第15話 預言者



 翌朝、天城明日乃はプラチナ色の光をまとって、国立環境研究所の玄関ロビーに姿を現した 。

 約束の時間に所長に面会を求めると、すぐに応接室に通された。


 黒い革のソファとオークの重厚なテーブル。


 過日、朝香瞬一郎という少年の殺害指令を受けたのも、この部屋だった。

 明日乃は部屋に通されてから三〇分が経っても、ほうっておかれたままだった。が、珍しい話ではない。


 明日乃は窓ぎわに近よって、花曇りの空を眺めた。下に視線を移すと、葉桜になりかけた桜が眼に入った。

 研究所の敷地にも、桜並木があった。瞬たちと見た桜と違って、よそよそしく散るように見えるのは気のせいだろうか。


(……ボギー教官の赤銅の防壁がなくなった後、わたしは朝香君を殺すことができたはず……。

 ……それでもわたしが、彼を殺さなかったのは、なぜ……?

 ……あの時のわたしには、朝香君を殺すだけのサイを発動できなかったから……?

 ……わたしが逃げるためには、朝香君が必要だったから……?

 ……でもなぜ、わたしは朝香君を見捨てて、自分だけテレポートしなかったの……?)


 明日乃は朝香瞬に関する記憶をたどった。そういえば昨夜、眠る前も、同じ真似をした。


 明日乃に「逃げろ」と叫ぶ、必死な顔……

 泥と血でうす汚れた顔……

 浴室であわてふためいていた顔……

 手当てをする傷口を痛がってしかめた顔……

 瞬の冗談に明日乃が笑わなかった時の寂しげな顔……

 明日乃を好きだと言った時の、恥ずかしそうな真っ赤な顔……


 明日乃が瞬の顔を思い出すたび、常に冷え切っていたはずの心が、温まっていく気がした。


(……わたしは、朝香君を守った……。

 ……それは、なぜ……?

 ……いつか自分の手で、殺さなければいけないメサイアを……なぜ守ったの……?

 ……朝香君が、わたしを守ろうとしてくれたから……?

 ……いいえ……たぶん、違う……)


 明日乃は、自分の左の掌を見つめた。

 昨日、黒服の男たちから逃げる時、瞬が握った、手だ。恥ずかしがる瞬の全身に直接触れ、洗ってあげた、手だった。

 だが、明日乃がその気にさえなれば、強力なサイを放つ、殺傷兵器に変化へんげする手でもあった。


(……今のわたしに、朝香君を……殺せるの……?

 ……わたしは、例えば今日、笑顔で「おはよう」と挨拶してくる朝香君の命を、奪えるの……?

 ……体じゅうに絆創膏や湿布を貼った朝香君の身体を、わたしのサイで、貫けるというの……?)

 

 明日乃は、愕然とした。


(……できない……。

 ……わたしには、もう、できない……。

 ……わたしが、昨日、朝香君を殺さなかったのは……

 ……殺せなかった、から……。

 ……でも、私が手を下さなくても、放っておきさえすれば、朝香君は男たちのサイで、死んでいたはず……)


 明日乃は独りで、小さく首を振った。


(……違う……全部、違う……ごまかしても、だめ……。

 ……わたしが、朝香君を……守ったのは……それは……

 ……わたしが……朝香君を……守りたかった、から……。

 ……なぜ、わたしは、朝香君を守りたかったの……?

 …………もしかして……わたしは……朝香君を…………)


 ギィーッと、ドアの開く音がした。


 奥の所長室が開き、金縁の丸眼鏡を掛けた四〇歳前後の中背の男が、姿を見せた。所長の瑞木みずき光男だ。


 明日乃がゆっくりと来客用のソファに戻ると、瑞木は神経質そうに、手をすり合わせながら、明日乃に向かい合って座った。


「やはり仕損じたらしいね、ヴィーナス。朝香瞬の未来は不確定だったからね、しかたないさ」


 瑞木は、彼の信ずる預言書≪サンの預言≫に記されている名で、明日乃を呼ぶ。

 明日乃は見せてもらっていないが、瑞木が従う≪サンの預言書≫には、ヴィーナスを始め、救世の鍵を握るクロノスたちが、天体の名前で記されているらしい。明日乃は「金星」になぞらえられていた。


「知恵のメサイアは現れましたが、彼を守るメサイアが現れて、阻止されました」


 すべてを見透かすような瑞木の視線は、空間操作能力の一つ、「透視能力」でも持っていそうだった。

 瞬には見せても気にならなかったのに、瑞木には、自分の裸身を見られたくないと、明日乃は思った。同時に、そのような感情を抱いてしまう自分に、驚きもした。


「末永了一郎だね。彼は、≪サンの預言≫を阻む障害として、ばら撒かれた不発弾の一つ。厄介な男さ。星を見るに、彼の命運はまだ尽きていない。彼が軍をわれて兵学校に来たのも、偶然じゃないね。悪しき預言者たちが未来を変えようとしているようだ」


 瑞木の穏やかな声を聞くたびに、明日乃は戦慄を覚えた。


 この男は、最高レベルの時流解釈能力を持っている。その能力を用い、常に「未来」を正確に予知していた。

 その気になれば、昨夕以降、明日乃と朝香瞬の間に起こった出来事も、あらかじめ知りえたはずだ。


 些細な話だが、仮に今日の七時限に予定される「サイコキネシス実技」の第十二クラスの授業で、日々努力を重ねているらしい朝香瞬が、測定下限値以下の何ミリガロアのサイを発動するかと問えば、瑞木は正確に予言してみせるだろう。


 あの日、瑞木の予知した通り、明日乃が殺害するはずだった朝香瞬が、誰もいない桜の園に姿を見せたように。


 今、世界を動かし、「未来」に向けて「現在」を創っているのは恐らく、明日乃の目の前にいる、時流解釈士の男だ。

 明日乃はもちろん、他の預言者を含めて、世に棲むすべての存在は、ただこの男に「駒」として動かされているに過ぎないのではないか。


 瑞木は例えば、桜花を散らせる風だ。

 時が来て、用済みになれば、明日乃も、瞬も、ボギーも、散るのだろう。瑞木とて、いつでも風となって、散らせられるわけではない。だが、いつ吹けばよいかを、心得ているわけだ。


「それで、朝香瞬とは、どのような少年なんだい?」

「……か弱い、ごく普通の人間でした。……もしかしたら、無能力者かも、知れません」


 瞬がサイの発動ができない「無能力者」だと知れば、殺害指令の任が解かれはしないかとの甘い考えから、明日乃はつけ足してみた。

 朝香瞬は別段、殺されるべき理由も見つけられない、善良で朗らかな少年だった。それに、明日乃を好きだと、はっきりと言ってくれた。


「メサイアに、無能力者はいないだろう。朝香瞬はオブリビアスだ。彼には、相当強力な預言者が噛んでいるね。彼の能力は誰かによって封印されていると見て、間違いなさそうだ。封印するのは隠したいほどの能力だからさ。封印が解かれる前に始末しないと、面倒な話になりそうだ。もっとも彼とて、サンが告げる確定未来から逃れられは、しないのだがね」


「……瑞木所長。わたしは、どうすれば?」

「彼の最期へといたる過程は、まだ、揺らいでいる。末永了一郎の干渉で、星の巡りが変わりつつあるからね。朝香君はまだ、しばらく生き延びるだろう」


「……末永教官は、わたし以上の強力なサイを持っています」

「放っておけばいいさ。彼だって、預言者に動かされるコマだ。自分では何もできやしないさ。それに、彼の防壁を破れる者は、まだしばらく世に出ない」


「……そのような者が、現れるのでしょうか?」

「朝香君だよ。≪サンの預言≫によれば、末永了一郎は、朝香君の手に掛かって 、命を落とす宿命だからね 。これは確定未来だ。誰にも変えられはしない」


 明日乃は軽く、唇を噛んだ。

 あの明朗快活な少年は、命の恩人でもある師を殺害する未来が、自分に待ち受けているなど、夢にも思っていないだろう。


「……朝香瞬とは、何者なのですか?」


 瑞木は、まるで表情を変えず、駄々をこねる子供でもあやすような調子で答えた。


「不思議なんだがね。分からないんだよ、この私にも。突然、サンの預言の障害として、現れた少年だ。私は未来を予知できるが、過去は分からない。≪忘却の日≫に形成された過去の時空結界は、私でさえ破ることはできないのだからね。オブリビアスと言われる、ゆえんだよ」


「……瑞木所長。わたしは昨夜、何者かに襲われました」


 瑞木は表情一つ変えずに、うなずいた。


「ああ、知っていたよ。大事に至らないと予知していたから、別段、何もしなかったがね」


 瑞木にとって、明日乃を含め、あらゆる存在は駒でしかない。別に守る理由もないのだろう。サイも使えないのに傷だらけになって、明日乃を守ろうとした瞬の顔が思い浮かんだ。瞬の行動も、瑞木には織りこみ済みだったというわけか。


「……彼らは何者、なのでしょうか?」

「恐らく、軍に対抗しようとしている内務省の愚かな連中だろう。だが、ヴィーナス、君が心配する必要はない。預言によれば、君は必ず朝香瞬を殺すことになっている。だから、彼が死なない限り、君が死ぬことはないのだよ」


「……私はいつ、朝香君を殺すのですか?」

「確定未来への道筋を変えた預言者がいる。だから、まだその時じゃないようだ。君に与えられた使命は、思ったほど、単純ではなかったらしい」


 瑞木はさとすような口調で続けた。


「ヴィーナス。末永教官も、朝香君も、善良な人間だろうさ。だが、善人が、善意で間違いを犯すことほど、世に困った話はない。君は同情心など、持ち合わせていないだろうが、まさか彼らに、同情などしていまいね?」


 明日乃が黙っていると、瑞木が上品な笑みを浮かべた。


「サイレンサーはどうしたんだい? 眼に着けておかないと、病の進行が速くなる。それに、余計なことを考えてしまうからね」


 漆黒のカラーコンタクトは、サイの過剰発動を抑制するサイレンサーだった。研究所からは、常時装着するよう言われていた。


 瑞木が示唆するように、明日乃はあのときサイレンサーを外していたから、瞬に対して、余分な感情を抱いてしまったのかも知れない。


 そうだ、宿命を変えられないなら、余計な気持ちなど排除したほうが、たがいのためだ。


「いつもサイレンサーをつけておいたほうがいいね。君が使命を果たすには、不可欠な道具なんだから」


 瑞木が立ち上がると、明日乃もならった。


「そうだ、ヴィーナス。昨日も症状が出たようだね。しばらく検査をさせるから、今日からしばらく兵学校には行かなくていい」


 明日乃は、即答しなかった。

 朝香瞬の殺害後、明日乃を待ち受けている未来について、瑞木に尋ねた覚えはない。

 だが時おり明日乃を襲う熱病のせいで、寿命はせいぜい、あと数年だと預言されている。

 明日乃には未来など、最初からありはしなかった。別にそれは、いい。


 だが、今日、登校できないと知って、膨らんでいた明日乃の心の風船が、急にしぼんだのはなぜだろうか。

 あの少年の笑顔が見られないから、だろうか。

 心を偽ってみても、他に、思い当たる節はないのだが。


「……わかりました」


 かすかに一礼して去ろうとする明日乃を、瑞木が呼び止めた。


「ヴィーナス。この世を残すには、メサイアを一人残らず始末しなければならない。たとえ相手がいかに愛すべき人間であるとしても、だ。それが、私たちに課せられた使命なのだからね。だから私は愛する妻も、手にかけたんだ」


 瑞木は意味もなく、口許だけに微笑みを見せて、つけ加えた。


「この世を滅ぼすペガサスさえ、羽ばたかなければ、それでいい 」


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■用語説明No.15:サイレンサー

エンハンサーによる時空間操作(TSCA)能力の発動を妨害する物質、方法の総称。

≪輝石≫と同時に西ノ島で発見された稀少鉱物≪闇石≫が用いられる。能力者でなくても使用できるが、クロノスが使用するほうが、高い効果が得られるとされる。

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