第5話 エル研究所

 目的地に着いたのはそれからしばらく歩いた後だった。

 場所は街の中央付近。領主たるレアの館がすぐ側に見える位置に存在している。

 目的の建造物を見た雫は呆然とつぶやいた。

「……何があったんですか?」

 元は黒曜石のような材質で創られたサイコロ形の建造物。

 しかし今では、無残なほど壊れて周囲に破片を撒き散らしていた。敵の襲撃を受けたと言われれば素直に信じてしまいそうになるほど酷い。

 だが、この建物の名を聞けば大抵の者は違う原因をを思い浮かべるだろう。

 これが様々な魔導具を発明してきた異才の発明家――エルの研究所だった。

「実験に失敗したんだろう」

「……大丈夫なんですか?」

 雫は落ち着かない様子で悠馬の腕にしがみつく。

 これから相談に行く相手がトラブルメイカーでは、不安に思うのも仕方がないことだ。

 しかし、悠馬の懸念は別にあった。

 雫だ。

 先程の一件以来、雫は妙に体を寄せてくる。それは全幅の信頼を受けてのことだろうが、小猫のようにじゃれつかれては身動きがとりづらい。不信を向けられるよりは良いのかもしれないが、これでは護衛にならない。

 そして、雫が近づくのと反比例するように距離を置く者がいた。

 桔梗だ。

「なんだか恋人みたいニャ~」

 普段の愛らしい表情はなりをひそめ、冷ややかな視線を二人に向けている。

「こ、恋人だなんて……そんな……」

 雫は顔を真っ赤にしながらわたわたと手を振って否定するが、満更でもない様子だ。

 桔梗はムッとした表情で人差し指を突き出した。

「雫ちゃんはチョロすぎニャ。そんなんじゃご主人様に滅茶苦茶に利用されたあげく、ペロリと食べられてしまうニャ!」

「ゆ、悠馬さんはそんなことしません!」

 雫は頬を赤くさせて反論するが、それを見た桔梗は目を伏せる。

「……雫ちゃんは本当のご主人様を知らないニャ。ご主人様は『悪食の獣』とか『魔獣食い』と呼ばれる恐ろしい魔物ニャ。雫ちゃんを無邪気なハムスターだとすれば、ご主人様は腹をすかせた蛇ニャ。今すぐ離れるのが身のためニャ」

 桔梗はおどろおどろしく語るが、とうの雫は笑って否定した。

「その心配はありませんよ」

「何で、そう言いきれるニャ?」

「もしそれが本当なら、桔梗さんが無事なわけ無いじゃないですか」

「お、おぉ……」

 雫の反論に桔梗は不意打たれたように言葉を詰まらせる。

 そんな桔梗に追い打ちをかけるように雫は言う。

「それに、悠馬さんが悪い人じゃないって信じていますから」

 それは打算の無い無垢な微笑み。

 その姿に後光を見た桔梗は、気圧されるように後ずさり、ガックリと肩を落した。

「……わたしはお邪魔みたいだから退散するニャ」

 桔梗はぼそりとつぶやくと、研究所とは別の方向に向かって歩き出した。

「どこへ行く?」

「モコ姉さん達に事情話して、ミノスの店で待ってるニャ」

 桔梗はそう言うと去っていった。

「あの……どうしたんでしょうか?」

「……桔梗はエルと反りが合わなくてな。顔を合わせるのを避けたのだろう」

 まさか雫の笑顔にあてられた、などとは言えず、悠馬は言葉を濁す。

 その一方で、悠馬の脳裏には不安が広がっていた。

(これは……いいのか?)

 雫は初めての物事や他人には過剰に防衛反応を示す一方で、一度信頼した者には盲信とも言える信頼を向けている。彼女の資質は悪党に利用されれば大惨事を招くだろう。

 なんとかしたいが、そのためには彼女のことをもっとよく知る必要がある。

 悠馬はそう思うと、不思議そうに見上げていた雫を連れて、エルの研究所に入った。



 研究所の中は廃墟同然だった。

 壁は焼けて崩れおち、黒い鉄鋼と色とりどりの配線が通路にはみ出ている。

 そして、実験の失敗とは思えない刃物傷と共に、動かないプリンの姿がいくつも存在していた。

「これは……」

「どうやら侵入者が居るらしい」

 悠馬は警戒レベルを上げると、雫を自らの後ろに寄せる。

(……どうする?)

 敵はおそらく実験失敗によってできた隙を突いたのだろう。状況から見て戦闘はすでに終わっているようだが油断はできない。

 安全を考えれば雫を誰かに預けてくるべきが、その間にエルは命を落すかもしれない。かといって連れて行くのは危険だ。

 逡巡の隙を突くように足音が響く。

 悠馬が腰の小太刀に手を伸ばして相手を待ちかまえると、ひとりの女性が現れた。

「お待ちしおりました、お嬢様がお待ちです」

 それは顔見知りの女性。

 いや、女性ではない。正確には女性の形をした知性体。

「プリン五号か」

「プリン……って精霊のプリンですか!?」

 雫が驚きの声を上げると、プリン五号はふんわりと微笑んだ。

 プリン型は全てゼリー状のスライム体だが、今の五号は青い肌をした細身の女性に擬態している。風呂場にいたプリン一号から改良を重ね続け、エルの護衛兼メイドとして作られた存在だ。気がゆるむと体形が崩れるらしく、それを防ぐためにメイド服にコルセットを足したようなデザインの衣服を身につけている。

「この刃物傷は何だ?」

「それは千影様によるものです。昨夜のイタズラに大層お怒りになり、一時的な活動停止と罰金を要求されたのですが、お嬢様は拒否。その結果がこの騒ぎになります」

「馬鹿なことを……」

 千影の実力を考えれば無駄な抵抗をせず、素直に従うのが得策だ。それでも抵抗したのは過信か慢心か――どちらにしろ間違いであったことは現状が示していた。

「エルは無事か?」

「はい。ご案内します」

 プリン五号はそう言うときびすを返す。

 悠馬はとりあえず警戒を解くと、雫をいつでも庇える位置に置いてプリン五号ついて行く。

 内部は近未来を思わせる、機械的な空間。

 普段なら奇妙な音と共に開く自動ドアが見る影もなく切り刻まれており、内部には大量のプリンの残骸が転がっている。

 戦場跡地を抜けて案内されたのはドアの壊された一室。

 その部屋はほとんど争った形跡が無く、天蓋付のベッドや大量のぬいぐるみは傷つかないまま放置されていた。中央にはテーブルと椅子が用意されている。

 そんな部屋の入り口前に、エルが平身低頭の姿勢で待ちかまえていた。

 つまり、土下座である。

 ワガママで自分勝手なエルが、波打つライトブラウンの髪をカーペットに這わせながら頭を垂れていた。

 彼女の奇行には大抵なれているつもりだった悠馬も、今回ばかりは目を点にした。

「……何をしている?」

「すまなかった」

 エルの謝罪に悠馬はますます困惑する。

 こう言っては何だが、エルは人に頭を下げるような者ではない。問題があれば常に相手に責任を問い、自分は悪くないと言う。

 悪く言えば子供なのだ。

 そんな彼女が土下座をしてまで謝罪をするのだ。困惑するのは当然のことだった。

「頭を上げてくれ。そんな状態では話しづらい」

「……わかった」

 エルは顔を上げる。

 目元には泣きはらした痕があり、自信に満ちた顔立ちは憔悴しきっていた。

「何があったのか、聞かせてくれないか?」

「……わかった。助手よ、茶の用意を頼む」

「かしこまりました」

 プリン五号は微笑むと部屋を出た。

 エルはヨロヨロと立ち上がると中央に用意された椅子に座り、目の前のテーブルに突っ伏した。

 悠馬は雫と共にエルの対面の椅子に座ると、口を開いた。

「それでは、何があったのか聞かせてくれないか?」

「その前に聞きたいことがある。……悠馬、体は大丈夫なのか?」

 顔を上げたエルは不安そうに悠馬を見つめる。

 雫は意味がわからずエルと悠馬の間で視線を行ったり来たりさせていると、悠馬はエルの不安を笑い飛ばすように口元をゆるめた。

「大丈夫だ。だから心配するな」

「……本当だな?」

「本当だ」

「…………」

 エルは悠馬の瞳をのぞき込もうと身を乗り出すが、悠馬は瞑目して答える。

「……あの、もしかしてわたしのせいで……?」

 雫は不安そうに言葉を挟むが、雄馬は首を横に振った。

「雫のせいではない。何も気にすることはない」

「そう……ですか?」

「そうだ。心配させてすまないな」

 悠馬はそう言って雫の頭をなでる。

 雫はほっと安心した表情を浮かべ、それを見ていたエルは不機嫌になっていく。

 それでもなにも言わないのは、昨夜の一件が尾を引いているのかもしれない。

 それからほどなくしてプリン五号がワゴンにティーセットを乗せて持ってきた。

 ティーセットは白磁に金の細工が施された気品あふれる一品。プリン五号は甘い香りを立てる紅茶を注ぐとそれぞれに提供した。

 エルは紅茶を一口飲むと、表情を切り替えた。

「それでは始めようか」

「ああ。初めに聞いておきたいのだが、なぜ土下座をしていた?」

「謝罪だよ。まさか、あんな大事になるとは思いもしなかったからな」

「なぜ、雫を驚かせるようなマネをしたんだ?」

「薄情な友人にイラっとしてな。気まずい雰囲気にしてやろうと思ったわけだ。もっとも、お前達は仲を深めたようだがね」

 エルはジットリとした視線で悠馬達を睨む。

 子供のように悠馬の服をつまんでいた雫はパッと手を離すと首をすくめ、それを見たエルは盛大にため息をつく。

「……お嬢様」

「わかっている」

 不機嫌そうに眉を寄せたエルは紅茶を一気飲みすると、プリン五号にカップを差し出す。

 カップが再び液体に満たされると、エルは肩の力を抜いた。

千影カラスからその娘のことは聞いている。だから大体の事情は知っているつもりだが……お前は私に何をしろと言うのだ?」

「過剰に溜る魔力をなんとかして欲しい。そうすれば制御もしやすくなるし、暴走しても被害が小さくてすむ。なにか良い方法はないか?」

「それなら、その娘の心臓ををもぎとればいい」

 エルの冷酷な発言に悠馬は眉をひそめる。

「エル、悪ふざけはやめてくれ」

「ふざけてはいないさ。妖精よ、君は魔力がどこに宿っているか知っているか?」

「……いえ、わかりません」

「体液だ。とりわけ血には大量の魔力が含まれている」

 エルは一口紅茶を飲むと続ける。

「そして血が多く集まる心臓は魔力の炉であり貯蔵庫だ。心臓を失えば魔力が増えることはないし、溜った分も破棄できる。一石二鳥だ」

「しかし、それでは死ぬだろう?」

「魔人はそう簡単に死なん。体内に残った魔力が心臓を再生するから大丈夫だ。魔人の中には臓器を売って生計を立てる者もいる。何なら私が買い取っても良いぞ?」

「却下だ」

 エルは瞳を輝かせるが、悠馬はばっさりと切って捨てる。

「他に方法はないのか?」

「魔力が取り出せない以上、打てる手は少ない。一番良いのは『シェル』にしてしまうことだが、この娘は制御できないのだろう?」

「それはそうだが……」

 悠馬が思案していると、雫が袖をひっぱった。

「あの……『殻』ってなんですか?」

「魔人の能力を拡張する臓器だよ」

 悠馬が答えるより早く、エルが答えた。

「能力を……拡張?」

「そうだ。もし、足の遅い魔人が『速くなりたい』と願い続けたら、その願いは魔力に蓄積されて、ある一定の量が溜ると体内で結晶化するんだ。それが『殻』。『加速の殻』を手に入れた魔人は、普通の魔人よりも格段に速くなる。まぁ、特殊能力だな」

「特殊能力……もしかして、悠馬さんの不思議な力も『殻』ですか?」

「そうだ。彼は『浄化の殻』を持っている。魔力に含まれた瘴気や害のあるモノを無害なモノに変える。君の魔力を受けながら行動不能に陥らなかったのはそういう理由だ。もっとも、『浄化の殻』の有効範囲は狭く、悠馬の体のみだ。正面はともかく、悠馬が覆えなかった君の背中からは『消失』の魔力があふれて家や塔を破壊したというわけだ」

「それじゃあ、あの桜吹雪みたいな光は……」

「浄化された魔力だ。あれ自体にも浄化効果がある」

 雫は感心したように何度もうなずき、それに気をよくしたエルは続ける。

「『殻』は能力の使用を高速化できる上、願望の蓄積によって強化されるわけだから強化も容易だ。何度も使えば良いだけだからな。しかし、『殻』を持つ魔人は少ない。なぜだかわかるか?」

「……願いが足りないから?」

「それもある。だが一番の理由は『殻化』には膨大な魔力が必要だからだ。一つ持っていれば兵士級、二つ以上あれば騎士級と呼ばれるほどにな。そして『領地の殻』を持つものを貴族級という」

「領地?」

「燃料タンクのようなものだ。貴族は自身の燃料タンクとは別に『領地の殻』という追加の燃料タンクを持っている。その燃料タンクの中にはその貴族の心の世界が存在し、人が住むことすら可能だと聞く。他にも――」

 その後もエルの知識語りは続く。

 初めは妙に刺々しかったエルも、好奇心を見せる雫に頬がゆるみ始めていた。

 エルは刺々しい言動が災いして友人らしい友人は居ない。桔梗とはよく話しているが、すぐに口げんかになってしまう。

 そんな彼女にとって、好奇心が強くて純粋な雫は待ちわびた存在と言っても良いだろう。エルは、ここぞとばかりに自らの作品を自慢し、好奇心を見せる雫に『待ってました』とばかりに解説している。

 今の彼女を見れば、どれだけ人恋しかったかがわかる。雫にちょっかいをかけたのも寂しかったからなのだろう。

 悠馬は自らの怠慢を反省すると、切りの良いところで声をかけた。

「エル、脱線しすぎだ」

 ヒートアップするエルに悠馬は冷や水を浴びせる。

「いま必要な情報は過剰な魔力の対処法だ」

「わかっているさ。だが、現状では解決不可能だよ。どんな対策を講じようと、彼女の魔力が台無しにする。解決するにはが魔力を受け入れるしかない」

「受け入れる……」

 雫は暗い表情でつぶやいた。

 この様子では解決までまだまだ時間がかかるだろう。

「それまでの間はどうする?」

「心臓をもぎとるのがダメなら定期的に放出すればいい」

「どうやって?」

「精神的衝撃で噴出すんだから、悠馬が雫の胸を揉めばいい。そうすれば出るんじゃないか?」

「む、胸を……ですか?」

 雫は顔を赤くする。

「まぁ、胸は言葉の綾だ。『異界』で精神的衝撃を与えて暴発を促せばいい。その際、できるだけ力を制御して撃ち出すようにすれば制御の訓練にもなる。あとは雫の心構え次第だ」

「……そうか」

『異界』で余分な魔力を捨てながら制御を覚えるのはレアもやった訓練方法だ。その時は、レアの瘴気で魔獣があふれてしまい、その対処に数日がかりの戦闘が続いた。

 今の雫なら瘴気になることはないが、雫が積極的に魔力を制御しようとすれば魔力の性質も変わるだろう。そうなれば昨夜の一件とは違い、瘴気を撒き散らして魔獣を生み出すことになるので、その対策が必要だ。やはり獣人達の協力が不可欠になる。

 そう考えた悠馬は、瞑目すると立ち上がった。

「……もう行くのか?」

 エルは口を尖らせる。

「ああ、桔梗が星の牡牛亭で待っている。エルも一緒に来ないか?」

「…………あのメス猫は嫌いだが、雫は気に入った。たまには外に出るのも良いだろう」

 エルはそう言うと席を立つ。

「五号。お前は研究所の片付けと再建を頼む。四号の機能回復もしておいてくれ」

「かしこまりました」

 プリン五号は深々と頭を下げる。

「それでは行こうか」

 エルはそう言うと悠馬の前に立つ。それがなにを意味するのか心得ている悠馬はエルを左肩に乗せた。

 上機嫌になったエルは雫に手を差しのばした。

「雫よ、お前は良い奴だから、特別に悠馬の肩に乗る権利をやろう。一緒に高い世界を眺めないか?」

「わ、わたしはいいです……」

 雫は恥ずかしそうに手を横に振ったが、その視線は悠馬の右手に向かっている。それで察した悠馬は右手を差し出すと、雫は躊躇いながらも嬉しそうに腕を絡めた。

 一連の出来事を見ていたプリン五号はふんわりと笑った。

「そうしていると親子のようですね」

「……俺が親では子は苦労するだろうな」

「それなら優しくしてあげてください」

「……わかった」

 悠馬は苦笑すると、プリン五号はフフと笑った。

 プリン五号は頭を下げると、そのまま服ごとドロリと溶けて消えてしまった。

 エルは嬉しそうに悠馬の頭に掴まると言った。

「それでは行こうか、ダディ」

「……その呼び方はやめろ」

 悠馬はげんなりすると、二人の幼女を支えながら星の牡牛亭へと向かった。



 星の牡牛亭についたのは昼前。

 昼食には少し早いため客は少なく、まばらに座った魔人や獣人達が思い思いに過ごしている。

「ご主人様、こっちニャ!」

 入り口に入った途端、桔梗の大声が店内に響き渡る。

 悠馬がそちらを見ると桔梗が上機嫌で手を振っていたが、エルに気づくとあからさに顔をしかめた。

「……なんでその変態を連れてきているニャ」

「娼婦に変態と言われる筋合いはないな。私が気にくわないならお前が帰れ」

 エルの挑発的な物言いに、桔梗は攻撃的な笑いを浮かべる。

 桔梗がわずかに腰を落していつでも飛びかかれる状態になると、エルを守るように白衣が蠢き出した。

 獣人達は二人の対立に気づくと、そそくさとその場を離れて遠くの席に座る。

 その光景に悠馬はため息をつき、二人を静止しようとした時だった――

「暴れるなら余所に行け」

 野太い声が割って入った。

 やってきたのは牛型獣人。

 雄々しくそびえる鋭い角と凄味のある眼光。コック用白衣をまとった焦げ茶色の肌は、はち切れんばかりに筋肉を誇示している。

 この巨漢こそが店長ミノス。

 その威風堂々としたたたずまいに、雫は目を見張る。

「すまないな、ミノス」

「旦那が気にすることじゃねぇ。気にするべきは盛りのついたメス共だ」

 桔梗とエルはそれぞれミノスに反論しようとするが、ミノスの眼光を受けると不満げにしながらも矛を収めた。

「それで、その娘が例の『妖精』か?」

「そうだ。雫、彼はこの街のまとめ役のひとりだ。困ったことがあったら相談すると良い」

 悠馬は雫の背中をわずかに押すと、雫は緊張した面持ちで頭を下げた。

「は、初めまして……天上雫です。よろしくお願いします」

「おう、俺はミノスだ。よろしく頼む。とりあえず楽にしてくれ」

「は、はい」

 雫が緊張した様子で答えると、ミノスは苦笑して悠馬に向きなおった。

「それで旦那、今日の用件は顔合わせだけか?」

「いや、食事に来た。昨日ミーコから大物の仕込みをしていると聞いたが……もしかして、腕の汚染はそのせいか?」

 白衣を着ているので、豚吉のように変化しているのかわからないが、ミノスの腕からは瘴気が漂っている。

 視線が鋭くなる悠馬に、ミノスは恥を隠すように手で覆った。

「旦那にはさすがに隠せないか」

「……大丈夫なのか?」

「安心しろ。この程度で『魔獣』に堕ちたりはしねぇよ。それより、旦那のために手間暇かけて用意したんだ。あとで感想聞かせてくれよ?」

「……わかった。では楽しみにしておこう」

「任せてくれ。他の三人はメニュー見て決めてくれ」

「私も悠馬と一緒のものが良いニャ!」

「ありゃ、旦那専用だ。お前はメニューから選べ」

 ミノスはそう言うと厨房へ消えた。

 桔梗は不満げに頬を膨らませ、エルはそんな桔梗をからかう。

 二人のにらみあいが再びはじまると悠馬は瞑目し、ため息をついた。

「とりあえず座るぞ」

 テーブルは四角。長いソファは巨漢の獣人なら四人、普通の人間なら六人から八人は座れるサイズ。席の間には簡易のついたてがされており、ファミリーレストランのようになっている。

 悠馬はエルを肩からおろすと桔梗の対面に座った。

 すると、エルはすかさず悠馬の隣に座る。桔梗はエルの勝ち誇った笑みをを見て頬を引きつらせた。

「……ご主人様。何でそっちに座るニャ? 私の隣が開いているニャ」

「壁際に雫を座らせるわけにはいかん。それに護衛の関係上、俺は雫と座るつもりだったんだが……」

 悠馬がエルを見つめるとエルはそっぽを向いた。

「この席は私がいただいた。雫もこっちに座れ」

「え、えと……」

 雫が迷っていると、桔梗の腕が伸びて、有無を言わさず自分の隣に引き寄せた。

「雫は私と座るニャ!」

「そうか。では、雫に何かあったら守ってくれ」

「当然ニャ!」

 桔梗は自信を持って答えるが、エルの表情に動揺が走る。

 そして桔梗は敵の隙を見逃さない。

「雫ちゃん、あの変態には気をつけるニャ。あいつはご主人様の風呂を覗いたり、家の中を覗いたりするストーカーニャ。気をつけないと今日のお風呂も覗かれるニャ」

「嘘を言うな! 雫、そんなふしだらな女の言うことに耳を貸すな!」

「え、えと……」

「事実ニャ。今回はゴキブリ型だったけど、前はトカゲ型で窓の隙間からこっそり覗いていたニャ」

「あ、あれは悠馬の入浴中に突撃したお前を監視するためだ! 決していかがわしい理由ではない!」

「風呂を覗いた、という事実は変わらないニャ。それに、悠馬がいない間に家に細工をして悠馬の生活を覗いているのも知っているニャ!」

「……本当なのか?」

 見られて困るような生活はしていないが、それでも知らぬところで見られているとなれば、いい気はしない。

 悠馬の問いに、エルは慌てる。

「た、確かに一部に手を加えているが、それはセンサーのようなものだ! お前が家に帰ってきたら私にもわかるようにしてあるだけだ。それだけで覗きはしていない!」

「この通りニャ。雫ちゃんも気をつけないといろいろ知られちゃうニャ」

 雫がエルを見る視線に不安なモノが混じり始める。

 危惧した事態に、悠馬は頭が痛くなる思いだった。このままでは雫のエルに対する心象は最悪なものになるだろう。エルの悪癖も加われば二人の関係には無視できない亀裂がはいる。そうなれば、雫はエルを常に警戒するようになり、エルは数少ない友人を失うことになるだろう。

「ち、違うんだ雫……わ、私は……」

 必死に弁明するエルだが、混乱のせいか普頭の回転の速さは発揮されず、それどころか混乱を複雑なモノにしているようだ。

 悠馬は仕方なく助け船を出すことにした。

「雫、もう少し桔梗の方に詰めてくれ。エルは桔梗の隣に座れ」

「ゆ、悠馬!?」

「護衛するなら両側から守った方がいい。雫、少し狭くなるがかまわないか?」

「え……あ、はい。大丈夫です」

「ゆ、悠馬……?」

「隣の方が話しやすいだろう?」

「……そ、そうだな! 確かにその通りだ!」

 エルはすぐさま立ち上がると、スタスタと歩いて雫の横にどっかりと座り、躊躇いがち雫の手を握る。雫はわずかに驚いた表情を見せるが、そっぽを向いたエルの顔が赤面していることに気づくとぎこちなく握り返した。

 悠馬は内心ため息をつく。

 一人では依頼を完遂できないが、協力者が増える度に問題が起きていては依頼の達成は難しくなる。

(……いっそ、雫には『異界』で瞑想でもしてもらうか?)

 そうすれば暴走しても大惨事になることはない。それどころか『異界』を構成する瘴気が減って魔獣発生の確率も減って良いのかもしれない。

 そんな思考が脳裏をかすめたが――二人と話す雫を見ていたら消えてしまった。

 彼女は笑っていた。

 桔梗とエルは相変わらず口合戦を繰り広げていたが、その目的は相手を蹴落とすことではなく、雫の気をどれだけ引けるかが目的になっている。桔梗は珍事や奇妙な獣人の話を中心に語り、エルは自らの発明のすばらしさと苦難を中心に語っている。雫は二人の話に耳をかたむけては首をかしげたり、表情を輝かせている。

(あれが、彼女の本来の姿なのだろう)

 好奇心旺盛で、純粋な――それこそ妖精のような少女。

 このままこの街で過ごせば本来の自分を取り戻し、より積極的に力の制御を学ぼうとするかもしれない。

 その考えが楽観的であることは悠馬も自覚していたが、雫の笑みを見ていたらそう思えてしまった。

(焦る必要はないか)

 悠馬は口元をゆるめると瞑目したときだった――

「よぉう、クセェ獣共! 相変わらず食事なんて原始的なことヤッテンだなぁ!」

 扉を乱暴に開く音と共に、魔人の男が獣人の女性を連れて入店した。

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