第3話 ラベンダーの香り
朝香瞬が、国立第二兵学校のキャンパスに入ると、鳴り終わった始業ベルの
レンガ造りで統一感のある校舎には、ツタが絡まっている。
新学期で、クラス替えがあるらしかった。
後者の脇に張り出されている掲示板で自分の名前を見つけて、指定の教室に行かねばならない。
焦って掲示板を見上げる。が、気づいた。
さっき襲われて動転したせいだろうか。自分の名前を度忘れしていた。まだ使い慣れておらず、それほど好きでもない、他人の物のように思っていた名前だが。
背後で、駆け足の音がした。荒い息遣いが、瞬の隣に近づいてきた。
「おう、お前も二年次かいな。しょっぱなから遅刻って、ワシらもお前もツイとらんのう」
見ると、瞬より少し背の高い少年がいた。色黒で、やんちゃそうな顔立ちである。
「さて、ウダガワ・キョウコ……ウダガワ・キョウコ……」
掲示板を食い入るように見る少年は、どう見ても男子だ。「キョウコ」の名前は、似合わない。
浅黒の少年は、気さくに話しかけてきた。
「なあ、お前、キョウコちゃんのクラス、知らんか?」
「……どんな字、書くの?」
「学校一の美少女の漢字も、知らんのか、お前? 去年、一年間どんな予科生生活を送っとったんや。学生生活、楽しまな、一生後悔すんで」
少年の探している名は「宇多川鏡子」と書くらしい。
瞬が先に見つけた。
「その人、L組だね」
この少女が、朝香瞬の運命を大きく変えていくことを、瞬はもちろんまだ、知らない。
少年はガッツポーズを決めてから、飛び上がった。
「よっしゃ、ワシと
「君はもう、クラスが分かってるの?」
「そら、寮生は、引っ越しがあるさかいな」
すでに遅刻しているのに、自分でなく、学校一の美少女のクラスを確認するとは、変わった予科生だった。
少年はL組の名前を、指で追っていく。
「ほれ、ワシの名前もちゃんとあるやろが」
L組の一番下、少年が指でなでている先に、「
使い慣れた自分の名前を持っていることが、瞬には羨ましく思えた。
「担任は、末永了一郎……て、誰やったっけ。聞いた覚えがあるような、ないような……。まあ、ええか。鏡子ちゃんさえ、おれば」
直太はいったん駆け出したが、動きを止め、そのまま後ろ向きに急いで戻ってきた。
すでに時計は予科生の集合時刻を大きく回っている。
「お前、見慣れへん顔やな。何組になったんや?」
「……分からないんだ」
「へ? 一年の時は、何組やった?」
「……憶えてないんだ」
昨晩受けた事前説明によれば、瞬はここに在籍していたらしいのだが、記憶がまるでなかった。
「寮生ちゃうんか?」
「今日、入るんだけどね……」
直太は、瞬の顔を覗き込み、しげしげと眺めた。
「お前、大丈夫か? 殺害予告でも受けたようなツラしとんな」
「……まあ、そんな所、なんだけどね」
無論、直太は冗談のつもりだろうが、図星の指摘に、瞬は苦笑いするしかなかった。殺されかけた恐怖が残っていて、顔が多少引き
「それでお前、まだ名前、見つからへんのか?」
「……実は自分の名前、ど忘れしちゃったんだ」
直太はいぶかしげに瞬を見、しばらく黙っていたが、事情を察したらしく小さくうなずいた。
「鏡子ちゃんが言うとった、オブリビアスやな。持ち
予科生証や教本類は今日、受領するはずで、ノート類も指示を受けてから買うつもりだった。小学生でもあるまいし、まさか名前を忘れるとは思っていないから、カバンにも特に書いていなかった。
「しゃあないのう。ワシが、一緒に探したろ。何かヒント、ないんかいな。何文字くらいの名前やった?」
「短めの名前だったような気がするんだけどな……」
「ほな、しゃあない。ワシが男の名前、片っ端から読み上げたるわ。耳で覚えとるかも、知れんやろ」
全部で六クラスだが、妙なアルファベットで、奥からC、G、L、M、O、R組の順に掲示があった。
各クラスには、何やら石の名前が書いてある。どうやら、石の頭文字を取ってクラス名とし、かつ石の色をクラス・カラーにしているらしかった。
直太と鏡子のL組の石は≪ラピスラズリ≫で、色は「青」だ。
「まずワシのL組からや、一番、朝香瞬一郎」
瞬はすぐに反応した。字面では気づかなかったが、音で、分かった。
「それだ。僕の名前だ」
――朝香瞬――
まだ、慣れない名前だ。自分の本名でないことだけは、確かだった。本当の自分は、どんな名前だったのだろう。
「さすが、ワシ。一発やないか。せやけど名前、なんも短ァないやんけ」
「ごめん」
「まあええ。ほな、同級生やな。ワシは和仁直太。よろしゅう頼むわ」
直太はさっそく、肩に手を回してきた。
「ああ、よろしく」
「そうや、思いだしたぞ。末永ゆうたら、担任はボギーやないか。ワシら、ツイとるぞ。教室は二号館の三階や、急ぐで」
駆け出した直太の後に続いた。瞬は駆けながら問うた。
「ボギーって、もしかして金髪の?」
「おう。ダントツで一番人気の教官や。講義は、休講ばっかりらしいけどな。それも、人気の秘訣やろ」
直太は足が異様に速かったいや、時々、身体が消えている。テレポートを使っているらしかった。生身で走る瞬に、とても追いつける速さではなかった。
ようやく二号館の入り口に辿り着いた。すでに、直太は階段を駆け上がっている。
急いで中に飛び込んだ時、出会い頭に誰かとぶつかった――。
そう思った途端、ラベンダー色の光が
一瞬の後、瞬は弾き飛ばされていた。
階段の壁に、逆さまになって、ぶつかった。
そのまま、落下した。さっきアスノにやられた時の痛みに比べれば、大したものではないが。
「ごめんなさい。とっさに反応しちゃって……」
柔らかい感触が、瞬を助け起こした。
頭をさすりながら顔を上げると、長髪をポニーテールにした少女がいた。
すぐには言葉を出せなかった。それほどに上品で愛らしい、丸顔の少女だった。ラベンダーのような優しい香りがした。
瞬がぶつかってきたために、少女はとっさにサイを展開して、衝突を防いだのだろう。
(世の中には、こんなに素敵な
朝から実にツイていないと思ったけど、今日は、女性運が強いのかも知れないな……。
この
「だいじょうぶ? ぶつかった時、大きな音がしたけど……」
心配そうに尋ねるソプラノが、耳に優しく響いた。
「僕こそ、ごめんね。初登校なのに遅れちゃって、急いでいたものだから。君も、遅刻したの?」
立ち上がろうとすると、少女が手を取り、身体を支えてくれた。
「いいえ。担任の教官が、なかなか教室にいらっしゃらないものだから、教官室に、相談へ行っていたの」
「それで、教官は?」
「まだ来てないって。たいてい遅刻するから、待っていたらそのうち来るだろうって、笑われちゃった」
まだ握り合っていた手に気づき、二人はあわてて手を離した。
「おかしな先生だね。二Lだったら、助かるんだけどな。初日の遅刻扱いを
「え? そうよ。二Lのボギー先生」
心がざわついた。とすると、この少女とは同級生だ。
「良かった。じゃ、僕たち、同じクラスだね。僕は朝香瞬。よろしく。君は?」
「私は、
直太が言っていた女学生だ。確かに男子予科生にチヤホヤされるのも当然とうなずける容貌の持ち主だった。
「おい、瞬。まだ、かいな。何しとるんや?」
見上げると、階段の上から直太が顔を出していた。瞬が自分に続かないので、心配になって戻ってきた様子だった。
「お、鏡子ちゃん、おはようさん。鏡子ちゃんと一緒のクラスになりますようにって、神社に十個くらいお参りしといて、正解やったわ。今年度も、よろしゅう頼むで」
「こちらこそ、よろしく、和仁君」
鏡子が、直上にいる直太に微笑みかけた。
「西ノ島、どうやったんや? 春休み中、鏡子ちゃんがおらへんで、みんな、世をはかなんどったぞ」
「充実していたわ。新人戦に向けて、強化合宿が組めたから。さ、朝香君、行きましょ。教官は遅れていても、一応、授業中だから」
瞬は、鏡子に案内されて、階段を上った。
階段を挟んで隣の二Mクラスは、しんと静まり返っていた。
女性教官の、よく通る声が聞こえている。対して、二年L組の教室からは、外まで騒めきが聞こえた。
直太、鏡子に続いて、教室に入った。一瞬、静かになり、扉に視線が集中したが、生徒たちは再びざわつき始めた。
瞬は出席番号が一番だから、最前列の左端の席だろう。案の定、空席だった。
右隣の席には、筆記具が丁寧に並べて置いてあった。鏡子が座る。
自分の席のすぐ後ろに眼をやった時、瞬は殴られたような衝撃を受けた。恐怖と歓喜に、同時に襲われた気分だった。
さっき公園で、瞬の命を狙っていたアスノが座っていた。
もっとも、アスノは頬杖を突いて、窓の外を見ていた。近くに来ても、瞬を
相変わらず、アスノの横顔は、その辺の美術館に展示されている美人画も恥ずかしがるほどに、形が整っていた。
「おはよう、アスノさん。同じクラスなんだね」
一応、挨拶はしてみたが、黙殺された。
そういう性格なのか、理由は分からないが、殺害予告をしている相手だけに、当然かも知れなかった。
机上に置かれた名簿で確認すると、朝香瞬の後に、「天城明日乃」の名前があった。確かに五十音順なら、瞬のすぐ後ろの席でもおかしくはなかった。
兵学校では、クラスの八割以上は男子で、女子は一〇人にも満たない。そのためもあるだろう、出席番号は男女混合で振られていた。
このまま殺されるては、かなわない。
とりあえずは、ボギーのお
少しでも活路を切り開いておけないものか。
瞬は、後ろをふり向くと、正面から、明日乃を見た。
「ねえ、天城さん。何を、見ているの?」」
「…………雲」
小さな返事が聞こえた。聖歌隊にでも向いていそうな、澄んだメゾソプラノだった。
明日乃が言葉を打ち返してくれたことが、瞬は素直に嬉しかった。
教室の一番左の列からは、桜色に染まる並木の上、春空に、綿菓子のようにぽっかりと浮かぶ雲がひとつ、きれいに見えていた。
明日乃は、美しいものが、好きなのだろうか。自分自身のように。
なぜ、この少女は、瞬の命を欲しているのか。≪サンの預言≫とは、何なのだろう。≪ヴィーナス≫とは……。
「……君が後ろにいると、何となく怖いね……」
「……別にあなたがどこにいたって、わたしはあなたを殺せるわ」
生徒たちの話し声でかき消され、明日乃の物騒な言葉は、瞬にしか聞こえていない。
「担任の先生は、さっきの背の高い金髪の人、みたいだね」
「……そうだとしても、あなたたちの思い通りに、させはしない」
明日乃と、真っ当な意思疎通ができるようになるには、どうやら相当の期間が必要になりそうだった。
だが、改めて間近で明日乃を見ると、死んだような瞳を除けば、天使のように人間離れした美貌に、瞬の胸が不自然にざわついた。
瞬は平静を装いながら身体を前に戻し、机上に積まれた書類に眼を通し始めた。
人は生来、時間と空間を操作する能力(TSCA;Time and Space Control Ability)を持っているという。だが、TSCA(トスカ)は無視できるほど小さいため、そのままでは各種のサイ(超能力)を発動できない。
そこで、三十年ほど前に発見された稀少鉱物≪
クラス分けも、当該学生に適する霊石の属性で決められたものだった。属性は、預言者の行う霊石診断と、一年次の成績、能力、素質を踏まえて、兵学校側の総合判断で決定されたようだった。
高等部に相当する本科への進学に際し、半分以上の学生が落第となるが、属性は誤診断でもない限り、生涯変わらないらしく、クラスも固定される。
瞬は登校前にいかなる検査も受けていなかった。なぜL組なのか。記憶を奪われる前に検査を受けたのだろうか。分からない話ばかりだった。
「朝香君、天城さん」
右隣に座った鏡子が、口元に柔らかな微笑みを浮かべて、瞬たちに話し掛けてきた。
呼ばれた明日乃は、相変わらず頬杖を突いたまま、無表情で鏡子のほうに眼を向けていた。
「私、生徒会の執行部に所属しているんだけど、学校側から、二人の事情は聞かされているの。兵学校のこと、ほとんど知らないと思うから、何でも私に聞いてね」
きっと、オブリビアスについての話だろう。しっかりした鏡子なら、頼りになりそうだった。
「ありがとう、宇多川さん」
人の命をいきなり奪おうとする同級生もいれば、優しい同級生もいるものだ。どちらもたまたま、稀に見る美少女なのだが。
明日乃が礼も言わずに、瞬の隣で訊ねた。
「……わたしは、ずいぶん授業を休むと思うけれど、この学校、進級するために必要な出席日数とか、あるのかしら」
「カイロス養成校とはいっても、一応、義務教育機関だからね。『学業のしおり』の後ろのほうに、進級条件が書いてあるわ」
「……面倒くさいのね」
明日乃は、指摘された「しおり」を開こうともせず、話を打ち切るように、死んだような視線を窓の外へ移した。
「天城さん、どうして学校、休むの?」
瞬の問いに、明日乃は視線も動かさずに、答えた。
「……あなたに、何か関係があるの?」
冗談で「君が休めば、命を狙われる心配がないからさ」と言ってみる勇気はなかった。
明日乃は、いかなる感情も受け付けないように、無表情を崩していない。ただ、じっと窓の外を眺めていた。瞬には、どこか寂しげな横顔に見えた。
突然、教壇に、電撃が走ったような音がした。
潮が引くように、教室が一斉に静まっていった。
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■用語説明No.3:エンハンサー/EA(Enhancement Accessory)
カイロス/クロノス(時空間操作士)の能力を引き出すTSCA(時空間操作能力)促進装置の総称。
大規模隆起した小笠原諸島、西ノ島の古代地層内の隕石から発見された稀少鉱物≪輝石≫を使用する。
ネックレス、ブレスレット形態が最も多いが、他のアクセサリー形態をとる場合もある。
エンハンサーは、洗練されて極小化の時代を経た後、≪終末≫回避の戦争≪アルマゲドン≫に向け、AP(アタック・プロモーター)とも融合し、巨大兵器化していく。
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