


 瞬はいきなり、鏡子の赤い唇を、自分の唇でふさいだ。


 ラベンダー光が消えていき、あたりは真っ暗になった。


 川の音だけが、ふたりを包んでいた。



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■用語説明No.34:宇多川家

名家≪六河川≫の一つ。元は富豪出身の政治家の家系である。一族に優秀なクロノスを輩出し、とりわけ軍事に重きを成した。天川家を除けば、六河川の中でも≪三旗≫に匹敵する最有力家である。

民主制に対し敬意を払い、家柄にこだわらず人材を登用しようとする風潮が、宇多川家の特徴である。また、預言者である宇多川鶴子は、多くの時流解釈士の師として、一目置かれる存在である。

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