第16話 幻の噺家 2

 やや暑さを感じ始めた頃、都内の某ホールで三遊亭圓盛師匠の独演会が開かれた。当日俺は手伝いと言う事もあり、早くから会場に居た。勿論妻で女優業をしている薫も目立ち始めたお腹が判らない格好で一緒に来たのだった。

 前売り券は完売していて、当日券が僅かにあるのみだった。手伝いと言っても半分は取材もある。その為か師匠は俺たち夫婦に席を用意してくれていた。ありがたいと素直に思う。

 独演会は午後六時半から始まり、九時に終了する手筈になっていた。予定では開口一番の盛喬が二十分程、その後圓盛師が三十分、仲入り前の圓海師が二十分。これは演目の「青菜」の時間から決められた。勿論ある程度は時間オーバーしても構わない。

 その後十分仲入りの休憩があり、兄弟対談が二十分で、その後圓盛師匠の「唐茄子屋政談」となる。会場側は落語会に慣れているので多少の時間オーバーには寛大なのだ。公共の施設だとこうは行かない。時間厳守が求められる。

 手伝う事は山ほどあるのでかなり早くに会場に向かった。楽屋口で出演する盛喬と手伝いの弟弟子の盛季と一緒になった。師匠の独演会なので彼も当然手伝いで駆り出されたのだろう。一門の前座が高座返しをするので彼は雑用をするのだそうだ。

「仲入りに師匠のCDなんかも売ります」

 そんな事を言って気合を入れていた。


 楽屋に顔を出し挨拶をする。既に圓盛、圓海両師匠とも楽屋入りしていた。さすが早いと感心する。 挨拶が終わると薫は

「ロビーでCD売ってるから手伝って来るね。始まる時間になったら行くから」

 そう言い残してロビーに消えてしまった。後で聞いたのだが、薫が居たせいか、中々の売上だったそうだ。

 俺は、この時とばかり二人に色々な事を訊いて記事のネタにするつもりだったので、ファンが知りたそうな事柄を尋ねて取材手帳に書いておいた。

「神山さん、今日のアニさんの高座、きちんと取材して下さいね」

 珍しく圓盛師がそんな事を俺に言う。確かに久しぶりの高座だが、特別に下駄を履かせた記事なんかを書くと嫌う師匠にしては珍しいと思った。何かを感じているのだろうか?

 やがて、雑用を手伝っていたら開演十分前のアナウンスがあり薫がロビーのCD売り場から戻って来たので二人で会場に入り席に座った。


 一応開口一番の前に前座さんが軽く十分ほど与太郎の小咄をして盛喬に繋ぎをつけた。高座返しが終わると盛喬の出囃子が鳴って陽気な笑顔を見せて盛喬が姿を表した。

「え~本日は師匠圓盛の独演会にようこそいらっしゃいました。開口一番を務める惣領弟子の盛喬でございます。どうか宜しくお願い致します」

 そう自己紹介を言って再び頭を下げて大きな拍手をもらった。簡単なマクラを振って「あくび指南」に入る。

 この噺は町内に出来た「欠伸指南所」に通うのに友人について来て欲しいと頼んだ様子がその付添の友人の目を通しておかしな指南の様子が描かれる噺で、噺の中の「夏の欠伸」と言う稽古の模様が本当におかしい。だが面白いのは、この噺を聴いてるうちに実際に欠伸の稽古なんてのがあるかも知れないと錯覚を起こしてしまう事だ。お客にそう錯覚させたらこれは、めっけもんである。

 盛喬はバカバカしくもおかしな稽古の様子を上手く描いていて、中々の出来だった。下げはずっと稽古の模様を見ていた友人が「馬鹿馬鹿しい稽古があったもんだ。教わる方も教わる方だが、教える方も教える方だ。付き合いで聞いている俺は、退屈で退屈で、あ~あ(欠伸をする)ならねえ!」

 それを見た師匠が「あ、お連れさんの方が器用だ!」と下げるのだ。

 盛喬はここを上手くやり中々の出来で高座を降りた。

「何かのんびりとした感じがして暖かい縁側で稽古を見ている感じがして良かった気がする」

 薫のこの言葉に全てが集約されていると思う。それぐらい進歩が見られていて他の観客からも満足気な表情が見て取れた。

 三遊亭で喬の字がどのような意味を持つか考えたらこれからも精進して欲しいと思った。


 次は師匠の圓盛師が登場する。出囃子が鳴り始めると客席の期待が一気に高まるのを感じる。肌でそれを感じると薫が

「ぞくぞくして来たわ」

 そんな事を言いながら期待に目を輝かせた。

 圓盛師は高座に座ると、まず今日見えたお客に感謝とお礼の言葉を述べると、この後に上がる兄弟子の圓海師の事を少し話してから本題のマクラに入った。

「転宅」はかって盛喬が演じていたが、師匠はどうであろうか? そんな興味を持って俺は噺に聴き入った。

 結果から言うとやはり見事だった。泥棒の間抜けさや、虚勢をはった様が良く出ていたし、逆にお妾さんの方の不安だがそれを泥棒に悟られ無いように演技してる感じやその心模様が鮮やかにこちらまで伝わって来た。

「すごい! まるで目の前でお芝居を見てるみたい!」

 薫の感想の言葉が全てを表しているだろう。やはり盛喬とはものが違う。彼もいずれはこのレベルまで到達して欲しいと思った。


 そして、仲入り前の圓海師匠の高座となった。出囃子の「小鍛治」が鳴り出すと会場全体が期待と好奇心で溢れそうな感じになったのが俺でも判った。

 会場一杯の拍手に迎えられて師匠が現れて高座の座布団に座ると一転して水を打ったように鎮まり返った。皆、師匠がどんな噺をするのか、かたずを呑んで見守っているのだ。

「え~、実は久しぶりの高座でしてね。どこまで出来るか自分でも判らないのですが、弟弟子の圓盛の顔に泥を塗るような事だけは避けようと思っていますので、どうかお付き合いを願います」

 そう言って再び頭を下げるとまたもや割れんばかりの拍手が鳴った。

「良く付け焼き刃は剥げやすい。などと申しますが……」

 圓海師の「青菜」が始まった。この噺のあらすじは……

 

 さるお屋敷で仕事中の植木屋、一休みで主人から「酒は好きか」と聞かれる。もとより酒なら浴びるほうの口なので、ごちそうになったのが、上方の柳陰という「銘酒」

 だが、これは、実は「なおし」という焼酎を味醂で割った酒。

植木屋さん、冷酒ですっかりいい心持ちになった上、鯉の洗いまでご馳走して貰い大喜び。

 「時におまえさん、菜をおあがりかい」「へい、大好物で」。

ところがその時、次の間から奥さまが「旦那さま、鞍馬山から牛若丸が出まして、名を九郎判官(くろうほうがん)」と妙な返事をする。

 それを聞いた旦那は「義経にしておきな」と返す。これが、実は洒落で、菜は食べてしまってないから「菜は食らう=九郎」、「それならよしとけ=義経」というわけで、客に失礼がないための、隠し言葉だという。

 植木屋さん、その洒落たやり取りにすっかり感心して、家に帰ると女房に

「これこれこういうわけだが、てめえなんざ、亭主のつらさえ見りゃ、イワシイワシってやがって……さすがはお屋敷の奥さまだ。同じ女ながら、こんな行儀のいいことはてめえにゃ言えめえ」「言ってやるから、鯉の洗いを買ってみな」

 逆に言い返されてしまうが、そに通り掛かったのが悪友の大工の熊。

「こいつぁ、いい」とばかり、女房を無理やり次の間……はないから押入れに押し込み、熊を相手に「たいそうご精がでるねえ」から始まって、ご隠居との会話をそっくりやろうとするが……。

「青い物を通してくる風が、ひときわ心持ちがいいな」「青いものって、向こうにゴミためがあるだけじゃねえか」「あのゴミためを通してくる風が……」「変なものが好きだな、てめえは」「大阪の友人から届いた柳陰だ、まあおあがり」「ただの酒じゃねえか」

「さほど冷えてはおらんが」「燗がしてあるじゃねえか」

「鯉の洗いをおあがり」「イワシの塩焼きじゃねえか」

「時に植木屋さん、菜をおあがりかな」「植木屋は、てめえだ」

「菜はお好きかな」「大嫌えだよ」。タダ酒をのんで、イワシまで食って、今さら嫌いはひどい。ここが肝心だから、頼むから食うと言ってくれと泣きつかれて、

「しょうがねえ。食うよ」「おーい、奥や」

待ってましたとばかり手をたたくと、押し入れから女房が汗まみれで転げ出し「だんなさま、鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官義経」と言ってしまう。

 植木屋さんは困って、「うーん、弁慶にしておけ」


 と下げる噺だ。圓海師匠の噺が始まるとそこはもはや都内のホールでは無かった。我々はどこか大きなお屋敷の庭に佇んでいて、縁側の前には植木屋の親方が腰に手をあてて庭を見渡していたのだ。隣の薫が思わず俺の手を強く握った。

「孝之さん……これ!」

「うん、いまは楽しもうじゃないか」

 俺の返事に薫もこれが自分だけが見ている幻では無いと判り安心したようだ。

 俺たち観客の前ではいや、俺たち観客は「青菜」の世界に圓海師によって引き込まれてしまったのだ。

 青い空、熱い太陽、緑の庭、打ち水をした後に通って来る涼しげな風。そのどれもが実際の感覚を持って俺達に体験をさせてくれた。

「う~ん弁慶にしておけ」

 いつの間にか師匠は下げまで言っていて頭を下げるとさっさと高座を降りてしまった。一瞬、いやもうひと間あったかも知れない。かなり遅れて割れんばかりの拍手が湧き起こった。

「話芸で、ここまで表現出来るなんて……凄い! なんて表現していいか判らない……」

 薫は驚きの余り表情を作るのも忘れたようだった。無理も無い。これほどの高座は俺の今までの生涯でもそう多くは無い。恐らく圓海師も特別の出来だったのでは無いだろうか?

「人間国宝」になられた柳家小しん治師の高座で極たまに出会った事があるだけだった。

 圓盛師が我々に目の前で噺の世界を見せてくれるなら圓海師は我々を噺の世界に連れて行ってしまう芸だと実感した。病なんて関係無い! 昔より明らかに師匠は進歩していた。

 俺はその芸の凄まじさを体験したのだった。

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