第11話 命の水



 玉川上水は、井の頭公園の間を流れる川だ。川幅はそれほど広くない。


 朝香瞬は玉川上水の沿道を走りながら、右肩で額の汗を拭った。半袖半ズボンのジョギング・スタイルだ。

 瞬は花見から寮に帰った後、トレーニングに出た。


 瞬はきっと≪忘却の日≫以前から、身体をよく動かしていたのだろう。体力には自信があった。そのぶん運動の足りない日は、熟睡できない気がした。若い力があり余っているからに違いない。


 瞬がジョギングから戻り、大浴場で汗を流した頃には、ありがたいことに長介が鍋を作ってくれているはずだ。直太もやって来る話になっていた。

 昨日は直太と長介につきあってもらい、吉祥寺で普段着や生活用品を買った。

 二人の友達のおかげで、オブリビアスの瞬も、新天地で少しずつ過去を積み上げて行けそうだった。


 瞬は、名を知らない小さな橋を渡った。行く手にトラックが見えた。

 構わず左へ折れ、上水沿いをひた走った。

 さっきまで一緒にいた、二人の少女を思い浮かべた。

 男なら誰でも同じだろうが、瞬は面食いなのだろう。いずれも、実に素敵な少女だと思う。

 直太が断言し憧れている通り、宇多川鏡子はまれに見る美少女だった。


 だがその鏡子でさえ、明日乃の前では、月が太陽に挑むように霞んでしまう。雰囲気はちょうど正反対なのだが、比較の次元が違う気がした。明日乃は天使か悪魔が持つような、この世の物とは思えない美しさだ。あの冷たい死んだような黒眼だけは、好きになれないのだが。


 だが、よく分からない誤解さえ解くことができれば、いつか瞬と明日乃は恋人になれないだろうか。


 渇きを感じた瞬は左手に見えてきた児童公園の水飲み場で、喉を潤した。

 公園の向こう側に止まっていた黒い車が、音もなくゆっくりと動き出す様子が、眼の端に見えた。


 瞬はジョギングを再開した。


 道路を横断しさらに川沿いを下っていく。ここ数日走っていたが、足に優しい土の道だ。

 細い川の流れは道から数メートル下にあるが、両岸の斜面にある草木は手入れされていないために、川面がよく見えない。


 右手に見えて来た小さな橋を渡る。

 対岸の斜面に、下草が刈られよく手入れされた広い雑木林があった。丈の低い石垣とフェンスで覆われていた。


 左手に折れた時、瞬は目の端に入った何かに気づき、止まった。

 高木の下に、黒革のローファーとワインレッドのストッキングが見えた。誰かがうつ伏せに倒れているようだった。


 瞬はあわてて駆け寄ろうとした。ハードルのように柵を飛び越える。

 倒れていた少女は天城明日乃だった。

 少し前に別れたはずなのに、すずかけの大木の下にうつ伏せになっていた。

 二人だけで会えば、また殺されそうにならないかとの不安が、一瞬、頭の隅をよぎりはした。

 だが、不安よりも、少女への好意がまさった。


 瞬は、明日乃を腕の中に、助け起こした。


「天城さん! 大丈夫?」


 ゆっくりと眼を開いた明日乃を見て、瞬はハッと息を呑んだ。

 明日乃の瞳は死んだ魚の黒目ではなく、生き生きとしたプラチナ色に輝いていた。


 これまで、たった一つだけ紛失していたジグソーパズルの最重要パーツを見つけて、はめ込んだような完成美に、瞬は呆然として言葉を失った。

 瞬は問うのも忘れて、明日乃の顔を見詰めていた。


「……朝香君。……何?」


 ようやく我に返った瞬が、慌てて問うた。


「天城さん、どうしたの? ジョギングしていたら、誰かが倒れているのが見えたから。駆け寄ったら、君だったんだ」


 明日乃は苦しそうに喘ぎながら、瞳の色を隠すためか、眼を逸らした。

 ジョギング中で自分の身体が熱かったために、すぐ気づかなかったが、腕の中の明日乃の身体は異様に熱い。


「……すごい熱だ。病院に行ったほうがいいね。救急車を呼ぼう」

「……やめて。病院へは行かないから。研究所に、戻る」


 明日乃は体調不良のせいで、テレポートができないのだろう。


「十分ほど歩けば、大通りに出る。そこでタクシーを拾おう。さ」

と、瞬は明日乃に背を向けた。


 背後で、沈黙があった。


「……何?」

「おんぶしてあげるから」

「……どうして?」


「だって、その調子じゃ、歩けないよ。どっちみち僕も、トレーニングのために、ジョギングしていたんだ。君をおぶって歩けば、ちょうどいい運動にもなるしね」


 やがて瞬の背を、天国のように柔らかな感触が、襲った。が、相変わらず病的な熱さだ。感冒かんぼうの流行する時期ではないはずだが。

 瞬は、両手を、明日乃のふとももにやって、立ち上がった。

 きびすを返し、来た道を戻ろうとした。

 だが、様子が変だ。


 雑木林には場違いな、腰にAPらしき鞘をいた黒服の男たちが四人 、川沿いの土手から、雑木林に入って来るところだった。

 角刈りの長身の男が、先頭に立った 。


「君。その少女を、こちらに渡したまえ」


 瞬ではなく、明日乃のサイを警戒しているのだろう。角刈りは距離を置いていた。


「……あなたたちは、どなたですか?」

「教えられない。君にとっても、知らないほうが安全だろう」


 瞬は肩越しに、後ろの明日乃に囁いた。


「君の、知り合いなの?」

「……違うわ」


 明日乃の苦しそうな息が、瞬の右頬にかかった。


 瞬は素早く周囲に眼をやった。左と後方は高い金網に覆われていて、すぐには逃げられない。右に走って川沿いに逃げるしか、なさそうだった。


「道を開けてください。彼女は今、熱があるんです。早く病院に連れて行かないと」


「彼女の病気は、病院では治せない」


 理由は分からないが、この男たちが明日乃を消そうとしている、と感じた。

 角刈りは警戒しながら、もう一歩前へ出た。


「大災禍の後だ。君には気の毒だが、救世のためにもう一人くらい死んでも、今の時代、文句は言われまいよ。君の背にいる少女は、いずれ世界を滅ぼすことになる。人類の未来のためだ。渡さないなら、覚悟したまえ」


 男たちは腰の太刀を抜いた。実用型APのようだった。

 角刈りが青眼に構えると、がっしりとした身体が、緑光を帯びた。

 

 瞬は、少しずつ後ずさりしながら、背の明日乃に言った。


「僕が奴らを、引き付けてみる。その間に、君は、逃げて」

「……馬鹿ね。今のあなたに、何ができるって、言うの?」

「できるさ。僕には、ボギー先生のおまじないがある」


 角刈りが動いた。APで切りつけて来る。

 たちまち瞬の身体から、赤銅光が立ち上がった。防壁が角刈りの緑光をはじいた。

 男たちからどよめきが起こった。

 角刈りは身を引き、右手を前に出した。サイを貯めるモーションのようだった。


 すぐに赤銅の光壁に、幾つもの緑光がガンガンぶつかって来た。その度に光壁がたわんだ。

 瞬の身体と光壁が同化しているのか、鈍器で何度も殴られているような感覚だった。

 瞬は背にいる明日乃に語り掛けた。


「天城さん、もうすぐ限界だと思う。君は、ちょっとの距離でもいい、テレポートで逃げるんだ」

「……赤銅の光壁が破られたら、あなたは死ぬわ」

「それは、その時だよ。急いで!」


 背の明日乃が眼を閉じるのを見て、瞬は、右のほうへ移動していく。少しでも、逃げ場を確保したかった。

 だが、四人の男たちが連携して行く手を阻んだ。四方を囲まれた。

 緑光による攻撃はますます激しくなっている。


 限界だった。


 角刈りが踏み込むや、瞬は必死で後ろへ飛び退った。


「天城さん、逃げて! 早く!」


 明日乃の身体から発せられたプラチナ光が、瞬をも包んだ。開き始めた梔子くちなしのような、甘い香りがした。


 角刈りがサイを放った。緑光が瞬たちを襲う。


 プラチナの光壁が歪み、瞬たちは吹き飛ばされた。だが同時に、瞬たちは光壁に包まれた。


 プラチナの光壁がフェードアウトした。

 瞬と明日乃は吹き飛ばされたままの格好で、川の中にあおむけに倒れ込んだ。明日乃が瞬ごとテレポートしてくれた結果だった。


 瞬はあわてて背の明日乃を抱き上げた。が、二人ともずぶ濡れだ。

 あたりを見回す。黒服たちの姿はなく、うっそうと茂る両岸の雑木が風に揺らいでいるだけだった。

 瞬が見ると、車を渡す大き目の橋が左手にあった。橋の陰に隠れたほうが見つかりにくいだろう。

 

 瞬は橋の下に入ると、橋脚を背にして明日乃を座らせようとした。

 だが、明日乃の身体はガタガタ震えている。


「寒いんだね。天城さん?」

「……抱きしめて……」


 瞬は、幅の狭い橋台きょうだいに明日乃を座らせ、自分も腰を下ろした。


 ぎこちなくだが、言われた通り、抱きしめてみる。柔らかく、熱い。


「……もっと……強く……」


 瞬は、自分の膝の上に、小柄な明日乃を座らせた。互いの身体が濡れていて、密着した。震える熱い身体を、強く抱きしめた。壊れそうなほどに柔らかい身体だった。


 明日乃は、瞬の左肩に頬を付け、頭を凭(もた)せ掛けて、苦しそうにあえいでいた。明日乃の息が、首筋に掛かる。


「……天城さん、病院に行ったほうが、いいよね……」


 事情を知るらしい黒服の言葉が、気懸りではあった。


「……行かない。……さっきの男も、言っていたでしょ? 病院じゃ、無理……だもの……」


 瞬は、震え続ける明日乃の身体を夢中で抱きしめた。

 この少女を抱きしめたいと思っていた瞬にとって、願ってもない状況ではあった。だが、不安と心配が先に立ち、とうてい喜んでいる場合ではない。腕の中の明日乃の身体が、硬直を始めたように感じた。


「……く、くすりを……胸、ポケッ……」

 

 瞬はうなずき、薬を取るべく、ブラウスに手をやろうとした。が、白い生地は、明日乃の胸にぴったりと張りついている。


 苦しそうな息遣いに、ブラウスのボタンを上から二つ外してあげた。


 それから、えいやと胸ポケットに手を入れた。奥にあるらしい。掌の半分ほどのジップロックだ。

 人差し指と中指に挟んで、何とか摘まみ出した。


 ジップロックにはチョコボール大の黒い玉が一つ入っていた。今の明日乃の状態で、水なしで飲み込むのは難しそうだった。

 ジョギング中の瞬は手ぶらだったし、明日乃も同じだ。川の水は飲用に供せるほど澄んではいない。自分ならともかく、明日乃に飲ませるのは気が引けた。


 橋を見上げた。確か、瞬はこのあたりの公園でさっき……


「天城さん、水を取って来るね。ここで、待ってて」


 瞬が、明日乃の身体をそっと橋脚にもたせ掛けた。明日乃は瞬に向って、微かにうなずいた。

 

 瞬は駆けた。

 手入れされていない法面のりめんの茂みで、やぶぎをしながら、急斜面を上る。露出部分の多い手足を擦りむくが、気にしない。柵に手を掛け、身体を川べりの道へと上げた。

 すでに空は暮れなずんでいるが、さっき自分が走り過ぎた光景を逆方向から見ているだけだと分かった。


 振り返って、明日乃のいる橋脚のほうを見た。茂みに隠れて、全く見えない。結果として、良い隠れ場所を見つけたようだ。

 車道を渡り、公園の水飲み場へ、一散に駆けた。黒服の男たちが心配だ。瞬の姿を見られたら、一巻の終わりだ。


 容器がないから、両手にんだ。さっきの柵の場所へ戻った。


 はたと困った。

 手を使わずに、急斜面をいかに下りるか。迷っている時間もない。瞬は柵を慎重にまたいだ。目の前には藪がある。

 身体を斜めにして進んだ。だが、半袖に枝が引っ掛かって、引き戻された。手足の露出部分には、十数個所の擦過傷があるはずだ。


 茂みの隙間に身を置いた。川面は見えないが、高さは二メートルもないだろう。

 瞬は膝を屈伸させた。両手を大事に守りながら、川面に向って跳んだ。見っともない格好だが、仕方ない。

 

 水飛沫が上がる。

 同時に、瞬の右足に衝撃が走った。見えない場所に大きな石があったらしい。足首を挫いたようだ。だが、大事な水は守れた。

 足を引きずりながら、明日乃のほうへ向かう。


 岩の上で、明日乃は眼を閉じ、まだ苦しそうに喘いでいた。


「さ、天城さん、起き上がれるかな? この水で……」


 訊ねてはみたものの、明日乃は一見して、自力で身体を起こせるような様子ではなかった。

 チョコボール大の薬を、確実に嚥下えんげさせられる方法は……。


「……天城さん。これから僕がやること、先に謝っておくね。ごめん」


 瞬は、両手の水を自分の口に含んだ。

 自由になった両手で、明日乃の震える左手からジップロックを取り、黒玉の薬を取り出した。

 明日乃の赤い唇に錠剤を付けると、口が小さく開いた。黒玉を押し込んだ。


 瞬は明日乃の小柄な身体をそっと抱き上げた。岩の上に腰を下ろす。

 熱を帯びて上気した、明日乃の彫像のような顔に、ゆっくりと顔を近づけていく。


 プラチナの瞳が、ゆっくりと開かれた。


 思いすごしかも知れない。だが、明日乃が瞬に救いを求めているように、感じた。


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■用語説明No.11:輝石

大規模隆起を繰り返した、小笠原諸島西ノ島の古代地層から発見された稀少鉱物。古代に落下した隕石に由来すると考えられている。見た目は、虹色をしたレインボー水晶に似ているが、性質はそれまで地球で発見されていた、いかなる物質とも異なっている。エンハンサーの核であり、時空操作を可能とする「奇跡」に因んで、故織畑幾久夫 博士により、命名された。

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