第31話 魔弾の射手――鹿島長介戦(3)
試合が、「勝負なし」で延長戦に入るとの場内アナウンスがされると、和仁直太は、一般観客席にへたり込んだ。
直太の隣には、出っ歯、ひょろ長、小太り三人組が座っていた。サンジたちも、言葉を失っている様子だった。
直太は、ヤキモキしながら、友人の二人が展開する激戦を見ていた。直太がこれまで見た中で、最も凄絶な試合だった。
鹿島長介が新人戦に懸ける意気込みは、半端ではなかった。長介は、予選を危なげなく勝っていたし、すべてにおいて絶好調だった。
いつも三〇分の時間制限ぎりぎりで勝ち、心身共に疲労困憊し切っている瞬が、圧倒的に不利だろうと考えていた。実際に、不利な試合展開ではあった。だが、瞬も決して、負けていない。
これまでの瞬の三試合を見て、簡単に負ける男でないとは、感じていた。さすがに、鏡子がほれた男だけのことはあった。
本選にまで出場し、序列二位の五百旗伽子さえ破ったのだから、退学問題はもう解消されたのではないかと、考えていた。
直太は最初、長介に勝たせてやりたいと思っていた。だから長介を応援する東側スタンドに陣取ってもいた。
だが、直太は途中から、いつの間にか、双方を応援していた。できれば、引き分けがよかった。新人戦でなければ、ありうる話だが、代表選考のルール上、勝者を決めねばならない。
「おい、格下。どけよ」
後ろから聞こえた無体な言い方に、サンジの出っ歯は、血相を変えて振り返った。だが、相手を見ると、しぼんだように黙りこんだ。相手が悪いと判断したようだった。
長身、長髪の少年は、他の二人に対しても、顎で「どけ」と合図した。
ひょろ長、小太りも、大人しく席を譲り渡すと、どこかへ消えた。
「それで、和仁。どんなアンバイなんだ。お前のダチは?」
直太に馴れ馴れしく話しかけながら、一つ空けて隣にどっかと座った男は、序列二位の大河内信也だった。
直太はどちらかと言えば、嫌いな人間が少ないほうだ。それでも、大河内は鼻もちならない奴だった。だが、腕は立つ。
「お前は、特等席に行けや。何で下々の席に、来んねん。嫌味か?」
≪六河川≫の大河内家には、鏡子や伽子と同様、よく見える席が特別に用意されている。
「ちょっと寄っただけだ。マジで見るつもりはねえよ」
大河内は、満席の一般観客席で、サンジに三席を空けさせた真ん中に座り、両手を、空いた席の背もたれに広げた。長い脚を組んでいる。
「新人戦で初の延長戦てか。意外に、鹿島が優勢って、流れだったのか?」
「長介が、優勢は優勢、なんやけどな。よう分からん試合や」
「可哀想に、どっちが勝っても、延長戦までもつれこめば、ろくなサイを使えねえだろう。準決勝では、俺様に瞬殺されて、終わりだな」
実際、二人のうち一人は、最初からろくなサイも使えないのだが。
「長介も、こんな激しい試合で、これだけ負荷の大きいサイを連発しまくっとったら、まる一日休んでも、疲労はごっつ残っとるやろな」
大河内は、意味もなく片笑みを浮かべた。
「鹿島の奴も、筋は悪くないんだが、相手があの性悪女じゃあ、手を焼くだろうな。≪エメラルドの彗星≫だっけか。ガンダムじゃあるまいし、いつまでもガキみたいな技、使うんじゃねえよ、みっともねえ。鹿島が倒しといてくれると、俺様は助かるんだがな」
直太は、大河内のノッペリした顔をにらんだ。
「おい、大河内。お前、午前の試合結果、見とらへんのか?」
「俺様は朝一で、格下を瞬殺してから、実家に戻って、対五百旗戦のイメトレ、やってたからな。まあ、鹿島が相手でも、別に構わねえけどよ」
大河内は、襟章組以外の全員を一律平等に、格下扱いする。不愉快な奴だが、努力だけは怠らない。
「ゆうとくけど、≪魔弾の射手≫が、三〇分かかっても倒せへんかった相手は、五百旗やないで」
いつも、憎らしいほど自信ありげな大河内が、初めて、驚きの表情を見せた。
「……おい、待てよ、和仁。五百旗が、誰かに負けたって言うのか?……」
「そうや。信じられへん話やけどな」
「誰なんだよ、相手は?」
「出てきおったで」
朝香瞬がコロッセオに再入場すると、ひときわ高い歓声が巻き起こった。
「誰だよ、アイツ。見たことねヤツだな」
「オブリビアスやからな。知らんで、当たり前や。名前は朝香瞬一郎」
「枠内か?」
大河内は枠内の二〇名さえ、眼中になく、覚えていないらしい。
「もっと下や。序列だけで、ホンマの実力がわかるんやったらな」
「おいおい、三十位台とかかよ?」
「一七六位や。サイの発動能力をベースに判定した、プレイスメント・テストの結果、だけやけどな」
組み分けのためのプレイスメント・テストはしょせん、戦闘能力を判定する試験ではない。
「おい、それって、下から数えたほうが、早いんじゃねえのか」
上しか見ない大河内は、予科二年次の総数さえ、知らない様子だった。
「早いもくそもないわ。最下位、そのものや。何しろアイツはまだ、サイが使えへんにゃからな」
大河内は大げさに吹き出した。
「傑作だな。サイを使えない奴が、兵学校に来て、いったい何をしようって言うんだ?」
「まだ、分からんらしい。オブリやから、しゃあないやないか」
「結局、オブリって、ただの死に損ないじゃねえのか?」
直太は、大河内の胸倉をつかんだ。
「お前、なんぼ何でも、言うてええことと、悪いことがあんぞ! 預言者使うて、大災禍をちゃっかり免れたお前らに、何が分かる?」
「放せよ、格下」
激怒した直太が殴りかかろうとした拳を、誰かがガシリとつかんだ。
見あげると、ボギーだった。
「俺の生徒が、どえらい試合をやってるってんでな、会議の途中で、抜け出して来たんだ。だけど、すげえ人気でな。席が、ここしか、空いてないんだよ」
ボギーは、直太と大河内の間に座ると、すらりと長い脚を組んだ。
兵学校どころか、第四軍で最強と謳われた破天荒な教官だ。大河内も静かになった。
「それで直太、ここは禁煙なのか?」
ボギーはさっそくタバコを口にくわえながら、尋ねた。
***
宇多川鏡子の隣で、五百旗伽子が足を組んだ。
同じ制服を着ているのに、伽子が足を組むと、なぜか露出部分が多くなる気がした。
試合再開の合図がされるや、すかさず長介は、バック・テレポートを繰り返した。数秒後には、壁の上にあった。
他方、瞬は動かず、太極で槍を構えている。
長介は、余裕の微笑みさえ浮かべていた。
「朝香君。やはり、君に対して、中途半端なサイは通用しないようだ。僕が今、持っている最高の技を使わない限り、君を倒すことはできない。力を温存するためだけじゃない、防壁を持たない君に怪我をさせたくなかったから、使わなかった技だけど、しかたがないね」
長介は、さっきよりも、明らかに強い光壁を、小柄な身体にまとっている。
百ミリガロア近い防壁のようだった。努力家の長介の鍛錬の成果なのだろう。
長介は、今度は両掌を瞬に向けたままで、ゆっくりとクロスさせた。
「すぐに放つつもりよ。長介のヤツ、休憩中にも、ずっとウォーミングアップしていたんでしょうね」
伽子の言う通り、休憩時間は、長介にとって、単にサイの発動準備時間だったに違いない。
長介がすばやく腕を開いた。
小さな稲妻のような青空色の光が、いっせいに放たれた。数十本はあるだろうか。
瞬は懸命によける。だが、さっきまでと違い、風撃は、瞬を背後からも襲った。壁に反射しているためだ。
瞬は、懸命によける。
が、よけきれない。
瞬は、十数本の風撃を食らい、満身創痍で、倒れた。
コンバット・スーツさえも数か所、裂け、血が流れている。頬や手の甲からの、出血も見えた。
それでも、首の皮一枚で、チャクラだけは守ったようだ。
コロッセオが、水を打ったように、静まり返っている。
***
和仁直太は、思わず、フェンスに乗り出した。
「いったい何なんや、あれは?」
「すげえな、カマイタチだよ」
大河内の言葉を、ボギーが継いだ。
「新人戦レベルなのに、無茶するよな、長介も」
ボギーは、禁煙と知り、しかたなさそうにタバコを噛んでいた。
「それって、難度Aクラスのサイ、ちゃうんか、教官?」
「そうだよ。クロノスでも使えないヤツは、ゴロゴロいる。新人戦で使える予科生が出るとは、俺の教え方が上手いんだろうな」
ボギーの言葉を、今度は大河内が継いだ。
「サイは、相手次第で引き出されるもんだ。あの力を引き出したヤツも、半端ねえけどな」
いつまで待っても、瞬は、倒れたままで、動かない。
「瞬のやつ、情けねえな。立ち上がれねえのかよ。デートのしすぎか?」
「ちゃうわい。教官は、あいつがどれだけ、疲れとるか、知らんやろ?」
「勝負に、言いわけは見苦しいだけだぜ」
「もしかしたら、教官。瞬は、壁面反射しおるカマイタチをよけよう思て、寝転がっとるんとちゃうか? 不謹慎な話やけど、寝転がって背後を守るっちゅう、戦法や」
「和仁でも思いつきそうな作戦なら、鹿島の勝ちも、見えたか」
「じゃかぁしいわい」
直太は、壁上の長介が微笑んでいるような気がした。
長介は、集中力を高め、最後の攻撃準備に入っている。
次の≪カマイタチ≫で、瞬を立ちあがれない身体にしたうえで、自慢の弓でチャクラを射当てるつもりだろう。あるいは腰のダガー≪新藤五≫で突けば、いいだけだ。
「痛いだろう? 済まないね、朝香君。たゆみない鍛錬を重ねて、やっと身につけた技なんだ。準決勝で大河内君を倒すために、隠していたんだけどね。ここで負けたら、意味がないから」
直太は、食い入るように、長介を見た。眼鏡がちょうど反射して、表情が読み取れない。
長介にも、カマイタチの危険性は分かっているはずだ。長介に手加減を加えたサイの発動ができるのだろうか。それとも、川野辺隼人への想いが長介を狂わせているのか。
直太は隣のボギーを見た。
「教官! これって、ヤバいんちゃうか? 瞬はまだ防壁、ぜんぜん張れへんにゃで」
ボギーは真面目な表情で、火のついていないタバコを噛んでいる。
***
宇多川鏡子の胸には、不安がとぐろを巻いていた。
「鏡子……。あれって、カマイタチだよね?」
まさしく、そうだった。
昨秋から、長介が、川野辺隼人の特訓を受け、鍛錬を重ねていると聞いていた。ついに完成させたらしい。
「競技者本人の判断だけどさ。こんな場合、審判は、瞬に試合放棄させるべきなんじゃないの?」
鏡子はめずらしく、いつもの冷静さをすっかり失っていた。気が、焦るばかりて、どうしたらいいか、分からない。
「鏡子。カマイタチは、防壁を張ってる相手に、超弩級の打撃を与える技でしょ。生身の人間がまともに喰らったら、死んでもおかしくないわよ」
伽子も内心焦っているのだろう、声が上ずっていた。
瞬はいま、鏡子のために、戦っているのだろうか。
もしもそうなら、もう、やめて欲しかった。
兵学校に残れなくてもいい。生きてさえいれば、また会える。
生きてさえ、いれば……。
鏡子は、名家の特等席の最前列で、立ち上がった。
不気味な沈黙の支配するコロッセオで、競技場の瞬に向かい、大声で叫んだ。
「瞬君! 試合を放棄して! あなたにはもう、勝ち目はないわ!」
観客たちが、いっせいに鏡子を見た。
長介も、我に返った様子で、ちらりと、鏡子を見た。
長介は視線を戻すと、瞬にうながした。
「朝香君。君を大切に思っている人の言う通りだ。僕からもお願いするよ。試合を放棄してくれないか。君の、負けだから」
瞬は槍を持って寝そべったまま、小さく首を横に振った。
「……まだ、試合は終わっていないよ、長介。君だって、これだけ連続で、サイを発動すれば、相当疲れているはずさ」
「疲れてはいるさ。僕は、君に勝つ絶対の自信がある。だけど、君の命を奪わない自信がないんだ。朝香君。君も分かっているはずだ。ガロアの防壁を展開できない君には、もう、何も、できない」
瞬は寝転がったまま、苦笑をもらした。
「悪いけど、もう一度始まったばかりの人生で、諦(あきら)めグセをつけたくないんだ」
「そうやって、仰向けに寝ていれば、カマイタチの壁面反射だけは、防げるだろう。だけど、君の俊敏な動きは失われる。僕のカマイタチをすべて防げはしない。君は立派に戦ったよ。勝算のない戦いをする意味はないさ」
瞬は、槍を杖にしながら、よろよろと立ちあがり始めた。
「違うよ、長介。……諦めないこと、それ自体に、意味があるんだよ。僕が、寝転がっていたのは、ただ、立ち上がれなかったからさ。避けるためじゃない」
瞬はふらつきながら、立ちあがって、壁上の長介を見た。
「長介。僕は、君を、川野辺君の呪縛から、解き放ってあげたいんだ。事情は知らない。だけど、君のただ一人のルームメイトは、僕だ。もう、川野辺君じゃないんだよ。僕は、君の思い出の中の偶像を壊して、序列一位に勝って見せる」
「ムダだよ、朝香君。僕には君が、命を賭してまで、勝とうとする理由が分からないよ」
「決まっているじゃないか。僕が勝ちにこだわってるのは、単なるヤキモチだよ。みんながあんまり、川野辺君をチヤホヤするもんだからさ」
長介が声を立てて、笑った。
「実に、愉快な人だ。僕は君が好きだよ、朝香君。たしかに君は、僕の大事なルームメイトだ」
すぐに、長介は真顔に戻した。
長介は、十指を開いた両掌を示すように、瞬に向けた。長介の両掌は、セレスタイトのスカイブルーに明るく輝き始めた。長介の全身が光壁に覆われていく。
長介にとっても、最後の一撃のつもりに違いない。
長介は、光る両手を身体の前で、ゆっくりとクロスさせた。
「君は、川野辺君とは、違う。なぜなら、君では、僕に勝てないのだから。カマイタチを手に入れた僕に勝てるのは、川野辺君だけだ」
「……どうやら、勝って示すしか、ないようだね」
瞬は、首をコキコキ鳴らしてから、中腰になった。
「さ、ずいぶん休ませてもらって、体力が回復してきた。君のものすごいサイも、発動準備OKだろ。そろそろ試合、再開しようぜ」
口とは裏腹に、ふらつきながら、瞬は右足を踏み出して、槍を構えた。瞬は、笑顔さえ、浮かべている。
瞬の言葉を聞くうち、不思議と鏡子は、瞬が本当に勝てるような気がしてきた。根拠は、ない。
「やっぱり、アイツ、勝つつもりなんだ。……。あたしの時と同じ……。本当に、勝つかも知れない……」
「無責任なこと、言わないで。どうやって、勝つと言うのよ?」
「知らないわよ。でも、勝つって宣言して笑っているヤツを止めるのは、無理ね……」
いったい、瞬に、どんな秘策があるというのか。
誰も考えつかないような、ウルトラCが都合よく転がっているとは、鏡子には思えなかった。
無駄口を叩いているように見えたが、長介は精神の疲労を回復し、サイ発動の準備を充分に済ませていたらしい。
長介は眼を見開き、両手を大きく開いた。
カマイタチが一斉に放たれた。
無数のブーメランのように、太極に立つ瞬を襲う。
瞬は、槍回しで応戦するが、槍ごと吹き飛ばされる。いくつかをかわせても、いくつものカマイタチが 、壁面反射を含め、瞬の身体を直撃していく。
瞬は、太極に倒れこんだ。ピッチングマシンによる特訓の成果もあって、チャクラへの直撃だけは回避したが、コンバット・スーツはずたずたに切り裂かれている。
「何なのよ? 無策? 大口叩いたけど、ハッタリだったの? 黙って、やられているだけじゃないの。カッコ悪い」
やはり、サイなしで、カマイタチを破るなど、不可能だろう。
瞬には逆転の秘策はないのだろうか。
それでも瞬は、すぐに槍を杖代わりにして、よろりと、立ち上がろうとした。だが、できない。片足を突いたままだ。
長介は、競技場へ下りない。接近戦に持ち込まれた、さっきの二の舞を避けるためだろう。
壁上に立ち、背に付けた弓を取ると、矢筒から矢を抜き取った。
「もう君を傷つけたくない。これで、終わりにしよう、朝香君。いい試合をさせてもらったよ。勝敗にかかわらず、僕は、決してあきらめない君を尊敬している」
長介は、矢を弓に番(つが)えた。
弦をキリリと引き絞る。弓の名手である長介なら、一度でどこかのチャクラに当てるだろう。
一方、瞬は、太極で、何とか立ちあがった。
右手に槍を持ってはいるが、構えているというより、槍で身体を支えているように見えた。おそらくは、立っているだけで、精いっぱいなのだろう。
コロッセオで、固唾を飲んで試合を見守る観客たちの誰もが、瞬の敗北を、確信したに違いない。
天井の開放された場外のコロセウムに、キャンパスに薫る新緑の匂いが、風に乗って来た。
瞬は、競技場の時計を見た。残り時間一分ほどを示している。
瞬は、大きく広がる青空に、ちらりと目をやった。
瞬は右手の槍を、人差し指と親指で握りなおしながら、腰を屈めた。
――突然、コロセウムに、初夏の陽光が差した。
橙色の光が、壁上に立つ長介の顔を直撃する。
条件反射で、長介が顔を背けた。
同時に、空中をブウッと通過音がした。
次の瞬間には、長介が壁上であおむけに倒れていた。
投擲(とうてき)された槍は、長介の光壁を破っていた。
正確に、第三チャクラを痛打した槍が、落下し、コロセウムに転がり落ちて行く。
コロッセオが静まり返った。
満身創痍の瞬が、力尽きたように両膝をつき、そのまま倒れ込んだ。
――勝負あり! 勝者、朝香瞬一郎!
場内アナウンスが聞こえた後も、しばらくしてコロッセオは歓声に包まれた。
鏡子は、胸がうち震え、涙が出てきた。
朝香瞬という少年は、たとえ絶体絶命の極限状態に追いつめられても、絶対に諦めない。勝利を勝ち取るために、あらん限りの知恵と技能を使い尽くす。
宇多川家うんぬんという以前に、鏡子は、瞬の人柄に、ますます強く惹かれていく自分を感じた。
オブリビアスの瞬には、背負うべき過去も家も、ない。クロノスになる目標さえ、失っている。
やはり今の瞬を突き動かしているのは、鏡子への強い想いだ。
瞬が鏡子に抱いている好感は、鏡子も感じている。それはまだ、鏡子のように恋心とは、呼べないかも知れない。だが、瞬にとって、絶望的な試合を逆転勝利に導くほどの力には、なっている気がした。
大切に、育てて行けば、恋にも、愛にもなるのではないか。
「偶然じゃ、ないわよね……」
時流解釈士でもない瞬が、未来予知ができるはずもない。
限界を超えるサイの発動で弱っていた長介の防壁が、一瞬のまぶしさで揺らぎ、無防備となる瞬間に、槍を投擲する。とっさに思いついて、偶然を利用したにしては、あまりに出来すぎだった。
「……そうよ……瞬君は、待っていたのよ……最初から……」
試合開始前から、コロッセオは教室棟の日陰に入っていた。だが、太陽が動けば、再び競技場を陽光が照らすはずだった。
「アイツ……コロッセオに、光が差し込む一瞬を、ずっと……」
試合に向かう直前、瞬がコロッセオの全体を見たいと言い出したのは、単なる思いつきではない。
最初から瞬は、長介と普通に戦っても、勝てないと分かっていた。すでにあの時、大逆転するための作戦を熟慮していたのだ。だから、得物も槍を選んだ。
常に、勝つための数少ない機会を伺いながら、それでも万策が尽き果てた時のために、最後の謀(はかりごと)を用意していたに違いない。
カマイタチには対抗できないと知りながら、徒手空拳で立ち向かったのも、いずれ、得られるかも知れない唯一の勝機を勝ち取るために、ひたすら時間稼ぎをしていただけだ。
「長介も、あたしたちも、皆、だまされていたけど、途中からの瞬の攻撃も、防御も、すべて、フェイクだったってこと……?」
そうだ。初夏の日差しがコロセウムを襲う瞬間、長介に、あの位置で、太極に向けて、弓を引かせるためだけに、瞬は時間を稼ぎ、敗勢を演じ続けたのだ。
鏡子は、心が震えた。
「私、今まで、『諦めない』って言葉を、間違って使っていたのかも、知れない……」
隣の席で、静かに伽子が立ちあがった。
「顔だけじゃないって、わけね。さすがは、六河川の姫君が、婚約破棄してまで、選んだヤツだけのことはあるわね。試合前の言葉、撤回するわ、鏡子。あんたの眼は、節穴じゃなかった」
敗者の長介は壁上で立ちあがると、バトルフィールドに下り、倒れたままでいる勝者の瞬を、助け起こした。
「おめでとう、朝香君。負けて、悔しいけど、それよりも、僕は嬉しいんだ。もう一度、川野辺君に匹敵する力を持つ親友を持てたことが、ね。亡くなった兄さんにも、自慢できるよ。君といっしょなら、僕はもっと強くなれるだろう。これからもよろしく、朝香君」
「僕も同じだよ。長介、君は強いね。君のようにすてきなルームメイトを持って、僕は兵学校で一番、恵まれている」
「君に一つ、お願いがある。僕の代わりに、優勝して欲しいんだ」
「……精一杯、努力してみるよ」
支えられ、支えながら、太極へ向かう二人に、コロッセオから、割れんばかりの拍手が贈られた。
***
和仁直太の近くで、大河内信也がゆっくりと立ちあがった。
「アイツはTSコンバットの初心者だが、格下じゃあねえな。しばらく、合宿を組んでくっかな」
大河内家には、時間操作士がいる。異時空間に滞在し、万全の態勢で、明後日を迎えるつもりなのだろう。
大河内が瞬の実力を認めたためだろう。
大河内は、コロッセオに溢れる熱狂の中を独り、去って行った。
***
朝香瞬は傷つき、ぐったりと疲れ切って、長介に肩を貸してもらいながら、ゆっくりと競技場を後にした。
その姿を見た観客たちが立ち上がり、二人に向かって、万雷の拍手を贈った。
二人が照れながら、ぎこちなく観客に礼をすると、ますます拍手が高鳴った。逃げるように、スタンディング・オベーションの続くコロッセオを後にすると、通路に、一人の少女が立っていた。
「瞬君、よかった……」
鏡子は、長介から奪い取るように、瞬を抱きしめた。
ふらつく身体がよろめいた。
「心配、かけたね……」
「ごめんなさい、瞬君……」
鏡子の肩が震えていた。泣いている。
「鏡子さん……どうして……泣いているの?」
「……わからない……」
瞬は戸惑いながら、鏡子を抱きしめ返した。
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■用語説明No.31:大河内家
「河」の字を姓に持つ名家≪六河川≫の一角。
もともと天川家のお抱え運転手の出であったが、主家に盲目的に従い、今の地位を得た。特に優れたクロノスや軍人、政治家を出してはいないが、世渡り上手で知られ、分家が多い。
大河内家は、天川家のために手を汚し、現体制の維持のために暗躍していると見られている。
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