第18話 届け物


 翌朝、始業のチャイムが鳴っても、後ろの席に天城明日乃は現れなかった。

 明日乃は欠席なのだろう。

 瞬はノートのコピーの束を入れたクリアファイルをカバンに戻した。結構な分量だったが、昨晩コピーして、きれいに整理したものだった。

 明日乃は、あのチョコボールのような黒い薬を飲んだだろうか。

 輝きを失った黒目の色に似たあの薬は、何なのだろう 。


「……来ないね、天城さん」


 隣の宇多川鏡子も、心配そうな表情で、左ななめ後ろの空席を眺めていた。

「昨日、私が保健室に連れて行ってあげたんだけど、ずいぶん身体が熱かったから、何日か登校できないかも知れないわ」


「心配だな。この前もそうだったんだ……」

「え? この前って?」

「ボギー先生の寮で、鍋を囲んだ日」


 鏡子が複雑な表情をした。


「……そうなんだ」


 教室の扉が開く音がし、白髪に長い白ひげの教官が入ってきた。

 「白ヒゲ博士」とあだ名される「エンハンサー理論基礎Ⅱ」の担当教官は、鏡子によれば兵学校で最も厳しい教官の一人だった。


「起立!」


 級長の鏡子の声で予科生全員が立ち上がり、立礼する。

 兵学校だけあって、礼儀にはうるさい。


 瞬は窓の外に眼をやった。空には、薄いカーテンのような雲がかかっている。明日乃も今、研究所の病室かどこかで、同じ雲を見ているのだろうか。


「起きんか! 愚か者!」


 大音声の怒鳴り声に、朝香瞬は飛びあがって目を覚ました。決してやってはいけない授業で、居眠りをしてしまったようだ。

 白ヒゲ博士は≪輝石≫を使いエンハンサーを発明した故・織機幾久夫博士の高弟で、本来栄達を欲しいままにできる立場だった。だが、白ヒゲ博士は富貴を好まず、今でもつつましい生活を送っているらしい。すでに定年だが、非常勤講師として教えにきていた。


 鏡子がファンになっている教官で、実際、尊敬に値する技術者であり、瞬も授業を楽しみにしていた。

 だが、睡眠時間をけずっての勉強や鍛錬が続く日々で、若い瞬の身体は睡眠を貪欲に欲していた。


「本当に、申しわけありません」


 ひたすら頭を下げる瞬の隣で、鏡子が立ち上がった。


「教官もご承知だと思いますが、朝香君はオブリビアスです。遅れを取り戻すために、朝早く起きて夜遅くまで――」


 鏡子の言葉を、白ヒゲが皺の入った手でさえぎった。


「じゃと言うてバーコードはともかく、わしの授業だけは寝ることは許さん。廊下に出たら聞こえんから、その場で居眠りせんように、立っとれ」

「はい。申しわけありませんでした」


 サンジの出っ歯が噴き出すように嗤(わら)うと、教室に嘲笑が起こった。


 白ヒゲ博士は、ひとにらみで笑いを制した後、名簿をのぞきこんだ。

 老眼鏡を額に乗せて顔を上げると、自慢のひげをしごきながら、瞬に話しかけた。


「ほう、君が朝香君だったのか。この前のレポートはよう考えてあったぞ。一年次の基礎理論を完全にマスターしておらなんだら、書けん内容じゃった。君なら分かるじゃろうな。わしが授業を聞かん学生を厳しく叱る理由は、何じゃ?」


「エンハンサーはクロノスにとって、生命線だからです」


 白ヒゲ博士が大きくうなずいた。


「その通りじゃ。諸君の命に関わるからじゃ。われわれが持つ極めて微弱な能力を最大限に高め、超能力とも言わしめる魔法の道具、それがエンハンサーなのじゃ」


 白ヒゲ博士は教壇に戻ると、教室中をねめつけるように見た。


「エンハンサーがなければ、クロノスもただの人じゃ。サイなぞ使えん 。戦場に出れば、すぐに殺されるわい。わしは能力者ではない。じゃからこそ、この歳まで生きられた」


 白ヒゲ博士は咳払いをしてから、続けた。


「じゃが、君らは違うぞ。寿命と引きかえにサイを使っておるんじゃ。わしには、クロノスになった息子がおったがな。未適応症で、親より先に逝きおったわい」


 時空を操る者たちに、常につきまとう宿業(しゅくごう)の病があった。確実な死だけが待つ≪未適応症≫である。原因不明で治癒例のない不治の病だった。クロノスとしての職を全うするまで罹患しない者も相当数いる一方で、若年で発症する者も、いた。

 個人差はあるが、発症後も使用を継続すれば、若くても、眠るように寿命が尽きるという。


「最初は寒気がして、高熱が出る。突然、発作のようにな。身体が震えてくるんじゃ。サイを使わなければ進行は遅くなるが、発症してしまえば、終わりじゃ。未適応症が進めば、発熱の頻度が高くなる。末期になれば、身体が硬直してくる」


 白ヒゲ博士の説明を聞き、瞬の背筋が凍りついた。

 あの時の明日乃の症状に、似ていないか。


 白ヒゲ博士の説明が続いた。

 原因不明で、発症したが最後、治癒例のない不治の病だから、本来は「適応不全」とか、「不適応症」といった表現が適切だったはずだ。だが、恐怖を和らげるために、いずれ適応して克服しうるとの望みを込めた命名らしい。


 終末教徒たちは≪未適応症≫が、呪われた存在であるクロノスへの天罰だととらえていた。


「教官。医学では、未適応症の治療を研究していないのでしょうか?」

 立たされている瞬が質問すると、白ひげ博士は残念そうに首を横に振った。


「医学的に見ると、身体状態には何ひとつおかしなところがない。じゃから、医学ではどうすることもできんと、匙(さじ)が投げられておるのう」


 瞬は心の中で焦った。

 明日乃の症状は≪未適応症≫に違いない。

 あの若さで、普通のクロノスと対等に渡り合うようなサイを発動していた。発動限界をとうに超えているはずだ。明日乃は自分の病を知っているのだろうか。


「わしはな、諸君。いくらでも金も地位も得られるはずじゃのに、なぜ受け取らんかったのかと、何度も聞かれる。それはな、西ノ島での輝石の発見が、織機先生によるエンハンサーの発明が、はたして人類にとっての善であったのか、よう分からんようになってしもうたからじゃ」


 白ヒゲ博士は天国を見やるように、天井を見上げた。


「じゃが、今の時代、エンハンサーなしではもう世の中が成り立たん。わしらは、前に進むしかないんじゃ」


 白ヒゲ博士は、目にうっすらと涙を浮かべていた。先に逝った息子のことを思い出しているのかも知れない。


「わしにできることはな。世を救おうとする君らが少しでも長く、安全に生きられるように、エンハンサーの改良を続けるだけじゃ」


 白ヒゲ博士は、教室の照明を落とした。


「動作光は不思議じゃな。エンハンサーは、各人が持つ≪霊石≫を媒介にして、色を現してくる。諸君、君たちの守りたいものは何じゃ? 誰を守りたいんじゃ? あの大災禍で大切な人を失った諸君も、たくさんおるじゃろう。守りたい人、守りたかった人を心の中に思い浮かべるんじゃ。心から、守りたいと念ずるんじゃ。そうすれば、輝石は必ず、諸君に応えてくれる」


 暗くなった教室内に、次々と動作光が浮かび上がっていく。


「諸君、エンハンサーを付けた腕か、ペンダントを、高くあげてくれんか」


 教室内が様々な色の光で満たされた。L組は青系が多い。鏡子はラベンダー色に輝くペンダントを首からはずし、高くかかげている。


 瞬のブレスレットは、相変わらず光を発していない。

 もし後ろに明日乃がいて、腕を上げれば、プラチナ光が輝いただろう。初登校の日、瞬の命を奪おうとし、しかしその後、瞬を守ってくれた、あの光が。


「ありがとう、諸君」


 白ヒゲ博士が感慨深げにうなずくと、学生たちは手を下ろした。


「霊石の属性でクラスが決まっておるからの。じゃからクラスごとに、色の傾向が違う。わしは開校以来、ここで教えてきた。光の色は毎年、違うんじゃ。同じだった年は、ない。人は皆、それぞれ違う。皆、一人ひとりが大切なんじゃ。わしは行った経験がないがの。クロノスたちが戦う異時空戦では、空間が虹色に輝くという」


 白ヒゲ博士は照明をつけると、ゆっくりと教室を歩きながら、エンハンサー技術の重要性と、技術者の誇りについて語り続けた。バーコードの授業とは対照的に、教本には書かれていない話ばかりだった。


 瞬と鏡子の列の間に来た白ヒゲ博士が、にわかに立ち止まった。


「ん? この一角は、エンハンサーの作動痕が強いな。なぜじゃ?」

 序列二位の鏡子の発動量が高いためだろうか。



「朝香君。君のエンハンサーは変じゃな。貸してみなさい」


 白ヒゲ博士は、瞬が外したブレスレットをしげしげと眺め、振って音を聞き、さらにズボンのポケットから取り出したルーペをのぞいていたが、やがて大きく首をひねった。


「……不思議じゃな。君のエンハンサーはクオーツが溶け出しておるようじゃ。いったい、どんな使い方をしておった?」

「朝香は、同期で最下位です!」


 サンジの二重アゴがはやすと、笑い声が起こった。


 白ヒゲ博士は、瞬にブレスレットを返しながら、何度も首をひねった。


「……おかしいのう。カイロスのレベルで、輝石回路が焼き切れるほどの発動量は普通、ありえんはずなんじゃが。いったい君は、何ガロア発動したんじゃ?」


 瞬が普段の鍛錬の様子を説明しても、白ヒゲ博士は首を傾げるばかりだった。


「とにかく君のエンハンサーは故障しておるようじゃ。授業が終わったら、技術研究室に来なさい。直してやろう」



***

 ――同じ日の夕刻。


 天城明日乃は、国立時空間研究所附属病院の一室から見る景色が、嫌いではなかった。今日も半身を起こして、寝台のヘッドボードに背をもたせかけながら、窓の外を眺めていた。


 午後からは、春の雨が降りしきっていた。

 もともと昨日は、久しぶりに登校する予定だった。

 だが、朝からまた高熱が出た。

 薬を飲んで、午後から遅れて登校したが、やはり無理がたたったらしい。途中で、立っていられなくなった。


 なぜ、こんな馬鹿な真似をしたのだろう……。

 

 明日乃は雲が好きだった。

 雲は毎日、形が変わる。二度と、同じ雲は現れない。雨雲も同じだ。与えられた宿命に文句ひとつ言わず、現れては消えていく。天を覆いつくした雨雲でさえ、同じ運命をたどる。


 雲は自分に似ているかも知れないと、明日乃は思う。

 先に明日乃の寿命が尽きれば、朝香瞬を手にかけないで、済むだろう。

 嫌になってしまった宿命を免れられるはずだ。空を流れる雲のように、誰にも惜しまれず、世から静かに消えてしまいさえすれば……。


 今は、研究員の指導で、両眼のサイレンサーを外しているから、うっかり瞬のことを考えてしまうのかも知れない。

 未適応症になると、サイの発動量に敏感にならざるを得ない。

 過剰発動は未適応症の進行を早めるから、発動を抑制するためにサイレンサーを装着するわけだ。


 研究所では、サイレンサーの着脱と体調の関係を調べているらしい。

 小学生にもやれそうな人体実験だ。誰も真面目に、未適応症の研究など、してはいないのだろう。今やクロノスは≪終末≫までの期間限定の使い捨てだった。

 

 明日乃は夕暮れの空、街の向こうにきらめく稲光を見た。

 天空を覆いつくす雲は、明日乃の心象風景のデフォルトだった。

 明日乃の心の雲は時に、暗鬱な雨雲となり、稲光をもたらす。決して青空がのぞかない点だけは、本物の空と違っていたはずだった。


 朝香瞬と逢って、明日乃の心の雲にわずかな変化が生じた。

 降りしきっていた雨が止み、ぶ厚い雲に、かすかな光が差し始めた気さえした 。

 だがそれでも、明日乃の宿命が変わるわけでは、ない。


 雨脚は強くなり、病室の窓に雨滴を打ちつけ始めた。

 なぜ昨日、明日乃は無理をして登校したのだろうか。

 サイレンサーなしの今なら、正直になれる。

 登校したのは、瞬に会うためだったのではないか。

 別に、瞬と会って、する話があるわけでも、ない。

 でも、会いたかったのだと、思う。

 瞬の後ろの座席に座っていたかったのだと、思う。


 窓の外には、この世の終わりでも来るように真っ黒な雲が湧き出していた。

 朝香瞬は今どこで、何をしているのだろう。

 仲間たちとともに、部活動で汗を流しているのだろうか。長介といっしょに夕食でも作っているのだろうか。

 明日乃はサイドテーブルに置いてあるサイレンサーのコンタクト・レンズに手を伸ばした。

 だが、途中で止め、窓の外で荒れる空を、ひとり見上げた。



***

 朝香瞬はノートのコピーを入れたクリアファイルを、幾重にもビニール袋に入れた。ザックに雨除けのザックカバーをとりつける。これで、濡れないだろう。

 キッチンから、鹿島長介の声がした。


「あ、朝香君。今日は、やめておいたら? 外は、ものすごい雨だよ」


 たしかに、外はスコールのように猛烈な雨だ。


「雨の中を走るのも、気持ちいいもんだよ。シャワーを浴びながら、走っているみたいでさ」

「か、風邪ひいても、いけないし」


「今日、届けてあげたいんだ」

「ね、熱があるなら、天城さん、勉強できないかも知れないよ。別に、明日の朝でも――」


 瞬はザックを背負って、立ち上がった。


「じゃ、行ってくるよ。いろいろ、ありがとう」


 運動靴を履いて、扉を開けた。楽しむ覚悟でないと、つらい天候だ。

 瞬は寮の玄関を出て、雨の街へと走り出た。


 約二〇分後、瞬は国立時空間研究所の正門にいた。

 守衛室の受付には、濃紺の制服を着た禿げ頭の老人 が座っていた。守衛は五人ほど知っているが、初めて見る人だった。


「すみません。国立第二兵学校の朝香瞬一郎と申します。研究所の天城明日乃さんに……面会したいのですが……」


 いつも門前払いを食らってきたが、新しい人なら、意外に合わせてくれるかも知れない。瞬は欲を出した。


 老人は、濡れねずみの瞬の頭のてっぺんから足もとまで、ジロジロ見てから、不愛想にたずね返した。


「何かね、君は? そんな恰好で人と会おうなんて、いったい、どんな了見をしとるんだね」


「すみません。どうしても今日、兵学校の関係で、天城さんに届けたい書類があって、直接会って説明したほうが――」

「アポイントなしでは一切、取次はできん。帰りなさい」


 老人はいかにも頑固そうな太い唇を、固く閉じた。

 研究所は、終末教徒によるテロの標的ともされていた。警戒が厳重なのも、当然ではあった。

 

「五分だけでいいんです。面会させていただけませんか」


 会って話すべき大事が、あるわけでもない。だが、会うこと自体に意味があると思った。


 明日乃はおそらく未適応症だ。先日の口ぶりでは、自分でも気づいている様子だった。

 せめて顔を見て、声を掛けてあげたかった。

 明日乃は、瞬と同じオブリビアスだ。研究所暮らしなら、友達もいないはずだ。きっと、孤独であるに違いない。

 明日乃が未適応症だと知って、かえって瞬の明日乃への想いは、強くなったようだった。


 老人は必要以上に、首を横に振り続けた。


「小僧、いいか? 研究所の先生方はな。この世を救うために、寝る間も惜しんで仕事をされておるんじゃ。用もないのに来るんじゃないぞ」

「ですから、用はあるんです!」

「小僧、研究所の先生方はな。君たちのように遊んでおる暇はないんじゃよ」

「いえ、勉強のノートを届けてあげるんです」


 老人は守衛室の机をバンと叩いて、立ち上がった。


「何度言ったら、わかるんじゃ! ダメなものはダメじゃ!」


 割と早く血が頭に上るタイプらしい。真っ赤になって怒る様子は、タコ入道に見えた。といっても、瞬は噂に聞いているだけで、タコ入道ご自身に会った覚えは、ないのだが。


 瞬は受付の庇(ひさし)の下で、びしょ濡れのザックの中から、慎重にクリアファイルを取り出した。


「しまった。ちょっと、滲(し)みてる」


 だが、とりあえずは仕方なさそうだ。


「守衛さん、分かりました。それでは、これを天城明日乃さんに、渡していただけませんか?」

「その人の所属は?」


 所属までは知らなかった。ただ、「研究所」としか聞いていなかった。

 タコ入道はあざけるように、あごを突き出していた。


「小僧、研究所に勤めておられる先生方は、五千人近いぞ。どうやって、届けろというんだね?」


「名簿を見せていただけませんか。五十音順なら、すぐに――」

「君は何かね、わしが、研究所の機密情報を軽々しく漏らすとでも、思っていたのかね?」

「では、守衛さんが調べてくださいませんか?」

「なぜわしが、アポもない君のために、そのような真似をせねばならん?」


 職務熱心なのか、意地悪なのか、その両方なのか。


「今、天城さんは病室にいるはずなんです。附属病棟の――」


 タコ入道は、激しく手を振った。


「ますますダメじゃ。小僧、半世紀以上も前にできた言葉じゃが、君は『個人情報』というモノを知らんのかね? 研究所の先生方が、今、どちらにいらっしゃるか、わしが軽々しく漏らすとでも思っとるのか? そんな手に引っかかるわしではないわい」


 勝ち誇ったように胸を張るタコ入道に対し、瞬も意地になってきた。


「では、郵便はどうなんですか? 郵送すれば、届くんですか?」

「わしゃあ知らん。警備とは別の課が、受け持っておるからの」

「では、宅急便なら、どうなるんですか?」


 押し問答をしている瞬とタコ入道を、横から明るいライトが照らした。


「そこをどけ! 小僧!」


 タコ入道はあわてて帽子を被り、守衛室を飛び出してきた。

 瞬を押しのけると、豪雨の中、傘もささずに飛び出して行った。チェーンを外し、銀色のポールを地面の下に引っこめた。

 タコ入道は黒い公用車に向って、深く敬礼した。

 研究所のVIPでも、到着したらしい。


 公用車の後部座席の窓が開くと、意外に若いさわやかな声がした。


「ご苦労さま。警戒レベルが、また上がったらしいですが、異常はありませんか?」

「はい、所長! 何も異常、ありません!」


 タコ入道は直立不動になり、大声で答えた。ひどく緊張している様子だった。

 

 閉じようとする窓から、「所長」と呼ばれた男の温和そうな表情が見えた。金縁の丸眼鏡をかけている。

 瞬は雨の中、タコ入道の隣に、走り出た。


「待ってください! 所長さん!」

「こら! 小僧、やめんか!」


 タコ入道は腰の警棒を抜いて、振りかざした。


「待ちなさい」


 閉じようとする窓が、再び少し開いた。


「私に、何か御用かな?」

 

 優しい口調に、瞬は俄然(がぜん)、勇気を得た。タコ入道を逆に押しのけると、窓の隙間から中に向かって、何度も頭を下げた。


「所長さん、すみません。もしかして天城明日乃さんをご存知ではありませんか? 届けたいものがあるんです」


「……君は?」

「失礼しました。国立第二兵学校、二年次L組、朝香瞬一郎と申します。天城さんの同級生です」


 金縁丸眼鏡の所長の顔に、穏やかな微笑が広がった。


「君が朝香君か。彼女からは、君の話をよく聞いているよ」


 胸が高鳴った。あの明日乃が、所長と、瞬の話をしてくれているとは、思わなかった。


「本当ですか? 天城さん、ずっとお休みしていたんで、僕のノートをコピーしてあげるって、約束したんです。でも今日、お休みで。それで、持ってきたんです」


 瞬は窓の隙間に向かって、ずぶ濡れになりかけたクリアファイルを差し出した。


「すみません、守衛さんとやり合っているうちに、ずいぶん濡れちゃったんですけど」

「分かった。彼女には、私から渡しておこう」

「ありがとうございます!」


 瞬は所長に向かって、何度も頭を下げた。


 閉じようとする窓に向って、瞬は身を乗り出した。


「あの、天城さんは大丈夫でしょうか? 熱が高いって……」

「ああ、大丈夫さ。二週間もしないうちに、登校できるだろう」

「え? 二週間も――」

「こら、小僧! いい加減にせい!」


 タコ入道が割って入ると、公用車の窓は音もなく閉じられた。


 去っていく公用車を見ながら、瞬は、映画のセットの容赦なく降り続ける雨の中を、立ち尽くした。

 明日乃の未適応症は、重症なのではないか。もう会えなくなる事態も、覚悟しておいたほうが、いいのだろうか。


 明日乃に向かって、「守りたい」などと偉そうに言ってはみたものの、今の瞬には、何をどうすることもできなかった。

 タコ入道が、守衛室の庇(ひさし)の下に入った。


「良かったの、小僧」


「何も、良くはありません」

「珍しい話もあるもんじゃな。あのお忙しい所長さんが、面識もない外部者と、話をされるとはの……」

「失礼します」


 瞬はザックを背負うと、タコ入道を残して、豪雨の中をまた、走り始めた。


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■用語説明No.18:未適応症

サイ発動による時空間操作を行った者のみが罹患する特有の疾患。

クロノスの半数近くが発症するとも言われる。身体の震え、硬直を特徴とする原因不明の熱病で、脳内に輝石の結晶が生じることにより、発症する。過剰発動により発症し、徐々に悪化していくが、現時点で治療法はなく、十年以内の致死率は一〇〇パーセントとされている。

未適応症は、過剰発動の累積による心身への弊害であるが、発動限界を極限まで超えたサイが一時に発動されたような場合(急性型)は、精神崩壊を来す。時流解釈士には、不可逆的な発狂に至る症例が多くみられる。

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