第5話:吸血衝動

 不意に目覚めた。

 頭はまだ少し重い。

 もしかしたら、蜘蛛やこれからの不安で倒れたのではなくて、疲れていたのかもしれない。

 怒涛の展開だったものな。鎖で繋がれたことなんて初めてだ。

 縄で縛られたことはあるけれど。


「知らない、天井だ」


 そんなテンプレ染みたセリフを吐きながら起き上がってみた。

 何も反応は帰ってこない。一人だ。

 僕は無造作に敷かれた布団の上にいた。ベッド派だからどうも体が痛くなっている。

 習慣としている寝る前のストレッチをやっていないのが原因かもしれないけれど。


「何にもないな」


 周囲を見渡す。ただの正方形の部屋だ。家具は何もないし、広さもない。完全に使われていない部屋なのだろう。

 一つだけある窓に付けられたカーテンをおそるおそる開けると日光が僕を照らす。

 寝ている間にバンパイアにされてはいなかったようで何ともなかった。


「絶対にさくらは畳んでいないだろうな……」


 布団を綺麗に畳んで僕は部屋の外に出る。

 そして迷路のような廊下を歩いてリビングに着く。

 そこにはクッションの山の前で眠りこけるさくらがいた。猫のように丸まって眠っているから寝顔がよく見れないのが寂しい。


「ん?」


 さくらの周囲のゴミの城壁が少しだけ取り除かれている。

 僕のために――――片付けようとしてくれたのだろう。


 下僕などと言いながらも気を使ってくれたのは素直に嬉しいし、とても愛らしい。

 まあ、問題としてすべて片付いていないということがあるけれど。やろうとしてくれただけで僕は嬉しいのだ、たとえすぐ飽きたのだとしても。


「さて、やるか」


 僕がここに住むというのならこの空間は許せない。

 ならばすることは決まっている、掃除だ。

 道具が何もないから本格的には出来ないだろうけれど、とりあえずはゴミを何とかしなければいけない。

 大量に散らばっているコンビニ袋をゴミ袋代わりにしてゴミを詰めていく。

 軍手代わりに落ちていた彼女の服を使った。そこら中に落ちているし、一着くらい別にいいだろう。


「……ひどいな」


 つい口に出してしまった。酷いのは汚れではなくて、ゴミの傾向だった。

 ジャンクフードと菓子のゴミばかりなのである。こんな食生活をしていたらすぐに身体がおかしくなってしまう。

 まあ――バンパイアなのだから大丈夫なのかもしれないけれど。

 というか、バンパイアって普通の食事も摂るのか、僕のイメージでは血をワイングラスに入れて優雅に飲んでいるイメージしかない。

 ……それがカップラーメンにポテトチップスか。

 うーん、少しバンパイアの評価が落ちた気がする。いや、好感度は上がったかもしれない。庶民的だし。


「うぉ……あぁ……起きたのか」


 僕が掃除を続けて陽も暮れ始めた頃。

 もぞもぞと芋虫のようにクッションの中を這いずってさくらは起きた。

 綺麗な黒髪は寝癖で少し跳ね上げっていたし、大きな目は眠そうにとろんとしていたけれど、それはそれで可愛かった。

 彼女はゆっくりと周囲を見渡したあと、クワっと目を見開いた。


「お、おおおっ! 綺麗になってるではないか!」

「綺麗なほうがいいだろ?」

「うむ。よい下僕だ」


 さくらは満足したように笑顔で頷いている。

 別に汚い空間が好きなわけではないらしい、典型的な片付けられないタイプな人間というだけなのだろう。

 彼女が言ったように僕は下僕な立場だから、代わりに掃除くらい僕がやればいいだけだ。幸いにして僕は掃除が嫌いではないから何も問題はない。

 整理整頓された綺麗な空間は心が落ち着くからなぁ。


「ところでお前、何でわたしの服を持っている」


 さくらは少しだけ不審な目を向けて僕に言った。

 油断した――起きる前に隠しておく予定だったのに。


「いや、散らばっていたから片付けようと思ってさ」

「そうだったか。バスルームのとこに籠があるから入れといてくれ。あとで業者が取りに来る」

「わかったよ」


 上手く誤魔化せたようでさくらは笑顔に戻った。

 危ないところだったぜ。

 手が汚れるから軍手代わりにしていた――なんて言ったら、殺されかねないし。


「――っと、その前にこっちに来い」


 さくらはクッションの上にふんぞり返ったまま手招きをしている。

 それに従ってクッションの前まで歩く。


「もちっと寄って、それで座れ」


 要望通りに彼女の目の前で正座をした。

 そうすると互いに至近距離で見つめ合う形になる。

 いつの間にか彼女は膝立ちをしていたから、身長の差も殆どない。

 

 こうして改めて見ると――胸がドキドキする。

 小さくなったとはいえ、彼女の瞳は綺麗な黄金のままだ。

 あぁ――思わず見とれてしまって、溜め息が出る。


「くくっ。そんなに悩ましげに息を吐くな、思わず食い尽くしてしまいそうになる」


 さくらはそう言って僕に覆い被さってくる。

 柔らかい唇が首筋に触れて――――チクリと痛む。


「あ、あぁ……」

 

 血が――血が吸われている。

 いや、それだけじゃあない。

 僕を僕として存在させている、そんな大事なモノが――――吸われている。


 けれど、気持ちがいい。

 僕が失くなっていくというのに――

 さくらが小さな舌を動かす度に感じるぬめりとした官能的な感触が――

 自分の存在が徐々に吸われていく喪失感が――

 僕の脳髄を焼けたマシュマロみたいに溶かして、麻痺させていく。


「くっ……」


 逃げられない。

 後ろに倒れようとしても――小さな手が背中に回っていて、爪を食い込ませている。

 加えて脳髄に与えられる快楽は増し続けている。

 今ではまるで全身の細胞が射精をしているかのようだった。

 頭が本当に、おかしくなる。


「さ、くらぁ……や、め……」


 さくらの耳元で何とか声を出す。

 しかしそれは逆効果だったらしく……抱きしめる手の力が強くなった。

 本当に――僕は食べられてしまうんだ。そう思うと自然と涙が零れ落ちた。

 けれど、怖くなかった。僕は死ぬのが嫌だったはずなのに。

 むしろ心は満ち足りている。本当に、不思議だ。

 僕が彼女のことが好きだからだろうか?

 そういえば、究極の愛は好きな相手の一部になることだと聞いたことがある。

 僕の血が彼女の中で混ざり合うことが幸福な人生なのか?


 いや――それは違う、これはただの捕食行為だ。

 ……毒か何かによって幸福だと思わされているだけだ。

 捕食者が被捕食者を食べやすくするための機能、嘘の幸福だ。

 そう思うと、身体に力が少しだけ力が入る。

 こんな最期は認められない、絶対に。


「さくらっ!」


 精一杯に悲鳴のような声を上げると――さくらがビクリとして手を放した。

 僕はそのままクッションに仰向けに倒れる。

 まだ頭はぼーっとしているし、脱力感はとても酷い、だけどかなり楽になった。

 あの麻薬のような快楽は少しだけ名残惜しい――――が、我慢だ。


「あ、ああああ、すまん、吸い過ぎたっ!」


 さくらの顔は林檎のように真紅に染まって、瞳には少しだけ涙が溜まっている。

 その様子で今回のことが本当に事故のようなものだったということがわかる。

 特に怒りはない――むしろ困り顔を見れて嬉しいくらいだ。


 自分ではわからないけれど、よっぽどに顔色が悪いのだろう。

 僕の内心に反してさくらは焦り始めた。


「違うぞ、別に殺そうと思ったわけじゃないんだ、本当だぞ。つまみ食いの予定だったのに……お前が誘うような顔をしたり声を出したりするし、久しぶりに吸った血があまりに美味いからつい……」

「……さくらの役に立てなくて、ごめんね。もっと君と一緒に――」


 そう言って更に身体から力を抜いてリラックスをすると、さくらの瞳から涙が一つ二つと零れた。 今日一日で彼女のいろいろな表情を見たけれど――泣き顔が一番好きかもしれない。何というか、心をくすぐる何かがある。

 もっと眺めていたいのもあるし、今後の生活のためにもこのまま彼女にもう少し罪悪感を与えておくことにする。

 そうすれば僕に対する乱暴な扱いが減るかもしれないし。

 拷問部屋で頭を壁に何度も叩きつけられたことは忘れていない、決して。


「おい、気力を強く保て、貧血は食えば治るっ! 今から飯を注文してやるからな、肉だぞ、霜降りだ!」

「っ……」


 やめて欲しい。そんなにすぐ肉を食べたからって貧血は治らない、もう少し食べやすい物がいい。

 それに貧血なら霜降りの肉じゃなくて内蔵だろう、レバーとか。

 ……そう思って声を出そうとして、上手く出ない。

 演技で死にそうな振りをしたけど割りと重傷なのかもしれない。血を失いすぎているようだ。

 最後に、走る彼女の背中が見えて――本日二度目、またも僕は気を失った。



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