第7話 真実は……

 随分と秋も深まったある日、俺は薫と薫の両親を伴って実家の門を潜った。俺の家は、昔から金には縁のない家で、貧乏だったが家柄だけは古く、その昔は幕臣だったそうだ。最も貧乏御家人だとか旗本だとか言っていたが俺には興味は無かった。

 今日、実家に来たのは来月に迫った俺と薫の式の事を打ち合わせする為だった。式はこの近所の神社で行い、披露宴はこれも近くのレストランを借りきって行う事になっている。神社の神主もレストランのオーナーシェフも子供の頃からの付き合いだ。

 最初に皆六人で神社に行き、色々と打ち合わせをする。式の次第や当日着る衣装等の事だ。これは貸衣装屋さんが来てくれて無事に収まった。

 薫の注文は「綿帽子が被りたい」と言うものだったので、その通りにしたのだ。俺は特に何も無いから簡単だった。ついでに、薫の両親も着物を借りる事にした。今は遠くから着物を着てきたり持って来る事は減ってるという。その場で借りられれば、着つけて貰いそれで済ませるのが多いと言う事だった。俺の方は直ぐ傍なので、自分の家で着れば良い。

 披露宴は薫はドレスを新調した。俺はパーテイ用に買ってあるタキシードで済ませる事にした。

 招待客は親戚の他は内輪で、俺の方は学生時代からの友人の他は編集部でも特に親しい者だけにした。

 薫はやはり同じで友人と、来賓として野沢せいこうが出てくれる事になり、劇団のメンバーでやはり特に親しい者だけを呼ぶ事になった。

 俺は噺家達は誰も呼ばない事にした。なまじ誰か呼べば、後で色々と言われるからだ。それなら最初から呼ば無い方がよい。

 神社から帰り、食事をして一休みすると薫の両親は帰って行った。「くれぐれも宜しく」と言っていたのが印象的だった。

 午後からは、レストランの休憩時間を利用して、俺と薫で披露宴の打ち合わせに向かう。式を行うまで色々な細かい打ち合わせが続く。


 実家に帰って来ると、薫は母親に呼ばれて奥に行った。どうやら、女同士で色々と話があるらしい。

ぼんやりと座ってる俺に父親が近づいて来て、二冊の古ぼけた日記帳を俺の前に置いた。良く見ると曾祖父さんが使っていた日記帳と同じものだと思った。

「あれから、倉庫を整理していたら、あの続きが見つかったよ。お前なら色々と参考になるかも知れんと思ってな」

 父親はそう言って俺にその日記帳を見るように促した。

 前の日記も俺の家の本棚に立ててある。あれからも時折ページをめくっては圓朝師と曾祖父さんの清次郎との関係に思いを馳せていたのだが、あの続きが残っているとは思わなかった。 早速開いて見ると、月日が少し飛んでおり、圓朝師が具合が悪くなって来た頃からの日記だった。

 圓朝師亡き後清次郎は弟子の圓喬師と仲が良かったみたいだ。歳も近いので、色々と相談に乗っていた事もあったみたいだ。

 そこには落語ファンの間で有名な「吉村考次郎事件」についても書かれてあった。「吉村考次郎事件」というのは、上野鈴本が当時長唄で人気絶頂の後に四代目松永和風になった吉村孝次郎と圓喬師の二枚看板で興行をうったのだが、吉村孝次郎の膝で出た圓喬師が五十分を越す噺をしてしまい、終わったのが十一時近く、それから上がった孝次郎は「越後獅子」を熱演しそれが終わったのが十二時近くだったと言う事件で、お客はそれから人力車を手配するもの、宿を探すもので大変な騒ぎになったと言う事件の事だが、今に伝えられている「師匠は性格が悪かった」と言う事とこの日記帳に書かれている事とは若干違っていたのだった。


 気がつくと横で薫が優しげな表情で俺を見つめていた。

「あ、もう話終わったのか? すまん、つい夢中になってしまった」

「いいのよ。夢中で曾祖父さんの日記を読んでる孝之さん素敵だった」

「そうか? お袋と何話してたんだ?」

「へええ、女の秘密! こればっかりは教えては上げられない」

 薫はやけに上機嫌で、それから俺のマンションに帰って来た。

「ごめんね、夜、TV局の人とドラマの打ち合わせがあるんだ。早く帰るけど、遅くなるようだったら先に寝ていて」

「ああ、判った。でも終電に間に合わない時間になったら連絡しろ、何処かまで迎えに行ってやるから」

「ほんと! じゃあそうなったら連絡する」

 薫は着替えるとそのまま出かけて行った。本当は忙しい身なのだ……


 誰も居なくなった部屋で先程の日記帳の先を読む。

 巷間伝えられている圓喬師のエピソードは間違ってはいないが、全くの事実では無い……それが俺の感想だ。この事件でも、記録に残っているのは鈴本の席亭の書き残した事が中心となっている。言わば片方からの証言だけなのだ。清次郎の日記にはその辺も書かれていた。

 それによると、当時、鈴本では人気の吉村考次郎を出演させる交渉に成功した。だが、鈴本はその時は既に色物の寄席となっていたようだった。ちなみに「色物」とは落語や講談、漫才、奇術等を代る代る出演させる今の寄席みたいな席の事だ。その当時は落語は落語、講談は講談専門と別れており、同じ席に出演させるのは「いろもの」と言われたのだった。

 吉村考次郎だけでは番組が成り立たないと思った鈴本では当時、落語の話芸では群を抜いていた橘家圓喬を一緒に出演させる事を思いついたのだ。

 前に園喬を出し、その後吉村考次郎をメインで出す。その思惑で交渉に入ったのだ、

 圓喬は「二枚看板だから」と言う鈴本側の言葉を信用し、自分の面子と言うより落語の面子も立つと考えて承諾した。圓喬の他にも当時一流と言われた、そうそうたる噺家が顔を並べた。

 だが実際に当日鈴本に出向いて見ると「吉村考次郎来演」と大きく書いて一枚看板となってるが、噺家の名前は無い。僅かに脇に小さく「助演 橘家圓喬」と小さな立て札が立ててあるだけだった。

「話が違うじゃありませんか」

 圓喬師はそう鈴本に食い下がったが、知らぬ存ぜぬの一点張りだった。それに、他の噺家に至っては看板も無いに等しかった。

 園喬はここで「ならば、自分が悪役になっても抗議の意味でも噺の素晴らしさを伝えなくては」と思ったという。

 曾祖父さんの清次郎はそう書いてあった。俺も、この考えに賛成だ。現在に伝えられている圓喬師の逸話は一方的な話が多い。

 四代目橘家圓蔵が高座に上がっている時、楽屋で「何でげす。品川のはア。ありゃ噺(はなし)じゃありやせんな。おしゃべりでげす。」とその弟子の前で言ったと言われているが、普段から圓喬師は圓蔵師に「ムダが多いからもっと削るように」と注意していたと言う。幾ら言っても圓蔵師が利かないので、ああいった行動に出たのだという。

 清次郎の日記はそんな事も書いてあった。なるほど物事は一方から見ただけでは判らないのだと思った。

 大体が、圓喬師の良くない一面を拡大解釈して広めたのが、三周と呼ばれた三遊宗家、藤浦三周だと清次郎は思っていたようだ。同時代の人なので信憑性はあると思う。

 この藤浦三周と言う人は圓朝師を経済的に随分助けたみたいだが、やや、贔屓の引き倒し的な側面もあると思う。

 それに、この人はまあ、功罪ありで致し方ないが、その息子や孫に至っては色々と世間で言われている。

 圓喬師がある事情で圓朝師の葬儀(正式な)に参列を許され無かったのも、この三周が反対したからだ。

 生前圓朝師は自作の「鰍沢」を演じる時のコツで「鉄砲を打つところからは緊張感を毛筋も緩めないように言葉を出来るだけ詰めて一気に運ばなければいけない」と語ったと言うがそれがきちんと出来たのは圓喬師だけだと言う。それぐらい師匠圓朝の噺を受け継いでいた噺家だったのだと俺は思うのだ。

 芸に真摯な点は前座が高座を降りて来た圓喬師に

「師匠,噺の中で侍が“往来は左側を歩け”と言いましたが,そういうことは明治になってからじゃないんですか?」

 と訊きたと言う。すると園喬師は、突然姿勢を正し

「ありがとうございます」

 とその前座に手をついて礼を述べたと言う逸話も残っている。

 どれが本当の圓喬師なのか、俺はこの日記から真実が少しでも解き明かせないかと思った。


 腹の虫が鳴ったので時計を見るともう八時を回っていた。冷蔵庫を見ると薫が生ハムのサラダとサンドイッチが作ってあった。ありがたく頂戴する事にする。

 ノンアルコール・ビールを出して口を開け、一口飲む。本当は本物が良いのだが、薫を迎えに行く事になったらと思いこれで我慢する。

 サンドイッチを口に入れると、これが実家で作ったものだと判った。外見は薫の作りだが味がお袋の味だったからだ。

 そうか、あの時一緒に作っていたのか……二人で何か言いながら料理を作ってる姿を想像して思わず口角が上がった。

 腹が一杯になると眠くなるのが人の常だ。日記帳を仕舞って、リビングで横になる。すると昼の疲れもあったのか、眠ってしまったようだ……


 朝から冷たい雨が降っている。今日は大事な「落語研究会」の第一回目の日なのに、せめて雪にはならないようにと神棚に祈りを入れる。

 昼飯を簡単に済ませると、子供の顔を見て早めに出て行く事にする。何と言っても今日の会は絶対に成功させなければならない。

 『うん? ここは何処だ? 俺は何処に居るんだ?』

「おや、誰か私の意識の中に誰かが入り込んだようだ。私の中の君! 君はいったい誰だね?」

『え、俺ですか? 俺は神山孝之と言う者ですが、ここは何処ですか? さっきまで家で食事していたのですが……気がついたらこの有り様で』

「神山孝之……はて、私も神山だが、私の親類縁者に孝之と言う者は確か居ないはずだが……」

『失礼ですが、あなたのお名前は?』

「ああ、私の名は神山清次郎だ」

『え! 神山清次郎……曾お爺さん?』

「うん、何だ私は確かに結婚して子供もいるが、孫だって未だ出来る歳ではない」

『いや、最もです。でも俺はあなたの曾孫なんです。先ほどまであなたの日記帳を読んでいたのです。そこで気がついたら、こんな状態に……』

「なんだ、あの日記帳を読んだのか、さては今日の『落語研究会』の日でも読んでいたな」

『まさしく、その通りで、気がついたら、どうやら曾お祖父さんの意識に入り込んでしまったみたいです。どうしましょうか?』

「どうしましょうか、と言ってもどうする事も出来まい。だが、よりによって、この日の私に入り込むなんて、余程の噺好きと見えるな、やはり血かな」

『俺は落語関係の本の編集者なんです。そこで色々な事を調べたりしてるんです。そこであの日記帳も拝読させて戴きました。ああ、そうそう俺の時代で、圓朝師が一時的に蘇って“鰍沢”を見事に演じました。そして“どうだ清次郎これがセツの噺だ”と言われました』

「おや、そうだったのかい。それは迷惑かけたね。そうか、師匠は蘇って満足の行く噺をしたのか、それは良かった。じゃあ、お前、今日は大変な日だからね。一緒に常磐木倶楽部に行き、噺を見ようじゃないか」

『はい、宜しくお願い致します』


 そんなやりとりで俺は曾祖父さんの神山清次郎の意識に入り込んでしまった。過去の世界をかいま見てる訳だが、朝からこの日、明治三十八年三月二十一日は冷たい雨が降っていた。清次郎はスーツ姿に長靴を履いて傘をさして日本橋萬町の常盤木倶楽部に向かった。この時代だから表通りは石畳が引かれていたが、裏通りは全くの無舗装状態なので既に道路はぬかるんでいた。それでも、出演者が、園喬、圓左、圓右、小圓朝、圓蔵、小さんと言うこの当時としては物凄い顔ぶれなので、早くから客が詰めかけていた。

 そう今なら少し古いが、志ん生、文楽、正蔵、小さん、圓生、金馬、と言った昭和を代表する名人が揃って出演した感じと言えば判り安いだろうか。

 清次郎は表から入らず楽屋口から入り、楽屋を尋ねる。どうやら、雑誌の記者としての挨拶みたいだ。

「皆々様、本日の開催おめでとうございます。これからの一層の発展を願っております」

 そう言って「お祝い」と書かれた包を差し出した。そうしたら幹事の方が大層なお礼を言って受け取った。後で訊けば、主事の今村信雄だという。

 そうしたら、奥から、写真で見た顔の人物が近づいて来た

「清ちゃん。悪いね。気使って貰ってね。あんなに宣伝して貰った上で貰っちゃ本当に申し訳ない」

 橘家圓喬だとすぐに判った。この頃は肺病はどうだったのだろうか? 未だ亡くなるまで七年以上あるので、未だ健康体だったのかも知れない。

 師匠と清次郎はそれから色々な内輪だけが判る事を色々と話していた。俺は清次郎と一緒に聴いていたのだが、殆ど何の事か判らなかった。

 その後、他の噺家と挨拶をして行った。この時も顔と名前が一致しなくて困った。こんな事になるなら明治期の噺家の写真をもっと良く見て顔を覚えておくのだったと後悔した。


 いよいよお客を入れる開演時間となった。驚いた事に六人の噺家が入り口に立ってお客に挨拶をしている。愛想が無いとか冷たいと散々言われた圓喬師もにこやかな顔で挨拶をしている。やはり、後に伝わってる性格云々の話は誇張されたものだろう。

 やがて開演時間になると、前座さんが開口一番を演じる。めくりには“小三治”と書いてある。この人は後に“つばめ”となる人だ。

 それから次々と名人が演じて行く。俺は本当に明治の噺家の技量と言うものが良く判った。確かに素晴らしいが、これをそのまま平成に持って来ても、恐らく受けないだろうと思うが、それでも聴いていて耳に慣れてくれば、その凄さが判ると言うものだ。

 面白かったのは圓蔵師で俺の耳には六代目圓生師を思わせる感じがしたし、三代目小さん師は声も話し方も全く違うのに五代目小さん師を彷彿とさせたのだ。これが芸の伝承なのだろうか……

 そして、待ちに待った圓喬師が高座に上がった。演目は「三軒長屋」だった。マクラからきちんと話して行く。それは本当に素晴らしく、頭の女将さんなどは本当にそこに居るように聴こえるし、またその色っぽいながらも勝ち気な感じが良く表されていた。噺のセリフだけで、その人物の性格等も手に取るように判るのだ。こんな噺家は今まで聴いた事がない。

 後半になり登場した頭は全く持って鳶の頭以外の何者でもなく、粋でいい男で、鯔背な感じが良く出ている。これじゃ、外で女が離さないはずだと納得してしまった。

……

「そう言えば、剣術の先生も同じような事を言っていたんだよ。お前さん方、いったいどこへ越すんだい?」

「へえ、あっしが先生のところへ越して、先生があっしのところへ」

 おなじみの下げが決まり拍手で師匠が高座を降りた。俺は一生どころでは無い大変な宝物を手に入れてしまったと実感した。それは清次郎も同じと見えて、しきりに「よかった。よかった」と独り言を言ってる。

「どうだい孝之君、師匠の高座は」

『それは、本当に素晴らしかったです。俺の時代に伝えられている伝説は誇張じゃなかったと本当に思いました』

「そうだろう……でもね、今日は本当に素晴らしかったよ。いい出来だった」

 清次郎はそう言うと楽屋に圓喬師を尋ねた

「良い出来だったね」

 そう言った清次郎に圓喬師は満足そうな表情で、懐から扇子を出して、筆を前座に持って来させて一筆書いた。

「なんて書いたんだ?」

 訝る清次郎に圓喬師は書いた扇子を広げて見せた。それには

 『明治三十八年三月二十一日 日本橋 常盤木倶楽部 第一回 落語研究会 橘家圓喬 三軒長屋』 と書かれていた。

 圓喬師は墨が乾くとその扇子を清次郎に寄越して

「記念に取っておいてくれ」

 そう言って微笑んだ。その表情がとても満足そうで、俺はいい顔だなと心の底から思ったのだった。

 

 ……遠くで何かが鳴っていた。何だろう? 俺は訝りながもその音の方へ向かう。曾祖父さんの清次郎が「行くのか?」と言ってくれたが、俺は「何か呼ばれているから」と断りを入れてその音の方へ向かった……

 音は携帯の音だった。表示を見ると“薫”と出ていた。なんだ、さっきまでの夢の様な高座をみていたのは夢だったのかと思い電話に出る。

「ごめん、寝ていた? 四谷まで来てくれる?」

「三丁目か? うん行くよ」

 電話を切って手元を見ると一本の扇子があった……これは、先程の圓喬師が楽屋で書いた記念の扇子じゃないかと思い広げて見ると黒黒と墨で

『明治三十八年三月二十一日 日本橋 常盤木倶楽部 第一回 落語研究会 橘家圓喬 三軒長屋』

と書かれてあった……夢では無かった……そうだ! 決して夢では無かったのだ。俺は明治に行きあの四代目橘家圓喬師の高座を見て聴いたのだ。何という僥倖、何という幸せなのだろうと思った。

 こんな事を誰に話しても信じては貰えないだろう。だが、あの珠玉の噺は俺の心に何時迄も残っている。これからの人生に於いて、それはきっと大事な財産になると思うのだった。

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