第7話 「無理だと思ってもやってみる」

 ゆるい勾配をサドルから尻を少し浮かせてペダルを踏み込む。もう二時間はこぎ続けている。地図を見ている時間がもったいないと思ったから、一度もとまらなかった。


 あたりは田んぼと民家がちらほらあるだけで蛙の鳴き声がひたすら耳障りだ。


 比較的清涼な北岸の夜とはいえ、こうして自転車をこぎ続けていればさすがにあらゆるところから汗が吹き出し、額から雫が流れ落ちるたび視界をさえぎった。背負ったザックと背中の間が暑い。もう息が切れてきている。


 山鍋市中心地から国道は若干細くなり、北岸市側から走ってくる車もまばらになり、歩道がなくなる部分も多くなってきた。僕は国防軍の車列を追いかけるつもりで走っていた、当然追いつくはずなどないのだけど、自分が向かっている先が確かなことを信じたかったからだ。


 時折自動車に後ろからヘッドライトで照らされては追い抜かれてゆく、僕はそれらの車をできる限り記憶するように努めた。なぜならこの先が通行止めになっていれば反対車線から引き返してくるはずだからだ。今のところその様子がないということはこの先は道が通じているということだろう。


 勾配を登りきると再びゆるい下りに入る。筋肉の熱を冷ますようにペダルから足を離して惰性で走る。さっきからずっとこんな調子だ。山道に入らないだけマシというものだけど、先はほとんど何も見えず、どこまでいっても似たり寄ったりの風景にいささかうんざりしてきていた。


 午前零時が近い。ふと家の事が気になったが、すぐにかき消えた。


 遠くに自販機がある。それは闇の中で煌々と存在感を示して、僕に寄っていかないかと誘いをかけた。もう三十キロくらいは走ったはずだ、いくら頑張ってもあと八時間はかかる計算なのだ、十分くらい休憩しよう。


 財布の小銭は心許なかったが、思い切って百五十円の五百mlのボトルのお茶を三本買った。汗になって流れ落ちた水分を補給するためには必要だろうし、この先も自販機があるとは限らない。


 そうだ、花には今まで一度も水をやっていない。


 まあ、いいか、水分は水分だし、ないよりはマシだろう。枯れてしまっては元も子もない。僕は旅を共にする同志の証としてお茶を少しだけ花にも分けてやることにした。荷物を降ろし歩道に大の字になって寝転んでいると遠くのほうからエンジンの音が聞こえる。車じゃない。


 もっと小さなエンジン音だ。バイクだな。


 島の田舎に帰省したら必ず祖父の古いバイクを乗りまわした。祖父のいる田舎は南洋の小さな離島で、だからほとんど車も信号もないし、警察もいないし、付近の人に見つかってもちょっと怒られるくらいで。


 もちろん免許がないと乗っちゃダメなんだけど、島の近所の同い年の子達はみんな自転車みたいにヘルメットもなしで家から拝借したバイクを乗り回してた。だけどその時、祖父のタイプのバイクを運転できるのは僕だけだった。


 祖父のバイクは、詳しい名前はなんだか知らないけど古臭い形で色もいかにもダサくて、ほら、よく新聞配達で使うような奴。あれはギアって奴がついてて、手元のアクセルを回すだけじゃ乗れないんだ。中立からギアをいれて、アクセルをひねり、走り出したらスピードにあわせてギアを変えていくんだ。


 なんで免許も持たない中学生の僕がそんなこと知ってるかって? そりゃ祖父が喜んで乗り方教えてくれたんだ。僕が乗りたいって言ったから。


 両親はあぶないからとうるさく言ってたけど、祖父はよく「男ならこれくらい乗れにゃぁ格好つかんぞ、ワシは十六の時には空飛んどったんだからな」と、得意げに話して僕に教えてくれた。


 慎重でマジメな両親に比べ、そこから生まれ落ちた一人っ子の僕はなぜか祖父とよく気があった。無鉄砲というのとは少し違う、狡猾で奔放というか、何かに縛られるのを嫌うというか、常識にとらわれることを嫌い、ひとつのことに固執したがらない人だった。


 僕らのように生まれたときから平和な世界に生きてきた人じゃないからかもしれない、揺るぎがないというか、単身で完結していて、芯の強いしっかりした足取りを感じる。


 よく父から「お前はおじいちゃんに似た」といわれた。あとから知ったことだけど隔世遺伝とかいうらしい。


 元気にしているだろうか。真っ暗の中に輝く無数の星を見上げていると、島の海岸で見た夜光虫を思い出す。夜の波間にキラキラと光る無数の小さな光源はとても不思議だった。僕の地元の友達に話してもそれがどんなものかは想像ができないらしく、そのことを知る僕は昔から得意だった。


 夜光虫というのはプランクトンの一種で刺激を与えると蛍のように発光する特性を持っていて、夜の波打ち際なんかでバシャバシャと手や足をいれるとそれに応じてその周囲が光ったり、多いときだと手や足の形がくっきりと現れるくらいのこともある。闇夜の波間を走っている船の航跡が光って見えるのも同じ理屈だ。


 まだ明かりがない頃の人々はこんな現象をどう考えていたのだろうか。とても神秘的なものだと感じたんじゃないだろうか。同時に畏怖の対象ともなったかもしれない。夜の海に入ってはいけないとか、魂を吸われるとか。


 考えてみればこの夜空の星だって昔はもっと見えていたはずなんだ。なんで昼間は見えないものが夜になると見えるのか、なんで光っているのか。月なんて形が変わるんだ、まるで生き物のように思えたかもしれない。


 今の僕たちは小学生ですらそれが星であり月であると知っている、だからただ星が見える、月が綺麗だとしか感じない。目に見えるものが当たり前で、逆に言うと見えないものは当たり前じゃない。


 そんなことに思いをめぐらせているうちにバイクの音は間近に迫ってきていた。ヘッドライトの明かりが山肌に反射して見えた。二台か。僕は首を後ろに回して冷静にそれを観察し続けた。


 そういえば山鍋市を出てから、バイクなんか一台も走ってこなかった。こんな時間にどんな人が走らせているのだろう。そう思い首を起こし、彼らが走ってくるであろう方向の道路の先を一瞥した。


 そのバイクの主はゆるゆるとスピードを落とし、二台のバイクは僕の前で停止した。なにか僕に対して声をかけてくる、けして喉が渇いたのではなさそうだ。


 そこで初めて“しまった”と、またもや自分の間抜けさに気がついた。


 南岸から来た中学生の僕が、盗んだ自転車で夜中に自販機の前で、大きな荷物を傍らに置いて大の字で寝転んでいるんだ、不審でないはずがない、いや補導されるに決まっているじゃないか! バイクの主は警察官だった。


 火照った体は一瞬にして冷え切り、足の感覚がうまく伝わらないまま半身をおこして二人の警察官をみあげた。


「こんな時間に何してるの? 旅行かい?」僕に声をかけたのが腹ボテの中年の警察官、その後ろの警察官はまだ若い。


「え、ええ、自転車旅行です」冷静に、普通に、何もないかのようなフリで応えたつもりだったが、自転車を携えた自分のなりを冷静に分析すると明らかに家出少年にしか見えなかった。


 もちろん、僕の意志とは逆に二人の警官はバイクのスタンドを立てて降りてきた。


 くるなよ、そのまま行けばいいのに。


 おそらく僕のその思惑は顔に出たのだろう、警察官は興味深げに僕に近寄ってきた。もう一人の若い警察官は無線でなにやら話し始めた。


「どこからきたんだい? 名前は?」


 くそっ、どこのどいつか、きっとこの近くで本当に家出した奴がいるんだ。そうに違いない。


「あ、えと、いまから、北岸市までぇ……」


「北岸市まで自転車でなんて朝までかかるよ、その荷物はなんだね」


「あの、近くでキャンプするつもりだったんで、ええ、大丈夫です」


 もう一人の警察官が自転車を見ている。まずい。絶体絶命だ。


「山鍋市、紺屋町……大木大輔、くん? 君か?」


 ここは穏便に切り抜けることを考えよう。自転車に名前が書いていたか、それなら大木大輔に成りすます方がいい。今、僕は自身の思考に驚愕していた。咄嗟にこんな悪知恵が働くものかと。


「は、はい、そうです」かまいやしない、確認する術は他にはないんだ。

自転車を見ていた腹ボテ警官は顔を上げ、僕に目配せをし、こっちへ来るように促した。


「この花も君のかね?」そういって前かごからそっと取り出し僕に花を手渡した。

 そりゃそうだろう、“僕の”自転車なのだから他人の荷物がはいっているのがおかしいだろう。そして警察官は前輪の泥除けのところを指差してこういった。


「これは鈴木靖男くんの自転車だね?」


 なっ! ひっかけか! 一瞬訳がわからなくなって頭が真っ白になった。大木大輔って誰だよ! くそぉ、警察って奴はこんな汚い手をつかうのか!


 腹ボテ警察官の顔からやわらかな薄ら笑いは消え、ヘルメットと一体になった彫刻のような顔がバイクのヘッドライトに照らされて浮かび上がった。


 足が震えた。どうする、もうダメか、補導されてこのまま家に戻される、自転車も盗んだし、それに僕がここにいることをどう説明する? 奥田との電話のことから、全部話して、奥田が無事かどうか、そんなことも全部話して、必死こいて花を届けるためです、とか?


 親が頭を下げて迎えに来る光景が浮かんだ。僕は何も言えず、何も出来ないまま頭をたれて父の車に乗り込む。


 樫尾町は無事ですよ、北岸市もまだ警戒状態ですけど全く問題ありませんと、テレビの報道と同じ内容を告げられて、なんだか適当に正義感が強くて心配性な僕を一遍通り褒めて何事もなかったように北岸から僕を引き剥がすんだろう。


 だめだ、そんなのはだめだ、目に見えている。両親は僕に、全く仕方のない奴だ、そんなヒマがあるなら家で勉強でもしてろと、また一遍通りの説教をし、何事もなかったかのように南岸へと連れ戻されるんだろう。


 祖父なら、じいちゃんなら、どう言うだろう。


 僕は警察官の乗っているバイクが祖父のものと同じだと気づいた。それを見たせいかもしれない、じいちゃんならこんな時どうするだろう、どうやって切り抜けるだろう、父を越えて僕にその遺伝子は受け継がれている、そんな思考だけが頭を巡った。


「じゃあね、こっちへきて、名前と住所、教えてくれるかな」


 そう僕に告げた腹ボテ警察官は自販機のあかりがある僕の荷物のほうに向かう。若い方の警察官はバイクのエンジンを切って自転車の防犯登録を読んで無線で照合している。僕は花の入ったビニール袋を提げて肩を落とした。希望は敢え無く尽きたのか。


 (ワシは十六の頃から空をとんどった)


 じいちゃんはいつもその話の前に何か言っていた。


 (エンジンがかかったままの飛行機に飛び乗り、見よう見まねで飛ばしたのが最初だった。正規のパイロットが目の前で機銃掃射にやられちまって、無我夢中で機体を守るために飛ばした)


 だがその時僕はそれを嘘だと決め付けた。


 だって、いくら敵襲がそこまで来ていて切羽詰っていても、とてもじゃないけど飛行機なんか簡単に飛ばせるもんじゃない。それがどんな飛行機だったにせよ、空を飛ぶなんて。それにじいちゃんはパイロットじゃない、飛行機の整備士として戦争に出たっていっていた。


(男なら、無理だと思ってもやってみるもの、やらんうちから出来んといえるか)


 僕はエンジンがかかったままのバイクを注視していた。警察官が僕にむかって何かを尋ねているようだったが、背後の軽快なエンジン音だけが僕の鼓膜を震わせていた。規則的なエンジンの爆発音だけが僕の頭を支配していた。


「こっちへ来なさい!」そう、腹ボテが強く呼んだようにも聞こえた。


 気付いたときには僕はバイクに飛び乗り、かかとで勢い良くギアを一速に叩き込んでいた。


 スタンドを跳ね上げると同時に滑り出す車体、大声を上げて僕の背中を刺す警察官の二人。僕に尋問しようとしていた腹ボテが懸命になって走って追いかけてきたが、途中で革靴が脱げて転んだ。もう一人は自前のバイクで僕を追いかけようと跨るのがバックミラー越しに見えた。


 同じ車体なら、リードしてる分こっちのほうが有利だ。体重だって僕のほうが軽い。


 エンジンを一からかけて追いかける警察官との距離は大きく開き、とても追いつかれるとは思えなかったが、スロットルを大きく開きギアを三段まで上げて最高速まで加速していった。一瞬銃で背後から撃たれるんじゃないかという恐怖もあったからだ。


 それにしても心臓の鼓動とは裏腹に、こんな大胆な行動に冷静でいられる自分を改めて不思議に思った、だが同時に祖父が飛行機を飛ばしたことに比べれば容易いことだと戒めさえしていた。

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