第4話 師匠と弟子

 今年の秋は穏やかで良かったと思う。編集部にも爽やかな秋の風が入って来ていた。薫の芝居も先日、好評のうちに千秋楽を迎え、俺も花束などを届けたりした。

 今日は、高梨は「落語研究会」の取材で出かけていて、編集部には俺と佐伯の二人しか居なかった。彼は、落語年鑑の古い記録を整理していた。本来なら佐伯がやるべき仕事では無かったが人の良いのを利用されて、やる羽目になってしまったのだった。

「そう言えば神山、麗々亭柳生って覚えているか?」

 古い年鑑を見ていた佐伯が突然俺にとって懐かしい名前を叫んだ。

 麗々亭柳生……かって噺家芸術協会に於いて「十年に一人の噺家」「本当の天才」「噺家として必要なものは全て備わっている」等と呼ばれた噺家だった。真打に昇進するとマスコミが大々的に取り上げ、人気が爆発した。

 二枚目と言って良い繊細な風貌を持ち、噺の深い理解をした高座は人々を魅了し、特に若い女性を中心に人気が爆発した。

 だが、昇進後数年で突然、行方をくらましてしまい、表舞台から消えてしまったのだが、実は俺はその事に関わっていたのだ……


 麗々亭と言う亭号は本来、麗々亭柳橋と言う名前の亭号だったのだ。今は六代目柳橋が春風亭を名乗ってしまった為に無くなってしまった亭号だが、真打に昇進する時に師匠が敢えて復活させたのだ。これだけを見てもいかに期待されていたかが判ると言うものだ。

 彼の師匠は春風亭柳太郎と言ってもうすぐ六十を越そうと言うのに何時迄も三十代にしか見えない新作中心の噺家だ。最近は古典もやるが、この人のは古典をやっても新作だと俺は思っている。そして未だに独身を貫いている。TV等でも人気者で、寄席でも客が呼べる数少ない噺家だ。

「どうした神山? 何だぼんやりとして、お前らしくない」

 佐伯に声を掛けられるまで俺はあの時の事を思い出していた。

「ちょっと出て来る。取材だ。後は宜しく!」

 俺はそれだけを言うと、編集部を出て駐車場に駐めてあったツインスパークのエンジンを掛けると都内を走りだした。

 麗々亭柳生は春風亭柳太郎が抜擢真打として、三十歳そこそこで真打昇進して直ぐに入門した柳太郎の一番弟子だった。歳も柳太郎三十二歳に対して高校を出たばかりの十八歳と、他の師弟関係よりも歳が近かった。

 柳太郎は直ぐに柳生の素質に気がつき、彼を協会の古典の名手三笑亭紫楽の所に稽古に通わせた。紫楽は余り知られていないが、古典を粋に演じる事が出来る達人なのだ。実は大変な人なのだが世間では余り評価されていない。故立川談志が彼の実力を高く評価していた事実からも実力は本物で、それが判ると言うものだ。

 車は都内のそれも場末の一角に向かっていた。およそ、特別な用事でも無い限り、この辺に来る事はない……少なくとも今まではそうだった。

 殆ど通行する車も人も居ない一角にツインスパークを駐めて、目的のアパートを目指す。僅かにすえた匂いが鼻を突く。何だか空気までが重く、この街全体が過去にあるような気がした。


 幸いな事に目的のアパートは取り壊されずにそのまま建っていた。俺はそこの三号室と書かれた部屋の呼び鈴を押してみた。表札の文字も以前と変わっていなかったからだ。

 少しの間の後、僅かにドアが開かれた

「どちら様ですか……」

 抑揚の無い声が聞こえ、白いのっぺりとした顔が覗いた。

「暫くぶりです。神山です」

 俺の訪問が以外だったのだろう、部屋の主は本当に驚いた様子で

「か、神山さん……どうしてここへ……」

「少し時間ありますか……お話があってやって来たのですが」

 俺がそう言うと彼は慌てて

「部屋は散らかっていますから、何処かお茶でも飲みながら……今支度しますから少し待っていて下さい」

「はい、構いません」

 そう言うと一旦ドアが閉められた。

「すいません。いきなりだったので、少し慌ててしまって……」

 俺は数分後身なりを整えて出て来た柳生をツインスパークの助手席に乗せた。近所のファミレスにでも行くつもりだった。

「師匠とは今でも?」

 短い俺の質問に柳生は言葉を選びながら

「そうですね……師匠と弟子ですから今でもそれは……」

 お互い前を向いて話をしている。言い難い事はこのような座り方が最も良い。と何かの本で読んだ。

「だから復帰しないのですか?」

「けじめだと思っています。両方共手にするのはおこがましいと思うのです」

 その言葉が終わる頃、俺はツインスパークをファミレスの駐車場に入れた。


「経費で落としますから、何でも好きなものを頼んで下さい」

 実際、記事にするつもりは無かったが、こう言えば柳生が遠慮せずに済むと思ったのだ。

「そうですか、じゃあ……」

 柳生は幾つかのものを頼んだ。俺も本日のランチを頼む。それぞれ飲み物を取って来て話の本題に入った。

「柳太郎師は、あなたがここでこんな暮らしをしている事はご存知なのですか?」

 今でも二人の関係が続いているなら、柳生にこんな暮らしをさせている事が理解出来なかったからだ。

「いいんです。師匠には私から言って好きにさせて貰っているんです。あそこあたりでは、私の事を皆知りません。だから、あそこを選んだのです」

 その姿は、かって一世を風靡した噺家の姿ではなかった。

「神山さんにはあの時本当にお世話になりました。今でも感謝しています」

 柳生は十八歳で入門し、二十八歳の時にやはり抜擢で真打に昇進した。そして行方を眩ませるまでの四年間売れに売れたのだった。

「いや、私は特別には何もしなかったけど、気が変わって再起する時は声を掛けて下さいとお願いしました。それが、あの時記事にしない条件でもあったのですが、やはり気は変わりませんか?」

 柳生と俺は同世代だが、俺の方が少し若い。だから、俺があの当時に色々と相談に乗ったのは確かなのだが……

 柳生はコーヒーに口をつけると一口それを飲み

「十八で師匠に入門して、何も分からない私に師匠は優しく接してくれました。嬉しかったです。尊敬して、憧れだった師匠にそんな風にして貰えて本当に天にも昇る気持ちでした。

 私は元から女の子には余り興味が無くて、どちらかと言うと同性の方に興味がありました。自分が特別変わっているとは思いませんでしたが、心の中では常に誰か同性の子が住んでいました。だから、元からそんな素質があったのでしょうね。師匠に対する気持ちは何時の間にか尊敬を越えていました。

 そして、そんな私の気持ちに師匠も気がつき、最初は困惑していましたが、やがて

『お前が真打に昇進して一本立になったら』……と言ってくれました。

 私はそれを励みに一生懸命稽古しました。そのおかげで、抜擢真打に選ばれました。嬉しかったです。その後、師匠と私は結ばれました。長年の想いが叶った瞬間でした」

 柳生は注文した料理を美味しそうに口に運んでいる。俺は、正直この手の話は苦手だが、関わりを持ってしまった以上、仕方ないと思っている。


「そして、噺家麗々亭柳生は売れに売れた……本当に輝く時だった。だが、売れてしまった為に余計な事までマスコミに詮索されてしまった」

 俺は残りのコーヒーを口にしながら、その後を言う

「そうでした。私と師匠の関係を詮索され始めたのです。困りました……その時、助けてくれたのが神山さんでした」

 そう、あの時俺は柳生の芸を惜しいと思い、師匠の柳太郎と柳生に対して、芸を取るか愛情を取るか選択を迫ったのだ。芸を選んだ場合には二人の関係を精算する。そうすれば俺の個人的な伝手で噂を沈める算段だった。

 だが、二人は愛情を選んだのだ……これは俺の予想の斜め上だった。

「だって、当たり前じゃないですか、何も知らない私に師匠は誠意を持って本当に真剣に教えてくれたのですよ。その恩に背く訳には行きません。それに、師匠との関係を捨ててしまえば、きっと私の芸は大した事なくなります。それは私には判っていました。

 師匠を失い、芸も落ちぶれてまで生きたくありませんでした。だから私は身を隠したのです。直ぐに神山さんに見つかってしまいましたが……」

 柳生は自虐的な笑いを浮かべながら今までの想いを語ってくれた。

「今でも、その考えに変わりはありませんか?」

 その俺の質問に柳生は静かに頷くだけだった。


「また、来ますよ!」

 柳生にそう言って俺はツインスパークの運転席に戻った。アパートの前で柳生は静かに立ち尽くしていた。惜しい……やはり俺には、あの芸が惜しい……

 何時か必ず復帰させて見せると改めて心に誓ったのだった。

 その晩、家に帰ると薫が料理を作って待っていた。芝居も終わり暫くは余裕があるのだと言う。

 薫の手料理を食べながら俺は二人の今後について話す

「なあ、改めて両親に挨拶に行くのだけど、いつ頃がいいんだ?」

「そうねえ。親にはもう言ってるから具体的な日にちが決まればそれで良いと思う。私も珍しく暫く暇で都合がつくから」

 俺は今年中には薫の親に挨拶をして、籍を入れようと思ってる。式は内輪だけで静かにやるつもりだ。式を行わないつもりだったが、薫が「綿帽子を被りたい」と言ったので内輪で行う事にしたのだ。

「まさか、本当にここまで来るとは思わなかった。でも孝之さん本当に私でいいの? 女優なんて男と結婚するようなもんだよ。いいの?」

「今更何を言うんだ。俺の引っ越し先まで調べたくせに」

「だって、好きなんだもん……これは変えられないよ……」

 そう言って薫が抱きついて来た。

 そうか、そう言うものだと俺も改めて思った。今日の、柳太郎と柳生の関係も同じなのかも知れない……

 だが、俺は落語に関係のある人間として、いつの日か必ず柳生を表舞台に再び出させてみせると強く誓ったのだった。

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