14. にゃん子と解決編②


「そう、正解」

 

 アゲハさんはわたしの顔を見て、ふふ、と穏やかに目を細めた。

 木陰のベンチ、人通りの少ないキャンパスの一角。

 淡い日差しにゆったりと照らされるわたしたち。


「点と丸、日本語の文章における区切り符号。つまり句読点、ね」


 その言葉を聞きながら、わたしはスマホを取り出してささっと操作する。

 そしてあのメールを表示させると、改めてじっと眺めた。


「このメールでは『てん』が、えっと……『カンマ』になってるんですよね」

「そうね」

 アゲハさんは小さく頷く。

「横書きの文章においては、読点としてカンマを用いよ――国や地方自治体が作成する公文書においてはそう定められているの。戦後すぐ当時の文部省が定めた基準がそのまま使われているらしいのだけど」

「……へえ」

 すらすらと出てくる話に、よく知ってるなあと感心していると。

 アゲハさんは、ベンチに置いていたきつね色のお洒落なトートバックから、一冊の本を取り出した。分厚いハードカバーのやつで、小説じゃなくてなんか専門的な本。

 それをさっと適当な感じで広げると、わたしの方にページを向ける。

 覗き込むわたし。

 ……うん、なんか難しい漢字が並んでて、ぜんぜん中身わかんないけど。

「あ、カンマですね、これも」

 その横書きの文章に散りばめられている「てん」をよく見れば。

 

 ,

 

 こんな感じで。

 メールの中の「てん」と同じように、確かにくいっと尻尾を伸ばしていた。


「そう。公文書だけでなく」

 改めて確認するかのように、本に目を戻しながらアゲハさんは言う。

「――このような専門書や、それに学術的な論文も、その基準に従っているものが多いのよ」

「らしいですね。わたしもネットで調べたんです。アゲハさんに言われて気づいて、あれ? って思ったので」

 んで、出てきたのは「論文を書くときは『てん』としてカンマを使え」とか、そんな感じのことが書かれたどっかのホームページ。

「けど確か、『まる』には『ピリオド』を使えなんてことも書かれてて……」

 ピリオドの向こうへでおなじみ、英語の「てん」のことだ。

 おなじみか?

「そうね。自然科学系の研究分野だと、そういうルールもあるらしいわ」

 アゲハさんは淡々と返す。

「しぜんかがく?」

「いわゆる理系、ね」

「りけい」

「そう、この大学は社会科学系。この分野では『カンマ』『丸』の組み合わせ。理系は『カンマ』『ピリオド』の組み合わせが一般的なの」

「へえ……なぜなんですか」

「さあ」

 とぼけた感じで手をあげるアゲハさん。

「私もウェブで調べてみたり……ええと、人に訊いてみたりしたけれど、ちゃんとした理由はわからなかった。昔からの慣例ということらしいけれど」

「ふーん……」

「気になるから、きちんと調べてみようとは思っているのだけど」

 アゲハさんはどことなく悔しそうな口調でそんなことを言う。

 わからない、ということがイヤなんだろうか。まあ、わたしも気にならないことはないけども……

「まあ、理由はさておいて」

 アゲハさんは今まで通りのクールな感じで。

「普段からパソコンを使って論文を執筆している人は、いちいち変換しなくて済むように、句読点の入力設定を変更しているはず。だから、そのメールの送り主は……」

 そこで言葉を止めて。

「にゃん子さんは、どこまで絞り込めたの?」

「え?」

 急に質問をなげかける。

「どこまで、と言うと……?」

「ひょっとしてだけど、論文を書くのは大学の先生だけだと、そう思っていない?」

「え、違うんですか?」

「違うわよ」

 言って、優しい顔をわたしに向ける。

「四年生になったら卒業論文を書く必要がある。そう教わらなかったかしら」

「あ、そーいえば」

 プレゼミのとき、眼鏡先生がそんなことを言ってた気もする。

「卒業論文に限らないけれど、学生も学術的な文章を書く機会はある。だから……そう、私はそれも考慮に入れていた」

「……なるほど、結果的にわたしの方が絞り込めてたわけですね」

 つまり、わたしは「大学の先生」だけ。

 アゲハさんは、プラス「論文を書くような学生たち」。

 絞り込めていたとはそういう意味。

 それに。

「わかりやすい誤字がありましたからねえ……」

 ジシンがない、ってヤツ。

 あれのせいでわたしも、子供っぽい相手を想像してしまったわけで。

「そうね。けど……」

 アゲハさんはわずかに目をふせて。

「ひどく感情的になってしまって、誤字に気が付かないことだって十分にあり得る。それに……まさか、その相手が……」

 なんとも複雑な、気まずそうな顔を浮かべる。

 まあ、わたしだって気まずいというか、どう反応したらいいのやら……


 さっきの授業中、わたしが見てしまったもの。

 それは、熱い視線とでもいうのか。

 今考えれば、間違いなく――恋する者を見つめる目。

 

 そりゃまあ、言っちゃ悪いけど。

 あんな、おじいちゃんが……と、やっぱり思うわけで。

 

 悪魔、と。


 つい、そう表現してしまったのも理解できる。

 アゲハさんには悪いけど、月並みに言えば、魔性の女。

 綺麗すぎるのも罪なのだと、そんな感じで。

 自分はひとり、真面目に、誠実に、学問に没頭してきた。

 そんな自分を……地の下に落としてしまうほどに。

 惑わせて、狂わせてしまった存在なのだ、と。


 わたしがメールに感じた恐ろしさは、たぶんそういうとこから来てるんだと思う。

 

 ……だからこそ、気が付けた。


 わたしの名前こそ書いてあるけれど。

 それでも、ひょっとして、このメールの相手は。

 わたしじゃないんじゃないかって。

 だって、わたしなんかが相手でそこまで感情的に……

 それに……


「純粋、には見えないんですよ、わたしは」

「え?」

 ふとこちらを見た、そのきれいで整った顔に。

「いえ、なんでもないです」

 ちょっと嫉妬してしまった自分に反省する。

 いや、けど、うーん……これって実際、嫉妬なのかなあ……

 また気まずくなって、わたしは襟首のあたりで髪をくるくると指に巻く。

 子供は純粋だ、なんて言い方はよく聞くけども。

 いくらわたしがガキっぽいとはいえ、こんな風に髪を染めている女子に対して、しかも曲がりなりにも女子大生ってわかってるんだから、純粋なんて表現は、やっぱり感覚としてオカシイ。

 しいちゃんとかアゲハさんみたいな黒髪なら、わかんなくもないけど。

 そのアゲハさんは、わたしたちから見たら、キレー系というか、むしろ凛々しいと感じすらある。


 でも。

 ずっと長い時間を生きている人からみたら、それはきっと……


「――授業のあと、先生と話していたあなたが私に話を振ったとき……その可能性には気がついた」

 アゲハさんは、ぽつりと呟くように。

「本当なら、先生の……心の内だけで、勘違いに気づいてくれるだけでよかった。私が名前を名乗るだけで解決した話だった。それなのに……」

 アゲハさんは目を閉じて、口を強く結ぶ。

 結果として、あのおじいちゃん先生に深々と頭を下げさせてしまった。

 それも……たくさんの学生たちが見ている前で。

 そのことを、酷く、後悔しているのだろう。


 それでも青くて透明で、きれいなきれいな空の下。

 アゲハさんは、深く。

 深く、息を吐いてから。


「――これくらいにしておきましょう」


 すっと、座ったまま姿勢を正すと。


「にゃん子さん、忘れてあげて」

 まっすぐにわたしの目を見て、そう告げた。

「はい」

 わたしは返事をすると、さっとスマホを操作して。


 メールを、消した。


 うん、忘れよう。

 あの先生のためにも、それが一番……


 ……なのか?

 

 んー、と、考える。


 猫に蹴られて死んじまえ。


 不意にそんな言葉を思い出す。

 いやまあ、流石にそれが猫じゃなくて、馬だってのは知ってる。

 ネコキックされて死ぬなら、わたしはもう百万回は死んでいる。

 けど、あれ……? その、蹴られる相手は誰だっけ……?


「アゲハさん、ひとつお願いが」


 気がついたら、口をついて。


「あの先生と、もう少しだけでも……お話ししてあげてくれませんか」


 そんなことを言っていたわたし。

「……え?」

 きょとんと。

 呆然とした感じで、こちらを見るアゲハさんに。

 わたしは、どきんどきんと緊張気味に、思わず唾を呑み込んで。


「さっきのアゲハさんと先生の話、難しくてよくわかんなかったです……けど」

 

 おじいちゃん先生は、とても楽しそうだった。

 そもそもアゲハさんだって、あの難しい授業を。

 とてもとても楽しそうに、聴いていて。


 だから……先生だって、どんどん深く、深く。

 わたしみたいなバカには、ぜんぜんわからなくなるほどに。

 それにアゲハさんだって、あんな場面で、質問をしてしまったのは。

 自分はモグリだってバレないように、今まで訊けなかったことを、つい。


「恋とか愛とか、どうでも良いと思うんです」


 そもそも、勘違いなんじゃないかって。


「仲良くできるなら、仲良くした方が良いに決まってるじゃないですかっ!」


 それができるなら、みんなが……幸せに……


 目の前の綺麗な女性は、なんだかうるんで見えて。

 けど、じっと純粋で誠実な眼差しで、わたしを見据えながら。


「……あなたも、そう思うのね」


 ぽつりと小さな声で、そう言うと。


「ありがとう、にゃん子さん」


 手にしていた本を、バッグにしまい込みながら。


「まだ……講師控え室に、いらっしゃるかしら……」


 と、ベンチから立ち上がって、駆けだそうとする間際。


「あ! で、で、でもっ! 待ってくださいっ!」


 ばっと同じく立ち上がって、慌てて引きとめるわたし。

 自分で振っといてなんだけど――このまま行ってしまったら。

 今日は、もう、会えなくなってしまう。

 わたしの必死な声で、振り返った女性に向かって。

「あ、あ、あ……あの」

 ささっと、カバンから例の包みを取り出して。

 それを両手で差し出しながら、わたしは声を張り上げた。



「――お誕生日っ! おめでとうございますっ!」


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