第17話 幻の噺家 3

 コンサートなどと落語の会が大きく違うのが会場が明るい事だ。音楽のコンサートでは舞台の照明効果を活かす為に客席は暗くなってることが多いが、落語の会場は僅かに灯りを落とすが、それでも高座からお客の顔がハッキリと判る。良く役者やお笑い芸人が落語をやると、このことにかなり戸惑うと言う。

 俺と薫。いいや殆んど全ての観客が圓海師の高座が終わっても立てずにいた。余りの事に気持ちが現実の世界に戻って来ないのだ。

 それでもいち早く薫が俺に声を掛けて来た

「凄かった~落語って本当に凄い!」

 握っていた手の力を強くした。その力に俺も我に返る。

「ああ、まさか病み上がりでこれだけの高座を見せるなんてな」

 実際、そうとしか言いようが無かったし、かっての高座をなまじ見ているから、戸惑ってしまったのだ。

「ロビーでCDを売るの手伝って来るね」

 薫はそう言い残して立ち去って行った。さすが舞台女優だ。俺には余り言わないが、体全体でショックを受けるような舞台をかなり見て来ていたのだろう。それで感性が磨かれて鍛えられているのだろう。成長したものだと思う。

 喉の渇きを覚えたので、俺もロビーに行き自販機でお茶を幾つか買って一本を飲みながらロビーの片隅でCDを売っている盛喬と盛季、それに薫に残りを手渡した。

「戴きます!」

 盛喬と盛季の二人がキャップをひねって開けて口をつけた。

「圓海師匠、凄かったな」

 飲んでいる二人に語りかけると、飲みながら頷き

「全くでした。正直、病み上がりなので、そんなに期待して無かったのが恥ずかしいです」

 夢中で語ってる盛季の頭を軽く小突きながら盛喬が

「それがお前は甘いんだよ。師匠の兄弟子だぞ!」

 おい盛喬よポイントは兄弟子と言う事か? と突っ込みを入れたくなった。


 十分間の休憩が終わると薫は客席に戻って来て、先程のお茶に口を付けた。

「ああ、やっぱり喉が乾いていたんだ。舞台なんかでも凄いのを見ると喉が乾くんだ。でも暫く経たないと感じ無いんだよね。それってやっぱり興奮してるんだね」

 そんな感想を言ってると一旦降りた緞帳が上がって、圓海、圓盛の二人の師匠が姿を見せた。後ろからは盛喬が先ほどと同じ格好で司会をするために付いて来た。

「それでは、お二人の対談を始めさせて戴きます」

 司会の盛喬の言葉で始まった。やはり話題は圓海師の高座ぶりだった。

「アニさんは先ほどは見事な高座でした。失礼ですが、病上がりであそこまでの噺が出来るとは驚きでした」

 圓盛師がそう語ったのは無理が無いと俺も思った。それに対して圓海師は半分照れながらも

「病気が重くなって、正直、もうここまでかな? と思った事もあった。その時別の自分が『噺家としてこのままで良いのか』と言って来てね。出来るだけやって見ようと思ったんだよ。ベッドに正座出来ない時は寝ながら噺を口ずさみ。苦しくてそれさえもままならない時は頭の中で繰り返しさらった。勿論起き上がる事が出来るようになると、ベッドの上で正座してきちんと稽古した。そのうち同じ病室の人が聴いてくれるようになり稽古が弾んだよ」

 圓海師はそんな事をポツリポツリと語ってくれた。噺に対する師匠の執念とも言うべき姿だと納得した。

「今になって、つくずくワシはこの道に入って良かったと思ってる。なんせ死ぬその寸前まで修行が出来る。素晴らしい事だと思わんかね。そんな幸せな職業はそうは無い。ワシらは幸せ者だよなあ盛ちゃん」

「全くですアニさん」

 対談はそんな結末で終了した。

 舞台を片付けて、後ろに隠れていた高座を前に出して、一旦圓盛師が袖に引っ込んで、トリの準備が整った。


 出囃子「中の舞」が流れて圓盛師がみたび高座に上がった。

「え~いよいよトリとなりました。本日は『唐茄子屋政談』とネタ出しをしてございます。この噺は真夏のお噺でございますが、もう立夏も過ぎましたので掛けさせて戴くことに致しました……その昔はその気になった時にはお金で解決出来る処へ行ったんだそうですが、それが過ぎて勘当になる若旦那も居たそうでして、夢中になってしまうと物事に見境がつかなくなって参ります。そんな時はもうどうしようも無いものでして……」

 思ったより早く師匠が噺に入った。師匠自身二席目なので時事のマクラは要らないと言う判断なのだろう。この『唐茄子屋政談』と言う噺は長い噺で……


 道楽が過ぎた若旦那、勘当されても「お天道さまと米の飯はついて回る」とうそぶいて反省の色がありません。ころがりこんだ先の友人たちからも見放され、親戚を頼っても相手にされず、とうとう宿無同然となって吾妻橋から身投げしようとするところを、偶然通りかかった叔父に止められます。

「お、叔父さん……! お願いです、助けてください」「なァんだ、てめえか……止めるんじゃなかった。さ、飛び込みな」口では散々悪態をつくものの、その実甥の行方を心配し続けていた叔父の家に連れて行かれた若旦那は、心を入れ替えて何でも叔父のいう事を聞くと約束をします。

 翌日若旦那は叔父に言われて天秤棒を肩に、慣れない唐茄子の行商を始めるのですが、肩に食い込む重さのあまりに「人殺しィ!」と荷を投げだす始末です。

 通りかかった人たちの情けで唐茄子を買ってもらい、今更ながらに人情の温かさを味わいます。売り声の稽古をしようと吉原田圃に来かかると、ついつい花魁との甘い思い出に浸って一人で惚気てしまう若旦那でした。

 ここまでが所謂「上」の部分で、寄席などだとここで切る事が多い。ここまでは笑いが多いので演者もやっていて楽しいのだそうだ。圓盛師はここまで笑いを良く取っており、お客が皆噺の世界に入り込んでいるのが判る。そして噺は後半の部分に入って行く。後半は人情的な部分が多くなりそれこそ演者の腕が試されるところでもある。


 気を取り直した若旦那は、その内に誓願寺店を通りかかり、ぼろをまとってはいるがどこか品のあるおかみさんに呼び止められて唐茄子を売ります。

 夫は浪人で今は遠くで行商をしているが、うまくいかないのか送金が滞っているという。この身の上話を聞き同情した若旦那は、お腹をすかせた子供に自身の弁当を食べさせ

「おあしはいりませんから、ここにわずかながらお金があるんで、これを差し上げます。これで何か買ってくださいまし。」

 と唐茄子の売り上げを無理強いに渡して去ります。涙を流して喜ぶ母子ですが……

 その後、入れ違いにきた因業な大家が「店賃としてもらっておくよ」と取り上げてしまいます。そうとは知らない若旦那、家に帰って叔父に売り上げを差し上げた事を言うのですが、

「お前、そんな嘘をついてどうする」と信じてもらえませんので、やむなく叔父を誓願寺だなに連れて来ます。

 昼間と様子が違い、蜂の巣をつついた騒ぎです。訳を聞くと、件の母子が、親切な人から恵んでもらったお金を大家に取られたことを苦に心中を図ったというのです。

 幸い母子とも無事だったが、怒った若旦那は大家を殴り長屋の者も加勢する。すったもんだの騒ぎの裁きの末、大家はきついおとがめを受け、母子は叔父の持っている長屋へ引き取られ、若旦那は奉行から青差五貫文の賞金とお褒めを受け勘当も許されるのでした。


 と言う人情噺となっている。昔はこの母親は助からず亡くなってしまう設定だったそうだ。

 圓盛師は若旦那の感情を通して、善行の難しさ、大切さをそれこそ見ている者に刷り込むように演じている。今の落語界でも屈指だと思う。タイプは違うが圓盛師もある意味幻の噺家なのかも知れない。

 寄席でこれだけの噺は聴けないし、演じる事も出来無い。かと言って圓盛師は「落語研究会」などには余り出演が無い。今や、あの会はもっと若手が出る会になってしまってる。師匠の噺をじっくりと聴くにはこのような独演会以外には無いと気がついたのだ。

 これは我々落語関係者も反省しないとならない。これだけの噺が出来る噺家を「幻の噺家」にしてはならないのだと……


 打ち上げを遠慮して薫と帰りを急ぐ。身重の薫に酒を飲ませる訳に行かないからだ。それに夜更かしも体に良く無い。

「今日は連れて来て貰って良かった。同じ落語でも表現方法が全く違うと同じ噺でも全く違ってしまうと言う事が良く判ったし、表現の幅が広いと言う事がどれだけ素晴らしいか良く判ったの。この経験を演技に活かして行きたい」

 腕を絡めながら夜道を歩く。初夏の夜は少しだけ夜更かしを誘うように二人の間に帳を下ろすのだった。


 そして、この日の高座はこの日だけでは終わらなかった。俺たちはこれから起こる騒動に巻き込まれて行く事となる。

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