第6話
空はゆっくりと闇を飲み込み、光が増していた。少しだけ漏れた太陽の光が、一筋の光の線となって空を駆ける。
涼しい朝の空気は、僕の頬を優しく撫でて後ろに去っていく。
朝が来る。
盗賊は、朝日から逃げるかの如く木々の影に隠れ、消えていった。
それを、狩人は唖然とした表情で眺め、口をぱくぱくと動かすだけだ。それを流し見ると、僕は狩人に話しかける気が無いことを自覚した。
僕は始め、狩人を見殺しにしようとしていた。その罪悪感が、僕の口を閉ざした。
僕は静かに、背を向ける。
狩人は何かを言っていたようだが、全て無視した。
が。
「────あっ、ありがとう……」
……その言葉だけは、心に響いた。けど、それを極力隠すように、平然を装って歩いた。
どれくらいの時間を歩ったのか。何時からか狩人の声は聞こえなくなり、森の静寂が広がっていた。
空を見ると既に太陽が顔を出し、辺りは明るくなっていた。……眩しい。
その時。
「見つけましたぁぁ!」
前方から誰かの気配を感じた。目を凝らすが、木や木の葉に阻まれてよく確認できない。……いや、誰。マジで。
「突然飛び降りないでくだしゃぃ、いったぁ!」
あ、噛んだ。あれ、なんか何処かで聞いた覚えのある声だ。
…………あ、あの時の神官さんだぁ。たしか名前はビオだったか。光り輝く三つ編みの金髪を揺らしながら、必死に……ひっしに…………寝巻きで走ってるぅぅ?! それも何気に猫柄! やだ可愛いって、そんなこと言ってる場合じゃなくね?
朝は寒いのに……。
「お久しぶりですビオさーん」
「あ、えっと、お久しぶり、です!」
「足元気を付けてー」
「はぁーい!」
ビオは走りながらぶんぶんと手を振る。あれ、猫柄の服なのに性格は犬よりなのか。いや、違うあれは……一時的なものだな。うん。普段は絶対あーじゃない。
なんて考えながら手を振り返していたら……。
「わひゃっ?!」
木の根っこに躓くビオ。
あーもー言わんこっちゃない。瞬間的に姿勢を低くして、疾走。十メートル近く離れていた距離を一秒とかからず縮め、倒れかけていたビオを抱き止める。
……隠れ巨乳? いや、着痩せしてるだけ? 何考えてるんだろう僕わ。あれか、感触のせいか。
……誰か俺を殴って。
「あっ、と、えと、あっ、ありがとうっ、ございますっ!」
僕の肩に顔を載せる形で固まっていたビオはその状態のままお礼を言う。
あの、そろそろ離れて下さいませんかぁと言おうとしたが、その直後にビオは腕を僕の背中に回し、何故か思いっきり抱きついてきた。何でさ。
むぎゅぅぅぅぅ、って効果音が鳴りそう。あと感触。
十秒ぐらいたっぷりと抱きついたビオは、漸く僕を解放した。そう、僕が解放するんじゃなく、僕が解放されるんだ。うん。逆!
そしてポケットからあるものを取り出して、僕に差し出す。少し顔が赤いのは、自分が寝巻きの状態である事を理解したからだろう。下向いた直後に、一秒ぐらい固まったからね。
「これ、返します!」
「ん、あぁ。ありがと」
ハンカチだ。始めて会った時に僕が渡した。
僕はそれを素直に受け取るが、その後にビオを見て少し笑った。
……汗だく。
額には大粒の汗が居座っていて、とめどなく流れていた。どれだけ走ったのって言いたくなった。
だから僕は、返してもらったハンカチでビオの汗を拭いた。
「え、えっ、えっ」
「こんな汗だくじゃあ……綺麗な金髪も張り付いてますよ……それと、このハンカチはあげる」
「えっ、でも」
「この刺繍、ビオにぴったりだから」
奇遇なのか、必然なのか、そのハンカチの刺繍は猫柄だった。何と言うか、まぁ、ナイス刺繍。
「きっと、ビオが使った方が、何つーか……似合うって言うの?」
「…………あっ、ありがとうございます……」
ビオはおずおずと、ハンカチを受け取った。そして刺繍を見てくすっと笑い、胸の辺りでハンカチを抱き締めた。そんなに気に入ったのか。よかったよかった。
正直、僕にはあまり使う機会がなかったから。というか、ほぼ完全にお守り状態。それはそれでいいんだろうけど、やっぱりハンカチ。使われた方がいい気がして。ここまで気に入ってくれると、渡して正解だったなって思える。
「くちゅん」
くしゃみぃぃぃ、可愛いぃぃぃ!
…………じゃなくて。
くしゃみって、それってやっぱり寝巻きのせいと、汗のせいだよね。うんうん。静かに僕は来ていた上着を脱ぐ。脱いでる途中で、くしゃみがもう一つ。二回目のくしゃみが終わった頃、僕は上着をビオにかける。
「ふえ?」
笛?
「あっ、ありがとうございます……私、紫電様に迷惑ばかり……」
「迷惑って、別にこれぐらいいいよ。……と、言うか。勇者様ーって目上の人みたいに扱われるよりは、ビオみたいに軽く絡める人の方が、僕は好きだなぁ」
「すっ、すすすっ……すっ!」
……なんか、変な事言った? 口パクパクさせてるんだけど。と言うか、そろそろ寝たい。……あれ、ちょっと待て、今からって寝れるのか? あれ、あれれ、これまずくない? ちゃっかりオールしてるじゃん俺ぇ。
「…………えぇっと、そろそろ城に帰」
「ああっ!」
「今度は何だよぅ」
城に帰る、という単語でビオが少しばかり大仰に驚いた。……うん? 顔が真っ青だよ、どしたの?
「…………クビにされる」
「…………えっと、ビオさん? もう一度言ってもらえます?」
「クビにされちゃいます、このままだと」
「「…………」」
クビ? それって、あれですか。「オマーエ、明日カラ来ナクテイイーンダゼ?」っていうあれか? 笑顔で肩に手を置かれちゃうようなあれですか?
「まじ?」
「…………はい」
「なんで?」
「…………勝手に城から出たら、駄目なんでした」
「どうやって出たの、城から」
「…………頑張って塀をよじ登りました。私そう言うの得意でしたから」
「勝手に城から出ると、クビ?」
「…………はい」
「他のメイドが活動を始めるのは?」
「…………太陽が昇って、すぐ」
どうしましょう? これもうどうしようもなくない?
詰んでるよね、どう見ても。ボン○ーマンで壁で三方向が塞がれた状態で爆弾置いて自爆する直前ぐらい詰んでるよね。どこに動いても負けるようなジレンマ状態の王手ぐらいに詰んでるよね。
いや、あれだな。テスト終わって回収する時に自分の名前書いてない事に気付いた時ぐらい詰んでるな。
どうしよう。
あ、僕が勝手に連れ出したって事にすれば。
「僕が勝手に連れ出しちゃいましたー、って理由でいけるかな? その事僕、知らない訳だし」
「…………運命は神のみぞ知るとか言いますけど、今の状態なら自分の運命ぐらい自分で分かりますようふふふふふふ」
「諦めるなビオぉぉぉぉ」
ビオさぁぁぁん! 諦めるのは早いぞぉ! 俺なら城の中に瞬間的に行く事も可能……なんだけど、やっぱり正面からの方がいいよね。
城の中に気付かれない様に入れば、まぁそれで終わりでもいいんだけど。けどそれだと、ビオがその事を一生隠して生きなければいけない。それは、正直避けたい。安全な方法でも、ビオが辛い思いをするぐらいなら、そんな方法取りたくない。
よし、正面突破。
「…………諦めるなって、だって、どうしようもないじゃないですかぁ……私、クビになる運命だったんですよぅ……」
「はぁ、そんなに落ち込むなって。一先ず、正面突破。失敗してクビになったら、そん時は俺も一緒に出てくから心配すんな」
うん。そーしよ。
結局この世界救うっつってもさぁ、この国は絶対に守ってみせるー、だなんて考えてないし。必要なのはクルクスに持ち帰る土産話だから、結果が大事。世界を救えた、という“結果”が必要なのであって、どうやって世界を救ったのかという“過程”は必ずしも必要じゃない。
つまりは、この国に属さなくても僕的には
やべぇ、考えてみたら一つのところに
……いやこれ、どう考えても「おれっち根無し草でもおっけー☆」って言ってるも同然だこれ。
…………あれ? ビオさんが固まっていらっしゃる。
「えっ……なん、で……紫電、様は、勇者……なのに……」
「えーと、勇者なのにこの国に止まらなくてもいいのか、って感じ?」
こくこくと、ビオは首を縦に振る。
あぁ、そういう事ね。
「いや、僕は勇者じゃないし。勇者って名乗る他人だし。正直、ここに止まる理由は無いんだよね。……それと、折角ビオとは仲良くなったんだから、一緒にいたいっていうのもあるかな」
「……しでんさぁぁぁぁん」
勢いよくビオが飛び込んできた。頑張って踏ん張ったけど、無理。背中を地面に思いっきりぶつけた。痛ひ。けど、ビオを見てるとそれぐらいどーでもいいかなって思えてくる。
……泣いてた。
一先ず、頭を撫でる。これ以外に何をすればいいのか、よく分からないし。
十秒ぐらいで、ビオは顔を上げた。目の周りは赤く腫れてしたけど、笑顔だった。
「紫電さんに会えてよかったぁ!」
「そこまでの事かよ……んじゃ、行こか」
「うん」
そこまでの事かよって思ったけど、多分ビオにとってはそこまでの事なのかもしれない。そこん所はよく分からないけど。
僕は歩き出す。それについて来るようにビオも歩き出す。その足取りは、心なしか軽いように見えた。
◇◆◇
「……ビオ。待っていました」
「メイド長……」
ビオは少し、怯えたように半歩後ろに下がった。
城の正門に着くと、そこにはメイド長がいた。昨日お世話になったばかりなのに、今日には敵として存在してる。あれだな。昨日の味方は今日の敵だな。うん。
昨日、姫様に無理矢理、そう無理矢理連れられて部屋を出た時に、他の生徒に誤解されないように助けてくれた。正直あれには助かったと思うけど、その恩返しも何もしないまま敵に回すっていうのはちょっと、残念。
「ビオ、あなたは規則を──」
「あー、その事なんだがな。俺がその規則を知らないまま連れ出しちまったんだよ」
「……嘘ですね」
……え。メイド長の目が鋭い。あちゃ。これはバレてる。ビオもそれを悟ったようで、表情を暗くした。……まさかの爆沈。なんでバレた。
「ビオが塀を越えているのを、目撃した者がいるのです」
メイド長の後ろから、ひょこりと顔を出す一人のメイド。その表情は申し訳無さそうだ。……あ。夕食会場に案内してくれたメイドさんだ。
「規則通り、ビオを解雇します。これは規則であり覆る事は、ありません。ビオ、あなたにはもう二度と城に立ち入る事は出来ません。即刻、立ち去りなさい」
「…………はい」
二度と、ねぇ。そこまで重い事なのか。
まぁそうなのかね。メイドって規則を重んじるからなぁ。クルクスでもそうだった。約束を守れないものには、メイドである権限はないと公言するぐらいだからな。
ビオの表情は暗いままだが、顔を上げる。そして、大きく礼をした。
「今まで、お世話になりました」
頭を下げたまま、ビオは動こうとしなかった。その時、ビオは泣いていたのかもしれないけど、その表情を見る事は出来なかった。
メイド長はビオから目を離し、僕に視線を合わせる。
「紫電様。あなたは城にお戻り下さい。あなたには勇者としての……」
「……え、なんで?」
「は? ……いえ、なんで……と、言われましても。あなたは勇者……」
「いや、最初に言っただろ。俺は勇者じゃ無いって。という事で、さいなら」
ポカーンという擬音が鳴り響きそうな位の表情のメイド長と、その後ろに隠れる様にして見ているメイド。よく見ると、正門の衛兵もポカーンらしい。うふふ、聞いて驚け見て驚け。
「……と、という事で、ではなく!」
焦った様にメイド長は僕を止める。けど、初めっから聞くつもりなんて無い。
「あのさ。僕はビオに着いて行くって言ってるの。それをあんたが止める権限ある?」
「そ、それは……」
メイド長が半歩下がった。仇は取ったぞビオ。いや、死んでないけど。まぁ、これはあれだな。やられたらやり返すっていうあれだな。正直二倍返しもできていないのが少し不満。いや、二倍返ししたい。
「……なんだ、もしかしてあんたら、勇者をものとして扱うつもりか? 僕たちを駒みたいに使うつもりだったのか? だから逃がさないぞって?」
「そ、そういう訳では」
「じゃあ、俺の言う事に口を挟むな。俺は俺のしたい事をする、それだけだ」
メイド長が一歩分後ろに下がった。二倍返し成功。
「ビオ、行こっか」
「あ……はっ、はい」
ビオの手を引いて、歩く。後ろからメイド長の声がかかった様な気がするけど、完全無視。
結局こうなっちゃったかぁと、僕はそう思った。ビオの嗚咽を聞こえないふりしながら、空をぼんやり見上げて歩く。
街は活動を始め、所々から生活音が響く。
空は明るく、雀が鳴きながら楽しそうに空を舞う。
まぁ、目前には色々と問題が山積みなんだけど、それよりもまず、寝たい。
ビオの嗚咽が少なくなってきた辺りを見計らって、ビオに話しかける。少なく、というよりは殆どいつも通りになってからだけど。目の周りが赤い事を除けば。
「なぁ、まずは
「……えと……ギルド……って何でしたっけ」
「え……この世界にいる、人間に害を与える
「え、あ、そうでした。思い出しました。私達メイドって、自分が関わる事はないだろうなっていう事は基本的すぐ忘れるんです。……けど、なんでギルドに?」
「ん? それは金のため……」
「今持ってるの?」
「……まぁ」
すっかり忘れてたなんて口が裂けても言えない。そうでしたね、金は大事ですものね。金がないと服買えないですものね。
僕はおもむろに地面に転がった石を三つ手に取る。ビオは何してるのっていう目で見てる。ですよね! そりゃあ突然石拾ってたらそういう目になるよね!
「えっと、まさかその石で金の代わりにしようだなんて……」
「流石に思ってないよ?! そこまで愚かじゃないからね?!」
ビオは、僕の答えに一瞬キョトンとして、次の瞬間には少し笑った。それにつられて、僕も笑った。
笑いも程々に、僕は呪文を唱える。一言だけなんだけどね!
「──置換」
「痴漢?」
「違うよ?!」
ビオのギャグなんだか素なんだかよく分からないものにツッコミを入れてたら、なんか手元が狂った気がするのは気のせいでしょうか。えっと気のせいだよね。
石が瞬間的に消え去り、そして僕の手の上に現れたのは──女性が履く様な、三枚のパン……
「置換」
即座に石と置換する。あまりに高速すぎて、ビオには一瞬何が現れたのかなど認識することすら出来なかったらしい。
「え、今何が出てきたの?」
「いや? 何にも? ただ手元が狂った所為で石が一瞬消えて、また同じ石が出てきただけだよ?」
「そうなの?」
「うん」
なんで女性のやつが出てきたのかは分からない。……多分、僕の隣の部屋の人が女子だったんだろうね。そして手元が狂って、そっちのほうから取ってしまった、と。そうだ、きっとそうだ。
気を取り直して。
「では改めて、置換」
石が消えると、次の瞬間には手元に三つの袋が現れる。
「なにそれ」
ビオが首を僅かにかしげながら、聞いてきた。よくぞ聞いてくれました! って言ってみたいけど、別にそんなに聞いて「なんだと?!」みたいに驚く様なものじゃないし、普通に答える。
「お金」
「お金?」
「うん。僕の部屋に置いてあったやつだから。支給されたやつかな」
「あぁ、そういえばそんな事言ってました」
ビオは納得した様に頷く。
「それじゃあ」と僕は口を開く。「そろそろ朝食でも」ビオは笑顔で、うんと言った。
◇◆◇
紫電とビオが服屋に向かっている頃。城では、それはもう混乱していた。特に、王……のお付きの人が。
「ちょっ、何で?! 何故にあいつまで出て行く?! それにぃ、こんちくしょう! あいつ魔法の特訓の言い出しっぺなのに出る気ねぇな! それとぉ、金だけ綺麗に持って出て行ってやがる! 勇者じゃねぇって言い張っただけあるな流石だぜ紫電よぉ! 尊敬なんて糞食らえぇぇ」
「おっ、落ち着き下さいネーヒスト様……」
ネーヒスト。それが“お付きの人”の名である。
現在時刻、午前七時十五分。すやすやと魔法の特訓の事を思い浮かべながら寝ていたネーヒスト。だがその睡眠は部屋のドアを勢いよく打ち開けられた音で阻害された。そして、寝ぼけ眼のネーヒストにかけられた言葉が、今の状態にさせている。
──紫電様が、出て行きました!
ネーヒストの寝ぼけ眼は一気に覚醒。カッと目が見開かれると同時に、ベッドからずれ落ち、顔面強打。その振動によって棚から落ちた六法全書並みの辞書がネーヒストの頭を追撃。木の床を陥没させてしまう程のダメージではあったが、ネーヒストにとってそんな事は二の次であった。
若干体をふらつかせながらネーヒストは立ち上がり、ドアの外からネーヒストを見ていた、顔を真っ青に染めたメイドに説明を求めた。いや、求めようとした。
「おっ、落ち着いていられるかぁ! なんっ、なんんっ!」
「落ち着いて」
「んん?」
ネーヒストが混乱している時、そこに静かな声がかかる。その声は混乱したネーヒストにもしっかりと届き、たった一言にしてネーヒストを冷静にさせた。
メイド長である。
漸く冷静になったネーヒストは、おぼつかない足取りで廊下に出た。そしてメイド長と視線を交錯させる。
「……メイド長……すみません、取り乱しました……」
「……紫電様を止められなかったのは、私の責任でございます」
「どういう事だ?」
「メイドの一人、ビオが規則を破った事により、私は今朝、正門にてビオを処罰しました。それと同時に、紫電様がここを出て行くと仰ったのです。止めはしたのですが、紫電様は聞く耳を持たず……」
「そのまま、どこかに行ってしまった、と」
ネーヒストはうむむと唸った。十秒ほど腕を組んだ状態で固まり考え事をするが、どうやら解決法も何も思い浮かばなかったらしい。溜息と共に、組んでいた腕から力を抜き、だらんとさせた。
「……そーだなぁ、起こっちまったもんはしょうがないか。これから朝食だろ? その時に、他の勇者達にこの事を話そうか」
「話しても大丈夫でしょうか……」
「そもそも、朝食の会場にいないという時点で気付かれるだろうさ。早いか遅いかの問題だよ」
これでこの話は終わりだ、と言うようにネーヒストは回れ右をし、自分の部屋に向けて歩を進めた。その途中、手を振りながら「……そうだ、勇者達を起こしてきてくれ。きっと誰もがあの部屋でぐっすり寝てるだろうさ」と言って、ネーヒストは部屋の洗面所に入った。
メイド長は、一礼し勇者達を起こしに行った。真っ青顔だったメイドも、少し遅れてメイド長と同じ動作をし、メイド長の背中を追いかけて行った。
あの部屋、というのは紫電の言う「シェアルーム」の事である。
メイド長がシェアルームの扉をゆっくりと開く。そして中を確認すると、少しばかり悲しそうな表情をした。
そこには畳の上で誰もが、それはもうぐっすりと寝ていた。恐らく昨晩、今の状況を話し合っている途中で寝てしまったのだろう。
……こんな事があったのは、これが始めてではない。この国、トリアンテイヌ帝国は過去に、それもつい最近にも勇者召喚を行っている。その度に数十人の勇者が現れるのだが、その度にこの光景を見る。
勇者として呼ばれるまでは、本人の表情はまだ明るい。だが、勇者として果たすべき任務を知ると、決まって表情は暗くなる。
暗い表情、即ち悲しみ。悲しみは、人に同意を求める。この苦しみは自分だけではないのだと、知りたくなる。故に、人は集まる。その為の部屋がこのシェアルームである。
そして決まって次の日の朝は、この部屋で目が覚める。
メイド長はゆっくりと部屋に入り、近くの者から優しく揺り起こし始めた。メイド長の後ろをついてきたメイドも、その後に来たメイドも、同じ様にして一人一人起こし始めた。
一人、また一人と目を覚ます。畳の上で寝ていた為に首などが痛いのだろう。ある者は首を動かし、ある者は肩を回す。
全員を起こしたのを確認したメイド長は、「朝食の時間です」と言って部屋から出る。そしてこう続けた。
「身だしなみを整えた方から、ご案内します。一先ず、部屋にお戻り下さい」
メイド長はそう言うと、一礼をしてどこかに去って行った。それをぼけーっと見ていた勇者達、と言うよりも生徒達は、一人、また一人と部屋に戻って行った。
その中に、キョロキョロと周りを見渡す人物がいた。一人は園山 彩、学級委員長である。もう一人は入野 奈加、先生である。
「……あれ」
彩が不思議そうに、小さく呟いた。視線を彷徨わせるが、探しているものは見つからない。その途中、奈加先生が同じ様に視線を彷徨わせているのを見つけた彩は、奈加先生の元に駆け寄った。
「奈加先生、紫電君知りませんか?」
「いえ……私も探しているのですが……」
「どこ行ったんでしょう……?」
「きっと部屋にいるんでしょう。これから朝食ですから、そこで会えますよ。じゃあまずは、身だしなみを整えましょうか!」
「……はい」
奈加先生は始め、不安そうにしていたがすぐに笑顔になった。その笑顔に影響されて、彩も自然と笑顔になった。やはり、奈加先生には人を癒す様な力があるのだろう。二人はすぐに立ち上がり、昨晩案内された自分の部屋に向かって歩き出した。
それからは、早い者は数分で身だしなみを整え、メイドに案内されて朝食会場に行った。
それぞれの部屋に一人ずつメイドが配置されていた。その為、身だしなみを整えるのにそこまで時間はかからなかった。
……執事もいるにはいるが、彼らは主に食事などを作る。その為に勇者達の身だしなみを整えるのは、メイドの役割なのだ。男子の殆どは部屋の入り口で硬直してしまったりしていた。
目覚めてから十分程過ぎた頃には、全員が朝食の会場にいた。ちなみに、朝食会場は昨日の夕食会場と同じ場所である。夕食と同じ様に、バイキング形式で食事が並ぶ。当然、並ぶ食事は朝食に最適なものだ。
全員が朝食会場に揃った訳では……無かった。そう、紫電を除いて。それにいち早く気付いたのは、やはりと言うか彩と奈加先生であった。
「……あれ、紫電君は……?」
彩のその一言で、紫電がいないという事は一瞬にして広まった。一人、また一人。紫電がいない事を認識し、何故だと考える。だが答えが出るはずもなく。
朝食会場が、騒がしくなる。
それを見計らったかの様なタイミングで、
そして昨晩国王などが挨拶をした場所に立つと、ゴホンと咳払いを一つ。
「……お気付きでしょうが、紫電様がここにはいないことについて、話があります」
「ど、どうか、したんですか……?」
奈加先生の心配そうな声。自分の生徒に何かあったのではないか、と言う気持ちが多分に込められていた。それが分からないネーヒストではない。
「いえ、事故が起こった、と言う様な事ではないのです」
「では、何が……」
「……えっと」
「何なんですか?」
「…………ふふふ、見事に城から出て行きましたよ……ええ……今朝、自分の意思で出て行ったそうですよ。えぇ……ふふふ」
ネーヒストは笑いながらそう話した。だがその顔は笑っておらず、言葉だけが笑っていた。すべて言い終えると、「何やってくれたんだこの野郎」というような若干の怒りが込められた笑い声が、無表情なネーヒストの口から「あははははははは」と放たれた。
無表情な顔から放たれる笑い声は、静まり返った朝食会場では妙に響いた。
さて、その答えを聞いた生徒は決まって頭の上に
奈加先生は、なんだそれはと言いたげに口を開く。
「……自分の、意思で?」
「はい、自分の意思で。いやね、今朝メイドの一人が規則を破ったんですよ。その方を処罰……二度と城に入る事を禁じる、という、まぁ追放ですね。それをした結果、何故か、何故か紫電様もそのメイドについて行きました……」
「……え、えっと」
流石の先生も、疑問符を浮かべた。
「まぁ、あれですね。意味は違いますが、所謂“駆け落ち”にも似たような感じですねぇ……紫電様にはそれなりの考えがあった……のかどうかは分かりませんが。というか全く分かりません何故に出て行った……」
最後には、ネーヒストは頭を抱えてしゃがみ込んだ。その行動は、ネーヒストにすら理解出来ていないのだと生徒達が理解する手助けとなった。
「……何ですかね。紫電様はそのメイドが気に入ったんですかね? ……あの紫電様が? いや無いわぁ……もうよく分かんない。この事はこちらで調べますから、勇者様方は自分の事に集中して下さい……」
「え、と、紫電君は怪我をしたとか、そういう訳では無いのですね……?」
「はい、怪我も何も」
「……紫電君は、自分の意思で……?」
「はい、自分の意思で」
奈加先生は少し黙り込む。そしてすぐに口を開いた。
「自分の意思で、なら……尊重させてあげましょう……」
その一言で、紫電についての話は終わりを告げた。先生がそういうなら、と生徒のほとんどは先生と同意見となった。彩も例外ではない。若干不服そうではあったが。
「えーと、じゃあこの話は一旦終わりにして、では次の話……朝食後の魔法の特訓、する方は手を開けて下さい」
全員の手が上がった。
その時、男子生徒の数人が、小さく呟いた。
「紫電……勝手に駆け落ちとは……次あった時、なぐったるか……」
と、呟きながら拳を強く握り締めていた。それが嫉妬からくる怒りだということなど一目瞭然である。
だが、それに気付いた者は、グルである男子生徒数人以外にはいなかった。
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