第20話 噺家の矜持 3
会場として借りた施設だが公共の施設なので融通が効かないので、時間を多めに借りていた。これは薫が後から
「前の時間も空いてるなら借りた方がいいよ。絶対その方が余裕が出来るから何があっても対処出来るよ。それと楽屋も二つ借りた方が良いと思う。柳生師匠も圓海師匠もかなり気が入ってるから楽屋は分けておいた方が良いと思う」
後から考えれば誠に適切なアドバイスだったと思う。俺は薫の提案に従って、会場を昼の部から押さえておいた。勿論楽屋や付属する設備も借りたのだった。
当日となり、俺と薫、それに佐伯や編集部の人達も早めに来てくれた。すると驚くことに会場の会館の前に列が出来ている。尋ねると今日の二人会の券を買う為に並んでいるのだと云う。
俺は、まさかと思ったが、己の見通しの甘さと薫の経験に裏打ちされた確かさに脱帽した。既に借りてる時間になっていたので、チケットを売る準備にかかる。
席は全席自由席とした。基本的に寄席などと同じとしたのだ。
係の人に言って会場の電気も入れて貰う。チケットを買った方に「開始は定刻どおりですが、中でお待ちいただけます」と言うと数人が中に入って来た。
その後、柳生のところの柳星くんが前座として来た。今日は開口一番で高座に出て貰うし、高座返しなどもして貰う。すると頼んではいなかったのだが、圓盛師のところの前座さんがやって来て
「師匠と兄さんから言われました。お手伝いさせてください。圓海師匠のお世話などをさせて戴けると幸いです」
うっかりしていた。楽屋が別々になるなら、その世話をする者ももう一人要るのだった。
まったく俺も気がつかない事が多いと思う。周りの皆が助けてくれるので本当に助かると思った。感謝せねばならない……
そのうち、最初に柳生が楽屋入りした。
「初めての会場なので、見ておきたいと思いましてね。声の通り方とか気になりますからね」
荷物を弟子の柳星くんに預けながらも目は真剣だった。
「他の会場でも、そんな事をするのかい?」
「いいえ、出来る場所ではすることもありますが、今日は特別です。今日来られる方には皆聴いて欲しいんです。自分に妥協はしたくないので……」
正直、ここまで真剣な柳生を久しぶりに見た気がする。彼にとって圓海師匠とは全力でぶつかる相手なのだと理解した。
そして圓海師匠がやはりこれも通常より早く楽屋入りした。薫が笑ってるのは自分の考えが当たったからだろう。本当にアドバイスどおりにしておいて良かったと感じた。
「少し楽屋で集中したいから早めにやってきたんだ」
やはり圓海師も今日は本気だと言う気が充分に伝わって来る。今日は大変な高座が見られるのではと期待してしまう。
着替えもせずに柳生が圓海師のところに挨拶に行き。
「お先に高座の声の通りを確認してきます」
そう言って舞台に出て来た。席には既に数人の観客が座っていた。柳生はその人たちに向かって
「今から声を出してみますので、聞きにくかったら言ってください」
そう頼んで色々な声を出していた。すると客席の一番後ろに座っていた観客から
「良く聞こえますよ!」
そう言って両方の腕で大きな○を示してくれた。
「声の通りもいいみたいですね。これなら思い切り話せます」
満足気な柳生の表情が印象的だった。
柳生が楽屋に引っ込むと今度は圓海師が舞台に出て来て、自分が座るであろう場所に立って会場を見渡している。首を左右に振り、上下や客席との距離も感覚を掴んでいるのだと思った。やはり圓海師も今日は違うと感じた。
本来の開場時間が既に意味の無いものになっていて、午後五時過ぎにはおよそ八割が埋まってしまった。そこで、前座は柳星くんだけの予定だったが、圓盛師のところの前座さんにも一席やって貰うことにした。名前は盛しん、と言うそうだ。
開場に、その旨を放送すると、一斉に拍手が沸き起こった。続け前座の出囃子が鳴り盛しんくんが高座に登場した。演目は「子ほめ」だ。これは前座の噺としてよく掛かる噺で、お世辞や口の利き方をネタにした噺だ。今日の演目ともかぶらない。
「どうみても只だ!」
オチが決まって盛しんくんが高座を降りて来た。
「いや~寄席よりも皆さん真剣に聴いてくれていたので、こっちも一生懸命にやりました。勉強になります」
勿論、高座を降りた噺家は後の噺家や師匠に「お先に勉強させて戴きました」と楽屋を訪れて挨拶をするだ。
「圓海師匠にも挨拶してきました」
やはり同じ一門でも自分の師匠の兄弟子なので緊張するのだと思った。続けて柳星くんが高座に上がる。演目は上方の「鷺とり」だ。この噺は、金銭目的で鳥を捕まえようとして失敗した男の起こす騒動を描いた噺で東京では「雁とり」と言うらしいが俺は聴いたことがない。彼は雀枝師に付いていた時に習ったのだろう。言葉は東京弁だが噺が上方のものだった。最近は東京でも上方落語を耳にする機会が多くなったが以前は余り無かったのでこの噺なども大変に珍しがられたと聞く。
高座を降りて来ると師匠の柳生が細かいところを注意していた。真剣にそれを聞く柳星くん。彼も何時かは一本立ちするのだから。
二人の前座が降りるといよいよ二人会の始まりだ。時間も六時三十分になり開場はほぼ全席埋まっている。
出囃子の「小鍛治」が鳴り出した。会場の緊張感が高まって行くのが手に取るように判る。
圓海師の最初の噺は「夏の医者」だ。この噺は本来は上方の噺だが古くから六代目圓生師などが高座にかけていて東京でも良く聴くことが出来る。噺の筋は……
ある暑い夏の日に、鹿島村の勘太もダウンしたのか、ご飯を茶碗に七、八杯しか食べることが出来ないと言う。「もう歳だから」と息子が心配していると、見舞いに来たおじさんが「隣の一本松村の玄伯先生に往診してもらえば」と言う。
それを聞いた息子はおじさんに留守を頼み、ばっちょう笠に襦袢一枚、山すそを回って六里の道を呼びに行った。
汗だくになって訪ねてみると、玄白先生は畑で草取りの真っ最中。早速頼み込み、息子が薬籠を背負って二人で村を出発した。
「山越えのほうが近道だべ」 先生がそう言うので、二人で山の中をテクテク。山頂に着いたときには二人とも汗びっしょりになっていた。
そこでしばらく休憩し、さぁでかけよう…とした所で、なぜかあたりが真っ暗になった。周囲はなぜか温かい、はておかしいと考えて…。
「こりゃいかねえ。この山には、年古く住むウワバミがいるてえことは聞いちゃいたが、こりゃ、飲まれたかな?」
「どうするだ、先生」
「どうするだっちって、こうしていると、じわじわ溶けていくべえ」
うっかり脇差を忘れてしまい、腹を裂いて出ることもできない。
どうしようかと考えている先生の頭に、あるひらめきが舞い降りた。息子に預けた薬籠を渡してもらい、中から大黄の粉末を取り出すと、ウワバミの腹の中へパラパラ…。『初体験』の大黄に、ウワバミは七転八倒…ドターンバターン!
「薬が効いてきたな。向こうに灯が見えるべえ、あれが尻の穴だ」
ようやく二人は下されて、草の中に放り出された。転がるように山を下り、先生、さっそく診察すると、ただの食あたりとわかった。
「なんぞ、えかく食ったじゃねえけ?」
「あ、そうだ。チシャの胡麻よごし食いました。とっつぁま、えかく好物だで」
「それはいかねえ。夏のチシャは腹へ障(さわ)ることあるだで」
薬を調合しようとすると、薬籠はうわばみの腹の中に忘れてきてない。困った先生、もう一度飲まれて取ってこようと、再び山の上へ登っていく。
一方…こちらは山頂のウワバミさん。下剤のせいですっかりグロッキーになってしまい、松の大木に首をダランと掛けてあえいでいた。
「あんたに飲まれた医者だがな、腹ん中へ忘れ物をしたで、もういっぺん飲んでもれえてえがな」
ウワバミは首を横に振っていやいや。
「もういやだ。夏の医者は腹へ障る」
と地口で落とす噺で、夏の田舎ののんびりとした風情が出れば良いとされている。
会場は何処か田舎の風景が広がっていた。そこを荷物を抱えた二人が小高い山を登って行く。二人共汗まみれだ。会場は冷房が効いているはずなのに俺達の頭上には夏の太陽が降り注いでいる。舞台袖で見ている俺も額に汗を掻いている。横を見ると薫も佐伯もハンカチで汗を拭っている。客席をみると殆どの観客が汗を拭っていた。
やはり圓海師の噺に聴いている者を引き込む力は凄まじかった。存在感が半端ではないのだ。圧倒的な存在感を印象づけて師匠は高座を降りた。
次は柳生が「青菜」を演じる。彼はこの「圧倒的な存在感」にどう対抗しようとしているのだろうか?
やがて、盛しんくんが高座返しをして柳生の出囃子の「外記猿」が鳴り出した。圓海師がこの前演じた「青菜」をこの柳生がどう演じるのか、事情を知っている者ならその行方を見守りたいと思っているだろう。その空気は観客席にも伝わったみたいで、緊張感がこちらまで伝わって来る。出囃子の「外記猿」がまた一層その雰囲気を出していた。
柳生が高座の座布団に座り拍手が鳴り止むのを待って落ち着いて語りだした。
「本日は「三遊亭圓海、麗々亭柳生二人会によいこそいらっしゃいました。急な会にも関わらず満員のご来場で御礼申し上げます。どうぞ一席……今日は二席話しますが、宜しくお願い申し上げます」
御礼の挨拶を口にしマクラへと入って行く。
「よく猿マネなどと言いますが、付け焼き刃は剥がれ易いとも申しましす……」
柳生は知識の無い行動の愚かさを例を挙げて話していく。
「……と言う事があったのですが、実はこれは自分のことでして……」
一斉に笑いが巻き起こる。そこには前の圓海師の空気感は一掃され柳生の持つ暖かさが広がっていた。
勿論圓海師の圧倒的な存在感とも違うし、圓盛師のようにお芝居を見ている感じとも違う。演じているのが柳生と判っていても、俺たち観客も含めて柳生の中に植木屋の親方を見ているし、一緒にお屋敷の旦那の存在も感じているのだ。
今までとは違う柳生の進化した高座を俺たちは見ていた。誰のでもない柳生しか表現しえない噺。それを見ながら俺は今までとは違う新しい噺家の誕生を目撃しているのだと感じていた。
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