第6話 「俺たちのやり方」
やがて列車は山間の無人駅で停車した。日は完全に落ちて周囲の民家の明かりがポツリポツリと見えた。暗闇の中に佇む集落の中で列車のディーゼルの機関音だけが静寂の中に能動的な存在を示していた。
老婦人との語らいはそれからも続いて、携帯電話の話で少し盛り上がった。最近あちこちで携帯で話す人が増えてたところだから、老婦人も気にはなっていたんだそうだ。大したことじゃないけど、こういうものだと彼女に見せて簡単な説明をした。普通の電話と違って電波が届かないことがあるとか、電話帳は中に入っているからわざわざ調べなくてもいいとか。そんな簡単なこと。
「便利なものなのね。私も息子から持てって言われてはいるんだけど……なんだかね」
そう言いながらも老婦人は目を丸くして感心して僕の話を聞いてくれた。そしてそのお返しというわけじゃないだろうけど、毛糸の余り糸で作った輪で、あやとりを教えてくれた。こんな糸一本でもいろんな遊びができることに僕は感心する。
彼女が生きてきた時代は今みたいに物があふれていなかったから、手元にあるものを遊び道具にしたのかもしれない。でも今はそんなことをしなくてもいくらでも遊ぶ道具が用意されている。
そんな時代に生まれた僕でも、あやとりは夢中になった。それができたからといってどうということはないのだけど、楽しかった。おかげで三時間の列車の旅は退屈しないで過ごせ、北岸市まであと五駅ほどのところまで来ていた。
ところが駅に着いた列車の機関音は次第にゆるくなり、やがて停止した。車掌のアナウンスが流れる。
「ご乗車中のお客様に申し上げます。先ほど当路線のトンネル内で土砂崩れがあり、目下復旧までの目処が立たない状態にあります。誠にご迷惑をおかけして申し訳ございませんが当路線は当駅をもちまして運休とさせていただきます。なお、北岸市方面にお向かいのお客様には北海岸線、山鍋市駅までの臨時のバスを手配しておりますゆえ、そちらにお乗換え御利用くださいますようお願いいたします」
「あら、土砂崩れですって、仕方がないわねぇ」同席の老婦人は編物の手を止めて窓の外を見やる。
僕もそれに続き窓に近寄ったが、不意に忘れていた感覚が蘇り、一瞬戦慄を覚えた。樫尾町まではまだ遠かったけど、もしかしてもうここまで“来て”いるのではないか、と。
いや、だとしたら臨時バスなんて悠長な手段を取るだろうか、やはりただの土砂崩れということだろうか。そのゴタゴタした疑念が元でつい口を滑らせてしまった。
「あの、おばさん……本当に、そうでしょうか」
「あら? それはどういう意味?」
「……あ、いえ、何でもありません」
僕は渋々、列車を降り薄暗い無人駅のホームに降り立った。他の乗客は数えるほどしかいない。改札を出たところに既にバスが二台待機していた。北岸の山鍋へ向かうバスと折り返しもと来た行程を戻るバスと。ずいぶん用意がいいものだ。
「あなたも乗るんでしょう?」僕の横からそう問いかける、同席した老婦人は思っていたよりも背筋が伸び、しっかりとした足取りだった。
列車から降りた人々は口々に愚痴をこぼしながらも、これから向かう先に携帯で連絡をとったり、車掌につめより復旧のめどを問いただしていたりした。改札で樫尾町行きの切符を見せると、北海岸線への臨時の乗り継ぎ切符を代わりに渡された。
さて、どうするか、無論この場を切り抜けるにはこのバスに乗るしかないのだけど、臨時バスの運行路は、この山間の東山間路線上ではなく山を一つ越えた海沿いの都市山鍋市にアクセスすることになる。
通常ならば土砂崩れを迂回するだけで併走する幹線道路をバスで運行すればいいはずだ。わざわざ遠回りをして特急幹線の『北海岸線』に乗り継ぐのはどう考えても合理的じゃない。もちろん土砂崩れの程度にもよるだろうし、大事をとって路線付近全体を一時通行止めにするというのはある意味正しい判断かもしれない。僕は帳の下りた山間線の線路の先を見つめた。
本当にこの先には進めないのだろうか。
「のりますか?」バスの運転手が僕に問う。僕は振り向きコクリと頷いてバスのステップを駆け上がる。老婦人は先に乗り込んでいたが、その隣には既に中年男性が居座っていたので僕はバスの一番後ろの席に座る。これで引き返すバスの乗客以外は乗り込んだはずだが、まだ座席が数席余っていた。
「この辺は多いからね、地盤がゆるいんだ」
バスのエンジンの振動の中、誰に当てるでもなく発したのは、後部座席についた僕の隣の二十代後半くらいの男性だった。僕は先ほどの疑問を彼にぶつけてみることにした。
「あの、次の駅で降りたい人だっていると思うんですけど、変ですね」
男はちらりとこちらを見たがすぐに手に持った携帯電話に視線を戻して応えた。
「そりゃ普通は臨時バスっちゃ路線上を運行するさ、ただこの先県道がトンネル内で路線と併走してる箇所があるんだ、そのせいだろう、行きたくてもいけない状況さ。大回りになるが山鍋市経由で北岸市までいける。バスの時間を含めてもそっちのほうが早いよ、北海岸線には快速特急があるし」
男は何度かこの地に足を踏み入れているような口ぶりだ。彼も田舎に帰省するのだろうか。僕の方を一瞥もしないまま、彼は最新型の携帯を持っており、『メール』の送信ボタンを押し電話を閉じてポケットにしまった。そしてぼくに向き直りこう言う。
「きみはどこまでゆくんだい?」
「樫尾町です」
「なんだ、樫尾町なら北岸市駅からバスが出ているからあの鈍行で直接樫尾町に行くより早く着けるよ。俺はケチってあれで北岸まで行こうと思ってたんだけどね。ま、それはそれで特急路線にただ乗りできるんだからラッキーだったかな。しかし、すごい荷物だな、山でも行くのかよ?」
男の口調はだんだん、というより一言話すたびに横柄になっていった。僕は軽くそうだと応えるに留めておいた。
大柄で色黒で無精ひげを生やし、けして清潔には見えないその風貌、色あせたジーンズによれたTシャツ、その彼の傍らにも僕と同じかそれよりも大きな荷物がある。彼は僕が何も聞かないまま自分から話を始めた。
「俺はフリーのカメラマンなんだ。君だって知ってるだろ戦争の事ぐらいは」
戦争のことぐらいは、だと? 僕は自分ではここの誰よりも今回の戦争を実感しているつもりだ。僕がそんなこととはいざ知らず山登りなんかにうつつを抜かす少年に見えたのかもしれないけど、彼の口調はどこか自意識過剰な、人を上から見下ろし世の中を斜に見るような、不快な響きがあった。
「ええまあ、テレビでくらい……」そういいかけた僕が言い終わる前に彼は口を開く。
「ああ、テレビは信用できないぜ、どいつもこいつもしたり顔で評論ばっかやってる。現場が見えねぇのは災害報道じゃいつものことだけど、戦争は人為的なものだ。今最も危険で緊張しているだろう北岸市にそれこそ全国が注目すべきなのに、まるで触れざるだ。これがどういうことかわかってねぇ」
僕は彼の物言いは気に入らなかったが、少なからず同じ疑問を共有している人がいるのだと少し安心した。ただ、彼もまだ実態はつかんではいない。『北岸市』じゃなくて『樫尾町』だ。
北岸市は、この国の北岸地方の中心をなす都市で、僕が目指す樫尾町は北岸市中心から少し北上したところにある。
さっき電車の中で拾った新聞で確認したのだけど、つまり要塞島から見て正面の最前線に立つのは原発のある北岸市若宮町、その東隣の半島を含む地域が北岸市樫尾町、なのだ。当然原発側の若宮町は最重要拠点として常に警戒が為されている。テレビの報道でヘリが飛んでいたのもその地域だ。
彼が再び携帯電話を操作し始めた。ダイヤルのボタンをカチカチと押して文字を打ち込む『メール』は対応するキャリア同士なら文字によるやり取りができる。パソコンなんかにも文章を直接送れるから、メモ帳として使ったり、文字で会話のようなこともできる。どうせ話すなら電話かければいいのにとは思うけど、なんか使ってる奴は楽しそうだ。そのうちああいう機能も当たり前になるのだろうか。
僕はそれを見て自分の携帯電話の存在を思い出した。もしかして新たに着信があったのではないかと思って急いで開いた。
圏外……、着信はない。僕の電話は三流だ。
彼に電話の内容を話すべきだろうか。時計の針は八時をまわっていた。そういえば、もう随分遠くに来た。僕の住んでいた南岸の町ははるかむこうで、今となっては北岸の海のほうが近い位置にいる。
両親は心配しているだろうか、いや、まだこんな時間だ。どこかで遊んでいると思われているだろう。もちろん今日中に帰ることは確実にできないだろうから、後で連絡は入れておかないといけない。
でも、玄関にちらけたままの植木鉢と土の事がなにげに気になった。母は綺麗好きだから、たぶん玄関を開けた時に奇声を上げたことだろう。
そうだ、花はどこに? いや、さっきの老婦人にあげたはずだ。
「なんだい、この花は?」
隣の男が僕との間の座席を覗いて言った。そこにそのガーベラがあった。列車を降りるとき無意識のうちに僕は手に持ちはこび、再び自分の傍らに置いたのだ。ああ僕はまた、何をやっているんだ。
「よかったら、いりませんか?」断られるのを判っていて訊いた。
「あ? いらねぇよ花なんて、荷物になるし。いらないならその辺の花壇にでも置いとけよ」
言葉は悪かったが、彼がそう言うのも当然解る、僕だって今同じ気持ちなのだから。山鍋市についたらそうしよう、こんなものにいつまでも関わってる暇はないんだ。せっかくちゃんとしてくれた山内には悪いけど。
携帯のディスプレイに映し出されたデジタル表示を見やる。そうか、まだあれから五時間しか経っていないのか。まさか僕が今こんな所に来ていることなんて誰も想像しないだろうな。だれも? そう、えー、例えば両親とか、山内とか、近所の爺さんとか……奥田とか。
あれからまだ彼女は逃げているのだろうか。いや、まだ生き延びているだろうか。
「北岸市につくのは終電間際になると思うぜ? むこうに知り合いか親戚でもいるのかよ?」
終電か、言葉は聞いたことあるけど乗ったことはないな。また僕は軽く嘘を交えてそれに応えた。
「ならいいけど、何もこんな日に――」
彼は僕が振り向いたので言葉を止めた。彼にこれ以上僕の事情を訊いて欲しくなかったから意図的に彼に質問をぶつけた。
「あの、カメラマンって、何しに行くんですか?」
眉間を寄せて質問する僕を見て、一寸彼はつまづいたような表情を作った。
「俺か? そりゃあ、戦場にゃスクープはつきもんだろ? ロン・バーキンばりに撮って撮って撮りまくるのさ。俺は有名になりたい。こんなチャンスはそうあるもんじゃない」
「チャンス……ですか」
「ああ、俺みたいな奴は他にも何人もむこうに向かっているだろうけどな。知ってるか? ロン・バーキン、過去の大戦で名を上げた戦場カメラマンだ」
それを聞いた瞬間、僕は彼と少しでも感情を共有できるかもしれないと思った自分を恥じた。なんだ、結局、なんだっていいんじゃないか。人の不幸をネタにして自分さえいい思いができればいいんじゃないか。むしろ戦争が起こったことを喜んでいるようにすら見える。
僕は彼を軽蔑した。そして彼には電話のことは話すまいと心に誓った。惨めななりをさらす奥田や現地で戦災に遭う人々を、この男が自身の功名心のために写真に収める事がどうしても我慢できなかった。その憤りがつい口に出てしまった。
「そんな、ことで……行くんですか? 自分の……」そしてまた僕が言い終えるまでに彼は口を開いた。
「功名心、それとも売名行為か? 生憎俺はカメラマンとしての名前すら売れてねぇからな。そりゃよ、君の言いたいことも理解はするが、コイツは仕事だ、俺のな」彼はさも答え慣れ、既に飽きたかのような口ぶりで言い放つ。僕はそれに必死で応戦した。
「だって、戦争になれば目の前の人が死にかけたり、こまっていたり、それに……」
「ぼうやだなぁ、俺にどうしろって言うんだよ? 戦争で戦う奴は戦えばいい、逃げる奴は逃げればいい、人を助けたい奴は赤十字背負って駆け回ればいい、政治で止められる奴がいるなら努力すりゃいい、それがそれぞれその場で出来る最大の行為だろう? 俺は撮ることをその場での最大の行為とする、そいつが悪いことか?」彼の声のトーンが上がった所為で、乗客の何人かが僕と彼のことを怪訝な顔で交互に見た。
「それは、いえ、わかりません。ただ……」
「ヒトのことをいう前に、君だって山登りに行くんだろう? それこそ俺が言う……いや、やめた。こういう話は嫌いだ」
なんとなく険悪なムードが漂いその後彼と口をきくのは極力避けた。バスは静かにやんわりと山を越えてゆく。誰も多く言葉を交わしてはいない。やがて峠の出口、眼下に明かりが見え始める。
北岸第二の都市、山鍋市だ。ここからは港湾の漁船の明かりまで見える。規模からすると僕の住む町よりも随分、いや数倍大きい。
彼は携帯電話のディスプレイを注視して時折紙に何かをメモしている。傍らに置いたフレームつきの大型のバックパックには三脚がくくりつけられている。中身はおそらく撮影機材と野営道具が一式つめてあるのだろう。彼もまたそれなりの危機感を持って北岸市へと向かっているのだとわかる。
僕のザックの中身もそれは似たようなものだ、彼と同じかそれ以上の危機感を持っているから。だけど決定的に違うんだ、心の中身が。
バスは下りの九十九折をゆっくりと滑り降り、山鍋市の市街に差し掛かる。乗客の中から安堵のため息のようなものがあちこちから漏れだす。
街は平和そのもので緊迫した空気は微塵もない。普通に街灯が灯り、普通に車が行き来している。人だって笑ったり腕を組んだりして楽しげに歩いている。ここだけ見ればやっぱり戦争が起きたなんて考えられない呑気さだ。
バスのステップを降りると、ひやりと涼しかった。さすがは北岸の町というところだろうか。列車で会った老婦人は既に姿が見えなかった。入り口付近できょろきょろと辺りを見回す僕の肩を軽く叩いたのは、先ほどのカメラマンの青年だった。
「じゃな、お先、気をつけてな。くれぐれもやばいところには近づくんじゃないぞ」
「ええ、はい……あの」また僕が言葉に困りながら、何かを告げようと口を開く前に彼は続けた。
「俺のことを汚いマスコミの一員だと思ってもらっても結構さ、金のためには魂だって売るかと言われればそれも厭わないかもしれん」
「いえ、僕は……べつに」反射的に目を逸らした。
「だが、逆にそれがどうしたとも言えるのさ、テレビじゃあんな報道をされているのは君も知っているはずだ、だが君がみたのはテレビの画面だ、本当の現場じゃない」
「それは……」わかっている、というつもりだった。
「その裏にも利害のために魂を売っている奴と買う奴がいるってことを考えたことはないか? 俺は真実を知りたいんだ。まあ、待っていな、俺らには俺らのやり方があるんだ」
あとの言葉の意味がわからなかった。何を待てというのか、俺らの企み? さっきまでとはまるで違う太くて包容力のある言葉の響きは僕に不思議な安心感をもたらした。
「いつかまた。じゃあな」と彼は自身の名刺を僕に手渡した。
ここに来て初めて正面から彼を見据えた。軽薄にニヤリと笑った目の奥には突き刺すような鋭い眼光があるように見えた。彼はバックパックを僕に向けて後ろ手で手を振った。それに僕は反射的に手をあげて応えていた、そして口元が緩んでいた。
「フリーフォトジャーナリスト 皆川譲二」
いつになるかはわからない、一度としてないかもしれない、新聞、写真展、あるいは写真雑誌のワンカット、報道番組の映像、そこに彼の名を見つけることになるかもしれない。その時もやはり僕は彼を軽蔑するだろうか。よくわからなかった。
山鍋市から北岸市まで行く列車はまだ数本あった。北岸市駅から樫尾町まではバスで二十分の距離をゆくことになる。
バスに乗り込む前に東山間線の無人駅でもらった臨時の乗り換え切符を確認しようとウェストバッグをまさぐった。あれ、ポケットに入れたのかな、どこへしまっただろうか?
切符がない。
記憶があいまいだった、確かに受け取ったのだが、何かに気をとられて習慣的にどこかへしまったのだ。切符の類はいつも後ろの右ポケットに入れる癖がある。バスの中で落としたのか、僕はフィールドパンツの全てのポケットをまさぐり、さらにウェストバッグの中身を全て路上にさらけ出して懸命に探した。
もう、お金はないんだ、行きの切符で財布の中身をほとんど使い果たして残りは千円もない。とてもじゃないがここから樫尾町、いや北岸市までもたどり着けない。僕は改札の前の綺麗に飾り立てた花時計の前で途方にくれた。どうするんだ。こんなところで。
何故僕はこんなに少ないお金しか持っていないんだ。何かあったらどうしようもないじゃないか、その“何か”が今起こっている。明日ATMを探して銀行のお金をおろせばここからの切符は何とか買えるけど、今の時間じゃこの先を進む事が出来ない。
「くそっ」僕は自分の間抜けさに腹を立て始めていた、そしてそれもこれも山間線の土砂崩れなんかがあるからだと責任を転嫁させようとしていた。
座り込んだその傍らには相変わらずニコニコと笑っているかのようなガーベラの花があった。それに、何でこいつだけは忘れずに持ってきているんだ、僕は。
花時計前に立ちつくす僕の眼前を、青年や老婦人が乗り込むであろう北海岸線の快速特急が山鍋市の駅に滑りこんでくる。僕もあれに乗るはずだったのに。
一瞬、強引に改札を抜けて無賃乗車を試みることも考えたが、その決意をリスクとモラルが押さえ込んだ。仮に捕まってしまえば即警察に補導される、そうなればこの旅も終わりだ。
仕方がない。明日ATMが開くまでこの町で時間を潰すしかないか。でも、こんな街中でどうやって……肩を落とした僕をよそに快速急行は発車した。こんなことで樫尾町に着いても、僕に何ができるというのだろうか。
いや、今、何かできることはないか。そうだ、電話だ。ここなら通じるはずだ。携帯電話を取り出し着信の確認をした。
きている。奥田からだ。ついでに母からも。さっきバスに乗っていた間にまた瞬間的に電波が届いたのだろう。僕の鼓動は高鳴る、飲み込んだ唾が音を立てて内腑に落ちていった。震える指で強くボタンを押して発信を試みた。もちろん、奥田のほうにだ。
コールが三回鳴る。でない。再び三回、もう三回、「プツ」……ダメかと諦めた、その瞬間電話越しに空気の流れを感じた。着信した。
「もし、もし」
「はい」
「お、奥田? だよな」
電話口の彼女はかすれた声で、昼に聞いたときとは随分違って聞こえた。時折雑音が入るせいもあったが、聞き取りにくく僕は電話を痛くなるほど耳に押し当てなければいけなかった。
「今どこにいるんだよ! 大丈夫なのか?」
「わたし、は、大丈夫。今は……の……かにいるから。でもここでは、あまり電話でき……よ……だ……も……てね」
「奥田! お、おれ! そっちに行くから! まっていろよ! 電話離すなよ!」
「……めよ、きてはダメ! で……が……」クソッ、肝心なところが聞き取れない。
「ついたら連絡するから!」
通信は途切れた。
彼女はとりあえず、何かの中にいるのだ。無事が確認できただけでもよしとすべきだが。しかし、僕が明日着くまで彼女が無事であるという保証などない。状況は明らかに悪化している。
好転などしていない。むしろ何かに何処かに匿われているというより、隠れている状況に近いような雰囲気だった。僕の取り越し苦労ならばそれでも良いが、今まで僕の予想を超えて全てが良くない状況にある。
信じたくないこと全てが現実として起こっている。電車の中で、バスの中で、他人と話すことで幾分の心の晴れ間が見えていたのは単なる蜃気楼だ、現実が切迫していることに変わりはない。
くそっ! くそっ!
やっぱり、やっぱり今、奥田のところはただ事ではないんだ。今まで疑念すれすれのままここまできたけど、僕が信じたいと思っていることのほうが嘘なんだ、信じたくない現実は本当に起こっているんだ。
僕の焦燥とは裏腹に、電話を離した耳から聞こえる駅前の賑わいはやはり別世界だった。今僕がいるこの山鍋市と奥田のいる樫尾町がとても同じ国の中だとは思えなかった。
重低音を響かせたぎらぎらした車で駅前に乗り付けてナンパをする二人の若い男、国道をバイクで走りぬける暴走族の集団、ロータリーでは客待ちのタクシーの中年ドライバーが転寝をしている、スーツ姿のサラリーマンが電車の到着ごとにゾロゾロと降りてくる。駅前の屋台ではお好み焼きやたこ焼きを焼いている。
九時をまわっていた。さすがに両親も心配する時間だろう。電話をくれた母に一言断わることも考えたが、事の経緯を説明する煩雑さにうんざりし、その時間すらもったいなく感じた。もう両親が僕を心配しようと探し回ろうとそんなことはどうでもよかった。
明日、ATMからお金をおろして北岸市経由で樫尾町に行く列車に飛び乗れても、到着は昼になる。今から約十二時間、僕はここで何もせず悶々としていなければならないのかと思うと我慢がならなかった。歩いていく、いや、ここから百五十キロはある、無理だ。
お金を使わずに移動する方法はないだろうか?
よくテレビの番組の企画とかでヒッチハイクというのをやっているのを見たな。紙に行き先を書いて道路の際で掲げて……それだ、そいつで行こう。
僕は早速近くのゴミ置き場からダンボールを引っ張り出し、コンビニでペンを買い、大きく『北岸市』と書いた。まだこの時間の国道は往来が激しくスピードもかなり出ている車が多いので、夜にこの文字を読み取るのは至難の業だと思われたが、今できることをするしかない。
片側二車線のローカルな国道だけにそれほど道路灯が明るい訳ではない、駅からは少しはなれたところにあるせいか人もまばらで開いている商店も少ない。
三十分、僕は国道に向かって“北岸市行”のボードを掲げ続けた。どの車も止まる気配すらない。文字が見えにくいのかと、さらに文字を太く装飾して目立つようにしてみたが大した効果はないらしい。中には僕を指差して笑っているカップルもいる。くそぉ、何笑ってやがる! 今は戦争なんだぞ、死にかけてる奴がたくさん同じこの国にいるんだぞ、それでもお前らこの国の人間か。
腕を下ろし半ば諦めかけたころ、さっき駅前でナンパを試みていた二人組の男たちの乗る爆音を鳴らした車が近づいてきた。そして僕の前でスピードを緩め停車した。
やった、成功だ、なんかいけ好かない連中だけどこの際乗せてくれるならどうだっていい、僕は顔を緩めて助手席のドアに駆け寄った。
助手席の二十代前半かそれより若そうな髪の茶色い痩せた青年と、運転席の同じ年頃の長髪の太った青年が僕をものめずらしそうに、ニヤニヤと笑って覗いた。
「兄ちゃん、北岸市に行きたいんだろ? だけどここじゃ誰も乗せてくれねぇぜ」
「え? な、なんでですか?」
「逆だからぁ」助手席の茶髪の青年は顎をしゃくりながら、僕の立つ車線の反対方向を指し示した。
僕が顔を上げ、「あ」と口に発すかしないかの間に、彼らの下品な笑い声が爆音にかき消され車は急発進で走り去った。
な、なんだよ! そういうなら少しくらい乗せてくれたっていいじゃないか。
いや、怒っても仕方がない、間違えて逆方向に立っていたのは僕なのだから、教えてくれただけでも感謝するべきか。カップルに笑われた意味もわかったし。
気を取り直して僕は横断歩道を渡り再びボードを掲げることにする。どうも、この時間は北岸市に向かう車は少ないようだ。いや、このあたりの人間は気づいているのかもしれない、既に北岸市が危険な地域であることに。
大型のトラックが時折猛スピードで走り抜ける以外は普通の自動車は地元の人ばかりらしいし、どうも望みが薄い。でも、交通規制もされないなんてやはり妙だ。この山鍋市から北岸市までに大きな町はない、はずだ。それに軍用車輌の一台や二台通ってもよさそうなのに。
信号機の支柱にもたれかかり、空腹であることを感じ始め、ため息をついたその時、遠くに異様な車列が見えた。こちらに向かってドロドロとした重低音を響かせながら近づいてくる大型車の群れ。
国防軍だ。先頭にジープ型の四輪駆動車と装甲車、その後ろには陸戦砲や、戦車を乗せたトレーラー、その後ろに幌をかぶった輸送トラックが十数台、荷台には兵士を乗せている。重圧を振りまきながら圧倒する灰色の鉄の群れの前に僕はただ呆然と立ち尽くし、ボードを下げてそれらを見つめる。
神妙な面持ちで荷台最後部に乗る兵士の顔が見えたが、彼らは口を結び一点をただ見据えていた。これから命をかけた戦いに向かうのだ。ヘラヘラと雑談しているわけにはいかないだろう。
だが、車列の最後のトラックに乗る一人の兵士が僕に微笑んで、一瞬軽く額に手を掲げ、敬礼のような仕草をした。僕は驚きながらも、あわてて礼を返した。
ここへきて初めて戦時らしい具象を見た。国防軍はやっぱり北岸市に向かうんだ、北岸市周辺が緊張地域なんだ、彼らは戦地へ向かうのだ。
僕も向かう。その微笑と敬礼は僕にとって心強かった。彼に強い意志を感じた。まるで僕を、僕のことを鼓舞してくれるかのように、今の僕の行動が初めて肯定されたような気がした。そしてそれとともに大きく重い不安も感じた。背筋に緊張を張り詰めて、遠ざかる車列を見えなくなるまで見つめていた。
国防軍が現場に向かっているとするならば、そこは明らかに紛争予測地帯だ。ならばもっと多くの避難らしい車列が反対車線に出来てもいいはずなのにそうは見えない。
奥田との一度目の電話からすると今日の昼には既に戦闘が始まっていると考えてもよかったが、それが単発的な小競り合いで事態が収拾し、その後に本格的な避難命令が下されつつある、呑気な対応のようだが自然災害のように問答無用なモノではないのだから意外とそんなものなのかもしれない。いや、でも奥田は言っていた「この町が全て戦場になっている」と。
隣で「キッ」と甲高い音がした。自転車のブレーキの音だ。自転車にまたがり信号待ちをする、半袖シャツにネクタイのサラリーマン風の青年だった。
青年は僕をちらりと見やり、振り向いた僕と目が合う。訊いてみるしかない、ここの人なら僕らよりもより明確な情報を知っているに違いないんだから。
「あ、あの、すいません」
「なに?」
「ここは避難命令とか出てないんですか?」
「ああ、戦争の事かい? まだそういうのは聞いていないなぁ。宣戦布告してすぐに戦闘が始まるわけじゃないだろうし、実際隣国の軍隊も動きはないようだし、以外とこのまま外交で戦闘回避ってのもあるんじゃないのかな?」
そんなわけないだろう、外交で回避できなかったから戦争になったんじゃないか。
「国防軍は北岸市に向かってましたよ、さっき」
僕が食い下がったため、彼は渡りかけた横断歩道の信号をいちど見送ることになった。彼は自転車のハンドルに肘をかけて北岸市の方角を見つめながら言った。
「あ、そりゃまあそうだろうな。例の要塞島が近いから、警戒するならあっち方面だもんな。いつものパフォーマンスじゃないの? 撃つ気もないし、攻める気もない、むこうさんが自主的に退いてくれりゃ御の字、その辺のスタンスは前身の防衛隊の時代から変わっていないだろうからね。世の中の論調はそんなもんだよ」こともなげに青年は言った。さっきの皆川という青年とはまた印象が違う、さらりとした感じで。
「そんな……もん、なんですか。」
「ははっ、でなけりゃ、こんな悠長にみんなやってないよ。俺だって明日も普通に会社あるし。じゃな、気をつけるに越したことはないけど君の考えすぎだよ」
青年はそういい残して信号を渡って走り去って行った。彼のいうことはもっともだ、でなきゃこんなに悠長にやってはいない。でも、僕の考えすぎなんかじゃない、僕はこの耳で聞いているんだ、奥田の声、爆音、悲鳴、普通じゃない空気の震えが電話のむこうにあった。彼が知らないだけなんだ、いや、この町の人々が知らないだけなんだ。もう、行くしかない。こんな所にいつまでもいたって仕方がない。
僕は北岸市へと延びる国道を見つめた。なんとしても、どんな手段を使ってもたどり着けさえすればいい。僕はヒッチハイクのボードをコンビニのゴミ箱に突っ込んで、再び店内で北岸地域の一番安い地図を購入し駅前へと戻った。
相変わらず駅前は普通の風景で、今日の荷物を降ろして家路へ羽ばたいてゆく通勤帰りの人々と塾帰りと思われる子供の集団でにぎわっている。
そんな緩く流れる暮れ時の駅前を、焦る足取りでベンチに座り地図を大げさに広げる。
まるで僕だけがホームドラマに迷い込んだアクションスターのような場違いさをかもしだしているような気がする。正直言って興奮していた。
この国の人々は集団心理に弱いのだと、ある心理学者がしたり顔で話していたのを思い出す。
戦争が起きたことは知っていても、誰も大変だ、と言い出さないから大変ではないのだろうと、ましてやテレビで何も言っていないのだから何もないのだろうと、自動的に感じる体質になってしまっている。だから逆にいえば、ひとたび事が起これば収拾がつかないことになる。
もちろん僕だけが特別なんじゃない、僕だってニュースソースのほとんどはテレビか新聞だ。この選択肢の少なさに辟易してあのカメラマンが“テレビは信用できないぜ”という気持もわからなくはない。
今までテレビは公正で正確な放送をしているようには感じてきたが、今回ばかりは彼の考え方は正しい。それは僕が証明できる。
使命感。ときに無理を押しても人は前に進まなきゃいけない。昔見たヒーローアニメの一場面を思い出していた。
自転車だ。どこかに放置自転車の一つでもあればそれを拝借させてもらおう。
人のものを盗むことをこれほどまでに肯定できるとは思わなかった。僕は鍵のかかっていない自転車を駅前の自転車置き場から探していた。カギがかかっていなくて、なおかつタイヤの空気が抜けていないものを探すのはなかなか困難だった。
まだ人気もある中で盗みを働くというのは心臓によくない。息が荒くなって必要以上に汗をかき、目当ての自転車を拝借したころにはTシャツが汗でびっしょりだった。そそくさと自転車置き場を離れ、物陰でサドルの調整をする。
実際百五十キロを自転車で往くのは大変だろう、バイクでもあればよかったのだけど、さすがに盗むのは無理だ。
でも頭の中で計算をしてみても時速十五キロ、速度を維持してこぎ続けても十時間もかかる。
多分十時間も一定の速度を維持できるとは思えないから実際はもっとかかるだろう。でも明日の朝まで列車を待つよりは早い、少しでも早く着くべきだ。それに列車が途中で止まる可能性も、明日の朝の時点で運休になる可能性もある。
そうだ、考えてもみろ、戦地へ向かう公共交通機関なんてあるもんか。あの老婦人も、皆川という青年も、目的地にはたどり着けずに途中で足止めを食らうさ。
僕は盗んだ自転車で国道に漕ぎ出した。手に持っていたガーベラの花を前かごに入れようと、“フラワーヤマウチ”と印刷された半透明の手提げビニール袋を目線の近くまで持ち上げたとき、鉢の下敷きになった列車の切符を見つけた。一瞬ハンドルを握る手に後悔を覚えたが、もう迷わないことにした。
この花のいたずらに、もはや僕には自分の力しかあてにするなと、他の人が話すどんな情報も意味を成さない、差し迫る絶望と僕が抱く希望だけが確かに僕を戦地へ向かわせる能動的な意味なのだと、そう告げられているように思えた。
平和な僕の玄関口から突然足場を奪われ、なんとか命をつなぐこのガーベラが、皮肉にも戦渦の彼女、奥田美和の今をリアルに表しているかのように思えた。
だから、僕はこの花を奥田に、彼女に、届ける。それだけのために、僕は樫尾町まで走る。それでいい。届ける事が出来れば。
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