第8話 「ガソリンの匂い」

 興奮の中、ほとんど信号もなく真っ直ぐな国道での追跡劇は長くは続かなかった。明らかにこちらに分があることは、目の前に広がる光景が指し示している。


 もうさっきの自販機は微塵も見えなかった。バックミラー越しに警察官が停車する姿がかすかに見えた。


 この先待ち伏せされるか、後続のパトカーでさらに追跡されるか。いずれにしても、僕はこの生涯で初めての究極の選択をし、その道を走り出してしまった。


 こうなったら、意地でも北岸市へ、樫尾町へ、奥田のところへ、たどり着くしかない。もうそれしか道はない、僕のこの今までの全ての行動を肯定できる道はそれしかないんだ。中途半端で制止させられて“僕には出来ると思った”なんて、うなだれながら誰の前でも言いたくはなかった。


 まだ心臓の激しい鼓動は収まらない。明らかに興奮していてアクセルを握る手が上手く操作できない。落ち着け、落ち着け。スピードを幾分か緩めようと、まずは風の中で大げさに口を開いて息を吸い、肩の力を抜く。


 バイクに乗ったのは一年ぶりになる。僕だって馬鹿じゃない、島以外でバイクに乗ろうとはしなかった。もちろん自分の地元の南辺の同級生に自慢するようなこともしなかった。


 機械が特に好きなわけでもない、ただこの爽快感は他のどんな乗り物でも味わう事が出来ない魅力があった。


 自由で、身軽で、気ままで、どこでも、どこまでもいけそうな、それでいて危なっかしくて、不安で、孤独で、祖父が高齢になっても仕事以外で車を乗らない理由もそこにあるのかもしれない。想像だけど、この乗り味が単座のレシプロ戦闘機を髣髴させるのかもしれない。


 僕は祖父の性格だけでなく、運転技術も継承しているのだろうか、随分コイツを手や足のように扱える自分がいた。確かに今僕は、バイクに乗れている。警察官も僕がまさかこんな行動をとるとも、ぶっちぎられるとも思っていなかっただろう。


 ひっかけみたいな汚い手を使う奴らを煙に巻いたという快感は、風を突き切り走ることにより一層増した。夜の田園風景の中、髪と衣服をはためかせながら、一人悦に入っていた。


 しかし、そう浮れてもいられない。このまま走っていてもいずれ追跡される。まがりなりにも警察のバイクを奪った強奪犯だ。それに僕は荷物のほとんどをあそこに置いてきてしまった。


 身元を辿るようなものは何もないはずだけど、手元に残っているのは身につけたウェストバッグとこの左手首にかけたガーベラの花だけ。このバイクであと百キロも走れるのだろうか? 燃料がどれだけあるかもわからない。


 バイクは自転車と違って運転しても汗をかかない、むしろ風ばかりが当たって肌寒い。僕は腰に巻いていたシャツを着ることにした。一応警戒して国道から横道に少し入ると、田んぼの中に立つ寂れたお堂の裏にバイクを止めた。


 周囲に民家はポツリポツリと点在しているが薄ぼんやりと明かりが見える程度で、人の気配は感じない。ここの人たちは既に避難しているのか、それともただ単に寝るのが早いだけなのかもしれない。何れにせよ人気がないことは好都合だ。


 軽快な音を奏でながら僕を戦地へと向かわせる一台のバイク、キーを切るとあたりは静寂が支配した。静かな虫の鳴き声がどこからか聞こえる。


 両足を着地させシートにまたがったまま腰に巻いたシャツを羽織り、ボタンを留める。


 大きく息を吐き呼吸を整えてから国道側の様子を見るためにバイクから降りた。


 ところがそのとたん膝から力が抜けてバランスを崩しバイクもろとも草むらに倒れこんだ。必死にもがき、挟んだ足を引き抜いたが、下半身が言うことをきかない。力が入らなくてバイクを引き起こせないのだ。


 腰が……抜けてるんだ。


 そうか、これが腰が抜けるということなんだ。急に笑いがこみ上げてきた。面白いわけじゃないけど、なぜかへらへらと笑いが腹筋の辺りからもれてくる。自分の意志でとめる事が出来ない、バイクを上半身で支えながら僕もまたバイクに寄りかかり動けないでいた。


 よかった、国道から見える場所でこれをやっていたら、どうしようもなかった。お堂の陰になる草むらの中で僕とバイクは妙な姿勢で支えあいながら数分語り合うことになった。


 ガソリンのにおいがする。一瞬倒れた時に漏れたのだろうか。体温のようにじわりとシャツ越しに伝わるエンジンの熱気は冷えた体に優しかった。力が入らず投げ出す形になった片足は、意図せず田んぼに突撃して泥団子のようになっていた。


 頬をビニール製のシートにあて、頭をもたげる。適度な弾力とひやりとした感触は何か不思議な安心感を得て、まぶたを閉じさせた。虫の音がする。静かだ。それに、疲れた。


 やっちゃったよ。とんでもないな。


 今日の昼間までは僕は何でもないただの受験生だった。西日の中、高校入試のための夏期講習に陰鬱な顔で向かっていたはずだった。夜の八時まで授業を受けてそれから夕飯を食べてまた勉強。今くらいの時間だと深夜ラジオを聴きながらうつらうつらとしているはずだ。


 それが今、こんな場所にいる。


 まどろみそうになった時、けたたましいサイレンの音が僕を現実に引き戻した。パトカーだ。僕が向かう方向から、さっき来た方向へと走り去った。僕を迎え撃つ刺客だろうか、仮にそうでなくても僕のヘルメットもかぶってないこのなりじゃどっちみち止められる。


 再び僕はガーベラの花をみた。不自然な角度でバイクを支える僕の左手首にぶらさがり、何事もなかったように、笑っていた。


 下半身の感覚が徐々に戻り、ようやく僕はバイクとの抱擁を解き、真っ直ぐに立て直す事が出来た。このままほとぼりが冷めないうちにバイクに乗って移動するのは危険だったが、むしろ明るくなってからでは目立ちすぎるし、今のこの状態じゃ野宿だって出来やしない、明けてからバイクを放棄して移動手段が得られる当てもない。


 今のうちに距離を稼ぐしかない。百キロ、明け方までに走りきることだ。ガソリンはどこだろう、僕は車体を左右に振ってチャプチャプと音のするところを確かめた。どうやらシートの下らしい。


 シートをあげると、キャップのようなものがついており、その後ろに簡易的な容量計のようなものがついていた。これがガソリン計だろう。針は満タンより少し下を示していた。


 ガソリンがもつかどうかの確証は全くなかったが途中で給油する訳にもいかない。目立つ行動は出来るだけ避けなくてはいけないわけだし。なによりお金がもうほとんどない。この後どうするのか。


 いや、今までしてきたことの清算を僕は出来るのだろうか、そんな不安は脳裏の隅に常にあった。だが今は考えるときじゃない。またもや僕の携帯電話は圏外だった。両親はもしかしたら捜索願を出しているかもしれない。


 映画のアクションヒーローたちは無鉄砲にもその場その場の状況打破だけに奔走する姿がドラマになる。それは理想だ。何の迷いもなくあんな風に思い切りやれたらさぞかし気持ちがいいものだ。


 だけど普通の人は迷う。常に自分の決断は正しいのかと、迷い苦しみながら前へと進むかそのまま逃避するかの狭間であえぐ。


 僕はもう一度深く息を吸い込み、大きく吐く、花を見やり自分のなすべきことだけを念じる。


 キーをひねり、キックスターターを踏み込む。


 エンジンの小気味良い音が再び静寂を押しのけて、ヘッドライトが闇を開き、バイクは自己主張を始めた。同時に僕もまた前進する気力のエンジンに灯がともる。花の手提げ袋は左の手首から外して、出来るだけ風のあたらない足元の風除けの部分についているフックにひっかけた。


 僕は往く。希望を携えて、戦地へ。


 もう一度ガーベラの花を一瞥し、意を決しギアを一速に叩き込んで、再び静寂が支配する国道に滑り出した。

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