第5話 残すということ……

 先日、人間国宝に柳家小しん治師匠がなることが決まったが、この時巷の一部で「なるのではないか?」と噂されていた師匠がいた。

 噺家芸術協会の会長の桂音丸師匠だ。入門当初は新作派だったが、途中から古典に切り替えて、今では第一人者と目されている。

 特に圓朝師の残した作品の復活に情熱を持っており「真景累ヶ淵」では故六代目圓生師が「聖天山」までしか演じていなかったのだが、音丸師はこの先も高座に掛けて、録音も残していて、題を「お熊の懺悔」と名づけている。

 噺は前半部分は、高利貸の鍼医・皆川宗悦が金を貸した酒乱の旗本・深見新左衛門に斬り殺されたことを発端に両者の子孫が次々と不幸に見舞われていく物語で音丸師はこの噺の一応の決着がつくまで演じたのだった。後半部分も名主の妻への横恋慕を発端とする敵討ちの物語は圓生師も音丸師も「今ではつまらない」と同じように言っていた。

 以前、音丸師匠に佐伯がインタビューしていた。確か「真景累ヶ淵」の「お熊の懺悔」のCDを発売した時で、その意義を訊いたのだった。だがインタビューは脇にそれてしまい、音丸師匠が何故六代目圓生師がやらなかった処まで演じたのかかがイマイチ良く判らなかったのだ。俺は、これは訊いて見るしか無いかな? と思い始めていた。


 そんな時だった。音丸師匠から直々に編集部に連絡があった。丁度、俺が電話に出ると師匠は

「ああ、神山さん!? ちょうど良かった。実は圓朝師がらみでお話があるのですが、実はスケジュールが忙しくて、時間が作れないのですよ。そんなに急ぐ話でも無いのですが、この前の事件聞きましたよ。それも圓朝師の噺を語っている者として是非お訊きしたいのですが……」

 音丸師がワザワザ電話を掛けて来た理由が判った。要は、この前の盛喬の一件を直接俺から訊きたいのだろう。ならばこちらも佐伯が上手く引っ張り出せなかった師匠の本音を引き出すまでだと思い直した。

「お時間さえ作って戴けたらこちらから伺いますよ。そんなに遠くでは無理ですがね」

「では、申し訳無いのですが、今度の土曜に茨城の五浦温泉で私の独演会があるのです。日曜は朝のうちだけ用事がありその後は時間が取れますから、おいで願えないでしょうか?」

 茨城の五浦温泉は俺も何回か行った事がある。だがそんな場所で師匠の独演会なんて少しおかしいと思ったら

「私の「後援会」の行事を兼ねていまして、バスで行くのですが、私も一緒に行くんです。向こうで到着して温泉に入ったりして、本番はその夜なんですよ。翌日の日曜は見送りだけですから、その後は帰るだけなんです。どうでしょうか」

「判りました。私もその晩は同じホテルに宿を取りましょう。そして翌朝お話をお伺いするという手はずで如何でしょうか?」

 俺の提案に師匠は喜んで承諾した。土日は本来なら取材の日ではない。それはそうだ「東京よみうり版」は公には土日は休日となっている。だが、そんな事は言っていられない、電話を取り、師匠が泊まるホテルに電話を掛け、二人分の予約を取った。もう一人は薫を連れて行くつもりだった。

 俺と薫は、この前二人で薫の実家に正式に挨拶して「お嬢さんをください!」と頭を下げたのだ。勿論何回か遊びに行き顔なじみになっている薫の両親は『こんな娘でいいんですか?』と逆に言われてしまった。結納などは無いが、式の日取りだけは決めて薫の実家の近くの式場を予約した。だが未だ式までは半年ある。そこで俺は給料の三ヶ月分を叩いて婚約指輪を拵えた。

 それを薫に渡すと柄にもなく、あいつは目を潤ませた。

「大事にするね……」

 涙声でそれだけをやっと言って、俺に抱きついて来た。

 俺達は婚約者となった訳だった。初めて会ったあの時からどのくらい経ったろうか、就活の女子大生だった薫は、今や立派な女優業をしている。時が経ち女は変われば変わるものだと思う……


 家に帰ると薫が自分のマンションから荷持を運んでいた。そうなのだ、結婚してもここに住むそうだ。このようになるなら引っ越さなければ良かった。

「お帰りなさい。ご飯出来てるわよ」

 実際、家に帰って何もしないで夕飯が出て来るのはありがたい。薫はこれでも料理は結構やるのだ。これには俺も驚いている。

「じゃあご馳走になるかな」

 そう言って食卓につき、食事をしながら土曜の事を言う。例の音丸師匠の件だ。

「行く! 孝之さんとなら何処でも行くわ」

「仕事はどうなんだ? 大丈夫なのか。土日が潰れるぞ」

 薫の仕事の心配をすると薫は

「大丈夫! 今度の土日はオフなの」

「仕事がらみだけどな……」

「うん、大丈夫! それでも嬉しい!」

 全く、こういう事になると薫は本当に健気だと思う。そんな部分に俺は惹かれるのかも知れない。

「今日はカレーを作ったの。後はサラダと……」

 薫が作った夕食の献立を言いながら並べている。それを見ながら俺はこいつと俺の過ごした年月を思い出していた。諦めの良い俺に対して諦めの悪い薫。中々ユニークな組み合わせだと思った。

 そのまま泊まって行くのかと思ったら

「明日も荷物運んで来るから、今日は帰る。旅行楽しみにしてるからね」

 そう言い残して帰って行った。明日も来ると言う事だ。


 土曜日、俺はツインスパークの助手席に薫を載せて常磐自動車道を北に走っていた。五浦温泉は北茨城ICで降りてその先にある。野口雨情の記念館が傍にある。

「いい天気ね。取材は明日の朝なんだ。私はそこら辺で時間潰してる? それとも邪魔じゃ無かったら居ても良い?」

 薄い色のサングラス越しに横目で俺を見ながら薫は俺の事を気にしている。以前はこうではなかった。自分のしたい事が真っ先で、その次に俺の事情を考えていた。薫の意識が少しずつ変わって来たのだと理解した。

「どっちでも良いよ。でも師匠はお前のファンらしいぞ」

「なら、一緒に居てサービスしちゃおう」

 嬉しそうに言うその表情は、もうすぐ俺の妻になる事を充分に理解している感じだった。

「五浦観光ホテル別館」の駐車場にツインスパークを駐めたのは午後三時を少し回った頃だった。取材する約束をしてあると申し出、身分を明かし、フロントで音丸師匠の一行の事を尋ねると

「午後四時頃の到着です」と告げられた。

 チェックインして先に部屋に入る事にする。海に面した眺めの良い部屋だった。

「混む前にひとっ風呂浴びて来よう」

 そう言って二人で大浴場に行く。ここの大浴場は太平洋が眺められるのが特徴だ。ここの他に本館があるがそちらは海は見えないそうだ。まあここは混浴ではないので騒ぎの元がないので安心出来る。

 風呂から上がってロビーで薫を待っていると、音丸師匠一行が到着した。今夜はここの六階の多目的会場で落語会が開かれる。後援会の人達の他に地元の人にも開放されていて、千五百円の料金で師匠の独演会を聴く事が出来る。会場は300人程入るそうだ。落語の会場としては丁度良い大きさだ。

 ファンクラブの人達が皆降りて、チエックインした後に師匠が降りて来て、ロビーに居る俺を見つけた。

「神山さん早いですね。今夜の高座、見て下さいね」

「何をやるんですか」

「今日は「牡丹灯籠」の「お露と信三郎」の下りから「御札剥がし」までをやります。一番面白い処です」

 そうなのだ。「牡丹灯籠」もお露と信三郎の噺と宗悦殺しの下りの敵討が複雑に絡み合っている噺で、これも最近はちゃんと演じられた事が余りない。敵討の方がおざなりにされて、お露と信三郎の件と伴蔵の悪事がメインとなっている。噺の中でも特に面白く笑いも多い箇所だ。きっとお客も喜ぶだろうと思ったのだ。

 師匠と話をしていると、女風呂の方から薫がやって来て音丸師匠に挨拶をした。驚いたのは師匠の方だった。まさか女優の橘薫子が俺の連れでこんな場所にいるのが信じられないと言った顔をしていた。

「神山さんと橘さんは一緒に旅行する仲だったのですか?」

 驚きの表情で問い掛ける師匠に薫が

「先日、婚約したんです。やっと捕まえました」

 そう言って笑ってる

「そうですか、それはお目出度うございます。未だマスコミには流れていないですよね。なら私が一番先に知った訳ですね。これは良い! 今夜のマクラで使わせて貰っていいですか?」

 俺も薫もそれを了解した。いずれ劇団から正式な発表がある。それまでのネタだが……

 師匠は「それじゃ、後で……」 そう言って別れた。


 師匠の独演会は午後七時半から九時までとなっていた。途中十分の休憩を挟む。前半の「お露と信三郎」が三十分程で、後半の「御札剥がし」に時間を割り当てるつもりだと思った。

 会場は満員で、俺と薫は一番後ろの隅に何とか座る事が出来た。出囃子が流れて、師匠が登場すると一斉に拍手が起こる。赤い毛氈を引いた高座に師匠が座ってお辞儀をするとまたもや拍手が沸き上がった。

「今夜は、ここ五浦温泉での独演会でございますが、私の後援会の方の他に地元の方も沢山お見えになって、本当に有難いと思っております。一段高い場所からですが、改めて御礼を申し上げます」

 師匠が今夜の礼を言って噺のマクラに入った。途中で俺たちの事にも触れて、会場は一斉に驚きの声が上がった。当然俺たちは立ち上がって挨拶をする。そして、その後噺に入って行った。

 お露と信三郎との出会い。そしてお互いに一目惚れしてしまった様子が語られて行く。音丸師匠は圓生師や正蔵師ほど自分の個性を出さない。だが女性の表現は中々上手いと思う。今日の高座でもお露や下女のお米の演じ方は上手いと思った。

 そして仲入り後にいよいよ今日の本編とも言える「御札剥がし」に入って行く。これは今更あらすじの要らないほど有名な噺だが、ここでもお米の不気味さが良く出ていた。これで、信三郎の描写がもっと真に迫ってれば、歴代の大師匠に引けは取らないと思うのだがそこが惜しい。

 俺は記事や明日のインタビューに使う為に色々とメモをしながら今日の高座を聴いた。


 終演後楽屋を訪れ、明日の十時に後援会の方を見送ってからロビーで取材のインタビューをする事が決まった。師匠は薫のファンだと言ったので、薫がサインをして二人で一緒の写真を撮影した。師匠は大喜びだった。

 薫も師匠の高座に影響を受けたみたいで、部屋に帰ってからも俺に色々と訪ねたり自分の感想を述べたりした。

「圓生師匠のはCDで聴いた事あるけど、生の高座で聴いたのは始めてだったから、ちょっと噺にのめり込んじゃった」

 薫はそう言って敷かれた隣の布団にうつ伏せになりながら俺に今日の感想を述べると

「お噺なんだけど、解決方法って無かったのかしら? 今だったら恋しい人の所には自分から進んで行く子が多いけど、昔はそんな事思いもよらなかったのでしょうね」

 薫はまさに自分が言った通りの事をやったので、今ここに居る訳なのだが……

「まあ、今の常識で考えると噺の理解は出来ないな」

 そう言って部屋の灯りを消すと、隣の布団の薫が滑るようにこちらに移って来た……

 

 翌朝、約束通り十時に俺と薫、そして音丸師匠はロビーに居た。まず最初に、盛喬の一件を俺がありのままに話す。圓朝師の墓で線香の煙の中に師匠が浮かんだ事も含めて語ると音丸師匠は大層感心をして

「やはり、噺家の端くれとして、圓朝師の思いは良く判ります。それは私が圓朝師の噺を復活させて残している事に繋がります」

 話は以外にスムーズに俺が訊きたかった方向に向かっていた。

「師匠はそもそも何故、故圓朝師の噺を残そうと思ったのですか?」

 ずばり核心を訊く。それに対して音丸師匠は少し考えて

「そうですね。最初に圓生師の「圓生百席」がありました。あれは私達噺家にとって、素晴らしい贈り物でした。スタジオでの時間を気にしない録音。それはまさに噺の全てを残してくれたのです。

 あれだけの物になるとコアな落語ファン以外はおいそれと手が出せません。今では図書館にも収められていて気軽に借りて聴けますが、全部を一気と言う訳には行かないでしょう。

 それに、内容は必ずしも高座で掛けているものとは内容が違っています。あれは本来は「落語の教科書」だと思っています。

 ならば、我々はそれを利用し、伝えて行かなくてはなりません。圓生師亡き後それを実行した者は数える程しかおりません。

 ならば、私が力及ばずともやって見ようと思ったのです。ですから、「真景累ヶ淵」の「聖天山」以後の圓生師が残していない部分も含めて録音したのです。

 正直言って、私の力量は圓生師や正蔵師には及びません。でも、逆に私のような色の無い噺家が残しておけば、将来、どの噺家も自分なりに演出を出来ると思ったのです。

 売る側としてはこんな話は載せる訳に行きませんので、今まで黙っていました。でも、先日の一件を聞いて、今日、神山さんから事のあらましをお伺いして、私ははっきりと理解しました。

 私のやった事は間違っていないと……」

 言い切った師匠の顔は晴れ晴れとしていた。俺の横で薫が

「音丸師匠、昨夜のお露さんの描写、女優としてとても感じました。今回一緒に来て師匠の高座を拝見出来てとても良かったです」

 そんな事を言ったのが印象的だった。他に今後の抱負等を訊いてインタビューを終了した。別れ際に音丸師匠が笑いながら

「神山さん。もし、もう一度圓朝師が出て来たら、宜しく言っておいて下さい。こんな老いぼれでも頑張っていますと……」

 その顔はとても晴れやかで、ちょっぴり自負が伺えた。そしてそれは俺の心に何時迄も残ったのだった。

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