第12話 神様のいたずら



 朝香瞬は、明日乃のつややかな赤い唇に、自分の唇を近づけた。

 プラチナ色の瞳が、近づいて来る。

 開かない熱い唇を、唇で横から押し開けるようにしながら、唇を十字に重ね合わせた。梔子くちなしのような甘い香りがした。


 ぎこちない唇同士が重なり合うと、明日乃は眼を閉じた。

 瞬は口移しで、明日乃の口の中に、水を流し込んだ。

 明日乃が無事に薬を嚥下えんげした様子を確認すると、唇を離した。


 明日乃は再び、プラチナの瞳を開いて、瞬を見つめていた。

 一般的な日本人にある瞳の色ではない。


 瞬と同じオブリビアスでも、明日乃はどうやら、普通の少女ではなかった。何かの秘密を隠している。無論それこそが、明日乃が誰かに命を狙われる理由、さらには明日乃が瞬の命を奪おうとする理由と、直結しているに違いなかった。


 瞬は、素直に、無条件に、ただ

 ――守ってあげたい

と、思った。


 瞬は、まだ震えている明日乃の身体を、黙って抱きしめた。明日乃はすがり付くように、瞬に身を預けた。

 言葉は要らなかった。

 日暮れ時の小さな川の畔で、二人は抱き合っていた。


 やがて、明日乃の震えが、治まってきた。

 相変わらず身体は熱いが、明日乃はそっと身体を離し、瞬の膝の上から降りた。


「……もう、いいわ」


 温もりが去って、瞬のまだ濡れた身体に、春の夕風が冷たく当たった。


「奴らはまだ、このあたりにいるだろうね。幸い川の上からは、ここが全然見えないから、まだしばらくは大丈夫かも知れない。君がテレポートを使えるようになるまで、時間を稼げればいいんだけど」


 瞬の言葉に、明日乃は小さくうなずくと、瞬の隣に腰を下ろした。橋台の幅は狭い。触れ合って、座った。


「……私が、誰に追われているか、訊かないの?」

「訊けば、教えてくれるの?」


 瞬が問い返すと、明日乃は黙ったまま、しばらく答えなかった。

 明日乃の、ナチュラルなショートボブの髪は、濡れて白いうなじに張り付いていた。

 やがて、明日乃の落ち着き払った、小さな声がした。


「……私の命を狙う者は、内務省か、昴か、あるいは終末教徒か……もしかしたら、研究所や、軍も……」


 内務省は政府機関であり、≪昴≫といえば反政府組織だ。クロノスたちの撲滅こそが人類を危機から救うと信じる≪終末教≫は、大災禍でさらに勢いを得て、今や凶悪なテロ集団と化していた。

 国立時空間研究所は、明日乃の所属している国家機関ではないか。研究所は、軍と繋がりが深いらしいが。


 世界中が、たった一人の少女を抹殺しようとしているのか。

 相手が明日乃でなければ、世迷いごとと、一笑に付すべき話だろう。

 だが、プラチナの瞳を持ち、強力なサイを放つ少女の言葉が、瞬には、嘘や冗談だとは、思えなかった。


「それって、ほとんど全部じゃないのかな……」


 明日乃は何食わぬ顔で、答えた。


「……そうよ。私は、人類の存続にとって、たぶん、邪魔者だから……」


(参ったな……。僕は、全世界を敵に回している少女に、恋をしてしまったみたいだ……)


 瞬は、触れ合うほど近くに座っている少女に尋ねてみた。


「念のために、訊くだけなんだけど、君はまだ、僕の命を狙っているのかな?」

「……もちろん、そうよ」


 明日乃は暮れなずむ空に浮かぶ雲を見上げていた。

 背に翼さえあれば、すぐにでも天使になれそうな少女だと思った。

 瞬に対する殺意は消えていない。だが、それならばなぜ、さっき、瞬とともにテレポートしたのだろうか。なぜ今、殺さないのか。

 病気でサイを使えないためか。


「まだ、具合は良くならないかな? テレポートが使えないのなら、もうすぐ暗くなるから、闇に紛れて、大通りに出るのも、手だね。タクシーを拾えるだろうから」

「……そうね」


 明日乃は他人事のように答えた。視線は空に上げたままだ。


「同じ場所にずっといるのも、危険だね。とりあえず兵学校にテレポートできれば、一番安全だと思う。僕はいいから、君だけ、ね。サイの発動って、僕にはまだ、よく分からないんだけど、種類によっては、時間がかかるんだね」


 明日乃はゆっくりと、視線を瞬に移した。


「……どうして、あなたは、他人のことで、一生懸命になるの?」

「えーと、君は、会った時から、他人じゃないような気がするんだ」


「……そうね。わたしたちは、神様が悪戯をする前に、どこかで会っていたのかも知れない。でも、今は敵。さっきの男たちはきっと、あなたの味方よ。放っておけば、わたしはあの男たちに殺されていた。そうすれば、あなたを殺そうとする者が一人、減ったのに……。あなたは今日、わたしを助けたことを後悔するわ」


 瞬は、ゆっくりと首を横に振った。


「いや、はっきり言えるよ。後悔は決して、しないさ。……天城さん。今はいいけど、気が向いたら、いつか僕に、教えてくれる? 君が追われている理由を」

「……どうして、知りたいの?」


「ほら、君が、また襲われたらいけないしね。僕にはまだ、大したことはできないけど……」


 川を渡る夜風に、瞬は、濡れた身体を震わせた。

 走りに出たまま戻らない瞬を、長介たちも心配しているだろう。


 突然、少し離れた水面に、緑光が現れた。水飛沫が上がる。さっき襲って来た、角刈りの男だ。

 瞬はすでに立ち上がっていた。

 明日乃の手を引き、川を駆けた。瞬も右足を挫いているから、うまく走れない。


 角刈りが緑光のサイを放った。

 今度は、瞬の防壁は立ち上がらない。が、明日乃が防壁を展開した。

 すぐに、破られた。緑の烈風が二人を襲った。吹き飛ばされる。


 瞬はとっさに明日乃を抱きしめた。

 明日乃の盾になったつもりだった。そのまま灌木の茂みに後ろ向きに飛ばされた。体中を擦り剥いた。股間のあたりに、折れた枝か何かが、刺さった。


 それでも夢中で、明日乃を両腕に抱きかかえながら、灌木を抜け出た。川の中を、右足を引き摺りながら走った。


 振り返ると、角刈りが宙に浮いていた。

 サイの発動モーションを取っている。まずい。

 だが一瞬早く、瞬の腕の中にいる明日乃が、後ろに向けて、プラチナ光を放った。


 振り返ると、角刈りの姿が消えた。どこかにテレポートさせたらしい。

 

 安堵したせいか、石に躓いて転んだ。

 瞬はすぐに起き上がり、明日乃を助け起こした。無理にサイを発動したせいか、明日乃の息は荒く、身体がまだ熱い。


「とにかく人がいる所に行こう。まだ花見をやっているはずだ」


 手を取って、駆ける。挫いた右足や怪我をした股が痛んだ。

 が、明日乃の足がもつれて、転んだ。

 明日乃を抱き上げて、急傾斜の法面を上った。

 川沿いの道におりた。明日乃を下ろす。とりあえず、あたりから見えにくい、茂みに入って、身を潜めた。


「天城さん、怪我、してない?」


 たがいにびしょ濡れで、服も泥や血で汚れていた。

 半袖半ズボンの瞬の手足は、傷だらけだった。血の流れている右前腕の切り傷を数か所、舌でなめた。


 街灯の明かりで、明日乃の泥で薄汚れた頬がよく見えた。汚れているから、かえって綺麗だと思った。

 少女がプラチナの瞳で、瞬を見つめていた。瞬は優しく微笑み返す。

「……朝香君。……どうしてあなたは、私を、守ろうとするの?」


 明日乃の熱を帯びた身体から発せられているのだろうか、梔子の香りに導かれるように、瞬は答えた。


「……好きなんだ、君が。桜の木の下で会った、時から……」


 明日乃は、わずかに瞠目どうもくしたが、呆れるというよりむしろ、悲しげな表情を浮かべた。


「……あなた……馬鹿ね」


 瞬は自分でも、そう思った。

 明日乃は、軽々しく恋をすべき相手ではない。明日乃は何やら、研究所や、軍や、様々な組織の秘密を抱えているから、命を狙われているに違いなかった。


 だが、誰も明日乃を守ろうとしないのなら、瞬が守るしかない。

「……そうだね。でも、仕方ないんだ」


 恋愛感情は、理屈ではないらしい。

 瞬は、≪忘却の日≫以前の過去を憶えていない。

 だが瞬は、鏡子と同じように、誰かを真剣に恋していた気がする。相手も分からないが、誰かを好きになった感情の高まりを、忘れてはいなかった。


「……あなた、私に殺されても、いいの?」


 明日乃は、再び空を見上げている。もう空に、陽の名残はほとんど残っていない。銀色の瞳が、最後の夕映えにきらめいていた 。

 瞬は、この少女のためなら命を捧げられると、思った。


「……もちろん、死にたくはないけど……もし僕の命で、君を救えるのなら……例えばそれで、さっきの奴らから、君がもう、追われなくなるんだったら……それでも、いいさ」


 明日乃の見上げていた空が、ついに光を失った。


「……変わって、いるのね……」

 

「こうやって、君と一緒にいると、何か、懐かしい気がするんだ。不思議だね……。天城さんは、忘却の日、どこにいたの?」

「……研究所」

「TDSには、行ったこと、ない?」

「……何……それ?」

「東京ディズニー・シー。歴史のあるテーマパークだよ」

「……もちろん、ないわ」


 オブリビアスが誰であるかを特定できる情報は、この世からすべて、消去されている。もつれてさえいない、存在しない糸と糸を、繋げるはずも、なかった。

 明日乃はやはり、あの虹色の瞬間に瞬と一緒にいた恋人ではなかったのだろうか。

 

「天城さん、立てる? もう少し行けば、人がいるからね。たぶんもう、大丈夫だよ」


 明日乃が小さくうなずくと、瞬は明日乃の腕を取りながら、支えてあげた。だが、瞬の挫いた右足に力が入らない。よろめいた。

 二人でまた、茂みに倒れ込んだ。


 身を起こした瞬が笑うと、明日乃も口元を微かに緩めた。

 支え合いながら、灌木の茂みを出て、川沿いの道を歩いた。

 だが、前方に、緑の光が見えた。

 後ろを振り返ると、黒服たちがいた。


「……朝香君。わたしから離れないで」


 明日乃がプラチナの光壁を展開した。梔子のような明日乃の香りがする。

 前後から、幾つもの緑光が襲った。


「テレポート、できないの?」

「……封じられているわ」

「偉そうなこと、言っといて、ごめんね。僕は、君に守ってもらっている……」


 明日乃の息遣いが荒くなった。プラチナの防壁も、光を失っていた。

 角刈りが、腰のAPを抜く様子が見えた。後ろも同じだ。

 前後から、実戦用APで光壁を破られ、串刺しにされるだろう。

 黒服たちの迫る気配がした。


 光壁が破られようとした刹那せつな、瞬は明日乃の身体を強く抱きしめた。

 そのまま横に向かって、川へ飛んだ。

 たとえまだ、恋愛関係にはなくても、せめて一秒でも長く、明日乃と一緒にいたかった。二人の身体は川底へ落下していく。


 瞬は、当たるとまた痛いだろうな、と思った。どうせすぐに黒服たちに始末されるにせよ。

 身をひねり、自分が下になった。


 明日乃の瞳が、瞬の眼の前にあった。プラチナ色の瞳は、街灯の鈍い灯りを宿していた。


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■用語説明No.12:終末教徒

≪終末≫の到来は、人類による時空間操作に対する天罰であると考え、時空間操作の根絶を主張する「終末教」の信者。

終末思想を唱える「終末教」は、幾つかの流派に分かれるが、過激派は、クロノスさらにはカイロスの抹殺を使命として、時空間操作のメッカである日本、特に東京と西ノ島をターゲットとしたテロ活動を行っている。

大災禍の到来は、終末教徒の数を激増させたとされる。

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