12. にゃん子と悪魔④ 月曜3限
「……え?」「……は?」
わたしの突然のフリに、アゲハさんと先生が同時に声をあげた。
足を止め、驚いた顔でわたしのことを見つめるアゲハさん。
「一体どういうこと? にゃん子さ――」
そこで、はっと、何かに気づいたような表情を浮かべ――わたしと先生の顔を交互に眺めた。
アゲハさんの後ろには、置きっぱなしだったわたしのカバンを持ってきてくれた、しいちゃんが、不思議そうな顔でこちらを見ている。
「ええと……」
しばらく困惑した顔を見せていたアゲハさん。
やがて――わたしの目を見て、小さくうなずいたあと、すっと歩を進め。
何かを決意したかのように、先生の方を向いて、話を始めた。
「
「……ほ」
先生が、しゃっくりでもしたかのような声をあげたかと思うと。
「ほ、ほほうっ!」
その瞳が、子供のように輝いた。
正直わたしには、アゲハさんが何を言っているのかさっぱりだったけど、もちろん、先生の授業を褒めたことくらいはわかる。
けれど、先生の表情は、褒められたことが嬉しいというよりも、よくぞ言ってくれたと、目の前の女子学生を賞賛するような感じだった。
「そうかそうか、私も長年、あちこちの大学で教鞭を取っているが、この講義の本質を見抜き、そこまで端的に要約できた学生は今までいなかった。なるほど、君のような子がいるのであれば、この大学も捨てたものではないな」
明らかにうわずった声。歓喜を隠しきれない表情。
対してアゲハさんは。
「けれど、先生……ええと、質問というのは……」
再び困惑したような感じで――けれどすぐに。
覚悟を決めたといった風に、凛々しい目つきを向けながら、はっきりと。
「講義内で先生が示された、どの数理モデルにおいても、不確実性を陽に表現していないのは、何故ですか?」
何やら難しい言葉を口にした。
「……なんだって?」
先生の表情が険しいものに変化する。
「――極端な例として」
アゲハさんは続ける。
「予期しなかった事故、世界的な犯罪行為、巨大な自然災害、そういった不確実な現象が社会に影響を与えるのは明らかです。ですから――」
「はは、君、それは無理というものだ」
話をさえぎるように、先生は呆れた感じで笑う。
「そんなことまで馬鹿丁寧に考慮しては、理論になりえない。まさに神のみぞ知るといったことだろう? だからこそのリスクヘッジ――」
そこで言葉を止める。
そして、何かを見抜いたかのように、アゲハさんの顔を見つめた。
「……ひょっとして君は、我々には、わからないことがあることを理解しろと、黒い白鳥に立ち向かえと、そう言っているのか?」
何だか哲学的な言葉を投げかける。
アゲハさんは肯定を示すかのように、深い眼差しで先生を見つめた後。
「私たちは、それが宇宙に華麗な花火を散らす隕石だということを知らないのです――いつかは衝突する運命だということを」
応じるかのように、やはり哲学的な言葉を返した。
しんと、人が減った教室内、静寂に飲まれるような感覚に襲われる。
「……なるほど。無知ゆえの愚問ではなく、理解した上での
先生は淡々とした声で。
「つまり君が言いたいのは、社会における不確実性、すなわち我々には決して予測できない事象が存在する以上、いくら立派な理論を並べ立てても、それらは現実とは
「違います」
アゲハさんは急に強い口調で。
「意味のない学問なんて存在しない。どこかで歩みを止めてしまえば、積み重ねられてきた
熱を振り払うかもように、ふうと息を吐いてから。
「確かに、社会は自然と同じほどに混沌としていて、そのすべてを知ることは、人間にとって困難なことなのかも知れません。しかし――」
わずかに悲哀の色を浮かべながら、続ける。
「だからと言って、それらをカオスだと切って捨ててしまうのは、それが数学の――いえ、人間の頭脳の限界だと暗に認めてしまったからなのですか? 研究者たちはその先にある真の目的を実現することを、放棄してしまったのですか?」
「……真の目的?」
戸惑う先生に向かって、アゲハさんはよく通る、それでも優しい声で言った。
「すべての人が幸せに生きられるような、社会的意思決定の方法を作りあげること」
とくんと
胸が高鳴るのを感じた
「なるほど、そうきたか……」
午後の陽光が射し込む教室。
教壇の前、先生の顔付きが明らかに変わっていた。
アゲハさんの後ろでしいちゃんは、初めて大海を見たカエルの如く、ぽかんと口を開けている。わたしも同じような顔をしているのは間違いない。
アゲハさんと先生の会話は、難しくて、よくわからなくて、なんだか現実っぽくなくて、まるで映画の台詞回しを聞いているような感じだったけど――最後の、アゲハさんの言葉だけは、はっきりと理解できた。
すべての人間が幸せに生きられる方法を作るという、そんな話。
そんなものは無理に決まってる。子供だってわかることだ。
頭が良いはずのこのひとは、一体、何を言ってるんだと。
わたしはアゲハさんを疑うような、そんな感情すら覚える。
――小さいとき、ひとり、お腹を空かせていた頃を、思い出す。
どうして偉い人は、わたしたちを助けてくれないんだろう。
他の子たちが、少しずつ、不幸にならないくらいに。
お金を、分けてくれれば良いのに。
そうしたら、みんな、幸せになれるのに。
頭の良い人たちは……どうして、そんなことも考えられないんだろう、と。
そう。そんなのは、まさに子供の考えだ。
でも、けど……
「はは……はっ……」
先生が天を仰ぐように上を見上げ、乾いた笑い声をあげた。
「あ……」
アゲハさんが慌てて自分の口元に手を当てるような仕草をする。
「す、すいません、先生……私……」
つい熱くなって、口が過ぎてしまったという風に。
「いや、問題ない。素晴らしい学生だよ、君は――だからこそ、誠実に答えよう」
先生はアゲハさんの顔をじっと見つめながら、熱を込めた声で、告げる。
「ノーだ。我々は決して諦めてなどない。だいぶ長い間、忘れてしまってはいたが、な」
数刻の静寂。
「――わかりました、ありがとうございます」
アゲハさんは安堵したような表情を浮かべながら、丁寧に頭を下げた。
「が、しかし」
先生は続ける。
「教育者として、ひとつ、言わせてもらおう。我々は既に積み上げてきた。これから努力するのは――君たちだ、と」
その言葉はなにか、わたしの心にも響いた気がした。
アゲハさんは顔を上げ、先生のことをじっと見つめると。
「はい、わかりました。精進します」
そう言って、やさしく、微笑んだ。
「……!」
急に先生が、驚いたように身体を引く。
じっと目を見開き、わずかに顔を逸らしてから。
「――なるほど、君は、悪魔か何かかね」
「「え?」」
アゲハさんも、ついでにわたしも、思わず声をあげていた。
「ああ、いや……」
先生は、ふふ、と、アゲハさんの顔を見て、照れたように笑いながら。
「君はさっき、古いSF作品から言葉を引用しただろう? そこから、つい連想してしまってね――ほら、やはりSFで、超科学を用いて人類を平和に導いた宇宙人を、悪魔の姿で描いた作品があるだろう。知っているかい?」
「ええ、存じております」
「そうか、多識で、結構結構」
感心するように、わざとらしくうなずく先生。
けど、それならわたしも知ってる。
幼年期の終わり、だっけ? 作者名は忘れちゃったけど、と。
わたしが足りない頭から知識を呼び戻してる間にも、先生は話を続ける。
「この世のすべてを知り、すべての人間を幸福に導く。それが夢物語であることは否定しない。しかし、ひょっとして君なら……実現できるのかも知れないと、思わず、その、ファンタジーな作品世界と結び付けて……想像してしまったんだよ」
「なるほど、それで私が、悪魔、ですか……」
アゲハさんはそう返すも、納得してなさげというか、戸惑っているというか。
なんか無理くりな説明だよなあ、と、わたしだって思う。
途中から口調が弱々しくなってたし。
だから、たぶん。
それは言い訳であって。
先生がつい、悪魔だとか、そんなことを口走ってしまったのは。
きっと、さっきわたしが授業中に思ったのと同じで……
「いや、失敬……比喩的な表現だったとしても、失礼だった」
おじいちゃん先生の全身が、ぴしりと、緊張気味に
その顔に浮かぶ無数のしわが、なんだかうっすらと消えて、心なしか若さを取り戻したかのような。
「君のような純粋な子に、悪魔などと――いや、しかし……君のように学問に通じた学生は、近頃では、本当に珍しい。きっと他の授業は、君にとって退屈なものではないのかね?」
小さく、震えたように、息を吐きだした後。
「どうだろう、時間があれば、授業時間外ではあるが、その、私と、学問に……いや、この大学で学ぶだけでは、決して得られないような、その少し、深い話をしようじゃないか。ええと、君は、1年生だろう? 名前は確か――」
そこで不意に
アゲハさんの表情が曇った。
「いいえ、私は2年生です。名前は――小鴉アゲハといいます」
「……え」
先生は目を丸くして、立ちすくむ。
そしてすぐに、ノートと一緒に持っていた出席管理の機械を手に取って、慌てた様子で操作をし始めた。
アゲハさんは、わずかに震えた声で。
「ごめんなさい、先生。私は――他学部の学生なんです。この授業は乗り入れ科目ではないので、私はどう頑張っても単位は取れません。それでも私は……先生の講義をお聴きしたかったんです。つまり……その、私は」
罪悪感と悲哀が込められた瞳を向けて、告げる。
「モグリなんです――履修者名簿に私の名前は載っていません」
「そんな、馬鹿な……」
そこでようやく終業のチャイムが鳴った。
次の授業を受けるらしい学生たちが、何人か教室に入ってくる。
静かな空間が破られて、お喋りの声が空気をみだし始め。
そんな中、うろたえた様子の先生は、わたしに目を向けると。
ハッとした表情を浮かべて。
「ひょっとして……君が、山田さんかい?」
怯えたような声でそう言った。
「……はい」
わたしは、つらい気持ちと……やはり罪悪感を覚えながら、小さくうなずいた。
「そうか……」
先生は再び天を仰ぎ、大きく息を吐く。
その表情は、今さっき、アゲハさんと話していたときのそれとは正反対で。
後悔と、悲壮感に満ちたものだった。
それは――急に年齢を重ねてしまったかのような、そんな錯覚を受けるほどに。
教室内には人が増え、騒がしくなってくる。
先生は私のことを、じっと見つめながら。
「――ただ謝らせて欲しい。すまなかった。山田猫子さん」
明確な声で、そう言うと、深く、深く頭を下げた。
わたしも、そしてアゲハさんも――何も、言うことができず。
ただ、その姿を。
見つめることしかできなかった。
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