第三十三話:その再会は決別を意味し

 天魔大教会領には、すべての国と繋がる転移陣が存在する。

 国家間の移動については許可を得てからでなくては使用出来ないが、天魔大教会を訪れるだけならばいつどの国からでも来ることができる。

 大教会はあらゆる国家に与せず、大陸国家憲章の管理運営をする組織である。

 その方針は大陸国家憲章の第一条による。


――大陸国家憲章は、大陸に存在するあらゆる国家の正統性を過去・現在・未来に亘って認定しない。


 ゆえに、天魔大教会はあらゆる国家に対して中立であり、あらゆる権力に対して不可侵であるとされる。

 国の興亡に際して天魔大教会が行うのはたったひとつ。新たに興った国の王の元に赴き、転移陣をひとつだけ作る。それだけだ。

 そしてその転移陣自体の管理に関してすら、天魔大教会は関与しない。国家との関わり合いを希薄にすることについては、終始徹底している。

 にこやかで丁寧だがどことなく距離がある、というのが天魔大教会に所属する者たちの共通した応対であり、各国の評価であった。

 ところがこの日。

 招聘令に応じて訪れた人物に対し、天魔大教会の転移陣管理官はにべもなく――あるいは憎悪すらその表情に乗せて――、ひどく冷淡に告げた。


「帰れ」


 と。






 王都リエネスの広場にある、ひときわ大きな転移陣の周囲には、何やら心配そうな顔をした民衆がぞろぞろと集まってきていた。

 ひとえに流狼とアルカシードを心配しての行動である。お転婆姫様に引っ張られるようにして街中を駆けまわる王機兵の乗り手、という姿はリエネスの民にとって、そろそろ日常になりつつあった。

 年齢も近く、ようやく姫様にも公私を任せられる人物が現れたのだと人々は口々に噂しあったものだ。

 スーデリオンに出向いてはトラヴィートの王を諫め、今度はそのトラヴィートに出向いて巨大魔獣を討伐した。

 それでいて驕らず、礼儀も弁えていて、王族を立てている。エネスレイクの国民にとって、流狼は疑うことなきヒーローだったのだ。

 そんな彼が、天魔大教会からの突然の招聘に応じる。

 政治的なこととは無縁の彼らにとっても、何やらきな臭いものがあったのか、何は出来なくともアルカシードを見送るような行動に走らせたのである。


「何ともまあ、気に入られたもんだなあ」

『うむ。ロウは既にこの国になくてはならない者だということだ。ふむ、少し安心させてやるとするか』

「何するつもりだい、フィリアさん」

『アル殿、声を外に放つことはできますか』

『ん、どうぞ』


 と、ゲストスペースにいるフィリアが何やら胸を張った。

 別に誰も見ていないのだが、気合を入れて声を出すのに必要なのだろう。


『リエネスの民よ! フィリアである』


 凛とした声が周囲に響く。

 民衆も、その声がアルカシードから聞こえてきたことにしばらくしてから気づいたらしく、しばらく辺りを見回してから再びアルカシードに視線を向けてきた。


『ルウ・ロウ・トゥバカリィは今より招聘に応じて天魔大教会へと赴く! だが案ずるな、私が責任を持ってこの国に連れて戻ると誓おう』


 姫様が一緒なのか、一緒なら安心だ、いやむしろ不安だなどと、眼下で民衆が騒いでいる。心なしか不安がる方が多いような気がする。

 ともあれ、王族が一緒ならば流狼がそこまで無体な目には遭わないだろうと納得したらしい。今度は頑張れと手を振ってくる。


『よし。それでは行くぞ、ロウ!』

「ん、ありがとう、フィリアさん」

『なんだ、改まって。そんなこと、気にするものではないぞ……』


 先ほどまで凛としていたフィリアが、今度は顔を赤らめてもごもごと。

 美女にそれをやられると、何やらこちらまで照れてしまう。

 足を進めながら流狼は、フィリアと視線を合わせるのが何となく気恥ずかしくなってしまうのだった。






 天魔大教会に一番乗りを果たした王機兵は、ルースとフニルグニルであった。

 考えても仕方ないぞと散々言われたルースは軽く不貞腐れて、今回は妻を一人も連れずに転移陣に乗ったのである。

 だが気の大きいルースは転移陣で天魔大教会についた頃にはもう不貞腐れていたことなど忘れていて、堂々と大教会の巨大な扉の前にその機体を乗り付けたのであった。


「頼もう!」

「おお、これはこれは、獣王機様の乗り手様でいらっしゃいますな!?」


 機体の中からは失礼になるので、フニルを伴って一旦機体を降りる。

 と、ルース同様テンションの高い男性が、慌てた様子で扉の横に備え付けてあった人間サイズの出入り口から現れた。


「ルース・ノーエネミーだ! リーングリーン・ザイン四領連合でフニルグニルの乗り手をやっている!」

「お会いできて光栄でございます、ノーエネミー様! そしてフニルグニル様!」


 涙を流さんばかりの様子で跪く男に、ルースは鷹揚に頷いて見せた。


「ありがとう。俺のことはルースで良い。他の乗り手たちはまだか?」

「はい。ルース様が一番乗りでございます!」

「一番乗りか! 良い響きだな!」


 一発で上機嫌になったルースは、鼻から大きく息を吐き出し、問う。


「話は全員揃ってからとなるかな?」

「はい。そうさせていただきたく思います。それまでフニルグニル様にお休みいただく場所と、ルース様にお待ちいただく部屋をご用意しております。ささ、こちらにお進みください」


 と、男は建物に向かって大きく手を振った。 

 それに応じたように、巨大な扉がゆっくりと開いていく。


『ふむ。いちいち乗りなおすのも面倒だ。ルース、機体は動かしておくから、先に入っておこう』

「分かった。頼むよ、フニル」


 ルースが請け負うと、フニルは男に向き直った。


『休む場所とやらへの案内はつけてもらえるのかな?』

「は、はい。今すぐ!」


 まさかルースが乗らないとは思っていなかったのか、慌てて男が元居た出入り口に戻る。

 ルースとフニルが歩き出すとほぼ同時に、伏せの態勢になっていたフニルグニルが体をもたげた。

 乗り手がいなくても機体が動く。この時代の機兵の常識からは考えられない状況に、どうやら大教会の者たちはひどく感銘を受けたらしい。

 ぱたぱたと出てきた三人の職員は、どうやら三人出てくる意味もなく、フニルグニルを案内しに現れたのだった。








「もう、いつまでごねているんですか、父様」

『いい加減にしなよ、ソルナート。あんたは天魔大教会の……いやさ、大陸国家憲章に逆らうつもりかい』


 グロウィリア公国では、頑なに天魔大教会への訪問に反対するソルナート大公に、ミリスベリアとルビィが揃って苦言を呈していた。


「何と言われようと、帝国の奴ばらも現れるような場所に大事なミリスベリアやベルフォースを送り出すことなどできません」


 兵士すら動員して、二人の動きを止めようと画策するソルナート。転移の魔術を行使できるルビィには意味がないのだが、決意の表れと言うやつらしい。

 ミリスベリアは父の行動を過保護だなと呆れるに止めていたが、ルビィはそうではなかった。

 ひどく辛辣な言葉をソルナートに投げかける。


『あんたが嫌なのは、帝国の連中にベリアが狙われることじゃなくて、ベルフォースが大教会に接収されるかもしれないってことだろ』

「何をおっしゃいますか、姉様!」


 その言葉に否定を即答するソルナートだが、ミリスベリアも気づいてしまった。

 ソルナートは後ろ暗いことを隠す時や嘘をつく時、一瞬だけ目が左右にぶれるのだ。


「父様」

「ミリスまで! 信じてくれないのか、父はいつでもお前と姉様を案じていると言うのに」

『大公家の男ってやつは、初代の頃から変わらないね。肉親の情を頼りに、てめえの小賢しさを隠そうとする。いい加減にしないと、あたしにも考えがあるよ』

「なんですか」

『このままエネスレイクに亡命する。あっちにはルナもルロウもいるしね』

「なっ……!」


 ソルナートの顔が強張る。

 だが、すぐに余裕を取り戻す。何かを思い出したように。


「そうですか。ですが、次の代には乗り手がいなくなりますよ。何しろ大公家の男系の直系に生まれた娘にしか、ベルフォースの乗り手の資質は発現しない」

『ああ、それね。エネスレイクに行ったら設定を変えるからいいよ。ディナス王とルナの間の子供の血筋にでも設定しなおすことにするさ。……ルロウとベリアの子供の血筋でもいいねえ』

「え?」

「は?」


 ルビィは事もなげに言い放つと、ミリスベリアの肩に飛び乗った。

 ソルナートが止める暇もない。


『付き合ってられないね。行くよ、ベリア』

「姉様!?」


 次の瞬間には二人は見慣れたベルフォースの操縦席に転移していた。

 慌てた様子で通信を送ってくるソルナートを無視しつつ、ミリスベリアはルビィに聞く。


「姉様、先ほどの言葉は」

『大公家の跡継ぎには大体一度言うことだね。ルナの時にもあいつらの父親に同じことを言ったことがあるよ』

「そうなんですか」

『ベルフォースに頼り切りだからかねえ、乗り手よりも機体自体が国を離れるのが無性に恐ろしいようだよ』

「……はぁ」


 絶対的な防衛能力を発揮するベルフォースがいない。それを頼りにしてきた為政者にとって、その恐怖がどれほどのことか。

 ミリスベリアは父の様子に何となく幻滅した。与えられた力などなくても、あの人ならばきっと強く気高く現実を受け止めるのだろうな、と思いながら――


『ルロウのことを考えていたね?』

「ね、姉様⁉」


 図星を衝かれて狼狽するのだった。


「と、ところで。何度か言っているってことは、やっぱり乗り手の条件を変えるのは冗談なんですね?」

『いや、出来るよ?』

「えっ」

『できるけど、していない。それが答えだよ』







 アルカシードが天魔大教会領に出現した時、ちょうど入口のところで騒ぎが起きていた。

 三体の機兵――これらも王機兵なのだろう。普通の機兵よりも大柄で、それぞれ特徴的な姿をしている――が扉の前に立っている。

 背に二対四枚の翼を生やした見るからに軽量型の王機兵。

 エナのナルエトスによく似た形状の、重装甲の王機兵。

 毛髪のように炎が揺らめく、青白い装甲の王機兵。

 三体が揃っているということは、どうやらこれらが帝国の王機兵か。

 と、アルが尋常ではなく驚いた様子で声を上げた。


『や、ヤイナスカ⁉』

「どうした、アル」

『あれは熱王機ヤイナスカ。凍王機クレフィーンと対になる王機兵で、暴走しがちな互いの出力を相互に制御する王機兵なんだ。間違っても別々にならないようになっていたはずなのに、なんでヤイナスカだけが』

「まあ、三千年近くも経つとな」

『乗り手が居なくてよかったよ。……正しい乗り手がいたら、クレフィーンがいないと際限なく熱量を上げてしまう』

「なんでそんな欠陥のある機体を」

『神兵の耐えられる温度域が分からなかったからね。乗り手が双子の兄妹だったこともあるけど。まあ、ジャナスはフィーナが近くにいなければ無茶な熱量上昇はさせないと思うからいいけど、フィーナがなぁ……』

『アル殿、何やら危惧されているのはわかりましたが、そこの騒ぎはそれが原因ではないのではないでしょうか』

『あ、そうだね。マスター、詳しい話は後で』

「ああ」


 フィリアの的確な指摘に、アルも現状を思い出したようだ。

 機体の足元では、同じような服装をした数十人が、王機兵を囲んでいる。殺気立っている様子だ。

 正直なところ近寄りたくないが、扉はどうやらそこにあるひとつだけのようだ。やむを得ず、近づく。


「エトスライアと、ヤイナスカ、そしてこの羽の王機兵が」

『翼王機クルツィア。本来の性能を発揮すれば空中機動で最速の王機兵だね』

「ふむ」


 と、帝国の王機兵を包囲していた一部がこちらに気付いたようだ。

 ざわめいた後、なんとこちらに向かって一斉に跪いてきた。


「な、何だぁ⁉」

『王機兵とその乗り手に対してちょっと信仰じみた敬意を持っているからね、彼ら』

「……この世界って宗教とかないって言ってなかったか?」

『神がいなくても、何かを信仰したいという気持ちはどんな世界にも存在するんじゃないかなあ』

「そういうものかね」


 アルの言葉に首を傾げつつ、適当なところでアルカシードの歩を止める。 

 視界が暗転し、いつものようにアルカシードの足元に現れる。隣にはいつも通りアルと、少し後ろにフィリアも現れる。

 と、こちらに跪いていたうちの一人が顔を上げた。


「拳王機様の乗り手様とお見受けいたします!」

「ルロウ・トバカリです。こいつはアル。こちらが後見の――」

「エネスレイクのフィリア・アイラ・エネスレイクです」

『マスターは召喚陣によって異なる世界より招かれた招かれ人だ。この世界の歴史や常識に疎いところもあるから、配慮を頼むよ』

「う、承りましたアル様! 私、マキェーロがルーリオ様、アル様、フィリア様のお世話をさせていただきます。よろしくお願い申し上げます!」

「わかりました。よろしく、マキェーロさん」

「呼び捨てにしてくださいませ、ルーリオ様! さ、こちらへ」


 いい加減、名前の発音については気にならなくなってきた。

 マキェーロが立ち上がると、それに応じて人垣が割れる。何が原因で帝国の王機兵の乗り手たちがもめていたのかは分からないが、こちらは歓迎されているようだ。

 フィリアもいるので、あまり関わり合いになるのもよくないだろう。流狼自身、帝国相手には穏やかではいられないのだ。

 極力目を合わせないように帝国の王機兵の横を通り過ぎようとした時。


「流狼君……?」

「っ!」

『⁉』


 聞き覚えのある声。流狼は思わず足を止めていた。

 振り向けば、確かにそこには見覚えのある顔が。


「陽与ちゃん……!」

「久しぶりね」


 そして、陽与の腕は青い髪の男の腕に絡められていた。

 見覚えのある男だ。思考が赤熱しかける。拳を強く握ったところで、


「……ロウ」


 フィリアが静かに囁いて、こちらの左拳を両手で包んだ。

 敵意に燃え盛ろうとしていた心が、落ち着いていく。


「ごめん、フィリアさん。大丈夫だ」

「そうか」


 見れば、青い髪の男もまた流狼を剣呑な眼差しで見ていた。

 長く、深く。流狼は息を吐いた。


「幸せそうだね、陽与ちゃん」

「ええ。アルズベック様はとても大事にしてくださるから」

「そっか。それは良かった」


 アルズベック様。笑顔で告げられたその言葉にどうしようもなく自覚する。彼女はもう、決して自分の手の届かない場所にいるのだと。だが、幸せにしているのならば最早言うべき言葉はない。

 どうにか笑みに見えるような表情を作って、頷いてみせる。

 そこでふと疑問を持つ。彼女はなぜここにいるのか。


「もしかして、陽与ちゃんも王機兵の乗り手なのかい?」

「いいえ。アルズベック様は私にそういう役割を求めたりはしないわ」

「なら何故ここに……」

「そう、それよ! 流狼君、聞いてくれる⁉ この人たち、アルズベック様たちにはこの建物に入る資格はないって言うのよ」


 陽与は怒り心頭といった風情で頬を膨らませた。


「入る資格?」

「はい、ルーリオ様。ルーリオ様とアル様のように、彼らは正式に乗り手と選ばれた者ではありません。にも関わらず恥ずかしげもなく乗り手と名乗り、この場を訪れたのです」

「我らはここまで王機兵に乗って来たではないか!」


 マキェーロの言葉に激昂したのは、青い髪の男――アルズベックではなかった。その後ろにいた男で、その顔と声にも流狼は覚えがあった。

 この世界に召喚された当初、最初に帝国の者たちに向けて罵声を浴びせていた男だった。金髪に白い肌。独特のしゃがれ声は間違いないだろう。


「黙れ。こちらのルーリオ様とアル様のように、王機兵の乗り手様には王機兵の化身が精霊となって侍られるのだ。それを知らぬお前たちは断じて王機兵の乗り手様ではない」

「精霊の目覚めさせ方が分かればよいのだろう」


 ここに至って、初めてアルズベックが口を開いた。

 だが、それに反論したのはマキェーロではなかった。


『逆だよ。君たちはどうやったかは知りたくもないけど、精霊を強制的に寝かしつけることで一時的に王機兵を使っているに過ぎない。精霊を起こせば君たちは王機兵を動かせなくなるよ。それでもいいのかい?』

「ずいぶんな物言いだな。アルと言ったか、そもそもお前が王機兵の精霊だという証はあるのか?」

『そういえばないね。ま、その辺りはボクとマスターが分かっていればいいことさ。行こう、マスター、フィリア、マキェーロ』

「ええ。ではこちらへ」

『あと、どうせ役には立たないだろうけど、通してあげれば? このまま追い返すとメンツをつぶされたとかで面倒くさいよ、きっと』

「はあ、しかしですねアル様」

『いいじゃない、別に見られて困るものがあるわけじゃなし。領土拡大に意気高い帝国サマが次の標的に大教会を選ぶ上での口実になっても困るしさ』

「会頭に確認を。アル様のご意向であることをお伝えして、判断を仰いでください」


 マキェーロが折れたように、若い職員に指示を出す。

 頷いた職員が建物の中に駆けていくのを見てから、マキェーロはアルに向き直った。


「アル様。ひとまず会頭の判断に委ねたいと思います。皆様は私とこちらへ。ああ、機体の方を中に」

『ああ、扉の前の機体をいちいち動かすのは面倒だね。フニルグニルがもう中にいるようだけど、その隣でいいかな?』

「え? あ、はい。それは大丈夫だと存じますが……」

『なら短距離転移で移動させるからいいよ。座標指定、っと』


 アルが右手をこれ見よがしに振ると、アルカシードの姿が掻き消えた。

 これに驚いたのはアルズベックだった。


「なっ⁉」


 いや、マキェーロたちも驚いてはいたようだが、どちらかというと感動が勝っている様子だった。


『さ、行こうマスター。これ以上ここに居てもマスターのメンタルによくない』

「あ、ああ。ありがとう、アル」


 いたたまれない思いと、もう一度言葉を交わしたいという気持ちと。

 折り合わない感情を胸に、流狼は今ばかりはアルの言葉に従うのだった。






 与えられた部屋の中で、フィリアはひどくもやもやする気持ちを持て余していた。

 流狼とアルが居る部屋は隣だ。近くにはルースとフニルも居ると聞いたが、その部屋の場所までは教えてはもらえなかった。

 当然と言えば当然だ。先ほどのアルズベックら帝国とルースたちは敵対していて、エネスレイクは大陸の情勢としてみれば敵側なのだ。

 とはいえ、ルースのことだ。流狼が来たと気づいたらすぐにでも声をかけに動くだろうが。


「それにしても、ロウは……」


 フィリアは、流狼は常に感情を見事に制御し、冷静にことを運ぶ男だと思っていた。

 それがどうだ。アルズベックと昔の恋人を前にした時、彼はこちらにもわかるほど敵意を露にしていた。

 あれほど感情を高ぶらせる流狼を見たことはなかったし、その様子を見た時には無性に胸がざわめいたのだ。


「この気持ち、私は」


 あの時は思わずその拳を取ってしまったが。

 流狼はそれでみるみる心を落ち着けたのが分かった。自分が彼の助けになれたと感じた時に胸に灯った暖かさは。

 と、部屋のドアがノックされる音。返事をしようと顔をあげたところで、


――はい?


 それが隣の部屋だったことにフィリアは思わず赤面した。

 自分は何をこれほど思い詰めているのか、と。

 ルースあたりが顔を出したのだろうか。


――流狼君。


 聞こえてきた声に、フィリアは息を飲んだ。


――陽与ちゃん⁉


 流狼も驚いている。彼女は何をしにきたのか。

 フィリアはドアの近くで息を殺して、耳をそばだてた。


――流狼君、一人?

――いや、アルもいるけど。

――そうなのね。ねえ、流狼君。お願いがあるの。


 甘やかな響きで、ヒヨと呼ばれた少女は流狼に告げる。

 フィリアは、流狼の表情を思い浮かべて胸が搔きむしられるような気分になった。


――な、何だい?


 自分を連れて逃げてくれ、とでも言うつもりだろうか。確かにこれは恋人の元に帰るチャンスだ。自分が彼女の立場ならばためらうまい。

 胸は痛むが、仕方ない。ここは後のことは心配するなと伝えてやらねばと思ったところで。


――帝国に来て。流狼君の力をアルズベックに貸してあげて欲しいの。


 フィリアは今度こそ彼女が何を言っているのか理解できなかった。

 いや、それはフィリアだけではなかった。壁を挟んだ向こうでアルまでもが絶句しているのが分かる。


――え?

――アルズベック様は、元の世界に戻る魔術の研究を約束してくれたわ。この大陸を統一して、その後にみんなを元の世界に戻すって。だから、ね?


 この時点で、フィリアもようやく理解した。

 すでにこの少女は、流狼に何の未練もないのだと。

 自分がアルズベックの妻であることを受け入れ、過去を完璧に清算したつもりでいるのだと。

 躊躇のないその様子に流狼も察したらしい。陽与はどうするのだ、とは聞かなかった。


――悪いけど、それは出来ない。

――どうして?

――俺はそのアルズベック皇子に殺されたかけた。今も生き延びられているのはそこにいるアルのおかげだ。

――アルズベック様はその件についても謝罪をすると仰っているわ?

――それにね、陽与ちゃん。帝国が……君が俺を必要とするのは、俺が王機兵の乗り手だから、なんだろ? ただの飛猷流狼という人間が必要とされているわけじゃあない。

――それは。でも、それは流狼君が今いる国だってそうじゃないの?


「ふざ……」


 ふざけるな。

 フィリアは叫びそうになって、慌てて言葉を飲み込んだ。


――それにね? もし流狼君の国と帝国が戦争になったら、敵同士、なんだよ?

――エネスレイクと帝国は同盟国のはずだよ?

――先のことなんてわからないよ。流狼君は、私を殺すことになるかもしれないんだよ?


 この女、八つ裂きにしてやろうか。

 フィリアは目の前が真っ赤になるほどの怒りを、おそらくは生まれて初めて陽与に対して覚えた。


――そうだね。君や龍羅さんを敵にしたいとは思わないよ。

――なら!

――でも、俺はエネスレイクの人たちに助けてもらった恩がある。君と一緒に帝国に行ったら、俺はいつか彼らを敵に回すかもしれないわけだよね?

――それは、その。

――君が俺と戦いたくなくて、帝国の人たちを説得してくれるなら。それで君の立場が悪くなって苦しくなるなら、俺はアルカシードで君をいつでも助けに行くよ。

――そう。アルズベック様に力は貸してくれないのね?


 もう限界だった。

 フィリアは衝動的にドアを開けると、隣の部屋の前に立つ陽与の顔を張り飛ばした。


「きゃあ⁉」

「フィリアさん⁉」


 流狼の方を見る。悲しそうな、辛そうな、何かを耐える顔。今は驚きに目を見開いているが、フィリアはそんな顔をする流狼を見たくはなかった。


「何するのよ!」

「黙れ」


 フィリアは流狼の腕を取ると、両腕で強く抱きしめた。

 そして何事かとこちらに顔を向ける流狼の唇に、自分の唇を優しく預ける。


『わあお、大胆だねフィリア。でも……ありがとう』


 後ろにいたアルが何故だか感謝を伝えてくる。

 目を白黒させる流狼から顔を離す。火照った頬をそのままに、フィリアは決然と陽与を睨みつけた。


「私はエネスレイク王国王女、フィリア・アイラ・エネスレイクだ! ヒヨとやら、ロウは、ル……ルロウは、私が見初めた!」

「ふぃ、フィリアさん⁉」

「王機兵の乗り手かどうかなど、関係ない! 私たちは、私は、ルロウという一人の人間が必要で、大切なのだ! 私の夫を引き抜こうなどと、いい度胸だなレオスの妃よ!」

「そう。そういうこと」


 ふっと、陽与の表情から何かが抜けたようだった。

 自分のことは棚に上げたのか、冷笑を浮かべて流狼に一言。


「お幸せにね、飛猷さん」

「あ、ああ」


 こちらの返答を待ちもせず、つかつかと歩み去っていく陽与。

 何とも対応に困っていると、後ろからアルが気の抜けたような声を上げた。


『ねえマスター。ボクが言うのもなんだけど、ボクはあの人よりもフィリアの方がマスターに似合いだと思うよ』

「え、あの、アル殿⁉ その」


 慌てて流狼から離れる。きっと顔は真っ赤になっていることだろう。

 流狼の顔をちらりと見れば、その顔もほのかに赤い。


『さっきも言ったとおりだよ。フィリア、マスターの心を護ってくれてありがとう。マスターも。まだ釈然としないかもしれないけど、取り敢えずあの人に未練はなくなったんじゃないかな』

「ああ、うん。そうだな」


 複雑な表情をする流狼。胸の奥がちくりと痛むが、後悔はない。

 フィリアは思いのたけを告げようと息を吸って――


「おお、義弟! もう来ていたか!」


 むせた。

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