13. にゃん子と解決編①
広いキャンパス内、人通りの少ない屋外の一角。
遠くから噴水の音も聞こえる。
白いベンチに腰をかけて、木漏れ日を浴びながら。
「あの先生、研究者として本当にすばらしい方なのよ――」
アゲハさんは悔いるように息を吐いた。
隣に座るわたしは、何も返すことができず。
水色の空を向こうに、ただじっとアゲハさんの横顔を見つめていた。
今は4限の時間。しいちゃんは授業があるからと、色々気にしながらも、わたしたちと別れて教室に向かって。
そして先生は――あの後、何も言わず、ひとり立ち去ってしまった。
わたしも、それにアゲハさんだって。
その悲哀に満ちた老いた背中に、声なんてかけられるはずもなく。
そう、誰が悪いと言ったら……みんな悪いのだ。
欠席してたクセに代返を頼んでいた、わたし。
登録していない授業に潜りこんでいた、アゲハさん。
そして――
「経済学だけでなく社会科学の広い分野、それに理学にも造形が深くて……あちこちの論文誌に投稿されている論文はどれも興味深い内容で……だから私は……」
そこで言葉を濁す。
3限の授業、経済思想史。それはわたしが所属してる学部の授業。
なんか例外はあるっぽいけど、普通、他の学部の人は受けられないわけで。
それでも、あの先生の授業を受けたかったアゲハさんは……
名は
ついの戯言はさておき、正直、わたしにはそこまでする熱意とかぜんぜんわかんないし、あのおじいちゃん先生がどれくらいスゴイひとなのか、話を聞いてもぜんぜんピンとこない。
けど、ずっとダンマリでも気まずいので。
「そういえば……あの先生、色々な大学で授業してるって言ってましたね。やっぱりスゴイんですね」
などと、なんとなくで発言するわたし。
するとアゲハさんはわたしを見て、少し困ったように眉をひそめながら。
「……あの先生は、この大学でも非常勤講師よ?」
そう言った。
「ヒジョーキンコーシ?」
「ええ、この大学に勤めているわけではなく、授業1コマごとに契約している先生、とでも言うのかしら」
「あ、そっか、常勤じゃない……
「そうとも言えるわね。もちろん誰でもできる仕事ではないけれど」
「ふうん……」
初めて知った。
いや、普通の大学生にとっては常識なのかも知れないけど、少なくともわたしは誰からも教わってないし? そいえば入学してからしばらくは、大学の事務の人も先生だと思ってたくらいで、先生って呼んだら笑われちゃったりしたし……
つい恥ずかしいことを思い出して、むず痒くなるわたし。
「じゃあ、えっと……あの先生、他の大学でもやっぱり非常勤なんですかね」
やっぱり、なんとなくでそう訊くと。
「そうね……」
再び困り顔を見せるアゲハさん。
「常勤として勤めながら他大学で非常勤講師をされている先生もいらっしゃるし、あと定年退職後に非常勤講師として残られる先生もいらっしゃるけれど……あの先生は、ええと、そういうことではないそうなの」
明らかに言葉を選ぶようにして。
「けれど論文はずっと積極的に執筆されていて……まさに研究一筋、そういう方よ」
そう続けた。
わたしは――ふと思い出す。
大学に来て、ただ授業を受けて、そのまま帰っていく。
ついさっきの昼休み、わたしは自分自身のそんな生活に少し引け目みたいなのを感じてしまったわけだけど。
あのおじいちゃん先生だって。
大学に来て、ただ授業をして、そのまま帰っていく。
その間に他の先生と交流はあったりするんだろうか。わたしたちのような学生と……なにかお喋りをしたりする機会はあるんだろうか……と。
なんか少し……変な気分になる。
「業績的には、どこかの教授ポストに就くのに十分だとは思うのだけど」
アゲハさんは座ったまま正面を向き、すうっと足を組む。
「先生はそれを望まなかった。詳しい理由はもちろんわからないけれど……大学に勤めるとなると、研究や教育以外に色々と仕事も増えるから、そういうことを避けたのかしら、ね」
「……学生の面倒をみる仕事とか?」
思わず返すわたし。
「そうね」
「わたしみたいな」
「……面倒をかけているの?」
「それなりに」
「それなり?」
「とっても、かも知れません」
「そ。ダメよ」
言って、穏やかな表情を見せるアゲハさん。
やっぱりお姉さんだなあと感じると同時に、なんか例の眼鏡先生がこの前言ってたことを思い出す。
僕らは教育者であると同時に、基本は根暗な研究者なんだから、高校の先生みたいな生徒指導なんてできやしないし、したくもない。だから皆は学生として一人できちんと真面目に誠実に生きてくれ、とかそんな感じのこと。
まあ何だかんだで、一人できちんと真面目にも誠実にも生きてないわたしに、眼鏡先生はちゃんとお説教してくれる(?)けど……
あのおじいちゃん先生は間違いなく人見知りで、そういうの苦手そうだし。
だからたぶん、あの先生は。
学に生きる者として、今まで真面目に、誠実に、それにずっと独りで――
そんなひとが、生まれて初めて、恋をした。
相手は自分の授業を受ける女子学生。
もちろん彼女は、それこそ孫といって良いほどの、年の離れた相手。
心の内を告白するわけにもいかない。
せめて名前を知りたくとも、どう声をかけて良いのかすらわからない。
けど、なんということはない。手元には名簿があるのだ。
でも――そこには顔写真なんて載ってない。
それなら出席を取ればいいと思い立つ。
しかし、受けている学生全員の名前を呼ぶには、数が多すぎるし。
長年、出席を取ってこなかったのに、急に取り始めるのは不自然で。
ならば、消去法で割り出せば良い。
幸い、女子の数は少なくて。
授業後に適当な理由をつけて呼び止めて名前を尋ねたりとか。
しいちゃんのように質問をしにきた相手から、訊きだしたりもできただろう。
それでなんとか、ターゲット以外の女子の名前を知ることができたなら、あとは、あの出席管理システムを使って確認すれば良いだけのこと。
……まあ、随分と回りくどい気はするけど、気持ちはわかんなくもない。
それはきっと……とにかく、恥ずかしかったのだろう。
良い歳をして、恋だの愛だの、なんてことが。
わたしだって、つい最近、大学生にもなって思春期みたいな恋を期待するなんてバカみたいだとか、そんなことを思ったわけで。
その何倍だって話だ。
もちろんそんな気持ちを他人に気づかれるなんてことは避けたいし。
特に……想い人に知られるなんてのは、なおさらで。
さらに言えば、たぶん自分自身が、そんな感情を持っていることを否定したかったのかも知れない。
自分はあの女子学生に特別な感情なんて持ってないのだ。
自分は恋なんてしていないのだ、と。
そんな感じで自分に言い訳でもするかのように。
ははは、と、自嘲しながら、他の女子学生の名前を調べたり。
名簿とにらめっこしたり。
けれど、その結果、なんとかその想い人の名前と――それに。
彼女の学籍番号を知ったときに、気が付いた。
この大学では学籍番号がメールアドレスになっている。
だから自分は――
彼女に立場を知られずに、連絡できる手段を手にいれたのだと。
それで、つい、それこそ年甲斐もなく、熱くなってしまって。
勢いで、ろくに見直しもせず、メールを出して。
だからなんかやたら短かったり、誤字があったり。
そして、ずっと返事がないことに……焦って、気落ちして……
頭が良いはずのひとが、子供のように感情的に。
それが悪いことかどうかなんてのは、誰にもわからないだろう。
けど、あの先生のミスは……
あの出席管理システムで「出席」となっている女子たち。
ひとりを除いて、顔と名前を一致させることができた。
だから、ひとりだけ出席管理システムに残された、その名前は――
彼女のものなのだ、と、勘違いしてしまったこと。
いや、つーか誰だって、普通はそう考える。
当たり前だ。
だからやっぱり……悪いのは、わたしたちなのだ。
教室にいるその彼女が実はモグリで、そもそも名簿に名前が載ってなくて。
最後に残された名前を持つ女子は、実は授業をサボっているにもかかわらず、不正により「出席」したことになっている。
そんな偶然が重なってしまうなんてこと……気が付くわけはないのだ。
「……いないはずのひとがいて、いるはずのヤツがいなかった、か」
木々の隙間から覗く晴天の空に向かって、思わずそんなことを呟いていた。
そっか、高校のとき、先生がわたしたちの名前を読み上げて出席を取ってたのは、顔と名前を一致させるためだったんだなあ、と、そんな当たり前のことに改めて気がつく。
はあ、と、何とも言えない気分になり、全身の力が抜ける。
隣に座るアゲハさんも同じような気持ちなのだろう。
わたしと同じように、ぼんやりと水色の空を見上げながら。
「――屋上にいるという探偵は、あなた自身だったのかも知れないわね」
ぽつりと、そんなことを言った。
「え? あ、いえいえ、そんなバカな」
とっさにそんな返事をしてしまうわたし。
それはもちろん、犯人……ではなくて、メールの差出人をちゃんと特定したのはわたしだから、という意味なんだろうけども。
「アゲハさんがヒントを教えてくれなかったら、とてもじゃないけど、わからなかったですよ……」
当然のことを返す。
あ、つーか、ひょっとして、アゲハさん……探偵に憧れてたとか言ってたし、え、まさか……わたしが答えを見つけちゃったから、不満なんじゃ……
などと。
そんなんがわたしの勝手な思い過ごしもいいところだと、すぐに理解できたのは、アゲハさんがわたしに、優しそうな顔を向けたからだった。
「やっぱり、あのヒントの意味はわかってくれたのね」
わずかに目を細め、納得するかのように頷くアゲハさん。
「そりゃまあ……けど、言われなきゃわからないですよ、あんな細かいこと」
わたしは小さく息を吐く。
そう。じっと見りゃ、まあ気がつく。
けど、あんな風に言われなければ、たぶんわからない。
少なくとも、わたしは絶対に気づかなかった。
「――アゲハさんが教えてくれた通り、あのメールには不自然な点があった」
わたしは自分の口元に人差し指を当てて、んー、と低く唸ってみる。
そして、こほん、と、わざとらしく咳をして、間をとってから。
「てんとまる、ですよね?」
そう告げた。
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