27 「高野さんの……家に連れて行ってくれませんか」
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ドライブ感覚で幸一は車を走らせる。伊河市はかなり広く、各地の名所に行くには、やはり車は必需品だ。
駅から離れるとすぐに、東京タワーに姿形がどことなく似た伊河タワーが視界に入ってくる。ただ東京タワーと比べて、建物の高さは三分の一ほどしかないのだが、車が伊河タワーの足下に近づくとそびえ建つ壮大さを感じることは出来る。
「でも、本家やスカイツリーと比べたら、つまようじぐらいだけど。そういえば、伊吹さんはスカイツリーには登ったことはあるんですか?」
「ええ、友達と一度だけ」
「やっぱり、高かったですか?」
幸一も打ち合わせで東京に行った時に立ち寄って見たかったが、残念ながら時間を作ることは出来なかったのである。
「それはもう。ただ、本当に高過ぎて、建物とかが小さく見えて、何が何やらでしたけど」
「はは。でも、一度でも行く価値はありますよね」
「そうですね」
お喋りをしつつ、車は海岸線に沿って舗装された国道を通っていく。右手には伊河湾が広がっており、左を見れば鶴美岳といった山々が立ち並んでいる。その鶴美岳だけを目指すかの如く、車は坂道を登っていった。
やがて、所々から白煙がもうもうと舞う景色が見えてくる。火事などの煙ではなく湯煙なのである。
この辺りは、特に温泉が出ている場所であり、旅館などの宿泊施設も数多く建てられている。そして伊河観光の定番と言えば、地獄めぐりと呼ばれるものがある。そう伊河市には地獄があるのだ。
といっても本物の地獄ではなく、温泉である。だが、ただの温泉では無い。血のように赤い温泉があれば、海のように青い温泉があったり、または鉄砲水の如く温泉が噴出されている所もあったりする。それらの温泉は残念なことに入ることは出来ない。
なぜなら、お湯の温度……いわゆる泉温が、どれも百度近いのである。入ってしまえば、あっという間に茹でタコの様に茹で上がるより、火傷をするのは間違いない。これが地獄の謂れでもあろう。
だが、入れない温泉ばかりではなく、ちゃんと人が入れる温泉も数多く存在している。その数ある中で、今回幸一が案内したのは明礬温泉であった。
伊河市の中腹にある明礬温泉は、硫黄の匂いが立ち込めており、まさに温泉ならずとも、火口近くにやってきたと思うほどである。また、中腹の小高い場所にあるので、伊河市を一望できるのも一興であった。
幸一は伊吹に入湯を薦めたが、流石に人を待たせて湯に浸かるということは、受け入れることは出来なかった。その代わり、温泉近くで運営されている喫茶店で、温泉の噴気で蒸した温泉プリンを食して、旅の疲れを癒したのであった。
後に伊吹は語る。
「あの温泉プリンは、東京とかの一級品の菓子屋とかでも、なかなかお目にかかれないほどの美味しさでしたよ。それが、ああいう所で食べられるなんて……」
暫しの休憩の後、幸一たちは再び車に乗り、伊河観光を再開した。
端から見れば、幸一と伊吹はカップルに見え、デートをしていると思われるだろう。しかし、幸一にはそういった気分や気持ちなど全く無かった。
仕事相手だからというのもあるが、やっぱり伊吹が美幸の声に似ているからなのか、妹と一緒に出掛けているという気持ちの方が大きかった。
幸一が美幸と二人きりで出掛けたのは、小学生の時に隣の市へと映画を観に行ったぐらいで、それっきりだった。
だから、こうして園子と伊河市を巡るというのは、兄としてもう出来なくなった妹のために何かをしてやれるということが、幸一は嬉しかったのである。
一方の伊吹は、各場所でぶつぶつと独り言を呟きながら、何やらメモを取っており、こちらもデート気分など微塵も感じていないだろう。
その眼差しは真剣そのもので、伊吹の方が幸一よりも仕事をしているようだった。
幸一たちは、伊河市をグルっと一周するかのように名所を巡り、最後にキャラクターのモデルがいる場所……高咲山へとやってきた。
高咲山自然動物園――高咲山には野生の猿が生息しており、高咲山の麓にある寺院には餌付けを行う猿寄せ場が設けられている。観光客は、檻を隔てずにニホンザルの姿を観覧することが出来、伊河市もとより県内でも有数の観光名所として知られている。
「本当にお猿さんが一杯いるんですね」
初めて野生の猿、ましてや大群を目の当たりにして興奮する伊吹。
「イタズラとかしてこないんですか?」
「観光客とかの荷物とかを奪っていくことは滅多にありませんけど、一応気を付けてくださいね。餌付けをしているけど野生の猿なので、無闇に近づき過ぎないようにしてください」
猿を観覧しつつ一通り境内を周った二人は、近くの売店のベンチに座り、休憩を取った。
「高野さん、伊河市って良い所ですね。海があって山があって。そして温泉がある……本当、羨ましいです」
地元民にとっては馴染みのある風景は当たり前になっており、それほどありがたみを感じることは無い。ただ外の人からのお褒めの言葉を頂けることで、伊河市は良い所だと改めて実感するのであった。
「そう言って頂けて光栄です。だから、この魅力をもっと色んな人たちに伝えて行きたいんですよね」
「そうですよね……」
「そういえば伊吹さん」
「はい」
「今回、伊河市に来たのは、観光……では、ないですよね?」
案内中、伊吹がしていた行動に、ただの観光では無いと感じ取っていた。
「……ええ。自分が演じるキャラクターが、どんな場所で過ごしているのか、その空気とかを知りたくて……。いわゆる、下調べというやつですね」
「そうなんですか。それで、メモとかしていたんですか。いやー、嬉しいです。そこまで伊吹さんが、伊河市のキャラクターの声を演じてくれるのに、ここまで真剣にやってくれて。もしかして、ウチの仕事以外でも、こういうことをやっていたりするんですか?」
「場合によりますね」
「なるほど……。だったら、あのイラストを……あっ!」
幸一は話しの途中で“あること”を思い出し、声をあげてしまった。
「ど、どうしましたか?」
「あ、いえ。野原さんから、ほぼ完成したキャラクターイラストがあがってきていたので、それを持ってきて伊吹さんに見て貰いたかったと思いまして……」
「そうなんですか。確かに、それは見たかったですね……」
今から家に戻って、イラストを伊吹に届けようと浮かぶが、既に日が暮れ始めている。観光とは別に、遅くまで伊吹を連れ回すのは後ろめたさを感じてしまう。
「そうだ、伊吹さん。今日のご宿泊先はどちらで?」
「一応、伊河駅の近くのホテルに予約を取っています」
「そうですか。だったら、後で伊吹さんが宿泊している所に、イラストの方をお持ちしますよ」
「いえいえ。そこまで、お手を煩わせるのは……」
「気にしないでください。これも仕事ですし。伊吹さんも、早く見たいでしょう」
「あ、ありがとうございます」
幸一はおもむろに腕時計で時間を確認する。
「さてと、そろそろ暗くなってきましたけど、他に何処か行きたい場所とかありますか? あと一箇所ぐらいだったら、案内できますよ」
そう言いつつ幸一は頭の中で、次に行く場所をリストアップしていた。暗くならない内だったら、駅近くの歴史がある銭湯や美味しい鳥天定食が食べられるお店を案内でもしようかと考えていた。
「それでしたら、高野さん。大変、不躾で無理なお願いがあるんですけど……。是非、行きたい所があるんです……」
「はい、良いですよ。案内できる場所であれば、何処でも」
伊吹は少し頬をピンクに染めつつ、意を決するように行きたい場所を告げた。
「高野さんの……家に連れて行ってくれませんか?」
全く想定していなかった場所に幸一は「えっ!?」と、短くも図太い驚きの声を漏らした。
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