第18話 噺家の矜持 1

 六月に入るとそれまでの過ごしやすい陽気から一転して、空気が肌にまとわり付くような感じになる。もうすぐ梅雨に入るなと感覚でで判る。

 薫は安定期に入り、食欲も増して来た。二人前とは行かないが結構な量を食べる。それでいて体重は多すぎず順調の範囲内に収まっている。無責任とは思うが、何より楽しみだ。

 編集部も変わりのない日常が戻っていた。五月上席から始まった噺家芸術協会の真打披露興行も四十日間の最後の芝居を行なっていた。国立演芸場での興行の芝居が終わると協会としては一段落する。一門としてずっと出ずっぱりだった柳生もこの興行では外れていた。どうも本人としては断れない地方での仕事がある為、出なかったそうだ。その地方で二日連続して落語会があるので三日間は潰れてしまうそうだ。責任感の強い柳生ならそっちを優先するだろう。それに末広亭、浅草、池袋とずっと出ずっぱりだったのだ。少しは息抜きしたいのだろう。俺は勝手にそんな事を思っていた。


 ところが、六月も十日を過ぎようとした頃だった。ひょっこりと柳生が編集部に顔を出したのだ。

「おや、どうしたの? 忙しい身なのにこんな所に来て大丈夫なのかい?」

 佐伯が冗談半分で軽口を叩くと

「いや、暇を持て余してやって来たんですよ」

 笑いながら柳生が言い返した。そして真っ直ぐと俺の机までやって来て

「神山さん。聞きましたよ。圓海師匠の高座の噂。ずるいですよ、私に声を掛けてくれないなんて……」

 おい、そんなに顔を近づけるな、と思うが本人には自覚が無いらしい。

「いや、披露興行中だったからさ、忙しいと思ってさ」

「それは判りますが、それでも声ぐらいは掛けて欲しかったですよ」

 顔が半分マジになっている。その時こいつが落語命の人生を歩んでる事に気がついた。もう、かってのこいつでは無かったのだった。

「今日、終わったら話聞かせて下さいよ」

 結局、押し切られてしまい、それなら家で呑みながらじっくりと話す事に決まった。早速薫に連絡を入れると幸い今日はオフで柳生の来訪を喜んでくれた。

「美味しいもの作ってるからね」

 薫も行動範囲が狭くなり退屈気味になっていた処だから丁度良い感じだった。


「お邪魔致します。薫さんお久ぶりでした。相変わらずお綺麗で、今年の末は楽しみですね」

「いらっしゃい柳生師匠。お忙しくて売れっ子は辛いですね。さ、上がって下さい」

 薫もよく知ってる人物だけに嬉しそうだ。

 夕食のメニューは「根菜のカレー」これは蓮や牛蒡、人参にきのこ類中心で作ったカレーで殆んど肉は入っていない。それに俺の好物の鰹の刺し身がある。この時期の鰹は刺し身でも食べられる。秋の戻り鰹は脂が乗っていて旨いが刺し身では食べない方が良い。食べるならタタキだ。

 それに今日は変わったものが並んでいた。レタスのトマト、ブロッコリー、南瓜の野菜サラダなのだが、横にあるのが変わったドレッシングだった。ドロリとしたオレンジ色をしている。

「それを掛けて食べてね」

 薫は事も無げに言うがこのドレッシングの正体が判らなかった。

「これ何だ?」

「ドレッシング」

「いや、それは判ってるが……中身が……」

「ああ、それはね。トマト、人参、玉ねぎ、リンゴを磨り潰して、ワインビネガーを入れて、塩コショウで味を整えたドレシングよ。油を使って無いからヘルシーで沢山野菜を採れるの。ほら、ドレシングって七割は油だから、沢山採れないしね。これなら元々が野菜だから沢山食べれるよ」

 勧められて口に運んでみると、人参とりんごの甘さが効いていて、そこにワインビネガーの香りと酸味が程よく絡んで野菜の旨味を引き出していた。確かにこれなら沢山野菜を採れそうだった。

「色々と情報が入るから自分で出来そうなのは試して見てるんだ」

 薫の言葉に柳生も感心していた。


 食後のコーヒーを俺が入れて三人で飲んでいると、そろそろあの時の話に入る事になった。

 簡単にあの日の事情を説明すると、まずは、この時の模様を舞台袖の設備で簡易的に録音したものを聴かせた。圓盛師のもあったが、まずは圓海師の「青菜」を再生した。

 あの時会場に居た俺と薫はこの録音を耳にしただけで、あの日の高座がありありと蘇るが、果たしてその経験が無い柳生はどうであろうか?

『う~ん弁慶にしておけ』

 圓海師の高座の模様が終わった。目を瞑り聴いていた柳生だが

「凄い高座ですね。録音、それもプロが録音したものでは無い状態のそんなに良く無い録音でこれだけの迫力ですからね……これは凄いです。恐らく会場に居た観客は皆師匠の高座に引き込まれてしまったでしょうね」

 まさしく柳生の言う通りだった。俺も薫もそして、恐らく会場の客全てが師匠の噺の世界に入り込んでしまったのだった。

「やはり実際に私も聴いてみたいですね。『幻の噺家』の高座を」

 そう言い出すとは思っていた。俺が柳生の立場でもそう思っただろう

「出来れば二人会か何か出来ませんかねえ?」

 柳生が訴えるような目で俺にすがった。おまけに薫も

「圓海師匠と柳生師匠なら是非私も見てみたい!」

 そんな事を言って俺を煽るのだった。こうなれば俺としても無礙に断る訳には行かない。何故なら俺自身も見て聴いてみたいからだ。あの時圓海師は「死ぬまでその時までが修行だ」と言っていた。その言葉が真実なら、きっと若手一番の異名を取ってる柳生との競演を避けるような事はしないと思ったのだった。

「判った! 直接は問題があるから盛喬を通じて話してみるよ」

「お願いします!」

 柳生がその頭を俺に下げて頼んだ。男としても後には引けなくなった。


 翌日、盛喬に連絡をして柳生との事を言ってみた。

「それは凄いですね。俺も見たいですよ。それ実現すれば凄いですよ。圓海師匠に頼んでみます」

「すまないが頼む!」

 そう言って通話を切った。上手く行くことを祈った。連絡は小一時間ほどで返って来た。

「師匠大乗り気ですよ。柳生兄さんの事も良く知っていて、一度生で見て見たかったそうです。日時はこれからですが、当日は気合の入った高座を見せる。と言っていました」

 良かった……圓海師匠も乗ってくれた事が何よりだった。やはり師匠は現役の噺家なんだと嬉しくなった。

 すぐに柳生に伝えるとやる気が受話器の向こうから伝わって来る気がした。


 こうして俺と柳生、そして盛喬を巻き込んで「麗々亭柳生、三遊亭圓海、二人会」の準備が始まった。

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