19. にゃん子とドリンクバー④


「……何言ってるんですか?」


 別に不満げに言ったつもりはない。

 本当に何を言っているのかわからなかったというのが、正直なとこだった。


「決して馬鹿にしてるわけではないのよ。そういう話ではないから」

 わたしの内に怪訝な気持ちが起こる前に、そう念を押されてから。

「――去年、私が1年生のとき、プレゼミで仲良くなった子がいるのだけど」

 アゲハさんは淡々と話を続ける。

「そのプレゼミのとき、地球環境をテーマにグループディスカッションを行う時間があったの。そのとき、私と別の子が地球に関する話をしているとき、それを聞いていた彼女が言ったのよ」


 ――え、地球って、内側に人が住んでるんじゃないの?


「……って、ね」

 困ったように眉尻を下げて、アゲハさんは小さく息を吐く。

「はあ……?」

 思考が付いてこないのは、決して酔っているからではないと思いたい。

「外側に住んでたらでしょ? って」

「……えっと?」

「実話よ」

 誰に主張しているのか、妙に鋭い感じで言うアゲハさん。

 わたしは何だか頭がくるくる回り始めてる感じなんだけど……

 とりあえず落ち着いて……冷静に考えてみよう。


 地球は丸い。

 丸いはボール。


 巨大なボールに、猫乗せる。

 ボール動かす、猫、落ちる。


 ボールの中に、猫入れる。

 ボール動かす、猫、落ちない!!


「……ってことですか?」

「たぶん、そう」

 まだ混乱してるわたしの顔を見て、アゲハさんは呆れたように両手をあげる。

 あれ、別に間違ってないんじゃないか……? などと、頭に残る邪念を振り払うため、ぶんぶんと頭を振ってから、わたしはさらに訊く。

「えっと……その場合、太陽はどこにあるんですかね……」

「ボールの真ん中じゃない?」

「それだと地球よりちっちゃいじゃないですか……」

 それ以前にどうやったって、お日様が昇ったり沈んだりできないと思うんだけど……いや、それ以前っつーか……えっと……?

「……本気で言ったんですかね、そのひと」

「さあ、冗談の可能性も高いと思うのだけど……」

 そう信じたいといった風な複雑な表情を見せてから、アゲハさんは話を続ける。

「そのときはね、他の子たちが『なに言ってんのーっ!』って皆で笑って、そのまま次の話題に進んでしまったから……」

 困った顔をしながら。

「どう思う? にゃん子さん。この話を聞いて」

 突然、そんなことを訊く。

「え? どうって……そりゃ……」

 まあ、正直に。

「先輩とはいえ、わたしよりバカなんじゃないかって……」

 そう言ってみたものの、ふと。

「いや……けど、ひょっとしたら、そうなのかも……?」

 思い直して、じっと足元を見る。

 ゼルさんのお店。綺麗に掃除された木製の床。

 さらに下には地面があって……それがボールの外側なのか、内側なのか。

「わたしも……地球を外から、見たことがないので……」

 見上げれば、天井のライトは、お日様より大きく見える。

 なぜか。

 遠くにあるものは小さく見えるから、と、それはわかるけど、もっとちゃんと説明しろとか言われたら絶対無理だし、さらにわたしたちが地球の外側に住んでいるのにのはなぜかと訊かれたら、ニュートンさんのリンゴがとかいう話はなんとなく知ってるけど、ボールに乗せた猫はわけだし、やっぱりちゃんと答えられる自信はまるでない。

 だったらその先輩のように、内側に住んでいる、と、考えた方がよっぽど素直なんじゃないのかな……?

「――常識を疑え、それも大事だとは思うけれど、ね」

 悩むわたしに向かって、アゲハさんは穏やかな表情を見せた。

「正直、私もにゃん子さんと同じことは感じたの。この子は今まで何を勉強してきたのだろうか、この子は一体どうして……大学なんかに進学してしまったのだろうかとか、そんな失礼なことを思ったりもした。それまで真面目に授業に取り組んでいた子だったから、なおさら、ね……けど」

 ふうっと、小さく息を吐いてから。

「ひょっとしたら……いわゆる一流大学の学生でも、そういう人がいるかも知れないって、そう考えてもみたの」

「そういう人って……人間は地球の内側に住んでるんだって、そう考えている人ですか?」

「そう」

「いやいや、ない、いないでしょ、そんなヒト」

 思わず軽い感じで否定してしまうわたし。

 東大のすごい人でも、もしそんなことを口走ったら、確実にバカ扱いされて、東大生という肩書きもそれこそ地に落ちる。

「けれど、例えば」

 アゲハさんは続ける。

「そういったことを理科の授業で習うときに、病気か何かで休んでしまって、その後、高校でも地学の勉強をしなかった人とか、極端な例ではあるけれど、あり得なくはないでしょう?」

「……む」

 そういえば、わたしも小学校のときちょっと事情で、しばらく休んじゃって。

 その後、勉強についていけなくなったことを思い出した。

 んで、さらにそのとき、先生から色々キツイことを言われて……

 わたしの勉強嫌いはそれがきっかけで始まってたりする。

「いえ、まあ……あり得なくはないかも知れませんけど、そんなコト、普通に生きてれば、どっかしらで知る……」

 って、あれ……? 

 でも、言われてみれば……わたしだってバカなわけで。

 期末テストの学年順位とか下から数えた方が早かったし、授業をちゃんと聞いてたかって言われたら、まあ正直、ぼんやりしてた時間の方が多かったわけで。


「わたし……いつ、どこで、それを知ったんだろう……」


 わたしが呟くと、アゲハさんはなぜか嬉しそうな顔を見せた。


「そう、私も同じことを思ったのよ。そういう知っていて当たり前だと思っていたことを、私はいつ、どうやって、知識として得たのかって」

 ふふ、と、またお姉さんのように微笑むと。

「では、にゃん子さん――改めて」

 ぴっと人差し指を立てて。

「今の話を聞いたとき、あなたはどういうイメージを描いた?」

「え?」

「そう、絵。物事を覚えるときは、絵で覚えるでしょう?」

 なんか小さくボケられた気がするけど、それに突っ込む余裕がなかった。

「さっき、にゃん子さん、地球というボールの中に太陽があったら、地球より太陽の方が小さいと、そういう答えを導いたでしょう?」

「え、あ、はい」

「それは、どういう絵を思い浮かべた結果かしら?」

「そりゃ、えっと……」

 暗い宇宙の中、大きな青いボールがあって。

 んで、その内側に小さなわたしがいたとして、見上げたら太陽がある。

 その光景を、ずずっと離れて、遠くから見たとしたら……

「青い丸の内側に、太陽の丸があるんだから……太陽の方が小さい?」

「……思った以上にわかりやすく表現してくれたわね。素晴らしいわ」

 なんか本気で褒めてくれてるっぽい感じのアゲハさん。

「いやいや、こんなん誰だってできるじゃないですか……」

 むう、と、わたしはつい不満げな声をあげてしまう。

「言葉をきちんと頭の中で映像化できるかどうか、確かに単純なことだけど、大切なことよ?」

「はあ」

「例えば、文章題を頭の中で数式という形に置き換えられるかどうか。これは算数に必要なスキルでしょう?」

「まあ、そうなんですか……ね?」

「さらに話を広げるとね。人間が自然に発した言葉を、問題解決に必要な形に、特にイメージとして置き換えること。人間が物を考えるというのはそういう一面を持つと言われているのだけど、この置き換えはね、コンピュータにやらせようとしても、かなり難しいことなの。少なくとも今現在の技術では実現できないこと」

「えっと……?」

 なんか急に話が難しくなった気がするぞ……

「とにかく、今、にゃん子さんがやったことは、誰でもできるかどうかはともかく、人間として素晴らしいことなのだから、自信をもっていいと思うわよ」

「……はあ」

 結局、褒められたのかなんなのか、よくわかんなかったけど。

 確かに思い返すと、なんかスゴイことしてるんだな、わたしの脳ミソ、と。

 ちょっと不思議な気分になる。

「――話を戻して」

 アゲハさんは、わたしの顔を見つめて、優しく微笑みながら。

「さっきの話を聞いたとき、どういう絵を思い浮かべたかしら?」

 改めてそう訊いてきた。

「さっきの話……えっと、地球の内側に人が住んでいる……」

「にゃん子さんがそれを否定したのは、どんな映像を思い浮かべたから?」

「え、ああ、そうですね」

 なんか今も、それにさっきも、ぱっと頭に浮かんだこと。

「地底人が出てくる映画の映像と、あとドラえもんですね。確か、えっと……」

「あら、奇遇ね」

 驚いたように声を上げて、身を乗り出してくるアゲハさん。

 その綺麗な顔が少し赤くなっているのは、お酒のせいなわけで。

 改めてここが宇宙でも地底でもなく、バーの中だということを思い出す。

「私もね、にゃん子さん、その話を聞いたときに、やっぱりドラえもんを思い浮かべたのよ」

「それは本当に奇遇ですねえ……なんでしたっけ、大長編の」

「のび太と竜の騎士」

「あ、それです、それです」

 ドラえもんはしいちゃんの家に全巻そろっていて、小さい頃は遊びに行くたびに何冊も借りてきては家で読んでたという思い出。

「秘密道具、丸バツ占い」

 アゲハさんは嬉々として話し始める。

「質問をすると丸かバツで回答してくれる。的中率は100%。のび太君が『地球上に生き残っている恐竜はいない』と質問したところ、バツと回答される。しかし実際は――に恐竜が生き残っていた」

「あー、そうそう。ありましたねー」

 なんかわたしも嬉しくなって、思わず声が弾んでしまう。

「なるほど、その先輩も、ドラえもんさえ読んでおけば、そんな変な考えを持たずに済んだわけですねえ」

「そう、そうなのよ」

 うんうんと頷くアゲハさん。

「どんな人でもドラえもんをきちんと読んでおけば、小学校の理科程度の知識は確実に身に付くと思うのよ」

「はあ、すごいですね。ドラえもん」

「そうよ、すごいのよ。あれほどわかりやすくて面白い、自然科学と科学技術、ついでに道徳について学べる教材なんて、世界中探したって存在しないわよ」

 熱が入るアゲハさん。

「推しますね、ドラえもん」

「だって日本の科学技術の発展には確実に貢献してるでしょう? タイムパラドックスとか四次元といった本来はとても難しい概念を、日本人が身近なものとして直感的に理解できるのは、ドラえもんのおかげなのよ!」

 くっと、グラスに残っていたレッドアイを飲み干すアゲハさん。

 ゼルさんにお代わりを注文して。

 ……すうっと、真顔に戻る。

 どうやら変なスイッチが入ってしまったことを自覚したらしい。

 むう、どんどん熱くなっていくアゲハさんも見てみたかったのに……。

「――まあ、ドラちゃんの話は置いておくとして」

 なんか可愛らしい呼び方をするアゲハさん。

 それと相反するかのように、深く、真剣な眼差しをわたしに向ける。

「のび太の日本誕生に翻訳コンニャクのおミソ味が登場したのだけど――」

「置いてない、ぜんぜん置いてないです」

 またしても小さなボケを挟んでくるアゲハさん。

 って、しまった、つい……突っ込んじゃったじゃないかっ。

 このまま放っておけば、ドラちゃんについて熱弁する20歳女子大生再び、その美しくて面白い姿を拝むことが……と、まあ。

 そこは流石に計算されているというか、突っ込みを意識して生きる自称残念美人。

 今度こそ真面目に話の続きを始めた。


「そうね、例えば、地球が太陽の周りを回っていること――」


 そこまで言って、ちらりとわたしに目を向ける。

「ち、地動説ですよねっ!」

 とっさにそう言って、もちろん知ってますよ! という風に、うんうんと何度もうなずくわたし。

 そりゃ、ま、さっきから話にあがってる先輩という人は、当然、わたしと同じ大学に通う、わたしと同じレベルのひとなのである。上方面にイレギュラーな存在であるアゲハさんが、その辺を気にしてしまうのは、しゃーないこと。 

「そう、地動説」

 わたしに気をつかってくれてるのだろう。

 アゲハさんは、どっちにも寄らないフラットな感じで、話を続ける。

「最近――いえ、話によれば定期的に話題になっていることらしいのだけど」

 淡い色をした唇を、人差し指ですっとなぞりながら。

「小学生のね、かなりの割合の子が天動説、つまり、地球の周りを太陽が回っていると、そう思っているという調査結果が報告されているの。4割程度だったかしら」

「え?」

 ちょっとびっくりする。

 4割というと……だいたい2人に1人くらいだし……

「それはなんか多い気が……」

「まあ、この手の話は設問文の書き方によって、結果がだいぶ変わってしまうから。その割合を鵜呑みにしない方が良いと思うのだけど」

「はあ、そういうもんですか」

「それにね。惑星や恒星、自転や公転といった天体に関する知識は、本来、中学校で学ぶ内容なのよ。だから地動説も天動説も小学校では習わない」

「あれ? そうでしたっけ?」

「文部科学省の学習指導要領ではそうなっているそうよ。私も気になって実家に戻ったときに調べてみたら、小学6年の理科の教科書と参考書では少し触れられてはいたけれど、確かに詳しくは説明されていなかったの」

「ふうん……けど」

「にゃん子さんは、もっと小さい頃から知っていた?」

「え? ああ、まあ、そうですねえ」


 なんか本当に小さい頃。

 よく晴れた日、家の近くにあるだだっ広い公園で。

 この星はお日様の周りを回ってるんだぞー、って。

 お母さんとふたり水色の空を見上げながら、そんな話を聞いたのを覚えている。


「そういうのって、普通じゃないのかなあ……」

「え?」

「アゲハさん、お母さんから何か教わったことって覚えてたりします?」

 思わずそんなことを訊いてしまっていた。

「教わったこと……? そうねえ」

 ちょっと考えるような素振りを見せてから。

「高校生のとき、ある積分公式の意味を母に尋ねたら、なぜか歴史を教わる羽目になったのは覚えているわね。17世紀のニュートンから始まり300年近く発展を続けてきた微積分の歴史を、一晩かけて、延々と。まあ面白かったからいいけど」

「……それ、絶対普通じゃないでしょうっ!」

 思わず声を張り上げてしまうわたし。

 うう……マイマザー。

 わたし、お母さんのこと好きだし、感謝してるけど。

 こりゃレベルが違いすぎるぜ……

 つーか、積分って、わたし高校1年のときしか数学やってないからぜんぜん知らないけど、リンゴ落としたニュートンさんが関係してるのかあ……300年の歴史を一晩で語れるって、すごいお母さんだなあ……

「って……まあ、うちはうち、よそはよそ、で良いんですけど」

 切り替えるわたし。

 そんなん、うちのお母さんだったら一晩もかからず、ひとこと「知らないっ!」って、一瞬のうちに語り終えられるんだから、うちのお母さんの方がすごいのだ。

「すいません、地動説の話ですよね」

「……ええ」

 なんか目を丸くしているアゲハさん。

 わたしが一人で勝手に盛り上がったり落ち着いたりで驚かせてしまったっぽい。

 んで、ちょうどゼルさんがドリンクのおかわりを持ってきてくれた。

 わたしたちは何の気なしに、ちぃん、と乾杯して、それぞれ少しだけ口にする。

 なんかいつの間にか、勉強ちっくな話になってるけど、それでもこのひととのお喋りは楽しい。というか、こんな感じの話、しいちゃんとも誰ともしたことないし、背伸びしてるわけじゃなくて、ふつうに面白いというか興味深い。地動説とか天動説とか、そんな言葉を口にしたのは、生まれてこのかた、一度もないぜっ!

 

「ということで、地動説。いえ別に大した話ではないのだけど」


 アゲハさんは少し身を乗り出して、話の続きを始める。


「その言葉に対して、にゃん子さんがどういうイメージを思い浮かべるか、と、そんなことを知りたかっただけというか」

「またイメージですか」

「そう、連想ゲームみたいな感じで良いのだけど」

 ふむ……と、首を傾げるわたし。

 地球が動くから地動説。

 太陽の周りでぐるんぐるんと地球がぶん回されてるイメージはすぐに思い浮かぶ。

 でも、説、なんだよね。説。

 その説あるっ! とか、なんか言ってた覚えがある説。

 小林幸子最強説とか。

 けど、なんとなくわかるけど、意味を説明しろって言われたら難しいな、説。

 えっと……その説ある。それ、あり得る、あり得る?

 だから、決まってなくて、そうじゃないかも知れないって意味があるっぽい?

 地球は動いていないかも知れない。

 もしかしたら逆で、太陽が動いて地球の周りを回っているのかも知れない。

 けど。


「……それでも地球は回っている」


 ふと出てきたのは、そんな言葉。

 イメージでいえば、なんかおじいちゃんが裁判にかけられて。

 周りにいるみんなから、ぎゃーぎゃーと非難されてる映像。

 たぶん、昔、なんかのテレビで見たやつだと思う。


「まー、そのおじいちゃんの名前とか覚えてませんけど……」

「ガリレオ・ガリレイ」

「そうでしたっけ……」

 本気で覚えてないんだけど、アゲハさんが言うんだから間違いないだろう。

 こういうのが、ぱっと出てくるひとって、ホント頭がいいなと尊敬する。


「――けど、そう、そうなのよ、にゃん子さん」


 わたしの敬意をよそに、アゲハさんはなぜか嬉しそうな声をあげる。


「彼の名前は知らずとも、彼が言ったその言葉や、その裁判の話をなんとなくでも知っていれば、地動説が正しいと認識できるはずでしょう?」

「あ、たしかに」

 どんな映画でも小説でも、そんな風に非難されてるおじいちゃんが悪者だとか嘘つきだって展開は、なくはないと思うけど、あんまりないわけで。

 だから、感情的に。

 きっとおじいちゃんが間違ってなくて、周りの人たちが間違ってて。

 やっぱり地球は回ってるんだな、と、普通はそう思うわけだ。


「賢くなりたければ、決して説明を覚えるな。物語ストーリー再現リプレイできるようになれ。これもテストに出るわよ」


 アゲハさんが言った、その言葉に。


「…………」


 なんだか、ちょっと、ワクワクしたというか。

 生き方、と、そんな言葉すら思い浮かぶ。

 そういえば、アゲハさんと最初にあの屋上であったとき。

 このひとと仲良くなれば、大学のテスト対策の裏技を教えてくれるかもとか。

 そんなことを思ったわけだけど。

 なんか今、それ以上のことを教えてくれてるんじゃないかって、そう思う。

 あ、そいえば……こんな美人なら恋愛経験も豊富で、恋の相談に乗ってくれるかもとか思ったりもしたっけ……

 いやまあ……それはむしろ、こっちがどうにかしてあげたいくらいである……


 さておき、アゲハさんの言葉。

 テストに出るってのは、アゲハさんの冗談だとしても。

 ホント、きちんとノートにメモしておきたいくらいだ。

「えっと、今のって誰かが言った名言的なやつなんですか?」

 私が訊くと。

「名言かどうかは知らないけれど言ったのは、私の母よ」

 アゲハさんはそう答えた。

 ……って、またでたぞ、アゲハ母。

「一体、何者なんですか……アゲハさんのお母さんって……」

「何者と言われても、私の母親だけれど……」

 困り顔のアゲハさん。

「いや、何というか……天才なんですか?」

 もう率直に訊くわたし。

 つーか、馬鹿なわたしにゃ他の言葉が見当たらない。

「……さあ、どうかしらね」

 アゲハさんの目の色が明らかに変わる。

 否定は確実にしていない。

 身内だから素直に褒められないのか、わたしの言葉センスが悪かったのか。

 そりゃま、アンタの親は天才かなんて訊かれて、イエスとは答えられないか……

 じっと見つめるわたしに向かって、すうっと穏やかに微笑み返すアゲハさん。

 あ、やっぱ、お母さんのことを尊敬してるんだ、と、納得するわたし。

 冗談めかしてさりげなく言った感じだったけれど。


 なるほど、実は――今の言葉が結論だったわけだ。


 さっきからわたしに色々と訊いてきた理由は――その言葉を誰かに聞いて欲しかったからなんだろうと、そう思う。

 なーんか、最初にアゲハさんのお母さんの話題が出たときは、ゲームの趣味を娘に押しつける変なひとかと思っちゃったりしたけど、そういうのも含めてすごいひとなんだろうなあ……

 と、改めて正面に座る美人を見つめる。

 つーか……ああ、でも、そういう二面性があるっていう意味じゃあ……

 ぷっ、と。

 何だかふき出して、つい、くすくすと笑ってしまうわたし。

 そんなわたしの姿を見て、アゲハさんは不思議そうに首を傾げる。

 やがて。


「にゃん子さんにこの話をして、本当によかったわ」


 そう言って、にこっと笑った。

 急に……なんだか恥ずかしくなって、ぶわっと頭全体が熱くなる。

「わたし……別に、なにも……」

 言葉に困るというか。

「地動説にしても、ボールの話にしても……誰でも知ってることですし……」

 そう、さっきの先輩が例外なだけで、普通のはなし。

 別に話し相手がわたしである意味なんか、ぜんぜんないっていう……

「いいえ」

 アゲハさんはまた真面目な顔に戻ると。

「ある調査によれば、アメリカ人の4人に1人が、地球が太陽の周りを回っていることを知らない、つまり地動説を理解していないという結果が出ているそうよ」

「え」

 また驚くわたし。

「まあ宗教観の違いもあるし、やはり調査方法の問題もあるから、何とも言えないところはあるけれど」

「はあ……」

 なんなんだろう、この気持ち。

「わたしの中の普通が、普通じゃなくなっていく感じですよ……」

「けれど、にゃん子さん」

 じっと、わたしの目を見て。

「開発途上国などで、きちんと教育を受けていない子供たちは、地球が丸いということすら知らない可能性があるのよ?」

「……あ」

 そりゃそうだ。

 例えば山奥の小さな集落で生まれて、外に出ることもなく。

 みんなで狩りをして過ごして、家族を作って、子供を育てて。

 地球が丸いどころか、世界の広さも知らない。

 自分が生まれた土地がすべてだと思って……死んでいく。

 どこかの小説とかでありそうな話だけど。

 よく考えれば、わたしたちだって似たようなもので。

 地球が丸かろうが、太陽の周りを回ってようがいまいが。

 別になんの関係もない。

 将来、わたしがちゃんと社会人になれたとして。

 頑張って忙しく仕事をしている自分が。

 地球の内側にいるのか、外側にいるのか。

 そんなん、きっとどうだって良いことだろう。

 もちろんそれはアゲハさんだって同じで。

 良い会社に就職できることが決まっているなら。

 別に勉強なんてしなくたって……


 ぐるんぐるんと頭の中が回っている。

 やっぱりちょっと飲みすぎたかな、と。

 それでも、なんか、今までアゲハさんと話してきたことが。

 無意味になっちゃうような感覚が。

 すごいイヤで。

 ふわふわと、考えて、私の口から出てきたのが。


「……ものを知るって、なんなんですかね」


 そんな言葉だった。


「さあ、なんなのかしらね」


 アゲハさんは、ふふっと、目を細めて。

「今の話からその疑問が思い浮かぶあたり……やっぱり、にゃん子さんと私、ものの考え方がよく似ている気がするわ」

「え」

 なんかさらっと、とんでもないことを言われた気がする。

「さっき言ったでしょう、あなたにこの話をして本当に良かったって。それはね」

 右手の人差し指を立てて、楽しそうにくるくると回しながら。

「気の合う仲間と出会えてよかった、と、そういうことなのよ?」

「は?」

 唖然とするわたし。

「ど、どういう意味で……?」

 混乱して、本当によくわからなくて、顔の全部が熱くなる。

「わからない?」

 つん、と、わたしのおでこをつついて。


「似た者同士」


 そう言った。


「……えー」

 背中が、むず痒い。

 それをどう解釈したらいいのか……

 ぜんぜん、どうにも、わかんない。

 こんなすごいひとからもらった言葉。もちろん嬉しいに決まってる。

 けど……


「わたし、バカですよ……?」

 

 アゲハさんにしろ、それに眼鏡先生にしろ、どうもその事実を忘れて、わたしのことを過剰評価してくれるというか……

 バカのことを、バカにしているような……

 もちろん、ふたりとも、他人をバカにするようなひとじゃないとはわかってる。

 だからこそ、どうにも……気持ちが揺れて、ちょっと嫌な感じになる。


「そんなことはないでしょう?」

 

 アゲハさんは困ったような感じで、わたしの顔を見る。

 

「勉強、できないし……」


 自分を卑下するのは良くないとわかってる。

 こんな場で、アゲハさんに嫌な思いをさせてしまうのもイヤだけど。

 それは事実で。


「……ふむ」


 流石にそれを否定できないのか、アゲハさんはちょっと身を引いて。

「――では、にゃん子さん、またひとつ訊きたいのだけど」

 とても穏やかな表情で言った。


「あなたが思う、頭の良い人って、どういう人かしら?」


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