倒れ伏すロロナ

「……ロロナ様?」

「なんでもない。ただ少し、考え事をしていただけだ」


 リシアが不安げにわたしを見たので、わたしは平然と返した。


「そうでしたの……」

「とりあえず聞くと……その香はなんだ? リーゼル殿」

「この地方にいるサソリバチを避ける効果を持った、イエローバジルの香です」

「すまないが、消してはもらえないか? 

 香の煙に眠り毒や痺れ毒を入れておくのは、暗殺者などがよく使う手だ」

「疑われたものですな……」


 リーゼルは香を消した。


「同じ理由で、窓もあけさせてもらう」


 わたしは窓をあけた。

 席につく。


「リーゼル様、お紅茶です」

「気が利くね、ジェリー」


 男が紅茶を持ってきた。

 長い黒髪をした、執事服の男だ。

 一〇〇人いれば一〇〇人が美男子と言うであろう掘りの深い顔立ちに、妖絶とも言える怪しい雰囲気を携えている。

 世界で一番で格好のよいケーマ殿には劣るところがあるものの、二番目であれば名乗ってもよいかもしれない。


 しかしこれほどの美男子よりもカッコよいとは……。

 凄まじいな……。わたしのケーマ殿は……♥

 ※恋するロロナフィルターです。


 奇妙な雑念が一瞬頭をよぎったが、わたしは紅茶の取っ手を取った。

 銀色のスプーンを懐からだす。


「それは……?」

「偉大なる姉上からいただいた、純度99.9パーセント《スリーナイン》のピュアミスリル・スプーンだ。

 毒性のある液体に触れると色を変えてくれる上、不純物のないピュアウォーターに一晩つけておけば次の日には元の色に戻ってくれる」


 わたしはスプーンを紅茶に入れた。

 かき混ぜながら、リーゼルの様子をうかがう。


(もしもやましいことがあるなら、なにかの反応を示すはずだが……)


 リーゼルは、穏やかな微笑を浮かべていた。

 かけ算の問題を足し算で解こうと悪戦苦闘している子どもを見つめるかのような、慈愛と余裕に満ちた眼差しであった。


「不愉快には思わないか?」

「過去のせいで人を信じられなくなってしまう人の気持ちは、とてもよくわかるのでね……。

 ボクもベルクラント様に会って、初めて愛というものを学んだ人間だ」


 リーゼルは、わずかな哀愁を浮かべて言った。


「わかりますわぁ……!」


 リシアが同意の意を示す。 


「幼きころのわたくしも、孤児であったところを今は亡きアッシュ神父さまに拾われました。

 日々の食事もままならなかったわたくしは、そこで助けあうことの尊さと、ベルクラント様の慈悲深さ。

 支えあうことの大切さを学んだのです」

 

 なるほど……とわたしは思った。

 信心深いリシアだが、神を信じてはいない。

 孤児で日々の暮らしにも困っていたところを助けてくれた、神父のことを信じてる。

 わたしがリシアを放ってはおけなかった理由も、なんとなくわかった。


 似てるのだ。わたしと彼女は。

 違いがあるとするならば、わたしはケーマ殿という個人に惹かれ、リシアは神という存在に惹かれたということだけだ。

 放っておけるはずがない。


 言うなれば同士。

 ケーマ殿を愛してる、LKD《Love KE-MA Dono》連合の同士……!

 すこし違う気はしたが、すこしであるから問題はない。

 わたしは『ソロバン』を取りだした。

 乳白色の石と銅色の囲いが美しいアイテムである。


「それは……?」

「計算の補助をしてくれるアイテムだ。

 遠い昔に異世界からやってきたという人間が、この世界に残してくれた品――と言われている」


 わたしはジャラッと石を揃えた。


「タダでは運営ができないというのも、運営にはカネがかかるというのもよくわかった。

 しかしわたしは、具体的な収入と支出を聞いていない。

 そこを明確にしてもらえば、無駄な支出や未来の収入についてわかるかもしれない」

「……」

「それとキミは、治癒を神官に任せていると言った。

 しかしケガや病気の中には、クスリで治るものもある。

 薬学に精通している者や病気を見る者も雇い、神官にしか治せぬ者だけ神官に任せる――とすれば、多くの人を助けつつも神官の負担を減らすことができる」


「しかしそれでは、信心のない者が入り込む可能性も……」

「まだ信心のない聖闘士はよいのに、薬草士はいけないのか?」

「それは……」


 リーゼルは言いよどむ。

 わたしはじっと、リーゼルを見据える。


「相手が詐欺師であるかどうかを、人隣りで判断するのは難しい。

 それは主観にすぎないからな。

 一方で『実績』は違う。

 帳簿を見つめて現地を査察して見れば、不透明なカネの動きや非合法な施設は見つかる」


 直観は主観だが、物理的な証拠は客観である。


「この『実績を見ること』こそが、詐欺師とそうでない人間を判別する唯一の手段――と、わたしは考えている」


 リーゼルが、ため息をついた。


「経済と商売に、ずいぶんと自信がおありのようですね……」

「それなりに学んだ時期は、なくもなかったからな」

「その口調。もしやあなたは、鍛冶と商いで有名な黄金平原の……?」

「ッ――」


 わたしは一瞬、言葉に詰まった。

 隠すほどのものではないのに、リーゼル相手にはそうであると知られてはいけない気がした。

 いったいそれが、どうしてなのか。


 わからない。

 わからないまま、言ってはいけないという気持ちだけが強くなる。

 しかし一瞬のためらいが、そのまま肯定に繋がってしまった。


「なるほど、なるほど。黄金平原の……」

「そうであると仮定すれば、どうなるというのだ……?」

「敵対組織と言っても過言ではない黄金平原のかたを護衛に頼んでいる。

 リシア様には本当に、教団の後ろ盾がないのだなぁ、と思うだけです」


 リーゼルは、ゆるやかに微笑んだ。

 アリを踏み殺そうとする子どものような、無邪気でありながら悪意の入り交ざった顔だ。


 背筋に思わず怖気が走る。

 席を立って後ずさり、剣の柄に手を伸ばす。

 が――。


「クッ……、ハッ……」


 力が抜けた。

 体がぐにりとよろけてしまい、地面へとへたれ込む。

 いったいどういうわけなのか。体に力が入ってくれない。

 まるで筋肉が退化してしまったかのようだ。

 リーゼルが、紅茶をすすって言ってくる。


「香に警戒してお茶も飲まなかったあなた同様、ボクも疑り深い性分でしてねぇ。

 ここで好きにしてもよいのかどうか。教会からの報復などはないのかどうか。

 探っていたわけですよ」


「わたくしたちを、騙していたと――?」

「一言で言えば、そうなりますなぁ」

「そんな……」


「ちなみに――ロロナさん。

 香を消すように言ったのは正解です。

 この香は、いわゆる催眠ガスを出す装置でしてね」


 リーゼルは、魔法を使った。

 マッチほどの大きさの火を灯し、香の中に放る。

 そして煙が沸き立つ香を、リーゼルはわたしの鼻先においた。眠気が一気に訪れる。


「しかしボクが持っている力には、香も飲み物も食べ物も関係なく相手を無力化できるものもあったわけです」


 なんなのだ。

 それは、いったい、なんなのだ。

 わたしはどうして倒れ伏すのか。

 わからない。

 わからないまま、意識が遠のいていく。


「わたしたちを……、どうするつもり……、だ……?」

「人質――ですかねぇ」


 リーゼルは、芝居がかった身振りで続ける。


「あなたが敬愛していらっしゃるケーマ殿。

 彼は確かに強そうだ。

 能力によっては、ボクでもケガをするかもしれない。

 彼を安全にくだすためには、アイテムが必要。

 あなたがたというアイテムがね!」


「そうか……」


 それなら安堵だ。

 この顛末は、よくはない。


 しかし計算通りでもある。


「これでケーマ殿は、貴様を敵として見てくれるわけ……だな。

 最善は取り逃したが、最悪では……ない」


 しかし一点、気がかりがあるとするなら。


(この男の、能力はなんだ……?)


 香ではない。

 紅茶でなければ食べ物でもない。

 針のようなものを刺された記憶もまったくない。


 魔法であれば、魔力が流れるものである。

 それはある意味、香や紅茶などよりも目立つ。

 わたしがそれを見逃すはずはない。

 しかし魔力の流れはなかった。

 即ちこれは、魔法でもない。


 その能力の正体は、一体――。

 思っていると声がした。


「それにしても、随分と手間がかかったねぇ……リーゼル君」

「もっ、申し訳ありません!」

「まぁ、いいよ。余興であったと言おうじゃないか」


 そこにいたのは、つい先刻に紅茶を持ってきた執事の男。

 絶世とも言える美貌を持った黒髪の男だ。


「わたしの名前は男神ゼフィロス。

 その寛大さで人の欲望を許し、助長させる存在だ」


 なん……だと……?

 わたしの中に、焦燥感が去来した。

 いくらケーマ殿といえ、相手が神などという未知にして強大なる存在では……。


 しかしわたしが、それ以上ケーマ殿の身を案ずることはできなかった。

 眠りの香の効力のまま、意識を手放してしまったからだ。

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