第3話 降りて来る……

 噺家の世界、最も東京の場合だが、前座、二つ目、真打と階級がある。昔は上方にもあったのだが、終戦後に上方落語がほとんど滅びかけた時に無くなってしまった。今では大きな名前を襲名する事がその代わりとなっている。

 東京の場合はそのほとんどが修行年月によって年功序列となっていて、そこに偶にだが抜擢昇進が加わる。

 その為真打が大勢溜まってしまうという現象が起きている。寄席などもそのほとんどが真打で占められていて、二つ目等のもっと経験を積まなければならない若手などの出番はあまり無い。

 そこで、協会は例えば新宿の末広亭などでは「深夜寄席」といって、それぞれの協会が交互に土曜夜の二十一時半から二十三時までの間に四人の二つ目を出演させて経験を積ませている。これなどは、本興行よりもお客が入ることで有名だ。

 又、上野の鈴本では日曜の午前十一時から十二時半まで「鈴本早朝寄席」と出して「噺家協会」の若手二つ目が四名出演する。


 俺は、紙面の「若手紹介」というコーナーの取材で高梨を連れて日曜の朝、鈴本に来ていた。今日の出演は、古今亭志ん七、柳家かかし、三遊亭松葉、林家芍薬の四名だった。芍薬は協会の動画配信でおなじみの女流だ、彼女だけが若干香盤が上だが、他の三名はほぼ香盤順で真打昇進まではもう少しある。

 古今亭志ん七の最初の師匠は。元は古今亭志ん六という志ん夕師の一番弟子で、期待の中堅だったが、半年程前に急死してしまい、志ん六の兄弟弟子の古今亭志ん強の預かり弟子となっていた。


 やがて、最初のかかしが登場して「粗忽長屋」が始まった。これは、そそっかしい人ばかりが住んでいる長屋の住人が浅草に遊びに来て。友人の死体を見て驚き、家に帰って隣の友人に「お前の死体が浅草にあって皆迷惑してるから、引取に行こう」と言って誘い出し、浅草でその死体が自分だと確認してる間に訳が判らなくなると言う話だ。かかしは柳家らしく、上手くまとめて高座を降りた。

 次は、芍薬で「たらちね」だ。これは八五郎に馬鹿に言葉が丁寧なお嫁さんが来て、言葉が判らずに騒動になる話だ、芍薬はこのお嫁さんの京都言葉を良く出していて、流石に真打間近と思わせた。

 その次が松葉だ。演目は「天狗裁き」で、これは家で寝ていた八五郎が妻に揺り起こされ夢の内容を訊かれるが夢を見ていないので「見ていない」と言うと怒り出す。長屋の隣人が夫婦喧嘩に割って入るが、経緯を聞いた隣人も夢の内容を知りたがる。「そもそも夢は見ていないので話しようがない」と八五郎は言うが隣人は納得せず、またも押し問答から喧嘩になってしまう。と言う具合に段々騒動が大きくなり、大家、そして奉行の所にまで行ってしまうが見ていないものは仕方無い、やがて処刑されそうになったところを天狗に救われるが、また同じ事になる。あわやという場面で目が覚めるので、女房が「どんな夢みたの?」で下げる噺である。

これも松葉は無難に纏めていた。

 そしてトリの志ん七となった。演目は「片棒」である。この噺のあらすじは……石町の赤螺屋吝兵衛さんは一代で身代を築いたがケチ! 悩みはこの身代を誰に譲るか?。

 自分が死んだら、どのような葬式をするかを、息子三人に聞いて見ることにした。

長男は贅沢三昧でお話にならない。続いて次男は、葬儀と祭りを混同していてこれも駄目。次の三男は……極限まで簡素な方法を考るが、早桶は菜漬けの樽で十分。運ぶには人手が必要ですが、これだとお金がかかりますから片棒は僕が担ぎます。でも、私一人では担げません、そこが困りものです。すると親父が「なに、心配するな。片棒は俺が担ぐ」

 と言う筋なのだが、志ん七の元の師匠の志ん六は「与太郎噺」で世に出て、売れっ子になった噺家だが、本当は「片棒」のような噺が得意だったのだ。その辺が案外知られてはいない。

 志ん七はまるで二つ目とは思えない落ち着きで噺を進めて行く。余裕たっぷりに見えた。噺の進行を見ていると、次男の場面での神輿の囃子などは師匠の志ん六そっくりだった。俺は正直目を剥いた。

「何だか見事なものですね。こんなに上手でしたっけ?」

 高梨が俺に疑問をぶつけるほど、今日の高座は優れていた。高座を降りると急いで片付けて、通常の昼の部の支度に掛かる。俺は訊きたい事があったので、鈴本の脇で志ん七が出て来るのを待っていた。来月の紙面は志ん七を載せようと思ったからだ。

 待つこと十分余りで志ん七は出て来た

「志ん七さん。お時間ありますか?」

 俺の声に驚いて振り返り

「ああ、『よみうり版』さん。取材ですか!? いいですよ」

 その声に俺と高梨は近所の喫茶店に入り、奥の四人掛けるの席に落ち着く。

「昼未だですか?」

「ええ」

 訊くとそう答えるので、三人とも「ランチセット」を頼む。一応取材費で落とすつもりだが……

「今日は何でしょうか?」

 志ん七は改まって俺に尋ねて来た。

 俺は運ばれて来たコーヒーに口をつけると

「実は今日の高座なんですが、非常に良い出来だったので少しお話を伺いたいと思いましてね」

 そう言って志ん七の顔を見た。すると志ん七の顔が綻び

「今日は師匠が高座に降りて来てくれましたから」

 そう言ったのだ。

「師匠って……まさか志ん六師匠ですか?」

 隣に座っている高梨が驚いて尋ねる。

「ええ、偶にですがあるんです。高座で師匠に教わった噺をしていると、私の後ろの方に師匠が降りて来て、細かいところを教えてくれるのです。今日も、次男の時に師匠が降りて来て祭りの囃子なんかを教えてくれました」

 高梨はどう返事をして良いのか完全に困惑していた。まさか、落語の取材に来てオカルトまがいの話を聞こうとは思わなかったからだ。

「師匠が降りて来ると言うのは、具体的な声が聴こえるとか?」

 代わりに俺が尋ねると

「そうですね。私自身には聴こえるんですよ。あくまで私の心にですよ……」

 そう言って笑っている。どうやら志ん七独特の表現なのかと思っていたら

「稽古を付けて貰った時の注意点なんかを、もう一度言ってくれたりすると『ああ自分は進歩無いな~』なんて思います。でも師匠の注意点は確かなので確実に出来が良くなるのですよ」

 どうやら、志ん七が昔の記憶を蘇らせているのだと思ったのだが

「でも、たまにですが、自分では無い、それこそ師匠が自分に乗り移っている感じになることもありますよ。そんな時は自分でも不思議です」


 取材を終えての帰り道で、高梨は

「どうやって記事にします? まさか、そのままは載せられないですよね」

 そんなことを言いながら俺の方を見る

「前半の部分を引き伸ばして書けば良いと思うぞ」

「そうですね。そうします」

 そんな事を言いながら編集部に帰ったのだが、俺は以前に同じような事を聞いた気がしていた。今日は日曜なので社員は出て来ていない。高梨も「お先に」と言って帰ってしまった。俺はバックナンバーを探しだして調べて見る気になった。どうせ家に帰っても今日は暇だ。薫の芝居も始まり、あまり来なくなったからだ。芝居は好評らしく、大入りが続いているという。良い事だと思った。

 目的のバックナンバーは直ぐに見つかった。一昨年の六月号だ。ここに志ん七の噺家としての叔父にあたる古今亭志ん丞師のインタビューが載っている。確か、同じような体験の事が書いてあった。

 志ん七の師匠は志ん夕師と言って親子兄弟で名人となった噺家で、その最初の弟子でもあったので、その弟弟子の志ん丞師との関係は深い。

 インタビューの記事で師匠は

「最近ですね。師匠が乗り移るように降りて来てくれる事があるんですよ」

 そう言っていた。まさか同じ一門で同じような事があるとは……俺は顔なじみの志ん丞師にメールを打って、明日取材の約束をした。


 編集部で残りの仕事を済ませると真っ直ぐと家に帰った。明日はどんな事を訊こうか考えてメモに纏める。

 夜になったので、何処かで食事でもしようと思い、出かける支度をしていたら玄関の呼び鈴が鳴った。誰だろうと思いながらドアを開けると薫が荷物を持ちながら立っていた。

「えへへ、やっぱり家に居たね。お弁当買って来たんだ。一緒に食べようよ」

「お前、芝居はどうした? いいのか、抜けだして?」

 俺の質問に薫は笑って

「今日の夜の部は無いの。それに明日は第一月曜なのでお休みなんだ。だから今夜は泊まって行くから、宜しくね!」

 そう言ってズカズカと家の中に入って来る。

「もう少し遅かったら行き違いになっていたよ。飯を食べようと出かける所だったんだ」

「ふふん、いいタイミングだったのね。やっぱり繋がってる人とは何かあるんだよね」

 薫は鼻歌を歌いながらダイニングに弁当を広げている。

「今夜は結構奮発したんだ……」

 そう言いながら、セットする姿が嬉しそうだった。そんな姿を見るだけでも心が癒やされるのを感じた。


 薫の買って来てくれたお弁当を二人で食べている。薫は種類の違うお弁当を買って来ていて

「この方が少しずつ色々なものを楽しめるでしょう。お得な感じがするの。量を食べる年頃じゃないし、それにお酒の肴にもなるしね」

 薫は俺が買っておいた白ワインを出して来て飲んでいる。無論俺も飲んでいるのだが

「孝之さんは、明日仕事でしょう?」

 そう訊くので

「今日、取材したので、明日は午後からでいいんだ」

 そう言って今日の事を話すと

「じゃあ少しゆっくり出来るね、うれしい~」

 そう言って笑顔を見せた。それは俺に取って悪くなかった。

「芝居は順調みたいじゃないか」

 そう尋ねるように言う薫は笑いながら

「だって、野沢先生、舞台袖でいつも見ているんだもん。でもね、この前なんか舞台袖では無く、照明を当てる部屋で見ていたのだけど、演じてるわたし達、その日も舞台袖で先生が見ている感じがして、中には『確実に舞台袖に居た!』って言う子も居てね。それじゃ生霊か幽霊だって言ったのよ」

 俺はそれを訊いて、今日の取材の事を話した。どこか共通する感じがしたからだ。薫は全て訊き終わると

「そういう事ってあると思うな。特に落語は口伝でしょ、想いも伝わると思うな」

 薫は舞台女優らしい事を言って俺を納得させた。


「今日は一緒にお風呂入ろう……ね!」

 そう言ってウインクする。こういう時は何か狙いがあるのだ。

「お風呂でマッサージして! ね、お願い! 孝之さんのマッサージ上手だから」

 やはりそうだったと思った。俺は若い頃、近所にマッサージや針をやる名人がいて、俺はそこに通って色々と教えて貰ったのだ。だから、商売にこそしてないが、ツボ療法やマッサージは本職並なのだった。

「ああ、いいよ」

 頷くと薫は俺に飛びついて来た。やはりこれも悪くない……

 風呂に入ってマッサージをするのは、お湯に入って血行が良くなり、ほぐし易くなるからだ。マッサージしてみると、薫の体は相当疲れが溜まっていた。きっと俺の家に来るのもシンドかったかも知れない。無理して来たなと思った。

 マッサージし終わって湯船に入っていると船を漕ぎ出した。

「おい、湯船で寝ると危険だから上がって、ベッドで寝ろよ」

 そういうと「ウン」と頷いて風呂から上がり、簡単に髪を乾かし、肌に化粧水をつけると風呂場から出て行った。

 俺が風呂場から出てベッドに行くと、既に薫は毛布を纏って寝ていた。例よってその下は何も身につけてはいない。薫に寝られるとこいつの匂いがベッドに染み付いて、一人で寝る時には思い出して仕方がないのだがな……そう言えば、薫も「俺の匂いのするベッドだと熟睡出来る」なんて言っていたと思い出した。おっと、これは詰まらぬ惚気だな……

 こんな時、ダブルベッドを買って於いて良かったと思う。隣に潜り込むと「ゆっくり眠れ」と言って軽く髪を撫でて俺も眠りにつく。


 翌日、出社前に志ん丞師の出番のある浅草で待ち合わせ、寄席の隣の喫茶「ナポリ」に入る。

「どうしたんですか、神山ちゃんからメールなんて驚きましたよ。何か悪い遊びの誘いですか?」

 何時も陽気な師匠だが、今日はやけに嬉しそうだ。

「師匠こそ、何かあったのですか? 何か今日は感じが違いますが……」

「うん、それがね。今朝、稽古していたらね師匠が降りて来たんだよ」

 とんでもない事を志ん丞師匠は言った。

「なんですって! 今朝、稽古中の師匠に志ん夕師が降りて来たんですか?」

 俺は、驚いていた。落語会や寄席などの高座なら兎も角、普段の稽古にでも降りて来るのかと思ったのだ。

「そんな驚かなくても、いいよ。一心不乱に稽古をしてると降りて来てくれるんだよ」

 コーヒーを飲みながら師匠は笑って言うが、そんな事日常茶飯事なのだろうか?

「まさか……滅多にあるもんじゃ無いから、嬉しいんじゃない。今朝は『お見立て』をやっていて、師匠が『そこはそうやってやっちゃ駄目だぞ』と言って来たんですよ。私の口から言葉は出てるけど『そこは早過ぎる、もっとゆっくりやれ』とか、『そこはもっと速く、お前の言葉でしゃべれば大丈夫だ』と師匠が傍で囁くんですよ。そう云う事があるので降りて来るって表現してるんですがね」

 確か似たような事を前にも伺ったと思いだした。そこで俺は昨日の志ん七の事を話したのだ。すると師匠は

「そうねえ……兄さんも本当に心配していたからね……無理ないと思うよ。でもね、これは私の個人的な意見なんだけどね……」

 師匠はそこまで言って残りのコーヒーを飲み干して

「結局、それこそが師弟の強い結びつきだと理解しています。私の事も含めてね。そんな師匠の幻影を呼び込んでしまう程の強い結びつきだったと言う事なんですよ……今はそう理解しています。まあ、今日のように偶に出ますけれどね」

 志ん丞師匠はそう言って爽やかに笑ってくれた。


 薫が言った事も含めて考えると、確かに本当にその師匠の霊が降りて来るのかは兎も角、そんな事が起きても不思議では無いほど強い結びつきで繋がっているのかと考えた。

 そんな事も書いて高梨に記事を渡した。それを読んだ高梨は

「『師弟の繋がり』と題して来月号に載せますね」

 そう言って志ん丞師と同じように笑った。

 一件落着して俺は薫の事を思った。もしかしたら未だ家に居るかも知れないと思い連絡をしてみると

「うん、今夜一緒にご飯食べようと思って買い物してるの。だから早く帰って来てね」

 携帯の向こうでは薫がやはり嬉しそうだった。今日は早引きしてもいいかな? 帰りにはワインを買って帰ろう……そう決めていた。

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