第10話

「うー痛い痛いっ……だがボクの勝ちだ、勝ちだからな!」

 医務室で佳枝葉はたんこぶをさすりながらそう主張した。

「分かった分かった、それよりおとなしくしてろ」

 不知火は溜息をついていた。

 本当は公式ルールでは佳枝葉のような飛び込みは違反らしい。

 飛び込みで飛距離を稼ぐ魔物の能力ばかりが重視されて水泳競技の意味が無くなってしまうからだ。

 だが僕達はそんなルールは知らなかっただろうということで不知火が譲歩してくれたのである。

 佳枝葉は普段から何かやらかす子だと思っていたが、今回も盛大にやらかしてくれた。

 そしてそれが幸運を掴んでしまうのだから凄いものだ。

 晴れて巳薙は〈聖儀式〉できることになった。


 手早く着替えを済ませると学校へ向かう。

 まだ校内は部活をしている生徒たちがいるだろう。

 校門が閉まるにはまだまだ時間がある。

 学校に到着すると空き教室を捜した。

 空き教室が見付かるといよいよ〈聖儀式〉である。

 不知火は頭を掻きながら言った。

「まあ、葉歌呉が相手でも悪いわけじゃない。俺の方はこれで運が良ければ泳ぎに適した体型と強い脚力が手に入るはずだ」

 巳薙はパンと手を合わせて喜んだ。

「ありがとー! これであたしも先輩をゲットできる!」

「運が良ければ、だがな」

「ふふん、これは流れがあたしに来てるってことだよ。ということは、確率もあたしに味方してくれるってことだね。運命の女神が微笑むってやつ? あ、女神はあたしか! じゃあ最初からあたしの勝ちに決まってるね!」

 既に目的は達成したとばかりに喜ぶ彼女は微塵も失敗を考えていなかった。

 僕と佳枝葉は教室の外で見張り役となり、巳薙と不知火が空き教室へ入っていった。


 待っている間、佳枝葉がニヤリとして話しかけてきた。

「遂にボクは金になる能力を見つけたぞ」

「え……?」

 僕は呆気に取られて瞬きをする。

 金が簡単に稼げる能力など見付からないと思っていたんだけど。

 そんなこちらの考えを見透かすように彼女はチッチッと指を振った。

「方法を変えたんだよワトスン君。金を生み出すような能力は無かった。それは確かだ。しかし、年収の高い人にどんな魔物が多いかというのを調べることはできる……!」

「ああ、なるほど! 稼ぎやすい能力だったらあるかもしれないね」

「そうだ。経営に向いている能力や芸能界に向いている能力などはある程度絞ることができる……! そこでボクはある結論に至った……」

「へえ、どんなの?」

「聞いて驚くが良い……! 稼げるランキング堂々一位は……っ」

 わざわざもったいつけてからそれが明かされた。

「【リッチ】だ! 【リッチ】になってリッチな生活を手に入れよう!」

「へ~【リッチ】か。しかしその怪しいキャッチコピーは何だ」

「ボクが調査したサイトに書いてあった」

「大丈夫なのかそのサイト……」

 まあ【リッチ】は勉強ができるようになると有名ではある。

 出世には適しているのだろう。

「これでボクは稼ぎまくりだ……! 後は【リッチ】になるための男子を捜せば良い」

「せっかく【龍】になれたのに良いのか?」

「うっ……それは……そうなんだけど……【龍】は稼げるランキング二三位なんだ」

 佳枝葉は俯いて指を合わせる。

 本当は捨てがたいのだろう。

 憧れとお金。

 どっちを取れというのは彼女には酷な選択かもしれない。

「それでも割と良い方ではありそうだけどな」

「でも、バカ弟のためにも稼がないといけないし……」

 何か本当にイイ娘だな。

 そんなことまで考えてるのか。

 こんな健気な娘に何か幸運が来ないものだろうか。

 僕は頭の輪っかを触ってみる。

 僕も計画的に生きた方が良いかもしれない。

 とりあえず誰でも良いから一度〈聖儀式〉をして、それからじっくり【リッチ】を目指してみるか?

 そうしていると、教室の中から男女の嬌声が聴こえてきた。

 光もガラス越しに漏れてくる。


 僕と佳枝葉は顔を見合わせた。

 傍から聞いてみると、想像以上に艶っぽい喘ぎ声なんだな……


「ソ、ソウジ……その、ボクも、もしかしてこんなあられもない声を……?」

 佳枝葉が顔を赤くして俯いた。

 僕はゴクリと喉を鳴らしてしまう。

「さ、さぁ……?」

 声が裏返ってしまった。

 初めての〈聖儀式〉。

 思い返してみると無我夢中というか心の余裕が無かったからか、鮮明には思い出すことができない。

 ただ、彼女の肌はとてもすべすべしていて……

「こ、こら! 思い出すんじゃない! この助平!」

「いてっ叩くことないだろう。訊かれたから思い出したんだし」

「忘れろ、忘れるんだ!」

 ポカポカ叩いてくる佳枝葉の手を僕は阻止するために掴んだ。

 手首を掴んだために彼女の肌に触れてしまい、確かこんな感触だったと思い出してしまう。


 互いにビクッとして見つめ合う。


 佳枝葉の瞳が潤んでいて妙に女の子を意識させる。

 まじまじと見てみると、けっこう、いやかなり可愛いかもしれない。

 手を離し、僕は顔をそむけ、そっけなく言った。

「た、叩くなよ……」

「う、うん。ごめん……」

 佳枝葉もあさっての方を向いてそう返す。


 何だか顔が熱い。

 心臓もドキドキする。


 そうしたらガラッと勢い良く戸が開けられた。

「へーい終わったよん! 見事狙い通りになったぜい! ……って、どうしたの?」

 巳薙がVサインで報告してくるが、僕らは大きく仰け反っていた。

 マズイところを見られたみたいな焦りの気持ちがあった。

 不知火は僕達の横を通り抜けていった。

「こっちも狙い通りになった。ありがとな」

 あんな声を挙げた直後だというのにクールだ。

 しかし両手をポケットに突っ込み前かがみに歩いていくのはちょっとおかしかった。

 でもしょうがないよね、男の子だもん。


 それを見送ると、僕は改めて巳薙を見てみた。

 確かに【サキュバス】になっている。

 顔つきも体つきも若干セクシーになったような気がする。

 顔にはワンポイントみたいに紋様が入り、小さな角が見えた。

「誘惑の能力も手に入れたの?」

「もち!」

 巳薙はくるりと回転してスカートをひらめかせる。

 それだけでちょっと刺激的な魅力を感じてしまう程に彼女は変貌していた。

 見た目も変わったがそれ以上に言いようの無いオーラが変わったと見るべきだろう。

 僕達は祝福のハイタッチを交わし、早速右京先輩のところへ行くことにした。


「善は急げ! じゃあ悪は? もっと急げー!」

 ノリノリの巳薙を先頭に走っていく。

 美術室まで辿り着くと、ちょうど右京先輩が廊下の向こうからやってくるのが見えた。

「まるでミナギが来るのと合わせたかのようなタイミングだな! これは流れがこちらに味方しているぞ!」

 佳枝葉が励ましの声をかけると巳薙は力強く頷いた。

「流れが来てるね、全てがあたしに味方している! この勢いで行ってくるよ!」

 僕もそう思った。

 運気というものはあると思う。

 流れが良い時というのは何をやってもうまくいくものだ。

 これだけ良い流れなら宝くじを買っても当たるのではないだろうか。

 野球で言えば連打で得点を重ねるような空気で僕と佳枝葉はバッターの巳薙を送り出した。

 走者一掃の満塁ホームランを期待した。


 巳薙が駆け寄ると右京先輩が気付いた。

「先輩、ちょっとお話がっ」

「えーと、君は?」

「葉歌呉巳薙といいます。実は大事なお話が……」

 はにかんで頬を染める巳薙の様子で右京先輩はある程度察したようだ。

 女の子に呼び止められて大事な話があると言われれば第一に思い付くのは告白である。

 先輩は冷静を装っているが、頭を不自然に掻いてみたりそわそわしているので男の僕には内心うわついているのがよく分かる。

 巳薙は思い詰めたように俯き、上目遣いで先輩を見ていた。

 心の準備。

 これから一世一代の大勝負といった感じ。

 女の子が告白する場面そのものだ。

 沈黙の間も右京先輩は急かさなかった。

 女の子の勇気が整うまで待つのは男の甲斐性であると伝わってくる。

 そして、巳薙は顔を上げ、目を瞑りながら勢いに任せて、言った。


「〈愛の強制支配〉! わらわは貴様の飼主となる!」


 彼女の両手からポワポワと光が発し、右京先輩の眼球へと侵入していった。


「ふげあっがっアッ……!」


 右京先輩がガクガクと操り人形のように踊る。

 光が薄れていくと先輩の目がトロンとなっていた。

 巳薙はそれを見ると成功を確信したようだ。

 妖艶な笑みを浮かべて問い掛ける。

「うふふ、大事なお話が……あるんですよね?」

 右京先輩は電波を受信したようにビクビクと顔を震わせる。

 それから力一杯叫んだ。

「巳薙、僕は一目見た時から君しか見えなくなった! 君こそ僕の理想! 君こそ運命の人だ! 僕と付き合ってくれ!」

「ほ、本当ですか先輩! あたし嬉しい!」

 二人はがっちり抱擁を交わす。

 告白は成功だ。

 僕と佳枝葉は陰で喜んだ。

「うまくいったみたいだね!」

「うむ! 飼主という不穏当な言葉も聴こえた気がするが、これで恋人同士だな!」

「不穏当な気もするけど恋の形は色々だよね!」

「ああ、二人の幸せを願うばかりだ!」

 二人でハイタッチしたり固い握手を交わしたりしばらくの間感動を分かち合う。

 それからそっと巳薙たちを残してその場を去ることにした。

「もうこれ以上僕達がいてもお邪魔虫なだけだ。帰ろうか」

「無粋な真似はできないな、帰ろう」


〈聖儀式〉で手軽に恋を手に入れることができる。

 それを最大限活かし、巳薙は意中の人を射止めた。

 これは幸せなことだ。

 僕らにとっては『そういう時代』というだけである。


 廊下を歩き下駄箱に辿り着く。

「うまくいくもんなんだなー」

「能力というのは大切だな」

「やっぱ努力なんてするより〈聖儀式〉だね」

「何でも手に入ることは良いことだな!」

 靴に足を入れながら価値観を確かめ合う。

 努力をしたら、努力したのに手に入らないモノを目の当たりにすることになる。

 巳薙の母がそうだったように。

 絵の努力をするより、絵の才能を手に入れてしまった方が手っ取り早いのだ。

 そうすれば『努力が無駄になる』という目に遭わなくて済む。


 昇降口を出て校門へ向かう。

 そこまで行った時、背後から猛ダッシュしてくる巳薙につかまった。

「待って!」

 どうしたのだろうと僕らは振り向いた。

 しかも、見たところ巳薙は一人だ。

「あれ、右京先輩はどうしたの?」

 僕が問い掛けると、彼女は首を横に振った。

 佳枝葉も不思議がって問い掛ける。

「いったいどうしたというのだ? せっかく恋人ができたのだから一緒にいれば良いではないか」

 すると、またも巳薙は首を振った。


 しばらくゼーハー言っていたが、息を整えると顔を上げる。

 それから、彼女は眉をハの字にした。

「あのね、やっぱりやめたの」


「え……?」「はぁっ?!」

 僕も佳枝葉も衝撃で聞き返す。

 信じられなかった。

「だってあれほど好きな先輩と一緒になれたのに……」

 僕がそう零すと、巳薙は自嘲するようなカラ元気で喋り出した。

「やっぱりさ、違うと思うんだ。コレは何か違う……」

 それはまるで、過ちを犯した者の告白だった。

 彼女は頭を掻きながら続ける。

「先輩に告白してもらった時は確かに嬉しいと感じたんだけど、でも、心のどこかで違和感があった。コレは違うって。その気持ちがすぐに大きくなって、何でだろうって思ったの。そうしたら、分かった……こんなやり方じゃさ、んよ」

「でも、能力だって巳薙の一部なわけでしょ?」

「そう、そのハズなんだ。能力で先輩を振り向かせてもあたしの魅力で振り向かせたのと同じハズ。でもさ……心の奥が叫ぶんだ、それはあたしの魅力じゃないって。先輩はあたしの魅力に振り向いたんじゃない。まるで…………中身がくり抜かれた空洞な、空虚なものだって気付いた」


 空洞、空虚。

 告白のセリフを喋ってもらっただけ。

 僕はゴクリと喉を鳴らした。

 重大なことに気付いてしまったような、そんな寒気が這い上がってくる。

 例えば、だ。

 芸能人にお願いして、告白のセリフを台本に書いて渡す。

 それを芸能人がその通りに喋ってくれる。

 傍から見れば心もこもっている、素晴らしい演技。

 ではその告白を聞いて、

 巳薙の得たものとは、すなわちそうした体験ではないのか。


 価値観が揺らぐ。

 佳枝葉がよく分かっていない表情をしていたので、僕が今考えた例えを教えた。

 すると彼女も理解できたようだ。

「何だそれは、全然嬉しくないぞ……!」

 それに巳薙は頷いた。

「そう、究極的に言えば、全然嬉しくないんだよ……とてもこれを告白だとは受け取れない。先輩も、無理矢理告白させられて可哀相だって思った。だから、やめにしたの……」

「そうか……」

「何だかなあ、お母さんがやめておきなさいって言った意味が、ようやく分かったよ」

 巳薙は吹っ切れたように伸びをした。


 何故右京先輩を好きになったのか。

 それは、彼女の母が手に入れられなかったものに対する疑問が出発点なのだろう。

 だから美術部である右京先輩を手に入れる、もしくは自分が絵の才能を得るという二択になったのだ。

 巳薙なりに、母に回答を示したかったのだろうと思う。

 しかし、彼女の母はやめておきなさいと言った。

 それが意味するところは……

「巳薙のお母さんも、もしかしたらこういう体験を……?」

「分からない。でも、たぶん……」

 彼女の母はなぜ彼女にいつか分かると言ったのか。

 彼女の母はなぜ絵の試験を〈聖儀式〉でクリアしなかったのか。

 若き日に、何かしらの体験があったのだ。

 その時きっと、僕らのように〈聖儀式〉で手っ取り早く結果を手に入れて、空虚な気持ちになったのだ。

 大人になると〈聖儀式〉を全くしなくなる人がいる……その原因も分かった気がした。

 若い頃の体験から、〈聖儀式〉を抑制するようになるのだろう。


 実は、巳薙と右京先輩の恋人が成立して離れてから、僕は不安に駆られていた。

 恋人になった二人は、と。

 努力なんてするより〈聖儀式〉だね、と。

 そうして佳枝葉と価値観をわざわざ確かめ合った。

 わざわざ確かめ合わないと不安だったから。

 心の奥底では、あれで幸せなんだろうか、〈聖儀式〉で解決して良かったのか、という思いが渦巻いていた。

 僕がそれを吐露すると、佳枝葉も頷いた。

 自分が信じていた価値観を自分で否定するのは難しい。

 自分が間違っていたみたいで嫌だからだ。

 僕も佳枝葉も、それで価値観をわざわざ確かめ合ったのである。


 三人してバツが悪い、そんな空気になった。

 過ち、という言葉は口にしない。

 口には出さず、苦い思い出として僕らは吸収していく。

 大人への道は平坦ではないなと思いながら。


 僕達は帰り道を歩き出した。

「あーあ、何の苦労も無く成功したいと思っていたけど、いざなってみたら虚しかった」

 巳薙がサバサバとした調子で言う。

「ボクも次の〈聖儀式〉に乗り気だったのだが、やめにしようかなぁハハハ……」

 佳枝葉がカラ笑いで続き、僕も頷いた。

「まあ、これと決めた人とだけできれば良い気がしてきたね」

 誰でも良いから、と思っていた自分が何だか恥ずかしい。

 そうした自分の変化と折り合いを付けるためか、僕は自分の過去を話すことにした。

「僕は、本当は運動能力が欲しかったんだ……」


 幼い頃、僕と巳薙と、もう一人よく遊ぶ友達がいた。

 名前は折原おりはら君という。

 折原君が僕と巳薙の間を取り持ってくれる緩衝材の役割を果たしていた。

 主に僕が巳薙にいいように騙され酷い目に遭うのを助けてくれたり、一緒に巳薙に抗議してくれたり、それでいて巳薙にも嫌われないように気を遣ってくれていた。

 三人でちょうど良いように収まっていたのだ。

 だが、折原君は急遽引越しが決まってしまった。

 折原君は行きたくないと言った。

 それで僕の所に相談に来た。

 二人で秘密の作戦会議を開いた。

 引っ越し当日、その午前中まで逃げ切れば折原君の親は諦めるという。

 それなら、引っ越し前日の夜から逃げれば良いという話になった。

 僕と折原君は引っ越し前夜に逃避行を決行した。

 お菓子を詰め込んだリュックを背負い、二人で町を走った。

 川を見つけ、橋の下に隠れてお菓子を食べた。

 追手はすぐに来た。

 折原君の家族は総出で捜索をしていた。

 八人家族なので追跡は激しかった。

 幼かった僕らからすればどこへ行っても追跡者がいるような感覚だった。

 明方まで逃げ続けた。

 二人ともへとへとだった。

 そんな時、一瞬の隙を突かれ追手に捕まってしまった。

 友達が連れていかれるのを黙ってみていることしかできなかった。

 あの時もっと運動能力があれば引越しをやめさせられたのに……

 それからは運動系の能力が欲しいと思うようになったのだ。

 友達を守れる力が欲しいから。


 巳薙と佳枝葉は黙って聴いていた。

【天使】になって敏捷性が下がってしまったのはショックだった。

 それで何とかして取り戻したいと思ったので次の〈聖儀式〉に目を向けた。

 敏捷性があれば追手の手をひょいとかわし、折原君を抱えてもっと逃げられたハズだ。

 そんな過去に対する『もしも』を夢想していた。

 全部話したら、自嘲の念が込み上げてきた。

 過去はもう取り戻せないのに。


「ソウジ……キミは意外と良い奴なんだな、見直したぞ!」

「佳枝葉の方が良い奴だよ、弟まで養うとかさ」

「あ、そうだ、弟の分まで稼がなくてはならないんだった……これからどうしよう」

「おいおい、考えずに〈聖儀式〉を取りやめにしたのかよ」

「仕方無いだろう、この流れではする気が起きなくなったのだ」

 そうやってむくれる佳枝葉は可愛らしく、妙に笑えた。

 笑うと彼女は腹を立て、その姿が更に笑いを誘った。

 巳薙がそっと耳打ちしてきた。

「あのね、折原君の引っ越しはどの道止まらなかったと思うよ。奏滋は悪くない」

 僕は一瞬だけ巳薙と視線を合わせた。

 それから、笑みを浮かべて空を見上げた。


 今思えば、折原君の相談は嘘だったのかもしれない。

 逃げ切れば引っ越しが止まると彼は言っていた。

 でも決定済みの引越しがその程度で止まるだろうか。

 じゃあ、折原君はなぜ嘘をついたのか。

 それは、最後の思い出作りだったのかもしれない。


 橋の下で二人で食べたお菓子。

 そして見上げた夜空はとてもキラキラしていた。


 空を見上げたのは、随分久し振りだと思った。

 スーッと、僕の中にあった澱のようなものが消えていった。

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