*楽しみと悲しみは今日と明日

 ──夕闇迫る住宅街

「じゃ、じゃあ私はこれで失礼しますわ」

 試験に関する会話を少しだけ交わし、レイチェルは足取り重くベリルの家をあとにした。

 若くて綺麗でなんでもこなすベリルに自分は到底、向いていないと実感しうなだれてややよろめきつつ家路を急ぐ。

「気をつけて」

 彼女の背中を見送りダグラスに目を映す。

「いつ発つの?」

 少年は両腕を頭の後ろに回して訊ねた。

「明日の午後だ」

 レイチェルの事を上手く交わしたつもりなのか、「ふうん」と生返事をして家に入っていく。

「どれくらい?」

「移動を含めて三週間ほどになる」

 ダイニングテーブルに腰掛けたダグラスを見てベリルはキッチンに向かう。下ごしらえは済ませていたので夕飯の準備をしながら料理を作り少年を一瞥いちべつする。

 要領と察しの良い子ども──確かにそうだ。ダグラスは他の子どもと比べればかなり扱いやすいと言える。しかし我が儘を言わないぶん、心にため込んでしまいかねない。

 ダグラスはそうではないと思いたいが、十代の感情は複雑で全てを窺い知る事は到底ベリルには出来はしない。

 幼少の頃から自分は感情が希薄なのかもしれないと考えてはいた。多くの知識を持つであろう学者ですらベリルの目からは感情豊かに見えていたのだから。

 これは感情の制御といったものではなく、いくつかの欠落が見られるのではないか──そうであるならば、その部分において自身で知ることは不可能だ。

 それでもどうにか補えないものかと、自由を得る十五歳までベリルは自らに課せられた勉強を続けていた。今でも考えさせられる部分は多々あるものの、まずまずしのいではいる。

「場所は?」

 ダグラスは出されたチキンドリアを食べながら再び訊ねた。

「南アフリカ」

「りょうかい」

 湯気の立つホワイトソースに包まれた熱いチキンに息を吹きかけ口にほおばる。ベリルはそれを見ながら自分の分の料理を少年の向かいの席に並べた。

「麻薬製造の組織を叩く」

 内容を付け加えたベリルと目を合わせ食事を続ける。きっとそうだろうと思っていたダグラスはあえて問うつもりはなかったが聞けばやはり安心する。

 ベリルは死なないと解ってはいても心配せずにはいられない。一人残される事が怖いのか、帰ってこないベリルに捨てられたと思う事が怖いのか。

 どちらなのかは判断しかねるけれど、ベリルならば信じられると確信めいたものだけは心の奥にあった。


 ──朝、

「いってきまーす! ちゃんと留守番してるから安心して」

 ダグラスは昨夜、色々と考えていたせいか若干の寝不足にあくびをしながら家を出る。

「してなければケツを叩く」

 見送りの言葉に「うげ~……」と顔を歪めて通学バスに駆け込む。

 ベリルはダグラスを見送ったあと、黒いバッグを肩にかけピックアップトラックに乗り込んだ。

 今回、叩く組織は『シャイニー・ブレイド』の最下層に位置する集団だ。ここを叩いたとしても、大元の組織にはたどり着かないようになっている。

 しかし、製造場所を一つを潰す事で多少なりとも奴らに痛手を負わせる事は出来るだろう。地道な作業だが、やらないよりはましだ。

 このいたちごっこはいつまで続くのだろうか──ハンドルを握り苦笑いを浮かべる。

 人は弱い、いつ暗闇にその足を浸してしまうか解らない。しかし、その弱さは強さをも生み出す。時として考えられない力を絞り出す。

 ベリルはその可能性を信じているのかもしれない。ベリルが戦い続ける理由を考えるとき、ダグラスはいつもそこにたどり着く。

 人間はきっと、終わりがあるから頑張れるんだ。けれどベリルには果てがない。それでも続けていられるベリルがダグラスには不思議でならなかった。


 ──いつものように授業を終えると、

「おーいダグ!」

「よう」

 校舎を出た所でハリーに呼び止められる。嬉しそうに駆け寄ってきたハリーがダグラスの肩に腕を回した。

「なあ、おまえんちに行っていいか?」

「いいけど、ベリルいないよ」

 それにハリーは快活な声をあげて笑った。

「違うって! ──って出張?」

 確かベリルさんって傭兵だよな? いないっていうことは~と、ハリーはごくりと生唾を呑み込んだ。

「うん。組織を潰しに行った」

 しれっと発したダグラスに眉を寄せる。彼にとっては日常的なものなのだろうか。自分ならこんなに落ち着いていられない。

「麻薬製造組織だってさ」

「へ、へえ~。まあいいや、あとで家に行く」

 互いに手を挙げ一端別れてダグラスは途中のスーパーマーケットで炭酸飲料を買って家に戻る。

 冷蔵庫を開けてみると思った通り、日持ちのするゼリーが入っていた。

 キッチンを見回すと、真っ白いクロスがかけられたバスケットが目に入る。どこにでもある中くらいのバスケットにはきっと何かが入っている。

 ダグラスはかけられたクロスをつまんで中を覗いてみた。そこにはクッキーが盛られていて、一つを手に取り口に含む。グラノーラでも入っているのだろうか、甘すぎず独特の食感がクセになる。

 着替えを済ませハリーが来るまでリビングでくつろぐことにしてソファに寝ころびテレビをつけた。

 以前、浅く座ってだらしなく背もたれにもたれかかっていたらベリルに頭を殴られた事がある。

 浅く座る事は腰に大きな負担をかけてしまうらしく、「最後まで自分の足で歩きたいなら浅く座るな」と言われた。

 深く座るか寝ころべ。それがこの家に来て初めてベリルにしかられた事だった。

「お?」

 そうこうしている間に玄関の呼び鈴が鳴り出迎えると、ハリーがポテトチップスの袋をダグラスに手渡した。

「はい、手みやげ」

「サンキュ」

 ハリーをリビングに促し、飲み物を取りに冷蔵庫に向かう。グラスに炭酸飲料を注いでハリーに差し出した。

「サンキュ。お、美味そう」

 ジュースを飲み目の前にあるクッキーに目が留まる。

「ベリルのお手製」

「へえ~。ん、美味いな、これ」

 一つをぽいと口に投げ入れて広がる風味にもう一つと手が伸びる。

「うん」

「でさ、あれからまた親に言ったんだよ」

「そしたら?」

「反対された」

 ガックリと肩を落とす様子を一瞥し、ハリーの持ってきたポテトチップスの封を開ける。

「そんなに気にしなさんな。人間万事塞翁が馬じんかんばんじさいおうがうまってね」

「ジン……なんだって?」

「あ~、Joy and sorrow are today and tomorrow.(楽しみと悲しみは今日と明日)ってこと。中国の古事にあることわざだよ」

「気の持ちようってか? おまえよく知ってるねぇ……。中国の古事か」

「ベリルに教わった」

 テレビを見ながら応えたダグラスに目を丸くした。

「親父さん頭いいんだなぁ。ホントに傭兵?」

「ホントだよ」

「いつから傭兵してんの?」

 ハリーは身を乗り出した。

「さあ? 十五歳でこの世界に入ったっていうのは聞いてるけど」

「じゃあ、その前は?」

「知らない」

 ハリーはそれに首をかしげた。昔の話をするのはどの親も共通だと思っていたからだ。親の昔話なんて聞きたくもないのに嬉しそうに語る親には逆らえない。

 しかし、ダグラスの親なら話は別だ。

「訊かないのか?」

「ん~、あんまり話したくないみたい」

「もしかして、実はどっかの財閥の息子とかさ」

「まっさかぁ!」

 ダグラスはケタケタと笑った。しかしハリーは少し真剣な目をして続ける。

「どっかの国の王子様──とか」

「はあ?」

 二人はしばらく互いに見合う。

「んな訳ないよなぁ」

 同時に発して笑った。それからしばらくゲームや会話を交わしハリーは帰って行く。

「オレ、諦めてないから」

「うん。頑張ってね」

 駆けていく背中に手を振りふと思い起こす。

「王子様……ねぇ」

 そうだったら面白いけどね。確かにベリルは上品で頭もいい。頭がいいを通り越して天才だよね。

 どこぞの金持ちの子供でも不思議じゃないけど。むしろ──

「むしろ神様が作ったって言われた方が、なんか納得するんだよね」

 暮れゆく空につぶやいて家に入る。


 ──それからは何事も無く、あっという間に三週間は過ぎる。

 初めて留守番をしたとき、ベリルは食事の世話を料理の出来る傭兵に頼んだ事があった。ダグラスはそれが嫌で「一人で大丈夫だから次からは呼ばないで」と頼むと、彼はそれを素直に受け入れた。

 少し拍子抜けしたが、なんとなく悪い気がして留守番の間は自炊するようになった。

 ちょっとした我が儘だったのだが、ベリルにはものの見事に通用しなかった。少年を信用したのか、ただ突き放しただけなのかは解らない。

 しかし、素直に聞いてくれたベリルの言動で「もしこれで変なことをしたら、全ては自分のまいた種」だという事を痛感した。

 結局はベリルの思うつぼなのである。のらりくらりとしているくせに、要所要所は絶対に外さない。

 どこまでが真剣で、どこまでがふざけているのかもまったくもって掴めない。

 とにかく、もうすぐベリルが帰ってくるのだ。少年は待ち遠しくて仕方がなかった。

「鬼の居ぬ間に……」と世間では言うものの、ダグラスにとっては退屈きわまりない。教わりたいことは山ほどあるのに、その当人がいないのでは独学では限界がある。

 この国において子供を一人にさせることは罰則対象となる危険がある。ダグラスはある種、特別措置として近隣住民が面倒を見るといった形が取られていた。

 所在は常に誰かには知らせておくというものだ。面倒ではあるが、ベリル以外に世話をされる方がダグラスにとっては面倒でしかない。

 予定では今日の午後、想定外のことがなければ家に帰る頃にはいるはずだ。ダグラスはトーストをくわえて学校に向かった。

 この学校には学食があるため、昼食はそこで食べることにしている。

 課外授業でベリルに弁当を作ってもらった事があったが、クラスメイトたちはその中身に感嘆した。ダグラスにとっては日常の延長であるものは他者にとってそうでもないんだなと実感した出来事だ。

 おかげで、ほとんどをクラスメイトに食べられてしまいとても残念だった。代わりにピーナッツバターサンドを押しつけられる方の身にもなってほしい。

 ベリルはそれを予想していたのか、ついでに夕飯にも使おうかと考えていたのかは解らないけれど、弁当の残りが家にあったからどうにか味わう事は出来た。

 ベリルは不死でお腹を空かせることが無く、一人のときはもっぱらお酒がメインで味わう程度しか作らない。いくら飲んでも酔うことがないらしいけれど、やっぱりお酒もたしなむ程度にしているそうだ。

 そんなことを考えながら早く授業が終らないものかとそわそわした。

「よし! 帰宅!」

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴った途端に立ち上がり、スポーツバッグを背負って転がるように教室から駆け出した。

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