恋と聖儀式
第6話
肩を優しく揺する感触があり、瞼を開けた。
僕を起こしに来てくれたのだろう。
起こしに来てくれるのは決まった人間だ。
義妹の萌音が傍に立っていた。
「……に……さん…………起き、た?」
兄さんと呼ぶだけで恥ずかしそうに口をもにょもにょするのが堪らなく愛らしい。
「もう起きた。萌音が起こしてくれたからすぐ覚醒できたよ、ありがとう」
ゆっくり萌音の頭を撫でる。
彼女の髪のさらさら具合はいつも完璧で、そのまま手で梳いてあげたくなる。
萌音は目を細め、しばし撫でられるままにしていた。
この子は怖がり屋の性格で、学校では男子と話すことさえできないらしい。
こうして話すことも、ましてや触れることができる男となれば、この世界で僕しかいない。
寂しがり屋なところもあるから、萌音は僕さえいれば良いと言ってくれているんだけど兄としては思春期を迎えた妹がそれで良いのかと心配ではある。
僕たちは食卓へと向かった。
食卓はがらんとしていた。
両親は共働きで朝が早い。
既に出勤済み。
ウチはマンション住まいとしては普通の部類に入ると思う。
食卓は四人だとぎりぎりぐらいの広さだろう。
二人ぐらいなら快適に過ごせる。
朝食はもう用意してあった。
萌音はこういうところがしっかりしているので、兄としては助かるばかり。
さすがに何もかもやらせるのは気が引けるので、僕はコーヒーを淹れる係をかってでるのが日常だった。
まず棚の戸を開け、中からコーヒー豆を取り出す。
豆は瓶詰めで、銅のスプーンを使って掬うのだ。
それから、テーブルのコーヒーミルに手を伸ばす。
父の趣味で、コーヒーは手回しのコーヒーミルで挽く。
ガリガリガリガリ……
この、朝のちょっとぼうっとした状態で、無心でガリガリしている時が、けっこう好きだ。
既に豆から香りが立ち上ってくる。
この段階では香ばしい、豆を炒ったのが感じられる匂いだ。
湯を沸かし、マグカップを二人分用意。
マグカップの上にドリッパーを乗せ、フィルターペーパーを入れる。
フィルターペーパーの中に挽いた豆を入れ、湯が沸いたら注ぐ。
ここで豆の香りが変わる。
今度は湯気と共にもっと柔らかな匂いになる。
コーヒー屋さんで漂うのはこの香りだ。
そして、コーヒーが淹れ終わると、冷蔵庫から牛乳を取り出し、注ぐ。
牛乳割りだ。
このコーヒー、どこかのブレンドではない。
パプアニューギニア産の〈シグリ〉という豆らしい。
驚くべきことに、このコーヒーは牛乳割りするとミルクティーの味になる。
コーヒーなのに、紅茶みたいな味がするんだぜ?
今まで知らなかったけど、コーヒーも意外と奥が深いんだなって思った。
また、この優しい味は萌音のお気に入りとなっている。
テーブルに戻り、マグカップを置いた。
「に……さん、ありが、と……」
萌音はマグカップを両手で大事そうに抱き、微かに笑顔を見せる。
笑うのが下手なようで、ぎこちないものに見えるが、それもまた愛らしいのだ。
そしていただきますの挨拶をしてから、食事に手をつける。
ジャムトーストと、ベーコンやスクランブルエッグ、ミニトマトなどだ。
ジャムで猫の絵が描かれているところにほっこりする。
「よく描けているね、食べるのがもったいないくらい」
すると萌音はちょっと照れくさそうにはにかんだ。
全てが控えめだけど、そこがまた小動物みたいで可愛い。
「ありが、と……でも……天使の方が、良かった……?」
おずおずと尋ねてくる。
何でそんなことを尋ねてくるのか。
それは、今の僕の外見に原因があった。
昨日した〈聖儀式〉で、僕の能力は書き換わった。
僕は【天使】になった。
萌音と同じ【天使】になったのだった。
萌音は頭の上に輪が浮いていて、頭から生えたミニサイズの翼をぱたぱたさせているのだが、僕も似たような姿になったのだろう。
今まで【天使】は世界でまだ一例しかない超希少種だった。
僕が世界に二例目となったのは幸運だろう。
ただし、外見はあまり僕の好みとは合わない。
何で佳枝葉と〈聖儀式〉したのに【飛竜】のかっこ良さを受け継げなかったのか。
全ては確率だから諦めるしかないんだけど、これは限りなくゼロに近い確率がうっかり発動してしまったパターンだ。
巷ではこういうのを『激レアを引いた』と言う。
嬉しい方の激レアが欲しかったよ……
しかも、能力も以前より下がってしまった。
敏捷性が特に下がってしまい、走るのがとても遅くなった。
これは僕にとって大問題だ。
運動能力はスポーツ選手になれるくらい欲しいのに。
昔、運動能力が無いせいで辛い思いをしたから。
去っていく友達の姿が脳裏に浮かび、それを振り払った。
それから、ぽつぽつと話す萌音と朝のゆったりした食事タイムを過ごした。
通学前の至福の時間だ。
最後に、萌音は言いにくそうに俯いた。
口を開こうとして失敗する感じを繰り返す。
「なんだい? 言ってごらん?」
なるべく強制にならないように、穏やかな声を心掛ける。
すると、萌音は意を決したように口を開いた。
「その、に……さん、〈聖儀式〉……しちゃった、ね……」
「ん? ああ、そうだね」
何でそんなことが気になるんだろう?
そうしたら、萌音は僕の袖をきゅっと摘んだ。
「そう、なの……」
表情にはあまり出ていないが、彼女の翼は明らかにしゅんとしおれてしまった。
ううむ、これはもしかしたら……
萌音もハートの尻尾が気に入っていたから残念なのかもしれない!
そうだったのか、それは悪いことをしちゃったな。
僕はせめて頭を撫でてやることで代わりとした。
その後靴を履いて玄関を出るまでずっと萌音は僕の傍を離れず、頻繁に袖を掴んで俯いていた。
というかしばらく歩いてお互いが別の道に行くまでそのままだった。
特に寂しがる時はこうするんだよな。
学校生活はようやく落ち着いてきた。
かというと、そうでもなく。
僕は更に教室中の視線を集めることになってしまった。
巳薙が僕の肩に手を置いて、その原因を告げる。
「やあ、世界で二例目の【天使】! まさか兄妹揃って【天使】になるとはね!」
世界で二例目の【天使】が出たっていうんで騒がれて、しかも兄妹揃って【天使】というものだから話題が話題を呼んで、今凄いことになっているらしい。
「あんまり言わないでよ」
「みんなー【天使】が来たよー! おまわりさーんここに【天使】がいますよー!」
やめてと言うほどエスカレートする天邪鬼な幼馴染である。
「ああもう来ただけで疲れるっ」
「奏滋の頭の上にある輪っかを取ったらどうなるかな?」
「【天使】じゃなくなるんじゃない?」
「じゃあ頭から生えている翼を引きちぎったらどうなるかな?」
「保健室に運ばれるんじゃない?」
僕が投げやりに応えていると彼女が翼を触ろうとしてきたので、逃れた。
佳枝葉も上機嫌だ。
「ソウジは運が良いな! こんな超希少種になれたんだ、羨ましいぞ!」
「そう言われても、僕には運が良いという実感が無いというか……むしろ君の方が運が良いんじゃないの?」
「然り! 今回は運が良かった。これもソウジのお陰だ、ありがとう! これからボクの伝説が始まるんだ、フフフ……!」
佳枝葉の方は色が緑から真紅になり、見るからに強そうなかっこいいものに変貌した。
しかも【飛竜】から【龍】になったのである。
そのまた更に、敏捷性がとんでもなく上昇した。
同じ【龍】の中でも群を抜いて素早くなったのだが、こういう風な現象を〈能力値異常〉と言う。
彼女の敏捷性が上昇して僕が下がってしまったのだが、こうした現象は俗に『吸い取られ』と呼ぶ。
何だろう、佳枝葉は欲しいものが全て手に入ったみたいな感じで、僕は全てを失ったみたいな感覚があるのだが。
彼女の境遇を考えれば素直に祝福すべきだと頭では分かっている。
分かってはいるんだけど……涙に負けそう。
僕は善良な人間じゃないので嫉妬の炎に包まれてしまいそうだ。
でも僕は佳枝葉の味方なんだから、と必死で理性が押さえてくれている。
それに、この娘の明るさも今までと違ったものになった気がする。
何か気負っていたというか、背負っていたというか、そういった固さが取れたみたいに思えるのだ。
クラスメイト達も少し変化があり、まだ中二な彼女を見てひそひそ言う人もいるけど、ぽつぽつと彼女と仲良くしてくれる人も出てきた。
良い傾向だと思う。
それから、巳薙はそっけないんだけど佳枝葉は気にせず話しかけて、何となく会話が成立している感じ。
僕の視界に映る日常は、それが定着しつつあった。
放課後。
「ソウジ、ゲームの協力プレイをしよう!」
佳枝葉が廊下を歩きながら言う。
僕は頷いた。
対戦ゲームだと自信が無いけど、協力プレイなら問題無い。
「良いよ。帰りにファーストフード店に寄って、そこでしようか」
「じゃあ、あたしは奏滋の操作を邪魔する係ね!」
巳薙が明るい声で邪悪なことを述べる。
「巳薙もゲームすれば良いじゃないか」
僕が抗議すると彼女は佳枝葉を背後から抱き締めた。
「あたしはそれよりも佳枝葉の発育状況が気になるね!」
「ひゃああああっ! ミナギ、何をするのだ!」
「うーん発育状況は……微妙! でも希望を捨てるな!」
「ボクは大器晩成なだけだっ!」
これを女子更衣室みたいなノリというのだろうか。
ちょっと目の保養になった。
巳薙はゲームをしない子なので佳枝葉が加わったのは嬉しいかもしれない。
協力という機能があるのに協力者がいない状況というのは割とつまらないのだ。
一人で黙々とゲームをやっても飽きるのが早い。
それから佳枝葉とゲームの話で盛り上がっていると、いつの間にか巳薙が黙り込んでいた。
のけ者にされて退屈してしまったのだろうか。
そう思って振り向くと、そこには不思議な光景が広がっていた。
巳薙は明後日の方向を凝視していた。
視線を辿っていくと、一人の男子生徒に突き当たる。
窓から廊下に差し込む陽光は夕方前の柔らかなもので、それが男子生徒の陰影を浮かび上がらせていた。
穏やかで理知的。
そして伏し目がちで中性的な印象。
顎に手を当て何か考え事をしながら歩を進めている。
男子生徒は美術室の前で足を止めると、その中へ入っていった。
巳薙はそれを見届けると、ほぅと一息つく。
感動した映画を観終り幕が閉じていく時、余韻に浸りながらほぅと一息つくような。
はたまた大満足だった本を読み終わり最後の一頁をパタンと閉じる時に一息つくような。
ああ、良いものが見られた。
巳薙の『ほぅ』にはその思いが凝縮されていた。
それから彼女の頬は紅潮し、まるで恋する乙女のように胸の前で手を組んでいた。
女子マネージャーがサッカー部や野球部の主将に想いを寄せながら遠くから密やかに応援しているような。
見ているこちらまで甘酸っぱくなる画。
今まで僕が見たことのない種類の顔だった。
「巳薙、どうしたの?」
「え? ううん、何でもないよ?!」
挙動不審に否定する彼女。
怪しい。
まるで恋する乙女のようだ。
…………いや、待てよ?
これは『まるで』なのか?
本当に恋する乙女なのではないか?
僕は佳枝葉と視線を合わせる。
佳枝葉が頷いて美術室を指差した。
「さてはあの男が魔王なんだな!」
どうやら佳枝葉は僕の視線の意味を取り違えたらしい。
巳薙は反射的に反論した。
「はあぁ?! 何が魔王よ、むしろ天使よ! 奏滋みたいな見た目だけ天使なのと違ってあの人は中身が天使なんだから! 天使が内面から溢れ出ちゃってるんだから!」
「……それよく聞いてみると僕をディスってない?」
「ムムッ……その慌てぶりからすると、まさかミナギはあの魔王を好いているのか?」
「だから魔王じゃないし! 好きっていうか、あの人がむしろあたしのことを好きなんじゃないかなー、とか?」
「ねえ、僕ディスられたような気が……」
「隠さなくても良いぞミナギ! そうかそうか、しかしミナギも罪だな、まさか魔王と禁断の恋に堕ちてしまうとは。場合によってはボクが斬らねばならぬ……」
「いつまでその設定続けるのよ!」
「せせせ設定だと?! ククク、ボクを怒らせてしまったようだねミナギ……こうなれば仕方が無い。ここで今……魔王を斬るっ!」
佳枝葉は剣を召喚しながら美術室へ向かいドスドス歩き始める。
慌てた巳薙が佳枝葉に抱きついて制止に入った。
しかしパワーに差があるのかずりずり引きずられる。
「ダメダメダメッ! あの人に気付かれちゃう、気付かれちゃうったら!」
「ははは、奇襲するつもりなどないから気付かれても問題無い!」
「あたしが問題あるんだってば!」
「経験値は幾らかな~♪ 魔王でガッポリ経験値~♪」
「経験値って何?! ちょっと奏滋も止めるの手伝って!」
そうこうしている内に佳枝葉は美術室の前まで辿り着いてしまった。
そして道場破りよろしく勢い良く戸を開く。
「たのもー!」
室内にはイーゼルを前にした美術部員が十人くらいいて、その視線が一斉に集まってきた。
よもや美術部にたのもーと道場破りが入ってくるなどとは思いもしない。
誰も何が起きているのか理解が追いつかない表情をしていた。
佳枝葉はじろりと室内を見回し、目当ての男子を見つける。
さきほど部屋に入っていった男子だ。
まだ鞄を置いて道具を取り出している最中のようである。
巳薙は彼に発見されるのを恐れたのか隠れてしまい、僕を押し出して解決してくれとせがむ。
部長と思しき眼鏡の女性が何とか好意的に解釈したのか、柔和な笑みを作って話しかけてきた。
「ええっと、もしかして入部希望なのかし――」
彼女が言い終わる前にその頭上を何かが跳び越えていく。
ぶわっと後から風が起こり髪の毛がイソギンチャクみたいになり眼鏡がずれた。
跳び越えていったのは他でもない。
「問答無用!」
【龍】の力を全開にした佳枝葉だった。
僕らでも視認が困難なほどの敏捷性。
〈能力値異常〉の性能は予想を遥かに上回るものだった。
剣を振り上げ物凄い速度で標的の頭上へ迫る。
標的にされた中性的な男子は悲鳴を上げながら横に転がった。
彼のイーゼルは振り下ろされた剣で粉々に砕け散った。
室内が騒然となる。
「なにこの子?!」「入部希望者じゃないの?!」「部室の乗っ取りか?!」
佳枝葉は剣を中性的な男子へ突きつけ口上を述べた。
「好色な魔王め、入学したての生娘を無節操に我が物とするとは何たる悪逆! ボクの仲間をいつの間にてごめにした! ここでお前の性根ごと切り裂いてくれる!」
すると室内の声は変わっていった。
「え、もしかして痴情のもつれ?」「うそー一年生に手を出したの?」「人の良さそうな顔してるのに無節操だって……」「夜の魔王か!」
佳枝葉は単に成敗するための妄想をでっち上げただけだが、色恋沙汰に敏感な生徒たちには効果覿面だった。
中性的な男子は孤立し、壮絶な追いかけっこが始まる。
「待てええっ!」「ちょっと待て、君は誰だ?!」
四つん這いで逃げる中性的な男子。
佳枝葉がいちいち大振りなため命中はしないが、室内の備品が次々破壊されていく。
「奏滋、早く佳枝葉を止めて!」
巳薙の声に押され僕も美術室に入った。
室内は旋風が巻き起こっている。
「おのれ魔王、おとなしく経験値をよこせ!」「何を言っているんだ君は!」
佳枝葉は完全に自分の世界に入り込んでしまい回りが見えていない。
試しにもうやめるよう説得してみたが耳を貸してもらえず。
どうやって彼女を現実に引き戻せば良いのか?
このままでは巳薙の想い人が危ない。
頭を捻って、捻って、ぐあーと悶絶していたら名案が浮かんできた。
僕は佳枝葉に耳打ちした。
「カエハリオン、お前は一つ大きな勘違いをしているぞ」
この呼び方をしたら途端に佳枝葉がブレーキをかけた。
彼女の設定にこちらも乗ってあげれば話が通じるようになるのだ。
「ムムッなんだ?」
彼女の注意をひきつけた。
これで良い。
冷水を浴びせるようなことになるが、僕は閃いたことを告げる。
「魔王はラスボスなんだから、倒して経験値得てももはや意味はない……!」
すると、効果は劇的だった。
明らかにガーンと効果音がつきそうなほど佳枝葉は青くなった。
「なっ……そ、そうだった! 魔王を倒してしまったら終わりじゃないか……!」
彼女にとってラスボスは倒してはいけない存在だ。
何故なら、中二設定もそれで終わりにしなければならないから。
彼女が満足するまで中二設定を続けるには、魔王を倒してはいけないのだ。
「魔王を倒してしまえばスタッフロールを見て終わりだ。それで良いのか……?」
「良くない良くないっ……!」
佳枝葉は悲痛な表情で首を振った。
僕はアメとムチを使い分けるように誘惑を囁く。
「君はまだ魔王を倒すにはレベルが足りなかった……それで良いだろう?」
「……そ、そうだ。ボクはまだ、魔王と戦うにはレベルが足りなかった……ふう、危なかった、返り討ちにあってしまうところだった。今日はこのくらいで勘弁しておいてやろうではないか」
言葉とは裏腹に彼女の膝はガクガク震えていた。
中二設定を突然失うなど今の彼女にとっては死に等しい。
恐怖で全身が支配されるのも当然だろう。
制止に成功。
「し、失礼しましたあー……」
僕は佳枝葉を引きずって美術室を後にする。
「ああもう、何てことしてくれるのよ……先輩に怪我させちゃうところだったじゃない」
巳薙はほっと胸を撫で下ろす。
しかし彼女の反応からすると、確定だな。
どうやら僕の幼馴染はあの男子生徒が好きらしい。
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