29 「それは私が妹さんの声に似ているから、ですか?」

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「突然の来訪で、ご迷惑をかけたにも関わらず、夕食までごちそうになって……。どうもありがとうございます」


 伊吹は、さな恵たちを前に深々と頭を下げた。


 さな恵と遭遇した後、幸一は直ぐ様事情を説明した。

 一応、今回の町興しの仕事については粗方話していたが、伊吹が美幸の声にそっくりであることは内緒にしていた。


 それは未だ美幸の部屋をそのままに残し、引きずっている母・さな恵に、要らぬ感情を抱かせたくなかったからである。だが、伊吹を声優として起用したのだから、遅かれ速かれ、さな恵が伊吹の事を知ったではあろう。


「良いのよ。本当に、美幸の声にそっくりね。美幸が生きて帰ってきたと思うわ。だけど、物腰とか性格が美幸よりも大人しいけどね……」


 さな恵は伊吹を見つつ、瞳に涙を浮かべていたが、その表情は笑顔だった。幸一と同じように、伊吹の声に美幸を投影したのだろう。さな恵は無理強いで伊吹を引き留め、食事に誘っていたのである。


「伊吹さん。いつでも伊河市に来て、我が家に遊びに来なさい。伊吹さんだったら、いつでも歓迎だからね。ねぇ、お父さん」


 夕飯を食べ終わった頃に、幸一の父……幸太郎が戻ってきていた。僅かな時間ではあるが談笑し、幸太郎もまた伊吹の声に驚いた。さな恵の提言に、幸太郎や幸一も頷く。


「あ、は、はい。その時は……よろしくお願いいたします」


 現在の時刻は、夜十時を過ぎていた。ここまで夜遅く引き止めては逆に失礼だ。


「母さん、父さん。もう良いだろう。散々話しただろう。伊吹さん、それじゃ行きましょうか」


「あ、はい」


 幸一は車のドアを開け、伊吹は助手席に乗り込む。さな恵は車の窓ガラスを軽く叩いて、窓を開けるように促した。


「声の仕事を頑張りなさいよ。ずっと応援してあげるからね!」


「はい、ありがとうございます」


「幸一、安全運転で行くのよ」


「分かっているよ。ほら、出すから車から離れて」


 安全を確認して幸一ペダルを踏み込んだ。さな恵は手を振りながら、幸一たちを見送る。遠ざかっていく車を見つつ、さな恵は呟いた。


「本当に美幸の声にそっくりでしたね」


「ああ……」と幸太郎が頷く。


 伊吹と共にテーブルを囲んだ一時。

 本当に美幸が生きて帰ってきたような気持ちに溢れた。だが、それは幻である。美幸ではなく他人(伊吹)。それでも美幸の思い出が溢れ返っていた。


「もし、美幸が生きていたら、夢を叶えられたかも知れませんね……」


 伊吹の声……美幸の声を聴けたことに、さな恵は感謝していた。幻だったとしても、ハッキリと自分の娘の声が再び聴けたことで、美幸のことを鮮明に思い出せたことに。だから、ある事に区切りを着けようと決断した。


「ねぇ、あなた。美幸の部屋を片づけましょうか」


「良いのか?」


 今迄、美幸の部屋を残していたのは、未練があったから。だが、伊吹の声を聴いて思った。


「美幸の部屋を残していても、美幸のことを段々忘れてしまっていたわ。美幸のことを忘れたくないと思っていたのに……。でも、伊吹さんの声を聴いた瞬間、美幸のことをすっごく思い出せたの……。あの子(美幸)を忘れないためには、残すことじゃないのね……」


 幸太郎は、ふと見上げた。夜空には雲一つもなく、星空が広がっている。そして、いつもよりも煌めいていた。それは、幸太郎の瞳に涙が溜まっていたからでもあった。


   ~~~


「すいません。騒々しくて……」


 幸一は脇見をせずに、伊吹に謝意の言葉を語りかけた。親戚の子供が来た時みたく、世話を焼く母に対応に伊吹が疲れているように見えた


「いえ。実の親からもあんなに喜ばれたり応援してくれなかったので、とても嬉しかったです」


「そ、そうなんですか?」


「はい……。あんな風に喜んでくれると、少し迷いますね……」


 迷う……それは、この仕事で声優を辞めるという決心の揺れ、と幸一は感じ取った。


「……個人的な。物凄く個人的な意見ですが、自分は伊吹さんに声優を続けて貰いたいと思っていますよ……」


「それは私が妹さんの声に似ているから、ですか?」


「……正直、それも有ると思います。でも、伊吹さんの声を、これからも聴きたいというのもあります。人様の今後について簡単に口出すのは失礼だと思いますが……」


「ありがとうございます。そう言っていただけて、とても光栄です。でも決めましたから……」


 眉をしかめ、残念そうな表情を浮かべつつも、その眼差しは冷めていた。脇見運転をすることが出来ない幸一は、その伊吹の表情を窺うことは出来なかった。


 そうこうしている内に伊吹が宿泊するホテルに着いた。伊河市は観光地である。それなりに名の通ったホテルがかなりの数が存在する。


 だが、園子が宿泊するホテルは、伊河駅前にあるビジネスホテルだった。車を歩道に寄せて、


「ここ……ですよね?」


 折角、伊河市に来たのだから観光ホテルに宿泊した方が良いのにと、幸一は心の中で浮かべた。


「はい。予算の都合で……。でも、このホテル。ビジネスホテルですけど、温泉の浴場があるみたいなので、それで充分満足ですよ」


「そうですか……」


 わざわざ伊河市に訪れてくれたのに、なんだか申し訳なく思ってしまう。時間があれば、また観光案内に誘おうと考えた。


「そういえば、伊吹さん。いつまで滞在のご予定ですか?」


「明日の昼までです」


「えっ!? そ、そうなんですか?」


「実は明日、仕事が入っているんです。本当に突発で、ふと思い立って来ましたから……」


 伊吹は自分の荷物や幸一の母から頂いた土産を手にして、車のドアを開けて降りた。


「今日は本当にありがとうございました」


「いえいえ、お気遣い無く。また、伊河市に来たら気軽にお尋ねください」


「はい。それでは……」


 伊吹は軽くお辞儀をして、ホテルへと向かおうとした時、幸一はふと“ある物”を思い出し、呼び止める。


「あ、伊吹さん。待ってください。渡すのを忘れていました。これを」


 助手席に置いていたA4サイズの白い封筒を取り、伊吹に手渡した。


「これは……」


「それにキャラクターイラストが描かれている紙が入っています。お手隙の時にでも見ておいてください」


「はい、ありがとうございます! あ、高野さん。一つお訊ねしても良いですか?」


「なんですか?」


「私が演じるキャラクターは、ずっと使用したりするのでしょうか?」


「そうですね。一応、マスコットキャラクターとしても利用しますから、ずっと残し続けていきたいと思っています」


「そうですか。それを聞いて安心しました」


 優しい笑みを浮かべる伊吹。


「それでは今度お会いするのは、声の収録の時ですかね。その時にお会いしましょう」


「ええ、その時にまた」


 伊吹は幸一に別れの言葉を述べ、貰った物々を大事に抱えてビジネスホテル内に入っていく。幸一は伊吹の姿が見えなくなるまで見送って、車に乗り込んだ。ハンドルを握りつつ、


「あ、声の収録の場所って何処でするんだろうか? まぁ、その前に台詞の方を完成させないとな……。よしっ!」


 片付いていない問題に対して、幸一は改めて気合を入れる。家に戻ったら今日片付ける分を取り掛かろうと決意すると車を走らせたのであった。


   ~~~


 自室に戻った伊吹まどか……桑井園子は、お土産などの荷物を机に置いてベッドに倒れ込んだ。一息を吐き、寝転んだまま幸一から貰った封筒から数枚の紙を取り出した。


 そこには、簡単に色が着けられたキャラクターイラストが描かれていた。


 前に見た時よりも、キャラクターに特徴的な部分が増えており、可愛さも増していた。猿の方のゆるキャラもまた愛らしく、思わず微笑みを浮かべてしまった。


 園子は仰向けになり、目を閉じる。


 このキャラクターに合う声をイメージしつつ……。暫くして、一日中動きまわって疲労が溜まっていたからなのか、眠りについてしまったのであった。


 園子は、夢を見た。


 自分が伊河市のキャラクターに成り代わり、伊河市の……今日、自分が赴いた観光地を巡っていたのである。


 何かを喋っていたが、その声は聴こえなかった。

 ただ、口をパクパクしているだけだった。だが、ある人物のことを思い浮かべると、声が聴こえてきたのであった。

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