第十四話:それが男の本懐なれば
帰国の準備が終わるまで、船は数日を準備に要することになった。
その為、ベルフォースの乗り手であるミリスベリアを歓待する運びとなったのだが。
「えぇ、と」
急な事態に、当然だが怒りと困惑を隠さないミリスベリア。
そして、何故だか急速に機嫌を悪化させたフィリア。
どうしろというのか。
そしてもう一人の当事者である筈の流狼は、ディナスとルナルドーレからの何とも無責任な視線を浴びながら、何とか状況を動かそうと口を開いた。
経験上、誰もが動きを取れない状態では、誰かが口火を切らなくては解決の糸口すら見つからないからだ。
「フィリアさん、ミリスベリア様。いつまでもここに居ても仕方ありませんし、リエネスに向かいませんか」
じろりと、妙に機嫌の悪いフィリアが流狼をにらみつけて口を開く。
「私は『さん』でミリスベリア殿は『様』か。随分と婚約者殿にはお優しい事だな。まあ良い、リエネスに戻るとしよう。ふん!」
「ふぃ、フィリア様!
「は、はぁ」
そもそも様とつけたら嫌がったのはフィリア自身ではなかったか。
ミリスベリアの方はどうやら事態を呑み込めていないだけで怒っていた訳ではないようだった。顔を真っ赤にして否定するが、リエネスに向かう事には同意だったらしく、足早に歩き去るフィリアを追って駆けていく。
流狼は視線をディナスとルナルドーレの方に向けた。
視線に気づいたディナスが、困ったような笑顔を浮かべる。
「済まない、ルウ殿。まさかフィリアがここまでコドモだとは思っていなかった」
「あら。それを見越して焚き付けたのかと思いましたのに」
驚いたような顔をするルナルドーレ。
聞きようによっては、まるで先ほどの発言が冗談であったかのようだが。
「ミリスの件については、本心ですよ。戦中の今、あの子が嫁げる相手など数える程しかおりませんし」
こちらが問い返す前にそう返されれば、こちらも言葉を継げなくなる。
「最有力だったトラヴィート王国はあの状態ですし、私の事がありましたから暫く無理でしょう。エネスレイクは今回私が嫁いだから王族は対象外。帝国の東にあるリーングリーン・ザイン四領連合となると」
「ああ、あの七人嫁を娶ったという英雄が相手になるのか」
「それは流石に、ねえ?」
帝国の東は度重なる他国の調略と複雑怪奇な婚姻政策が影響して、小国が出来ては潰れ、潰れては纏まりの繰り返しだったという。
その地方を纏め、対帝国の一大勢力『リーングリーン・ザイン四領連合』に仕立て上げたのが、王機兵を操るという英雄だとか。
「八人目に可愛い姪を差し出すのも可哀想と思いまして。そして、その英雄と並び立つ人物となると、同じくアルカシードの乗り手であるルロウ様しか」
「うぐ」
何とも乱暴な理論武装だが、大陸の国情を知悉しているとは言い難い流狼では、ルナルドーレの言葉を覆す材料を見つけられないのもまた確かだった。
「まあ、気軽に考えてくれルウ殿。この際フィリアもどうだ? 我が国は家長の甲斐性さえあれば三人までの妻帯あるいは夫帯が認められている。我が義息となってくれればあのお転婆の事も安心なのだが」
「いや、そのですね」
流狼はまだ陽与の事を忘れてもいなければ、明確に決別したわけでもない。
心情的にはまだ区切りがついていない状態だ。新しい恋をと言われても軽々には頷けなかった。
「そんなに悩む事はないさ、ルウ殿。そちらの事情も察している、決着がついてから前向きに考えてくれればそれで、な」
「ええ。船でフィリアから聞きました。どのような答えを出されるにしても、まずは一歩踏み出してみるのも大事ですよ」
「……分かりました」
何となく釈然としないものを感じながらも、流狼は二人の言に頷いたのだった。
『あぁ、言質取られちゃったよ』
『初心だねえ。こういう所はあの子達と大して変わらないか』
後ろから聞こえてきた声については、無視する事にした。
フィリアは、そのむかむかする内心を制御出来ない事に戸惑っていた。
その原因が何なのかが分からないのも不機嫌に拍車をかける。流狼やディナス、ルナルドーレを置き去りにしてリエネスに戻って来てからも苛立ちが納まらない。
だが、与えられた役割を忘れてはいない。
渾身の笑顔でミリスベリアにリエネスを案内する。
「ミリスベリア殿。ここがリエネスの中央広場です。城をはじめ、街のどこに行くにもまずはここに来るのが一番分かりやすいので」
「そうなのですね。フィリア様はよくこの街を散策されるのですか?」
「散策ではありません、視察です! 私は父上から遊撃騎士団を任されている立場ですので」
「フィリア様も将軍なのですね。私も国では形ばかりながら将軍位を任されております」
「うむ、私も民の為に力を尽くせる幸せを日々噛み締めています」
齢も近く、同じような立場という事もあって。主賓であるルナルドーレに気を遣う必要がなくなった事も影響してか、二人はすぐに打ち解ける事が出来た。
リエネスの案内をしているうちに、何となく落ち着いてきた事もある。流狼には悪い事をしたと思ったが、今更戻っても仕方ない。
そんなふうに思っていると、ふいにミリスベリアが思い出したように口を開いた。
「そう言えばフィリア」
「ん? そうか、そろそろ昼だな。ミリス、リエネスで私が贔屓にしている店に案内しよう。濃い味付けと繊細な味付け、どちらが好みだ?」
「そうですね、実は濃い目の味付けの方が……って、そうではなくて」
「む?」
「いえね、ルルォ様ってどういう方なのかと思って」
「むう。ロウの事か」
何となくミリスベリアが流狼の事を口にすると、心がささくれ立つのである。
何故だかは分からない。だが、顔をほんのりと赤らめるミリスベリアの様子に、決して適当な返答をしてはいけないとフィリアは思ったのだ。
「……ロウは、本当はもっと我儘を言っていいのだと思う」
「我儘、ですか?」
「オルギオに言われたのだ。招かれ人は、決して納得ずくでこの世界に招かれた訳ではない。それまでの生活や家族、仲間と別れを告げる事もなく、強引にこちらの世界に招き寄せられたのだ。私達が行った召喚には、そういう罪があるのだと」
何となく、フィリアは足を止めていた。
流狼とは、この世界で出会ってから今日まで、殆どの日を共に過ごしてきた。
恋人を奪われた流狼、この世界で生きる意味を探す流狼、日々の鍛錬を欠かさない流狼、心を許してくれたのか柔らかい笑顔を浮かべた流狼。
彼がこの世界に来るまで、どのように生きてきたかフィリアは知らない。
だが、この世界で、エネスレイクで生きていくことを選んでくれた。彼が幸せに暮らせるようにしたいと思ったのは、果たして罪を償うという意志からだったのだろうか――
「だがロウは、私や父上に罰を求めた事はなかった。あいつがどれ程の事に耐え、どれ程の事を諦めなくてはならなかったのか……。私は、私達はロウを幸せにする義務があると思うのだ」
「そうなのですね」
ミリスベリアが複雑な表情でフィリアを見つめていた。
何か変な事を言っただろうかと首を傾げると、ミリスベリアは何となくルナルドーレを彷彿とさせる悪戯な笑みを浮かべた。
「フィリアから見ても、ルルォ様はとても魅力的な方なのですね?」
「魅力的? うぅん、そう、だな。魅力のある男ではある。何とも危なっかしくもあるが」
「では私もこの国に滞在している間、あの方をしっかりと観察させていただこうかしら。……婚約者として」
「ん……なァッ!?」
フィリアの反応にくすくすと上品に笑いながらも、ミリスベリアは言葉を覆そうとはしなかった。
リーングリーン・ザイン四領連合。
その真の盟主である、『英雄』ルース・ノーエネミーはザイン領の応接室で珍しく渋い表情を見せていた。
名目上の盟主は隣に座る老成したナフティオルト・ザイン。ルースの持つ力と王機兵に注目し、そのカリスマを利用しようとし、最後には彼の最大の支援者になったザイン王国の前王である。
彼もまた渋面を隠そうともせず、流れる不快な音を右から左へと聞き流していた。
目の前で熱弁を振るうのは、都市国家ラポルトの世襲議員――要は他国の貴族のようなものだ――の一人である。三人で押しかけてきて、今は自分達の売り込みの最中だ。
「……なあ、ナフ爺さん。俺、寝てていいか?」
「ルース、流石にそれは困るのう」
小声でやり取りする二人の様子に、使者が気付いた様子はない。彼らは自分達の弁に酔い、ルース達が自分達を迎え入れると信じているようだった。
都市国家ラポルトは、タウラント大鉱床を抱える事で発展した商業都市ラポルトが元となった国だ。弁舌を武器とし、豊富な資金を力とするのが彼の国での立身出世の唯一無二の手段である。
魔力に乏しくても、商才さえあれば王侯貴族に負けない暮らしが出来る可能性がある。都市国家ラポルトは、大陸の経済の中心として栄えていた。
「――以上でございます。私ども都市国家ラポルトを五領目としてお加えいただければ、帝国如きを排除するは造作もないでしょう」
「……帝国如き、だと?」
ルースは小声でそう呻くと、言い述べた議員を強い視線で睨みつけた。
言い様が気に入らない。
彼の駆るフニルグニルは地上最速を誇る四足の王機兵だ。周辺の被害を鑑みなければ、大陸の端から端までを一晩で走破する事も可能だと言う。
それ程の速力を持つフニルグニルを以てすら、帝国の大兵力を押し切る事は出来ない。彼の信念を支え、自らの育った国を護ろうと立ち上がってくれた仲間達も少なからず傷つき倒れている。
ベルフォースのように環境を限定する巧さもなく、広すぎる戦場を公平に護り切る事も出来ていない。確かに苦闘を余儀なくされているのは確かだ。
しかし、ラポルトの議員達はその汚れのない服装で軽く言い切るのだ。
帝国如き、自分達が助力すれば造作もなく勝てると。
仲間達の犠牲や覚悟を踏みにじられているような気がして、ルースは男を怒鳴りつけたくなったが、ナフティオルトとの約束があった為に口を閉ざす。
「なるほど。貴国の意思は承った。連合に参画し、リーングリーン・ザイン・ラポルト五領連合を構成すること。連合上層部にラポルト議会の議員三十七名を全員参加させること。以上でよろしいかな?」
「ええ。それによってラポルト・リーングリーン・ザイン五領連合は、帝国を駆逐して大陸に覇を唱える事も可能となりましょう!」
どうやらこの議員達は、自分達が四領連合に合流しても確固たる地位を保てると根拠なく確信しているようですらあった。
ルースがナフティオルトと交わした約束は一つ。自分から彼らに話しかけないこと。それだけである。
非常な忍耐を必要とする作業だったが、ルースは額に青筋を立てながらもその約束を律儀に守っていた。
「少々厚かましい要求であるようだ。お断りしよう」
「……は?」
そして、ナフティオルトの冷徹な一言に議員は絶句したようだった。間の抜けた表情に、少しばかり溜飲が下がる。
「さ、お客人がお帰りだ。解散としようかの」
「な、何故ですか!?」
「何故も何も」
と、席を立とうとしたナフティオルトがルースにちらりと視線を向けた。
底意地悪く口許を歪めて――ルースには分かるが、他の者には白い口ひげに隠れて分からないだろう――議員達に吐き捨てる。
「どうやら帝国に勝てるつもりであるようだが。我ら四領連合の『英雄』、ルース・ノーエネミーは日ごろから最前線で帝国と戦っているが、今なお拮抗させるのが精一杯の状況だ。ラポルトは英雄以上の働きが出来ると期待して良いと?」
「それは無論! 我々は帝国からタウラント大鉱床を奪っております! 参画すればすぐにでも大量の機兵を投入可能です」
タウラント大鉱床のある鉱山都市タウラントは、元々は中立都市としてラポルトと対等な商取引を行っていた。
それが拡張政策を始めた帝国によって三十年前に占領され、満足な産出量を持つ鉱山を確保した帝国の占領政策は一気に激化する事になる。二十年前の帝国遷都がなければ、今頃ラポルトはその名を残してなかっただろう。
ラポルトはタウラントを解放する為に労を惜しまなかった。帝国とタウラント間の直通経路を爆破して孤立させ、流入していた帝国兵を完璧に排除して。当時のラポルトの議員たちは帝国を押し返すために必死だった。次は自分たちだと分かっていたからだ。
タウラントの解放によって帝国の拡張政策は一旦の中断を見た。ラポルトの声望は確かに上がったが、一方で安寧の中で議員になった彼らのように先達の苦労を本当の意味で理解していない議員も増えたようだ。
「その戦力はルース・ノーエネミーを超えると?」
「無論です!」
「つまり、王機兵を超えると」
「無ろ……何ですって?」
「ルース・ノーエネミーは伝説の王機兵を駆るのじゃよ。それ以上の戦力をラポルトは供出するという事じゃな? それが約定であるならば成程それは素晴らしい、確かに五領連合として貴国の議員を迎え入れてもまだ釣りがくるだろうな」
「お、王機兵以上? いや、それは」
蒼白になる議員達。
最早ナフティオルトは言葉にすらせず、顎をしゃくって退室を促すのみだ。
我先にと出ていく彼らに鼻を鳴らし、
「これで十九名か。ようやく半分じゃの」
「まさか、本当に全員来るんだろうか」
「来るじゃろうなあ。奴らは失敗の理由を決して他には語らんからの」
三名から五名程度で連れ立って現れる議員団は、今回の三名で五度目だ。
今まで来た者はその殆どが同じ論調で話をし、ルースを激怒させたのは今回が二組目である。
『ルース!』
今の今までルースの足元で静かにしていたフニルが、鋭い一声を投げてくる。
「ああ! 分かっている、フニル」
用件が済んだのであれば、いつまでも喋っている時間はなかった。
帝国の攻勢はここ数日緩んでいるが、ルースとフニルグニルが戻るのが早ければ早い程、仲間達の被害は減るのだ。
「すぐに出られるか?」
『無論だ。跳ぶぞ!』
フニルを抱えたルースが念じれば、周囲の景色は一瞬で見慣れた操縦席のそれに変わる。
『まったく、せっかちな奴じゃわい』
焦りも見せずに通信を送って来るナフティオルト。
「悪いな。急ぐ」
『気をつけてのう。お前が怪我でもすると孫が悲しむ』
「ああ。セティーダには謝っておいてくれ」
彼の孫娘の一人はルースの七人の嫁の一人だ。
ルースは義理の祖父に困難な願いを告げると、返答も待たずにフニルグニルを走らせるのだった。
仲間達の待つ、戦場に向けて。
三日後。エネスレイク軍港。
ルナルドーレの歓迎パーティと船の補給を終え、ミリスベリア達は公国へと帰還する事になった。
「ミリス、気をつけてお帰りなさい。式に招く事が出来ないのは残念だけれど」
「大姉様、仕方ありませんわ。帝国を招かないとならないのであれば、余計な軋轢を生じるのはよろしくありませんから」
「ルロウ様、ミリスをよろしくお願いします。お帰りは転移陣で出来るようになりますので」
「はい。全力を賭して」
ヘレニセーラ二世号とミリスベリアを護衛する役目には、流狼が指名された。到着した時にルナルドーレが口にした、婚約者絡みの人事である事は疑いようがない。
ともあれ、ディナスからの正式な指令である。流狼は謹んで拝命し、フィリアは機嫌を悪化させた。
それでも見送りには同席しているのだから、先日程には怒っていないようだ。
「ルルォ様、よろしくお願いしますね。ベルフォースが呼び出せれば良かったのですが」
『さすがにベルフォースを動かす事までは難しいね。頼んだよ、ルロウ殿』
「こちらもアルカシードを使う事が出来ませんから仕方ないかな。あまり役には立たないかもしれないけれど、よろしく頼みます」
アカグマは海中での活動を想定していないと言うから、何かがあったとしても船上での運用という事になる。
タラップを登り、見下ろせばフィリアとディナス、ルナルドーレの姿が目に付いた。
ミリスベリアが手を振り、暫くして汽笛とともに船が港を離れて行く。
と、アルが港とは逆側、沖の方に視線を向けている事に気付く。
「どうした、アル?」
『海の魔獣の反応をね、探っているんだけど』
「何かありそうなのか?」
『海中にはあまりボクのセンサーは効かないんだ。でも、ルビィが何やら妙な反応を感じているみたいでさ』
「二人だけでも転移陣で戻る訳にはいかなかったのかね」
『転移陣同士の接続には、位置情報を互いに登録するだけじゃ駄目だからね。互いの感応波の波長も登録し合わないといけない』
これも位置情報の把握だけで転移陣を悪用されないようにする工夫なのだという。
昨日までの友好国が今日は敵対している場合もある為、転移陣にはそれぞれ別の場所の転移陣の魔力情報を登録する必要がある。こちらの魔力情報が登録された掌大の宝玉を、あちらの転移陣の中に埋め込むだけの作業なのだが、開通の為にはどうしても二度の手間を必要とする。
今回、ルナルドーレが持ち寄ったのは公国の転移陣の宝玉であり、それは既にリエネスの転移陣に埋め込まれている。
ミリスベリアはエネスレイクの転移陣の宝玉を預けられ、これを然るべき転移陣に埋め込む事でグロウィリア公国とエネスレイクの転移陣が開通するという訳だ。
『長距離転移の魔術は距離が離れるほど、使う感応波の量が大きくなるからね。転移陣は位置を絞って、周囲の感応波を吸収して動くから楽に使えるんだよ』
「そうなのか。何事もないといいけどな」
流浪はそう呟いて、アルが見ている方を見やる。
レガント族が残した魔獣が跋扈すると言う魔の海も、今はその様子を見せない程度には穏やかだった。
水生の魔獣は陸生の魔獣と比べて、種族間の格差が小さい事が知られている。
どれ程違う見た目の魔獣相手でも交配の相手として子を為すし、腹が減れば同じような姿の魔獣でも襲うという。
レガント族が彼らを制御しきれなかったのは、目まぐるしく節操なく行われる世代交代に、彼らの魔獣制御技術が対応し切れなかった事が原因だろうと推測されている。
小型の魔獣は食物連鎖に敗れて内海に逃亡してくる場合があった。これらの情報は、そうやって逃げて来た複数の個体を捕獲して調査した研究機関の発表による。リーングリーン・ザイン四領連合の東には、もともと四領連合がそうであったようにまだまだたくさんの小国群が乱立しているのだが、研究機関はその更に向こう、『追放荒野』と呼ばれる不毛の場所に研究所を建てて調査を行っていた。
彼らは、数十年周期で大陸に襲い来る魔獣の被害をどうにか減らそうと考えていた。敵である魔獣の生態を知る事で、被害を減らす一助にしたいと研究を始めたのだ。
しかし、大陸の人間には魔獣を使役する事が出来ない。専門家と言えるレガント族さえ制御しきれなかった海の魔獣を、専門外の彼らが研究するにはリスクが大きすぎた。
研究の為に捕獲された魔獣達は交配と捕食の連鎖の結果大型化し、あまつさえ陸生も可能な生態を備えてしまった為に『餌』の豊富な陸上へと侵攻した。研究所は大破。解き放たれてしまった巨獣による人的被害は百にも二百にも上ると言われ、神兵以来の大事件となった。
魔獣自体は程なく、集結した無数の機兵による攻撃であえなく最期を遂げたのだが、研究機関は責任をとって閉鎖される事となった。
残された研究結果は生き残った研究者達によって公表され、海の魔獣の生態はある程度周知される。
しかし以後、魔獣を捕獲する事、研究する事は禁じられ、見つけ次第即排除の方針が大陸国家憲章に記載されている。
軍港を出港して七日目の昼。
ミリスベリアを護衛してきた騎士達と打ち解けた流狼は、甲板にて彼らと組手や鍛錬をするようになっていた。
グロウィリアの騎士達はミリスベリアやルナルドーレらベルフォースの乗り手を神聖視しており、当初はアルカシードの乗り手である流狼に突っかかってくる者すらいたのだ。
ミリスベリアや部隊長の許可を得て丁寧に対応した結果、二日目には流狼に難癖をつける者はいなくなり、三日目からは流狼の自主鍛錬に付き合う者まで出始めた。
五日目には部隊長からの懇請を受けて、流狼は一時的に騎士達の格闘術の師範として指導に当たる事となった。
そろそろ昼飯時だなと腹具合で判断した流狼が、終わりの声をいつかけるかを思案している時だった。
『……しまった! お前達、戦闘準備だよ!』
アルやミリスベリアと一緒に見物していたルビィが、焦ったような声を上げたのだ。
参加していた騎士達の顔色が一変する。遅滞なく数人が機兵召喚の詠唱をはじめ、残りが船底近くの格納庫に向かう為船室に走り出した。
「何事だ?」
『私とアルの失態さ! 来るよ! 総員、衝撃に備えな!』
刹那、船が大きく揺れた。
流狼とミリスベリアは辛うじてバランスを崩さずに済んだが、駆けていた数人が足を取られて転倒する。
「何だ!? うわああああああッ!」
大丈夫か、と声をかける暇もなかった。
振り向いた時には、悲鳴だけが船べりの向こうから響いていた。
「落ちたのか? 馬鹿な」
二世号は広い。揺れているとは言え、ただ転んだ程度では船外に放り出される事はない筈だ。
何かがあった。しかしそれを確認する前にする事がある。
『マスター! アカグマを呼ぶよ!』
「頼む!」
アルがアカグマを呼び出し、流狼とアルは殆どタイムラグなく機体に転移する。
船は激しく揺れている。どうやら進んではいないようで、下からは異音が響いてくるばかりだ。
流狼は周囲に視線を巡らせながら、足元に居るであろうルビィに声をかける。
「失態とはどういう事だ、ルビィ?」
『どうもこうもないよ! 随分狡猾なやつだ、隠れ方も上手い! 組み付いてくるまで私もアルも気付かなかった』
『魔獣だよ、マスター。それもこの船の船足を止められるくらいの』
アルも捕捉する。
程なく騎士達が甲板に集まりだした。操舵室と部隊長に通信を繋ぐ。
「魔獣だそうです。この船が動かないのはそいつに抑えられているからだとか」
『それは随分と大型だな。船長! そちらは無事か!?』
『今のところは無事ですがねぇ! デュノー卿、このままじゃ拙いですぜ!』
悲鳴じみた船長の声。どうやらこちらよりも状況を把握しているようだ。
『急速推進でも反応なしだ! 拘束を緩めないとこっちじゃ手の打ちようがない!』
『振り切るのは無理か。まずい! 総員、姫様とルビィ様を囲め!』
刹那、ばさぁと音を立てて、無数の蒼い柱が海中から出現した。
先端が太くぐねぐねと動くそれは、さながらイカの触腕のようで。
「蒼いイカかぁ。食いたくない色合いだなぁ」
『イカ?』
「俺の元いた世界の海に棲んでいた生き物さ。そっちは食うと美味いんだが――」
目の前の触腕は十本では利かない。色も毒々しく、食欲は沸かない。
そのうちの数本が、何かを探すかのように何度も叩きつけられる。
「見えている様子はない、か。当たるを幸い、ってところだな」
触腕の先は機兵くらいなら掴む事ができそうな大きさだ。先程引きずり込まれた騎士はこの一つに捕まったのだろうか。
だが、今のような探し方をするのであれば、幾らなんでも気付いた筈だ。
「熱か、音か、魔力か、振動か」
『検証している暇はなさそうだよ!』
「そうだな!」
と、流狼がアカグマを動かす前に、騎士達が杖を振りかざした。
『火刃!』
杖の先端から放たれた魔術が、触腕をずたずたに斬り裂く。
傷口が焼けて黒煙を上げる。殆どが力なく甲板に落ちて動かなくなる中、潜り抜けた一本が騎士の左腕に絡み付いた。
『しまった! うおおっ!』
機兵が引っ張られるが、騎士は腕を引き抜こうと踏ん張る。
鈍い音が響き、機兵から引き抜かれた腕が、傷ついた触手ごと海中に落ちていった。
『腕だけで良かった、と言うべきか。気をつけろ、胴や足が捕まったら最後だと思え!』
その言葉を皮切りに、次々に触腕が襲い掛かって来る。
魔術は次々に触腕を吹き飛ばしていくが、触腕は減る様子がない。
「何本あるんだ!?」
『あるいは生えてきているのかもしれないね。なにしろこちらに見えているのは先端部に過ぎない』
「ちっ! デュノー隊長! 船首側は任せてもらうぞ」
『済まぬ、ルルォ殿!』
船室の入り口がある船首側は、入り口の破壊を気にしてか魔術の密度が足りていない。
流狼はアカグマの両腕に魔力を充填させると、船首側に飛び出した。
『マスター! アカグマの腕なら引き抜かれないとは思うけど、引きずり込まれたら最後だと思って!』
「分かってる!」
魔力の扱いに少しずつ習熟してきた流狼である。
魔術として放出する事は出来ないが、打撃に乗せれば破壊力が増すのだ。
叩きつけられる触腕を迎撃し、魔力を乗せた拳打を先端に打ち込む。
魔力が炸裂する事で先端は弾け飛び、用を為さなくなった触腕は海中に戻っていく。
次から次へと襲い掛かる触腕をひたすら打ち払う、が。
「キリがないな」
『まずいね。人が
背後では既に三体が海中に引きずり込まれ、腕や頭を引き抜かれた機兵は二桁に上ろうとしている。
片腕だけならばともかく、頭を引き抜かれた機兵は最早役に立たない。
甲板には引きずり込まれた機兵が持っていたと思しき杖が落ちている。
アルが伝えてくる背後の惨憺たる状況に、流狼は船首からそちらへと飛び退った。
「ルビィ」
『……なんだい?』
ミリスベリアとルビィを囲む騎士達は、だが陣形を崩していない。
一度は二人を船室に下がらせようとしたようだが、触腕の狙いが急に正確になった為に断念している。どうやら生身の人間を餌と判断しているようで、何らかの手段で動く人間を判別しているのは間違いなさそうだ。
流狼は落ちていた杖を拾うと、ルビィとミリスベリアに声をかけた。
「この杖の魔力を使えば、二人だけでグロウィリア公国に転移する事は出来るか?」
『な、何を言うのですルルォ様!』
『出来るよ』
悲痛な声を上げるミリスベリアに対し、ルビィは冷静に肯定した。
『と言うより、ここはもうグロウィリアの領海だ。ここからなら杖の魔力を使わなくても飛べる』
「そうか。ならすぐ戻ってくれ」
『何を言うのです! 私だけがそのような――』
『アルから何か聞いているのかい?』
毅然としては居たが、彼女を護る為に命を落とす騎士達の様子に心を痛めていたのだろう。一人だけ逃げる事を良しとしないミリスベリアと、逆にルビィは思い当たる節があるようだった。
「いや何も。でも、戻れば何とか出来る筈だよな?」
『……くく、いい判断だよ』
この難事に、ルビィの太々しい態度は崩れていない。
そして流狼の推測は正解だったのか、小さく笑ったルビィは流狼に頷いてみせた。
『いいだろう、行くよベリア』
『姉様!? しかしっ!』
ミリスベリアを諭すルビィ。
既に足元では長距離転移の動きに入っている。
「ミリスベリアさん」
『……ルルォ様?』
頑なな彼女に、流狼は冗談めかして言い切った。
「ここは俺達に任せて先に行け」
『っ!?』
「君の戦場はここではないだろ? そして君の戦場であれば採れる手段がある筈だ」
ルビィの判断だろうか。長距離転移の魔術が起動し、二人の足元に術式が描かれる。
『ルルォ様! 皆さま! 必ず生きるのです! 死ぬ事は許しません!』
『承りました! 姫様!』
ここまでのやり取りに口を挟んでいなかった騎士達が、口々に答える。
「フィリアさんといい、ミリスベリアさんといい。忠義の捧げ甲斐のある姫さん達だこと」
狙い定めたように二人を狙おうとする触腕を渾身の打撃で叩きのめして。
光の向こうにミリスベリアとルビィが消えるのを見送った流狼は、触腕達を見据えて大きく吼えた。
「男子の本懐、これにありってなあ!」
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