第6話 受け継ぐ想い
窓から金木犀の香りが秋の風とともに編集部に入ってきていた。そろそろ陽も傾き、夕暮を編集部の窓から眺めていて、ふと上方落語の人気者、桂孔雀が亡くなってもう十五年になると気がついた。あの自殺からもう十五年と言う想いだった。
それと言うのも、先日孔雀の弟子の桂雀枝師から電話を貰ったからだ。雀枝師は数年前に関西での自分の地位も立場も捨てて東京に進出して来たベテラン噺家だった。
何故、関西での人気者の地位を捨ててこちらに来たのかは俺には当初さっぱりと判らなかった。別な雑誌やスポーツ新聞のインタビューを読んでもはっきりとしなかったのだ。
表向きは「関西ではもうやり残した事はありません。向こうだと安住してしまうからです」
等と語っていたが、それだけで伝手のない東京に出て来るはずが無いと俺は思っていた。それに、こちらではどちらかの協会に入るのか、と思っていたら両方とも入らず、完全フリーで活動をするのだと言う。どう見ても厳しくなると思った。
ところが、当初は暇だったようだが、三月もするとあちこちの落語会から呼ばれるようになった。本人も個人的に親しい東京の噺家と組んで落語会等を行ったりして、それなりに活動をしていたのだった。
そんな雀枝師が先日編集部に電話を入れて来たのだ。最初は落語会の掲載情報の事かと思ったのだが、話を訊いてるうちにそれとは関係ない事だと気がついた。
「神山さん、実は相談があるんですわ。こっちでこんな事話せるのは神山さんしかおらしませんから、頼んますから訊いてやって下さい」
標準語と関西弁が混じった妙な言葉で師匠は俺に頼んで来た。ここは是非とも訊いてやらねばならないだろう。快諾をする。
「いいですよ。俺でよければ何時でもお話お訊きしますよ」
二つ返事で引き受けると雀枝師は
「ほなら、お宅に伺わせて貰ろうてもかましまへんか?」
別にそれは構わなかったので、それも承知するが、ひとつだけ付け加えた
「もうすぐ妻になる者が居ますけど構いませんよね」
俺のその一言に驚いたのか
「あれ、そうでっか……それはおめでとさんでございます。まあ、そういう方なら余計訊いて欲しいですわ」
そう言って時間と日時を約束した。
約束の日時と時間ピッタリと雀枝師はやって来た。家の中に入ると台所で料理を作っていた薫が顔を出した。驚く師匠
「あれ、婚約者というんのは、もしかして橘薫子さんでしたか! いや~知りまへんでした。噺家の桂雀枝言います。よろしうお願い致します」
如何にも上方落語家らしい自己紹介の仕方だった。
「橘薫子です。いつも神山がお世話になっています」
流石に薫は業界人なので、こんな時はきちんとする。
「さあ、奥に入って下さい」
俺の言葉で、奥に通って貰う。用意した座布団に座ると雀枝師は
「早速話しても構いまへん? ほなら話させて貰います。実はわてが東京に出て来た言うのは、他所で話した事ばかりでは無いんですわ」
雀枝師は薫の出したコーヒーにクリームと砂糖を入れると美味そうに飲む。俺はその姿を見ながら
「やはり本当の理由があったのですね」
思っていた事が思わず口をついて出る。
「これから話す事は他言無用に願います。これが一門に漏れたらエライ事やから……まず、師匠が亡くなってもうかれこれ十五年経ちます。私ら孔雀一門は師匠の教えを守って今でも修行しているんですわ。弟子の中でも師匠と同じ高座に上がった経験のある者は今でもその当時の事を忘れるもんではありまへん。でも当時、まだ修行中だった者は師匠の高座をちゃんと見た者が少ないんですわ。その点、わては一番数多く一緒に出させて貰いました。それはごつう財産になっております。
でも、ある時の事です。わてが師匠から稽古を付けて貰ろた「高津の富」をやってましたんや。丁度、富くじの抽選の場面に差し掛かると、舞台の高座に師匠が座って「高津の富」をやってはるんですわ。驚きですわ、もうパニックになりそうで……
でも、おかしいのは誰も騒が無いんですわ。これはおかしい? もしかしたら見えるのはわてだけなのかもと思いましてな。何とか噺を終わらせると、高座の袖で訊いていた弟弟子に訊いたんですわ。そしたら「そんなもん見えしません」と言いよったんですわ。つまり、わてだけに見える幻ですわ。それが、それから幾度となく出ましてな。良く考えると、師匠と良く共演した場所に限って出るんですわ……
それで、もう怖いやら、疲れてしまいましてな。それで、東京で修行のやり直しと決めましたんや」
雀枝師は重い口を開いてやっとの想いで語ったのだろう。全てを語り終えた安堵感が漂っていた。
「間違いなく、師匠だけしか感じなかったのですか? 例えば他の兄弟子なんかは感じなかったのですか?」
「それが、ホンマにそうなんですわ。何処でもわてしか感じないんですわ」
特別雀枝師が霊感か何かが強い訳ではなかろう。恐らく師匠孔雀に対する想いが一番強いのではないのだろうか? 俺はそう考えた。その事を問うてみると、やはり否定はしなかった。師匠を強く思っている雀枝師が引き込んだ幻だったのかも知れない。
同じ高座で師匠と共演をする。それは噺家にとって、どんな思いなのだろう?
「師匠、ここまで出来るようになりましたよ」
そんな想いを持つものだろうか……
「それは、一門でもさまざまですわ。妙にクールな奴もおれば、わてみたいに、年中師匠の事ばかり言っている者もおりますやろう?」
「師匠は、例えば同じ高座に出た事がある会場で、孔雀師が亡くなってから再びその会場の高座に上がった時に、昔の事を思い出したりしてましたか?」
そんな事を訊いてみると雀枝師は当たり前と言う顔をして
「そんな事当たり前ですわ」
そうか、やはりそうなのか……雀枝師は自分で自分の中にある幻影を呼び込んでいたのだ。間違いは無いだろうと思った。
「師匠があないな亡くなり方をして、色々と思わない弟子はあらしません人気絶頂の時に何故……人気が重荷だったのやろか?」
雀枝師はそこまで言うとコーヒーの残りを口に流し込んだ。
「師匠、実は孔雀師の事なのですが、私が自分なりに気がついた事があるのですが、訊いて貰えますか?」
俺は、長年孔雀師が自殺した原因について考えて来た事があった。今日はそれを弟子の雀枝師に訊いて貰おうと考えた。
「なんですか? 神山さんが師匠の事で……是非訊かせて下さい! それが分かれば、わての師匠の幻も消えるかも知れまへん」
そこまで話した時に薫が「何もありませんけど」と言って酒と肴の用意をして持って来た。
「ああ、これはどうもすんません。どうか、お構いなく……」
恐縮する師匠にビールを注ぐ薫
「じゃあ、三人でまずは孔雀師を偲んで献杯しましょう」
薫がそう言うので、俺も師匠もグラスを傾けた。
少し呑んだ処で俺は本棚から俺が録画した「落語研究会」のDVDを出して、目の前のプレーヤーにセットした。VHSで録画したのをDVDに落としたのだ。市販されてるバージョンとは違う。演目は「三十石夢の通い路」だ。演者は勿論、桂孔雀師匠だ。突然の出来事に雀枝師は驚いている。その姿に俺は
「今から孔雀師の『三十石夢の通い路』を掛けますから目を瞑って聴いて下さい。これはDVDですから映像が勿論ありますが、今日は音だけを追って見て下さい」
俺の言った事に頷いて雀枝師は目を瞑った。俺の隣の薫も真似をして目を瞑る。勿論俺も同じだ。
やがて、静寂の後、出囃子の「昼まま」が流れる。陽気な出囃子だ。出囃子に乗って孔雀師は出て来るのが手に取るように判る。
マクラからやがて噺へと入って行く。既に何かを雀枝師は感じているみたいだと気配で判る。さすが本職だと感心する。
噺はやがて伏見の船着場でのやりとりになった。活気のある場面で笑いも一番多い場面だ。きっちりと笑わしている。
「師匠、きっちりとやってはる……普段と違う……」
更に噺が進み、船頭さんの最初の唄の場面になった。そろそろ終わりも近い……
「師匠が泣いてはる! 噺をしながら泣いてはる! ボロボロと涙を流していなはる……」
雀枝師の言葉で薫が薄っすらと目を開けて画面を確認したのを感じる。今までと呼吸が変わったからだ。俺にもそれぐらいは判る。
やがて、三番目の唄が終わり「三十石は夢の通い路でございました」と語り拍手で終わった。
「全く普段やっていたのと違うバージョンですわ。普段はもっと笑いの多い噺で、それこそ、これでもかとくすぐりを入れてるんですわ……それがこれには全くありまへん。正直、こないな噺やったら向こうでは受けませんわ」
「そして、演じながら孔雀師は泣いているように感じましたでしょう?」
俺の言葉に雀枝師は頷いて
「それも、驚きました! あないな師匠は初めてだす。いったいどうしたのか……」
俺はここで自分の推論を展開した。
「私はこう考えました。違っているかも知れませんけど聞いてやって下さい。
爆笑落語で天下を取った孔雀師匠は一躍人気者になりました。それは、あの頃は毎日TVに師匠が出ていました。噺家として大成功と言っても良いと思います。でも売れる前に師匠は一度精神的に参っていた時期がありました。それはご存知でしたよね」
俺の言葉に頷く雀枝師
「その頃は落語の事、噺を分析し過ぎて少し病んだそうです。でもあの形の噺を作り上げて成功した。
でも、それで終わりでは無かった。孔雀師の目標はもっと高いものでした。それをずっと追い求めていました。そして完成させたのが、あの「三十石」です。聴かれてどう思いましたか?」
雀枝師は聴いた噺を思い出しながら、頷き
「凄かったですわ。大師匠も負けるのではと思いましたわ。素晴らしかったですわ!」
「そう、素晴らしい噺でした。でも、それを演じる場所が孔雀師には残されていなかった。唯一あったのが国立小劇場での「落語研究会」でした。あそこでは至高の噺だけが演じる事が許されるからです。孔雀師は思っていた噺が出来た喜びと同時に、ここでしか演じられない絶望を感じていたのでしょう。泣いているように感じたのはそのせいだと思います。本当は、爆笑落語では無く、ああいった噺を孔雀師匠は演じたかったのだと思います。でも、普段の高座やTVでは笑いを求められる。それが高じて……それが俺の結論なんです。如何ですか?」
俺の話を最後まで訊いて雀師は
「全くそうだと感じましたわ。弟子として本当はそれを理解してやらねばならなかったはずやのに、それが出来しませんでした……何時の間にか逃げていたんですわ。情けない……神山さん。いいもの訊かせて戴きました。桂雀枝、生まれ変わります! もう師匠の幻影に怯える事はあらしません。強く演じて行きます。師匠が最後に完成させたがった噺をわてが完成させて演じて行きます……」
雀枝師は憑き物が落ちたようにさっぱりとした表情で帰って行った。俺の横で薫が
「同じ噺でも同じ演者でも全く違って聴こえるものなのね。奥が深い……」
そう言って俺の手を握って来た。これから俺はこいつと夫婦になり長い旅を一緒に過ごして行く事になる。今回の様な事も何度もあるだろう。それを言うと
「そんな事は何でも無いわ。私も勉強になるしね。楽しみなの」
それを聴いて俺は、握った手を更に強く握りしめたのだった。
窓からまた金木犀の香りが漂って来た。
「もうすっかり秋ね」
薫がうっとりとしながらつぶやいた……
後に、雀枝師は師匠の名前三代目「桂 孔雀」を襲名する事になる。
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