第04話 とある女の子の明晰夢
人気アイドルの朝は早い。
その日のスケジュールは分刻みで組まれているし、今この瞬間にどれだけ人気が在ろうと、いつそれを失うともしれない立場としては可能な限りオファーに答え、万全な体調でそれに臨むのは当然の事だからだ。
入学したばかりの女子高へほとんど通えてないことも、残念ではあるが仕方がない。
ずっと子供の頃から夢で見てきた、夢の中の旦那様に褒められてきた歌。
それを仕事にしたいとずっと思ってきたのだ。
それが叶い、自分で選んだ道である以上、文句を言う筋合いのものではないと思っている。
――っ!
とはいえ目覚ましが鳴る前に自分で起きることはめったにない。
しかも今日は飛び起きたといっていい勢いだ。
子供の頃からのくせで、寝るときは一糸纏わぬ己の肢体に、かなりの汗が流れている。
夏待ち月にもまだ遠い春の朝、しかも最適な空調が効いている部屋では珍しいことだ。
寝起きとは思えないほど息は乱れているし、動悸だって全力で百メートル走をした直後の様だ。
思い当たる節がなければ、病院へ直行するべき状況である。
だけど原因はわかっている。
間違いなく、ついさっきまで見ていた夢だ。
「すっごい夢、見ちゃった……」
子供の頃から、妙に筋道だった、物語の様な夢を定期的に見ていた。
現在も継続中の初恋は、その夢の中に出てくる旦那様(ただし残念なことに自分は側室)だし、今自分の仕事としている「歌」もその夢の影響を大きく受けている。
自分でも人に話せば引かれる話だとは自覚はしているが、どうしようもない。
とはいえ今までのその夢は、起きた時に必死で覚えていようと努力しなければすぐに自分でも忘れてしまうようなおぼろげなものでしかなかった。
繰り返し見ることで少しずつ覚えるようになり、ベッドサイドに筆記用具を置くことでより鮮明に覚えていようという涙ぐましい努力の結果、ある程度筋道立てて己の夢の大筋を理解できるようになったのは中学生の頃だ。
今の芸名となっている「RIO」は、その夢の中での自分の名前。
リオ・ラサス・ウィンダリオン。
我ながらずうずうしいとは思うが、旦那様の国に敗北した大国の王女という役どころ。
もっとも末端の第八王女で、人質のように側室として嫁ぐまでは市井で生きていたようではあるが。
そのあたりの夢は多分見たことはない。別の夢の時の会話からおぼろげながらにそう推察しているだけだ。
少し情けない気もするけれど、綾乃はリオとしての自分をものすごく気に入っていた。
旦那様もそんな珍しい立場を面白く感じたらしく、幾人もいる側室の中では結構かまってくれていたようだ。
自分がまだ幼かったせいか、残念ながら寵愛を受ける機会はそう多くなかったことを、今日の夢で思い出した。
夢の中で旦那様が自分を呼ぶ、「リオ」の響きが何より好きだ。
自分の本当の名前は、綾乃ではなくリオだと思ってさえいる。
そんな旦那様に、初めて寵愛を受けた時の夢を見てしまった。
理由はわからないけれど、今までで一番鮮明に。
しかも夢の中で夢と理解している、なんていうのだかは知らないけれどそんな夢だった。
「私、経験しちゃったことになるのかな……」
自分が夢の中でなにをどうされて、どんな声を上げたのかを鮮明に覚えている。
その際の感覚も身体のそこかしこに甘く残っている。
思い出したせいで、少し落ち着いてきていた動悸と赤面が再びえらいことになる。
頭を左右に大きくぶんぶん振って、ともすれば反芻しそうになる甘美な記憶を頭から払い飛ばす。
そんな程度で飛ぶはずもないが。
淡い恋心を抱いていたら、いきなりいろいろすっ飛ばして最終段階に至ってしまったわけだが、幸いなことに嫌悪感などはまったくない。
すごいことになっちゃったという思いがあるだけだ。
アイドルなどやっている割には、いや、やっているからこそというべきなのか、現実ではその手の経験は皆無である。
それらしい声をかけてくる業界人は引きも切らないが、本人がやんわり断れば所属事務所の力もあってそれ以上ややこしいことにはならない。
アイドルとしてではなく、今どきの女の子としても
それが夢の中とはいえ一気に最終ステージを経験してしまうとは。
これが普通の夢なら「欲求不満なのかしら?」で済ませるところだが、起きてからこれだけ時間が経っても鮮明に思い出せる、というよりは体にその感覚が刻みつけられているように感じる。
所詮夢に過ぎない、そんなわけはないというのは頭では解ってはいる。
わかってはいるが生々しく残る記憶と感覚が、自分はもう「お手付き」なのだという思いを否応なしに抱かせる。
自分はもう、旦那様に「抱かれて」しまったのだと思っている。
そのうえで我ながら一番問題なのは、まったくもって嫌がってないという事実だ。
それどころか、正直言えば今すぐに寝てもう一度体験してみたいとすら思っている。
喜んでいるのだ。
心だけではなく、身体も。
昨日までは全く知らなかった感覚で、それがわかる。
自分は思ったよりエッチ系だったのかとちょっとだけ不安になる。
いや、そんなことはない。
夢では旦那様に終始主導権を握られ、かわいらしく(というには生々しかったが)反応していたのは間違いない。
きっと、たぶん大丈夫。
他の人なら大問題だが、相手は旦那様なのだ。
問題はその旦那様が夢の中の住人だという事ではあるのだが。
夢に出てくる人に抱かれて喜んでいる妄想狂という事さえ他人に知られなければ、何も問題はない。
現実で男性アイドルや俳優らと浮名を流すよりは、よほどましだとさえいえる。
ましなはず。
本当にそうかどうかには思考を止めることにして、火照った身体を覚ますためにもシャワーを浴びようとベッドから降りる。
それと同時にいつもの癖で音声入力を使ってネットに接続し、自分のファンサイトを立ち上げる。
朝起きて自分のファンサイトと、「RIO」をキーワードにしたニュースや記事、各サイトの書き込みをチェックするのはもう日課になっている。
高層マンションの上位階にあるこの部屋は、南に面した一面が全てガラス張りであり、それは旧来のモニタ機能も持っている。
自分の家に戻ってからも「サードアイ・コネクタ」を装着したままにしておくことに忌避感がある綾乃は、家ではもっぱらそのモニタを利用していた。
豪奢な夜景に重ねるA.Rや、完全に想像や行ったこともない土地の風景をその巨大なモニタに映し出すことが綾乃は好きだった。
外からは完全に見えなくなっているため、素っ裸で躊躇いもなくシャワールームへ向かいながら、自分のファンサイトをチェックする。
自分が定めたキーワードに引っかかった書き込みをピックアップする機能に抽出された、つい数分前書き込まれた「ファン」からのメッセージがポップアップされる。
その文字が目に入った瞬間、全ての思考も動きも一瞬凍りつく。
「RIO」・ラサス・ウィンダリオン様
応援しています。これからもがんばってください。
ブレド
ラサス・ウィンダリオン。
ブレド。
その部分が赤字になってピックアップされている。
最優先抽出設定事項。
そんなことはあるはずないと思っていながら、設定せずにはいられなかった自分の夢での名前と、憧れる旦那様の名前。
自分自身の魂に誓って、誰にも言ったことがない自分の夢での名前と旦那様の名前。
この世界の人間が知ることが不可能な名前。
その名前を両方とも正しく言い当てて、自分のサイトにメッセージを書き込んだ、だれかがいる。
自分では自覚できていないどこかで自分の夢を知るものが居て、いたずらをしているのかもしれない。
頭の片隅で冷静になれと騒ぐ自分がそんなことを考えたりもする。
だけどきっとそうじゃない。
そんなことをするなら、こんなファンサイトに書き込まずに直接自分に言ってくるか、事務所に言ってくるはずだ。
いやただ名前を偶然知ったところで、その関係や自分の想いを知らなければそんなものに意味はない。
だとすれば。
だとすれば。
自分と同じ夢を見ているかもしれない、こっちの世界居るブレド様が自分を見つけてくれたのかもしれない。
幸い自分の容姿は夢で見るリオ・ラサス・ウィンダリオンとそっくりだ。
理想の自分を夢に投影している訳じゃない。
芸能界へ入ることを決意した本当の理由。
誰に話したこともないけど、馬鹿みたいなその目的。
それは自分が「RIO」としてみんなに知られる存在になれば、万が一、億が一、自分をリオ・ラサス・ウィンダリオンだと気付いてくれる人がいるかもしれない。
夢でしか、どれだけ必死で記憶を繋ぎ止めようとしてもおぼろげにしか覚えていられない、それでも自分でも異常だと自覚するほど惹かれてやまないブレド様に、綾乃として会う事が出来るかもしれない。
もしかしたらその夢が叶うの?
こんなにあっさりと?
感情がものすごい勢いで上下しているのは自覚できているが、自分が何を考えているのか正確に把握できない。
それほどに動揺、いや興奮している。
ついさっきまでの、疑似初体験明晰夢の時とは比べ物にならないくらい動悸が激しい。
呼吸が浅くなって、落ち着かなければ過呼吸状態になりかねない。
あんなそっけないような書き方になったのは、ブレド様も自分の夢に半信半疑なのかもしれない。
自分の夢に流行りのアイドルが出てきたからと言って、運命だの前世の記憶だの言いだすのは、この世界においてはリスクが高すぎる。
だから私にだけ、本当のリオ・ラサス・ウィンダリオンにだけ伝わる迂遠なやり方で自分の存在を伝えてくれたのだ。
もしかしたらブレド様も今朝、自分と同じ夢を見たのかもしれない。
いやそうに違いない。
だからこそ、こんなはかったようなタイミングでこのメッセージは書きこまれたんだ。
綾乃は、いやリオは舞い上がった。
「……コール、事務所。――あっ、送信映像カット!」
上ずった声で、音声入力を行う。
あまりの舞い上がりっぷりに、自分が一糸纏わぬ姿であることを忘れそうになったが、そこは乙女回路が働いた。
早朝とはいえ、自分が今から連絡を取ろうとしている女性マネージャー以外も居る可能性が高い。
事務所は情報共有をやりやすくするために、綾乃の部屋と同じような壁面モニタを使用している。朝からオールヌードをサービスするつもりはないし、今や自分は側室とはいえ人妻だ。
旦那様以外に肌を見せるなど論外だと言える。
事務所はもちろん登録されているし、自分の端末からなら自動的に最優先コードが適用される。
予想通りワンコールも待たされずに回線がつながる。
『おはよう、綾乃。今日はえらくはやいのね。――ってなんで映像切っているの? 何か問題発生しているんじゃないでしょうね?』
専属マネージャーの搭子さんがびっくりして大声を上げている。
あ、やっちゃったと頭の片隅に浮かびはする。
旦那様以外に自分の裸を見せることに対する防御思考は働いたが、それならさっさと服を着ればよかったのだ。映像を切ってこんな早朝から連絡を取れば何かあったのかと心配させるに決まっている。
いつもの綾乃であれば、やらかさないミスだ。
だけど今はそれどころではない。
「ごめんなさい、ちょっと今映像繋げないような恰好しちゃっているの。でも心配ないよ、何か問題起っている訳じゃないから。それよりお願い搭子さん。この書き込みをした人を調べて」
余計な事を言わず、自分の心身をここまで高揚させる書き込みをドラッグして送る。
『なにそれ、起き抜けのまま慌てて連絡してきたの? らしくないわね。なんなの? どうしても許せないような書き込みでもあったのかしら』
綾乃の就寝時のくせを知っている搭子は、映像を切っている理由に思い至る。
逆に言えばそれだけ慌てて、服を着る間も惜しんで連絡してきたという事だ。
それ自体が異常事態だと言えば言える。
実際はシャワーを浴びて着替えるくらいの時間は充分あったのだが、その時間を夢の反芻にあてていたとはとても言えるものでもない。
『……なんか痛々しいけど、普通の応援メッセージじゃないの? 他のファンにからかわれたりはしているみたいだけど。まあ「RIO」に勝手に名前付けたして、日本人でありながらブレドってのいうのは痛いわね』
至極真っ当な意見だとは思う。
実際「RIO」は東スラブ系クォーターであることもあり、一種ファンタジー世界の住人の様な顔だちをしている。
売り出し方も親しみやすい身近なアイドルとしてではなく、歌も踊りも本格派で、ミステリアスな雰囲気で押している。
そのせいで、その手のファンが多いことも確かで、ファン内で二次寄りと三次よりが争う事はそう珍しいことではない。
綾乃自身は自分の夢の事もあって、「RIO」にファンタジー世界の住人像を求めるファンは嫌いではないのだが、痛いと言われれば自分も含めてそうだろうなとは思う。
だけど今の綾乃はこの書き込みの主が、ブレド様かも知れないと思っている状況だ。
思わずむっとするのを顔に出さないよう努力しながら、重ねてお願いをする。
自分が所属する事務所の力を本気で使えば、書き込みを辿って個人を特定することもそう難しいことではないはずだ。
本来はあってはならない事だが、世の中「力」次第で例外はいくらでも存在する。
そしてこの世界の一番わかりやすい「力」は現在の所「金」であり、綾乃が所属する事務所はその力を充分以上に持っている。
そしてその「金」を今現在凄い勢いで稼ぎ出している自分に対して、ある程度までは甘いはずだというのも理解できている。
立ち位置を忘れない限り、それなりの我が侭は通るはず。
「お願い、搭子さん。お仕事はいくらでも頑張るから、使える手段すべて使って調べて欲しいの」
ただし、脱ぐ系の仕事は水着でも減らしたいし、ドラマや映画が来たとしてもラブシーンはお断りしますけど、といくらでも頑張るとはとても言えない事を頭では思っている。
『うちの稼ぎ頭である「RIO」様からそう言われちゃあ、調べないわけにもいかないけれど……なんなの、この書き込み。事務所についてからでいいから教えてね』
さすがに何も説明しないわけにはいかないだろうから、僅かに頷く。
「うん」
映像を切っていたことを思い出して、慌てて返事をする。
調べてもらった結果次第では、自分は事務所をひっくり返すような我が侭をいう事になる。
とはいえこればかりは譲る気もない。
特に縛られるような契約はしていないから、最悪となればアイドルを辞めたっていいのだ。父親は喜んで違約金くらい用意してくれるだろう。
愛娘がアイドルをする事なんかより、よっぽど大変な事態がやってくるわけではあるが。
事務所としてはそれだけは避けたいだろうから、条件次第で何とかなるはず。
もはや綾乃の頭の中は、「何としてでもブレド様に逢う」ことで一杯になっていた。
自分が如何に我が侭で、他人の迷惑を顧みていないかも頭では理解できている。
でも止まれないのだ。
――ごめんなさい。でもとまれない。
ネット上に書き込んだ情報はあっという間に拡散し、取り返しがつかない。
芸能人である自分のものであればなおさらだ。
それを綾乃はよく理解できている。
だからこそ、毎朝自分で一言程度であるが書き込んでいるファンへのメッセージで、ブレドにしかわからないだろう書き込みをしそうになるのを必死に理性で抑え込む。
――慌てちゃダメ。迂闊な行動が取り返しのつかないことになるかもしれないんだから。
なんとか理性が勝利し、ブレドの書き込みに何も反応していないような無難なメッセージを入力する。
ブレドの書き込みを馬鹿にしているファンの人たちに反射的に怒りを覚えるのもなんとか我慢する。
この後ほどなく書き込んだ個人が特定されてからの綾乃の行動に、関係者一同は頭を抱えることになる。
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