第二十二話:大襲来の波紋は

 大襲来警報と大魔獣撃滅令が天魔大教会から発されて最も動揺があったのは、リーングリーン・ザイン四領連合軍と帝国軍がぶつかり合う最前線だった。

 互いに機兵だけで千を超え、歩兵や魔術兵なども含めれば万単位の動員は下らない。戦況は一進一退である。現時点では我慢比べの様相が強かった。

 戦場は四領連合の国境線付近だ。帝国の主要都市からは遠い。長期戦を覚悟して新たな都市開発と農村の開拓、砦の建造が始まっているようだが、帝国は戦争ばかりではなく、そちらにも大きな労力を費やしている。

 四領連合の策略と言うべきか、戦線はそれぞれの国境線上に非常に長く延びている。結果として、帝国軍は一箇所に対する火力の集中が出来なくなった。

 また、帝国軍はタウラント大鉱床を手に入れる為にも兵力を割かなくてはならず、負担は増すばかりだ。

 しかし、帝国軍の錬度や新兵器の開発速度には目を見張るものがある。長くなった戦線で、それぞれの国を相手どって有利に戦を進めているのもこれが理由だ。

 逆に四領連合が崩れない理由は、『英雄』ルース・ノーエネミーが乗る獣王機フニルグニルの力あってこそだった。

 最速の機体が戦場を縦横無尽に駆け、予想外の場所から帝国の戦術・戦略を引っ繰り返す。

 結果として、両陣営はどちらにも針の傾かない、互角の戦いを繰り広げていた。

 そんな折の、大襲来と大魔獣撃滅令の発令である。


「このタイミングで停戦か。大襲来とは、つくづく運のない国だな、トラヴィートは」

「はっ」


 その報を受けた帝国皇太子イージエルドは、本陣に設営された質素な椅子に座ると、参謀達に笑いかけた。


「大型魔獣が駆除されて、戦が再開されるまでは最短一年だったか。補給拠点を築く時間が稼げそうだな。こちらとしてはありがたい限りだ」


 消耗戦が続く限り、帝国の勝ち目は少ない。

 圧倒的な機兵の数と錬度を武器に電撃戦を続けてきた帝国だったが、ザイン領では見事に計略に嵌った。

 多数の機兵による波状攻撃を防いでいる間に、周辺三領の軍が手薄な帝国領を逆侵攻したのである。

 波状攻撃を防ぐ原動力となったのはやはり王機兵であった。

 包囲殲滅の可能性を看破した参謀達が居なければ、イージエルドも生きて軍を率いる事は出来ていないだろう。

 態勢を立て直した帝国軍だったが、今度は四領連合すべての国境線を戦場とする難しい状況に置かれていた。

 送られてくる補給物資を襲われるような事はなかったが、侵攻に合わせて収奪する事で速度を維持してきた彼らは、一気に活動を停滞させる事になってしまった。

 増援は満足な頻度で送られてくるのだが、王機兵を擁する連合軍をどうしても攻めきれない。

 一旦仕切り直しが出来るこの停戦は、非常にありがたかった。


「では順次武装解除といこう。そうだ、大規模魔術の準備を始めていた部隊はあるか?」

「はい、三部隊ほどございますが」

「ふむ。そのうち一つが偶然にも魔力を暴走させて暴発などしてしまうのは、何とも不幸な事故だな」

「は? ははあ、なるほど。確かに不幸な事故でございますな」

「三部隊もあるそうだが、果たしてその不幸な指揮官は誰なのだろうね」


 イージエルドの問いに、問われた一人の参謀は慎重にその顔ぶれを頭に浮かべた。

 この問いにどう答えるかによって、明らかに一つの家を潰す事になる。その家や親戚筋から受ける憎悪は間違いなくこちらに向けられるだろう。そして、そこから身を守るのはあくまで自分自身の才覚でなくてはならない。また、あるいはその言葉でイージエルドから不興を買って、自分の立場が危うくなる可能性もなくはなかった。


「右翼前面で、トリスベン家が準備をしております。従兄弟がアルズベック殿下の指示を達せなかったとの事で爵位を剥奪された家でございます。現在は一族の信頼回復に逸っておりますので」

「ほう、悪くない。取り立てて有能でもなく、さりとて状況が見えないほど無能でもない。本家のモティブが没落したのだ、本家を継がせてやるとでも言えば乗ってくるかな」

「は? 殿下、トリスベンの本家をご存知で」

「ああ、士官学校で同期だった。実に貴族的な男であったが、同時に間の悪い男でな。弟の下に配属されたと聞いた時にはほっとしたものだが」

「で、では別の者に」

「何故だね?」

「いや、殿下のご学友の一族であるとは存じませんで」

「ふむ。確かにモティブとは友人であったと言えるが、その従兄弟とは会ったことも無いぞ?」

「承りました。不幸な事故が起こる故、気をつけよと伝令を」

「任せた」


 イージエルドの表情はいつも通り涼しげだった。良心の呵責など一切感じさせる様子もない。

 参謀はひとり胃の痛くなる思いを禁じえなかったが、冷酷に足の速い兵士を一人呼び寄せた。






 一方、四領連合側は極めて長期に亘った防衛戦の――それが一時的なものとは言え――終わりを素直に喜んでいた。

 ルースは嬉々として武装解除を始める同胞の笑顔に、一瞬だが頬を緩めていた。


『ルース。喜ぶのはまだ早い、大型魔獣撃滅令が出ているのだ。ルビィからの情報だと前例のない型で大きいようだぞ』

「そうらしいな。だが、それは俺達が出て叩き潰せば良いことだ。そうすれば少なくとも一年、彼らは誰かに命を奪われない生活を送ることができる」

『お前らしいな』


 フニルがそう応じた刹那。

 彼らの視界を白が焼いた。


「ぐっ、何だ!?」

『馬鹿な、攻性魔術だと!?』


 続いて衝撃が機体を揺らす。

 王機兵たるフニルグニルにとって、致命的な威力ではない。続いて生じた爆発もまた。

 しかし爆風の程度によっては飛ばされてしまう事もあり得る。ルースは機体を踏ん張らせ、発生した勢いに耐えた。

 爆風が収まり、視界が開ける。周囲を見回したルースは絶句した。


「馬鹿な!」


 フニルグニルを中心とし、魔術弾が着弾した地点の周囲は完全に消し飛ばされていた。範囲は戦場に比べれば決して広くないが、まるでその場所だけが削り取られたようになっている。

 原型を留めているのはフニルグニルのみだ。武装解除をしていた仲間達は、その体はおろか乗っていた機兵さえ、跡形もなく吹き飛んでいる。

 反して、フニルグニルには大きな損傷はない。王機兵の性能の高さを証明する形となったが、ルースにとってはそれどころではなかった。


「何故だ、奴らだって武装解除を始めていただろう!」

『待てルース。どうやらあちらから謝罪の通信が入ったようだ。発動直前だった魔術の解除に失敗、暴走した。被害者に心より謝罪する……とさ』

「本当だと思うか、フニル」

『間違いなく嘘だな。本当に暴走したなら、こんなに早く謝罪の通信など入らんだろう』

「奴らぁぁぁぁっ!」

『よせ、ルース。たとえ嘘であっても、。今は手を出すなよ』

「ふざけるな、フニル! 俺は許さない!」

『許せなどとは言っていない。その怒りは後に取っておけと言っているんだ』

「だが!」

『それに、怒っているのがお前だけだと、本当に思っているのか?』

「なに?」

『周りを見てみろ』


 頭に血が昇り切っていたルースが、フニルの言葉で周囲を見回す。

 肩を組んだ姿勢でフニルグニルを囲む機兵たちがいた。魔術が着弾した直後にこちらに駆けてきたらしい。その数は今も増えている。そして、操縦席から生身をさらす、乗り手達の姿も見えた。


「何をしているんだ!」


 スピーカーから声を上げると、乗り手達はルースに向かって口々に叫ぶ。

 彼らは全員が涙を流していた。渋面を作り、唇を震わせながら。


「ルース様! 今は頼む、耐えてくれ!」

「許せないのは俺達も一緒だ! でも、手を出しては駄目だ!」

「帝国を、あの性根の腐った第一皇子を叩きのめすのは、停戦期間が終わってからだ! ここにいる全員が、同じだけ怒りを持っているんだから!」


 ここでフニルグニルが動けば、彼らはその衝撃で簡単に肉塊になり果てる。熱しやすいルースが帝国に襲い掛かる事を危惧した彼らは、場合によっては自分たちが死ぬ事さえ覚悟してフニルグニルを囲んだのだろう。仲間の死を悼むよりも先に。

 怒りはそのままに、ルースの頭が急速に冷えていく。


「そうか、そうだよな。みんな、同じだけ許せないよな」


 歯を食いしばり、衝動に耐える。

 状況を理解した以上、ルースはフニルグニルを走らせるつもりはなかった。


『ルース』

「降ろしてくれ、フニル。もう奴らは撃ってこないんだよな?」

『ああ、分かった。もう大丈夫だろう』


 機兵二十三機、歩兵百四十七人、魔術兵六十八人。

 帝国のにより、命を奪われた者達の数である。

 この日、リーングリーン・ザイン連合王国の防衛戦は、一旦の終息を見せた。






 トラヴィート王国の防衛戦では、凄惨な光景が繰り広げられていた。

 魔獣による、捕食である。

 殻の一部をずらし、肉色を露出させた魔獣の体内から飛び出したのは、ぶよぶよとした肉塊だった。

 それが何であるのかを看破した者はいなかったが、ほどなくその役割を誰もが理解した。

 ごろりと、その姿勢のまま転がる魔獣。

 狙った先は、跳ね飛ばされた事で倒れていた機兵。どうやら中の乗り手は無事らしく、緩慢な動作ながら起き上がろうとしていたところだった。

 背中から巨大質量に押し潰され、地面にめり込む。

 だが、それでも操縦席自体は無事であったらしく、そちらから本陣に通信が飛んできた。という事は、指揮官の一人であるらしい。


『く、何が起きたんだ!?』

「魔獣だ。魔獣が圧し掛かっている。まずいぞ、もしかしたら機兵を食うつもりかもしれん。逃げられるか?」

『食う? む、無理だ。機体がまったく動かない』

「よし、どうにかして機体をどかす算段をつける、そちらもなんとか暴れて捕食をされないように――」


 応答した通信兵が告げる事ができたのは、そこまでだった。


『う、うわあっ!』

「な、なんだ? どうした!?」

『と、溶ける! 溶けている、機体が! 背中が、溶け――』

「溶けている? まさか」

『ぎゃあああああああああああああああああああああ!』


 ぶつりと、通信が途切れる。

 それとほぼ同時に、魔獣がずるりと肉塊を飲み込んだ。ごろりと転がり、肉色の面を再び上部に向ける。

 地面からは、何やら青黒い煙が立ち上っている。


「消化器を、吐き出して。直接、消化、したのか」


 参謀の一人が、何ともおぞましいものを見たような表情で呟いた。

 そんな事を言っている間に、再び魔獣が狙いを定めたようで、肉塊を再びずるりと吐き出す。消化しきれなかったのだろう、機兵のものと思われる部品が一つ、転げ落ちる。


『あ、うわ、あ』


 次に狙いを定められたのは、ある程度固まって魔獣の蹂躙を避けた一団だった。

 レイアルフが指示を出すべく敷いていた通信網は、本陣を中心に各部隊長に対してオープンにされている回線だ。

 一団の隊長らしき人物の声が、通信機材を通して漏れ伝わってくる。彼女もまた、今の光景を見、叫びを聞いてしまったのだろう。


「逃げろ、逃げるのだ! 散開しろ、狙われているのはお前たちが固まっているからだ!」


 参謀の声が聞こえたのか、逃げようとする機兵達。

 しかし、それは許されなかった。

 魔獣から何かが発射され、機兵達を地面に縫いとめたのである。


「なんだ、どうした!」

『針です、巨大な針が飛んできて! くそ、抜けない!』

「落ち着け、まだ魔獣は動いていない。針を折ってでも逃げるんだ」

『ええ、分かっています。なんだ? 変な臭いが……おぶっ!』


 聞こえてきた声は焦りから苦悶へ変わる。

 女性のもがき苦しむ声と何かを掻き毟る音だけが響く。


『が……かっ』

「おい、おい! 大丈夫か!?」


 魔獣は針を飛ばしただけで、機体に近寄るような様子はない。だが、針を抜こうとしていた機兵達は程なく動かなくなった。

 抵抗――あるいは逃亡を阻止できた事を理解したらしい魔獣は、ようやく機兵達に圧し掛かった。数が多いからか、じゅうじゅうと何かを焼くような音と立ち上る煙。

 悲鳴は聞こえなかった。だが、向こうの通信機能が破壊されるまでの間、機兵が消化液で溶かされる音と何かが動いている音だけがかすかに聞こえ続けた。


「陛下。駄目です、勝ち目がありません」

「元より我が国の兵力だけでどうにかなるとは思っておらんよ」


 誰もがこの時点で理解していた事ではあるが、参謀は至極冷静に事実を告げた。

 ケオストスは頷いて、司令官であるレイアルフに声をかけた。

 魔獣は食事に夢中だ。次は最初の跳躍で押し潰した機兵達の消化に勤しんでいる。しばらくは時間が稼げるだろう。これ以上の各個撃破だけは避けたいところだ。


「レイアルフ。このままでは蹂躙を待つだけだ。一旦退け」

『まだだ。まだだ兄上! あの肉が露出したところにもう一度氷槍を!』

「どちらにしろ一旦退くのだ。仕切り直す。このままでは済まさんさ」

『何か考えがあるんだな?』

「ああ。どちらにしろ氷槍一本では止めはさせないだろう?」

『……くっ。動ける者は退がれ! 倒れた者を顧みるな!』


 非情な言葉を吐き出したレイアルフがこちらに向かって駆けてくる。

 その様子を遠目に睨みながら、ケオストスは参謀に指示を出す。


「今の内に記録している映像をエネスレイクとグロウィリアに送れ。私はあれの侵攻を封じる準備を執り行う」

「御意」


 と、ケオストスはル・カルヴィノの操縦席を閉じて、戻ってくる軍勢を待つ。頭の中では、どのように対処すべきかを考え続けながら。

 魔獣は逃げてくる機兵たちには目もくれず、倒れている機兵達を貪るのに忙しい。こちらの攻撃を脅威だと思っていない証拠だ。そして、こちらがどれ程急いで逃げたとしてもすぐに追いつけると理解しているのだろう。


「ふん、化け物め。だが、我々にもお前の暴虐を封じる手段があるということを知るがいい」


 本陣を出て、平原を見渡す。ここならば無茶をしても被害は少ないだろう。

 ケオストスは杖を地面に突き立てた。


「魔力ある者は手を貸せい! このケオストス・トラヴィート、一世一代の大魔術だ!」


 駆け込んで来る機兵達がル・カルヴィノの横に並ぶ。


『兄上ぇぇぇっ!』

「来たか、レイアルフ! 奴の侵攻を止めるぞ。被害を減らし、王機兵の援軍を待つのだ」

『分かった!』


 レイアルフは落ち着いている。無心に逃げてくる間に、魔獣との彼我の戦力差を冷静に受け入れたのだろう。

 ル・カルヴィノの杖にレイアルフの機体も手を置き、命令を発する。


『戻ってきた者から我らの背後に並ぶのだ! 陛下の機兵か我が機兵に接続し、魔力を流せ! 良いか、この一手にトラヴィートの興亡がかかっている! 総員、急げぇっ!』


 ケオストスとレイアルフの号令に従い、一機、また一機と機兵が集まってくる。二人の機兵の背中に手を当てる者、肩を掴む者、そしてその後ろに並んで前の機兵に手を乗せる者――


「急げ、急げ! 奴がこちらに興味を向けるまでに出来る限り集え!」

『兄上、これだけの魔力だ。先程よりも遥かに巨大で強靭な氷槍が撃てるな! これならばきっと』

「落ち着け、レイアルフ。それが効かなければ、私達は今度こそ奴に蹂躙を許す事になるのだ」

『やってみなければ分からんだろう』

「失敗した時に蹂躙されるのは我らだけではなく、民もなのだぞ」

『!』

「トラヴィート王国の王として、国家の存続の為に手を尽くす。第一手が全く通じなかったのだ。援軍を待つ、その方針は変えん」

『そ、そうだな。悪かった兄上』


 収束された魔力の膨大さに色気を出したレイアルフを、静かに窘める。

 氷槍の魔術が外殻に砕かれたのであればケオストスも無理攻めを考えたかもしれない。しかし、まるで氷が触れたところから溶けるように消失した事で、ケオストスは魔獣を国内の戦力だけで打倒するのは無理だと判断している。

 理解出来ない事態が起きた時、分析もままならないのであれば可能な限りの安全策を採る。ケオストスは、集束した膨大な魔力に意思を投影し始めた。


『兄上、奴が食事を終えたようだ』

「ああ。機兵はどれ程集まった?」

『逃げおおせた分の七割といったところかと。来るぞ!』


 後ろにわずかに体を転がして、魔獣がこちらめがけて勢いよく転がってくる。

 どこかで跳ねて踏みつぶすつもりかもしれないが、それをいちいち待つつもりはなかった。


『どうするつもりなんだ、兄上!』

「時間を稼ぐのさ、こうやってな! 『大氷壁』!」


 少し前にレイアルフ達を包囲したものとは規模も大きさも桁外れの、巨大な氷の壁がそそり立つ。その大きさたるや、城よりも魔獣の体高よりも高い。巨大な氷山と言っても良い程だ。

 だが、それだけでは何度目かの衝突で破られるだろうと踏んでいたケオストスは、氷壁に更なる変化を強いる。


「『形状変化』! 『頂部融解』!」

『な、何をしているんだ、兄上?』


 氷壁の上部が徐々に外側に傾いてくる。

 ケオストスは答えない。操作対象が氷であるのでそれ程難しい術ではないが、規模が規模である為に集中を要する。

 魔獣が転がる勢いはそのままだ。こちら側からは見えないが、ケオストスの計画した通りに氷壁が変化していれば時間は稼げる。


「もしも上手くいかなければ、そのまま私達も奴の餌だ。上手くいけば、相当の時間が稼げる。賭けの一手となる、許せよ!」


 口をついて出たのは、詫び言だ。

 詳細な説明をせずとも、彼らは王を信じてくれた。後はその工夫が結実する事を祈るのみ。

 魔獣は勢いを殺さずに氷壁に激突――するかに見えた。


『おぉっ!』


 その叫びは、彼らのうちの誰が発したものだったか。

 氷壁を破ろうとした魔獣は、その勢いのままに坂となった氷壁の上を転げ上がり、中空にその身を躍らせる。


「良し!」


 そして、氷壁を越えずにそのまま落下、坂道となった氷壁を転げ落ちて行った。

 おお、と皆がざわめく。

 ごろごろと転げ落ちた魔獣は、何が起きたか分かっていない様子だった。再びごろごろと転がって氷坂を登ろうとしては失敗を繰り返す。


「これでしばらくは時間を稼げるはずだ」


 と言うや否や、魔獣が最初にしたように大きく飛び跳ねた。

 坂を飛び越えようとしたようだが、残念ながら高さが足りなかった。坂に叩きつけられ、そのまま転がり落ちる。


「気は抜けないが、な」


 大きく削れた坂を魔術で修復しながら、ケオストスは一つ息をついた。


『戻った者から陛下に魔力を託すのだ! 疲労した者は退がれ、氷の魔術が得意な者は陛下の補助が出来るように備えろ!』


 魔獣の方を注視するケオストスに代わり、レイアルフが指示を飛ばす。

 その様子に安堵しつつ、ケオストスは魔術の出力の維持に努める。

 民の避難は順調に進んでいるだろうか。彼らがあの魔獣に蹂躙される事だけは防がなくてはならない。

 ケオストス・トラヴィートはこの時、命を燃やし尽くす覚悟を決めたのだった。






 エネスレイク王国軍は驚異的な速さで軍備を整え、転移陣で逐次機兵を送り出していた。

 指揮官はオルギオである。本来ならば流狼とアルも最初の一団で向かう筈だったのだが、エイジに呼び止められて通信室に集まった。


「忙しいところ、済まない。トラヴィートから情報が届いたのでね」


 心なしかエイジの表情は暗い。

 特に説明はなかったが、その理由は彼が映像を展開した事ですぐに知れた。


「な、なんだこりゃあ」


 映し出された巨大な魔獣を見て、オルギオが目を剥いた。


「オっさんが昔にやっつけたやつとは違うんだ?」

「ああ。俺が相手をしたのはどちらかというと軟体でな。ここまで大きい奴でもなかった」

『大型魔獣は節操のない交配と捕食の結果生まれた、突然変異個体のようだからね。同じタイプの魔獣が襲来した事はほぼないようだよ』

「そうなのか」


 何とも不気味な生物である。流狼は画面の向こうの魔獣に視線を戻した。

 巨大な甲殻に身を包んだ、球状の生物。高さは城ほどもあり、ちょうど場面は巨大な氷槍の魔術が撃ち込まれた所だった。


『これは。魔術を消去している?』

「消去?」

『本能でやっているのか、あの殻がもともとそういう材質なのか分からないけど。触れた魔術を分解して感応波を取り込むんじゃないかな。だから触れた部分から感応波を吸収されて氷の形状を維持出来なくなっている』

「魔術が効かないって事か?」

『うん。あの形状でどうやって運動エネルギーを得ているかが分からなかったけれど、感応波を使っているなら理解出来る。ああ、ほら、動き出したよ』

「おぉっ」


 魔獣が巨体を歪ませて中空に跳ね上がり、落下。機兵を叩き潰し、その重量で地震を起こしている。

 アルが腕組みをして首を傾げた。


『あの巨体で恐ろしい事をするなあ。あの中身、どうなってるんだろ』


 と、甲殻の一部がずらされ、内部から肉色の物体が吐き出された。

 機兵に圧し掛かっていくその動きが捕食であると理解出来たのは、暫く観察した後だった。


「き、機兵を溶かして食っているのか」

「奴らの生態を考えるとな。私が知る限り一番おぞましい捕食の方法だ」

「これは、我が国の機兵が行ったところで役に立つのか?」

「そこが問題なのだよオルギオ将軍。アル殿の予測が正しければ、魔術の効かないのだぞ、あの巨体には」

「肉弾戦をしろって事だよな、それ。無理だ!」


 悲痛な声を上げるオルギオ。

 流狼もその意見には同意だったが、魔獣の動きを見ていてようやくその正体に思い当たる。


「ああ、これはこんな形をしてるけど、貝の一種なんだな」

『貝!?』

「消化器を吐き出しているから、たぶん俺の世界のヒトデも入っている。分かるか?ヒトデと貝」

『ヒトデって生き物はよく分からないな。ボクの世界やここには棲息してないと思う。貝は分かるよ。海底によくいる生物だよね? 殻の中には軟体動物がいるやつ』

「ああ。あんな風に跳ねるのは、泳いでいる生き物を捕食する為だったんじゃないか? そうするとあれ以外にも相手を捕えるなり動きを止めさせる方法があるはず。毒かな」


 逃げようとした機兵達の一部が不自然に動きを止める。

 何かを抜こうとする動きがあったから、何かを撃ち込まれたらしい。


「毒針でも撃ち込まれたか。吸収されやすい毒かもしれない」

『何でマスターがそんな事を知ってるんだい?』

「毒のある貝ってのは俺の世界じゃそこそこ有名でね。毒針を刺した相手が呼吸困難を引き起こしている間に食べるって種類がいるんだ」

『それが発展するとあんな感じになるって?』


 倒れ伏した機兵達に遠慮なく圧し掛かる魔獣を見て、トラヴィートの軍勢が一斉に後退していく。

 生半な戦力では役に立たないという判断だろう。良い判断だ。

 流狼は何となく嫌な予感がして、アルに質問する。


「なあ、アル」

『なんだい、マスター』

「アカグマで、あれと勝負になるかな」

『無理だねえ。間違いなく』

「だよなぁ」


 断言するアルも歯切れが悪い。言いたい事が分かっているのだろう。

 可能性があるとしたら、おそらく。


「……なあ、アル」

『そうだね、マスター』


 先回りして答えてきたアルは、こちらの意図を汲んでくれたようだった。

 怪訝な顔をするオルギオとエイジをよそに、アルが説明を始める。


『現在アルカシードの修繕は大体四割程度が終わっているよ。あの規格外の魔獣に勝てる可能性があるとしたら、確かにアルカシードしかないだろうね』

「勝ち目はあるか?」

『魔術を使わずに肉弾戦を行うとして。マスターが操るアルカシードならば、勝ち目はあるよ』

「分かった。ではアルカシードの初陣はあの化け物が相手だな」

『了解。あれに勝てるように機能を回復させておくとするよ』


 流狼はオルギオの方を向いて告げた。

 エネスレイク王国の機兵の乗り手ではなく、王機兵の乗り手として。


「オっさん、俺はアルカシードで出る。少し遅くなるが、許してくれ」

「分かった。頼らせてもらう。エネスレイク軍は兵の損耗を抑え、王機兵の到来まで持ちこたえる。それで良いか、宰相殿」

「頼みます」


 エイジに頷き返した流狼はアルを肩に乗せ、アルカシードに搭乗する意志を込める。

 懐かしい浮遊感。

 次の瞬間には、久方ぶりに眼前にアルカシードの操縦席が広がっていた。

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