10. にゃん子と悪魔② 月曜3限


 なんですか――? と。

 

 チャイムが終わるのを待ってから、そう聞き返そうとしたところで。

 アゲハさんは申し訳なさそうな顔をしながら、人差し指をその唇にあてた。

 視線の先には、ずんずんと教室に入ってきたおじいちゃん先生の姿。

 来るの早いな、おい。

 先生は、例の出席管理の機械を一番前に座っていた人に手渡すと、教壇に立つ。

 そして手にしたノートを開いて片手で持つと、挨拶をすることもなく淡々と授業を始めた。

 すっ――と。

 空気が急に冷えた気がして、慌ててアゲハさんの方に目を戻す。

 長くてきれいな黒髪が窓から差し込む陽光で輝き、その水晶のような瞳はただ前を見据えていて。

 つい今まで、わたしと話していたことなど忘れてしまったかのように、集中し、教室に響く先生の声に耳をそばだてていた。

 

 ――これは、絶対に邪魔しちゃいけない。


 わたしは思わず自分の口元に手を当てて、その呼吸音を止めようとする。

 いやいや、死ぬ、死ぬからね?

 流石にそこまでしないけど、まあそれくらい真剣かつ誠実に取り組んでいることがわかる様子だったわけで。

 わたしはすうすうと小さく呼吸しながらも、思わず背筋をシャキンとして、先生の方をじっと見つめた。

 真っ白な髪の毛が目立つ、いかにもおじいちゃんな先生。

 頭は良さそうだけど、それでいて、どことなく頼りなさそう。

 年齢は違うけどプレゼミの眼鏡先生もそんな感じで、どうもわたしの知る限り、大学の先生というのはそんな感じの人が多い気がする。

 んで、そのおじいちゃん先生は今、プリントも配らず、ずっと同じような調子で話を続けている。パソコンの画面を大きく映して授業を進める先生も多い中、昔ながらのスタイルとでも言うのだろうか?

 真面目な顔でそれを聴くアゲハさんとしいちゃんの真ん中、わたしなりに一生懸命、頑張って聴いてるつもりなんだけど……まったく頭に入ってこない。

 え、何言ってるの? 今の日本語? といった感じで……

 いやまあもちろん、わたしが今までサボってたから意味がわからないのかも知れないけど、にしてもイミフなカタカナ用語とかが多すぎる気もする。

 そんで、ときたま背を向けて、黒板に要点らしきものを書いてはいるのだけど。

 ひょろひょろっと、何かと思ったら……たぶん数学の式。

 アルファベットのエックスっぽい文字の近くに、数字の6を左右反転したみたいな記号が縦に2つ並んで、思わず首を傾げて見たら、ああ、あれはペコちゃんの目なんだなと理解したのだけど、その間に棒が引かれてしまって、なるほど、ペコちゃんの顔を描こうとしてたわけじゃないんだな、じゃあ何なんだと、謎は深まるばかり。

 

 ――君らは数学どころか算数も苦手だろうし、数式なんて一切使わないで授業してあげるから。

 

 というのは、別の先生が授業の最初に言った言葉。

 上から目線というか、その嫌味っぽい感じに、しいちゃんが珍しく怒ってたのを覚えてる。

 わたしら数学なんて高校1年のときやって以来、2年間やってないんだから仕方ないじゃんか。じゃあアンタ、2年前の流行語大賞、覚えてんのか?

 アンタがどれだけ勉強ができるのか知らないけど、先生って呼ばれる立場なんだったら、教えるのを放棄するんじゃねえ。こちとら難しい入学試験を受けずにこの大学に入って来てるんだ。入学させたからには、こういうヤツらをきちんと教育するのが、アンタたちの役目だろうがっ!

 ――なんてことを、もちろんしいちゃんが言うわけないけど、わたしが代わりに、プレゼミの眼鏡先生に愚痴った覚えがある。

 眼鏡先生無関係だし、一体どういう代わりなのかさっぱりわからないし、わたし自身がちゃんと授業を聴いてないことを棚上げしまくってるわけだけど。

 なぜか眼鏡先生には、その愚痴の内容を褒められた。

 何でだよ、わたしのこと褒めすぎだろ、あの人。

 いやまあ、他の子もよく褒められてるらしいけど、それはそれでなんかムカつく。

 というか数学はともかく、自慢じゃないけど、算数は得意な方だ。

 割引とか消費税の計算はスマホを取り出すより暗算した方が早いし、スーパーのお惣菜に半額シールが貼られる時間は1秒の狂いもないほど正確に把握してるし、買い物カゴに入れた品物の合計金額は常に計算してるし、牛乳やカリカリの特売日には遠くのお店まで自転車を走らせる。

 算数関係ないの混じってるだろという突っ込みはおいといて、それはまあ、昔、生活費を1円単位で切り詰めないといけない時期もあったから、そうなっちゃただけっちゃだけだけど、でもそれってつまり、生きていくためにはそれだけで十分ってことだよね? だったら……世の中に数学なんて必要ないだろおっ!

 そんなことを大声で、講義を淡々と続けるおじいちゃん先生に向かって主張したくなったけど、もちろんしない。

 こっそりアクビを噛みころしながら、隣に座るしいちゃんを観察すると、ずっと困惑顔。綺麗な文字でノートを取っているものの、ところどころにクエスチョンマークが書かれてたりする。

 対して逆方向に座るアゲハさん。

 いつの間にか取り出していた小さな手帳を机に広げ、黒板を見ながらも、ささっとペンを走らせて、ふんふん、と納得するかのように、数式を写し取っていた。

 ちなみにその、ふんふん、は、うなずいているわけではなくて……鼻息。

 よく見れば、そのきめ細やかな頬はほんのりと紅く染まり、そのきれいな瞳はキラキラと子供のように輝いていて……

 いやもう、その、何と言うか……実に……楽しそうだ。

 勉強なんてものを楽しいと主張する人はたまにいるけど、別にスゴイと思ったことなんて一度もない。でもなんか、今、このひとの表情を見ていると……うらやましいとさえ思えてくる。

 いやまあ、けどさ……


「……ねえ、しいちゃん」


 超小声で話しかける。

「なに」

「この授業さ、誰のための授業?」

「え」

「しいちゃんだってさ、先生が話してること、ほとんどわかってないでしょ? つまんないよね、これ」

 しいちゃんも、勉強はできない方じゃない。

 家庭の事情とか色々あって、こんな大学に来てるけど、ずっと上の大学を狙えるだけの実力はある。そんなレベルのしいちゃんが、真剣に聴いてるにもかかわらず理解できない授業に、とてもじゃないけど意味があるとは思えない。

 ぐるりと教室の中を見回せば、顔が見える範囲でも、ほとんどの人が退屈そうで、中には寝ている人も、スマホをいじってる人もいる。

 楽しそうなのは、ひとりだけ。超天才のアゲハさんだけだ。

 もちろん、そのアゲハさんに非はないけど、だったらマンツーマンで授業をやればいいじゃないかと、本気でそう思う。

「……2年生以上の人も受けてるし、私を基準にされても困るけど」

 小さく息を吐いてから、しいちゃんも小声で言う。

「先生曰く、そういう意図らしいわよ」

「え」

「だからね。授業が難しいのは先生も自覚されているらしくて――わからない部分についてはまず自分で調べ、考えて、それでもわからなければ、私に訊きに来なさい。そのようなプロセスを繰り返すことで、学に生きる者になれるのだ、って」

「へえ、じゃあしいちゃんは後で訊きに行くんだ。そのハテナつけてるトコ」

「行かない」

「なぜに」

「質問に行ったことはあるんだけど、そのとき先生が答えてくれた内容も難しすぎて……一応、去年授業を受けてた先輩にも訊いたけど、全然わからないって。なんか去年の授業より難しくなってるとか……」

「それで諦めたと」

「そう」

「学に生きる者になりたくないの?」

「無学でも地道に生きるわよ」

「なるほど、ワンパクでもいいから、たくましく生きたいというわけだ」

「全然違うでしょ」


 こほん、と。

 おじいちゃん先生がこちらを見ながら、わざとらしく咳払いをした。


 慌ててお喋りをやめて、勉強する姿勢を取るのは、わたしたちの日常光景。

 先生はやれやれといった表情を浮かべてから、ぐるりと教室内を見回すように顔を動かして、すぐに授業を再開した。

 じいっと、しいちゃんに睨まれて、目を逸らした先。

 アゲハさんが呆れた表情をこちらに向けて、こら、と、口を動かした。

 すいませんという風に頭を下げるわたし。

 アゲハさんは小さく息を吐き、そして穏やかに微笑むと正面を向いて、再び先生の話に耳を傾け始めた。

 ふむ、なんだかお説教とかするのに慣れてる感じを受ける。ひょっとして、妹さんか弟さんでもいるのかなあと、そんなことを思いながら、わたしも先生の方に目を戻した。


 ――あれ?


 よくわかんないけど、えっと……なんだか……変な感じ。

 それは、そう。

 まるで、見てはいけないものを、見てしまったかのような……

 

 その奇妙な感覚を追いやるように、わたしはぶんぶんと首を振る。

 そして改めて、わたしの隣。

 先生の話に聴き入る女性の顔を、じっと見つめた――


 と、そこで。

 しいちゃんがツンツンと。

 見ると、例の出席管理の機械で、わたしの手をつついていた。

 なんか人数の割に、ずいぶんゆっくり回ってきた気もするけど。

 わたしはそれを受け取って、サイフから学生証を取り出し、ピッとやる。


 ……って、ヤバ。


 やってから気付いた……バレる可能性があることを。

 なにがバレるかと言えば、それは先週まで、しいちゃんに頼んでた代返のこと。

 人が多いから大丈夫だと思ってたけど、女子がこんだけ少ないと、名簿と教室内の女子を照らし合わせたら、先週までいなかったヤツのことを調べられてしまう……

 のか?

 あれ、先生の立場からすると、わたし、どういう存在になるんだ……?

 ええと、先週までわたしはいない。けど出席したことになっていて、今週はわたしはいて、それで出席したことに……女子の数は、全部で……えっと……? 

 頭がぐるんぐるんし始めて、どうしてかペコちゃんの顔が思い浮かんで離れなくて、絶賛混乱中。

 うーん……ダメだ、こういうことを考えるのは苦手だ……

 もっと愉快なことか、もしくは現金、あるいは猫に関することじゃないと……

 あー! いいやもうっ! なるようになれっ!

 最悪「わたし、先週まで男子でした!」って主張すればっ……

 ……お?

 あ、そっか、「先週まで男子っぽい恰好してました」で良いのか。

 ガールであるところのわたしが、先週までは教室に存在してなかったのが問題なんだから、ボーイに見えてただけでガールはいましたよ? と、そんな主張をすれば、すべて解決する……っ!

 のか? 

 ま、いいか……確か出席はほとんど成績に影響しないって言ってたし。

 しいちゃんに代返を頼んでたのは、その些細な点数が原因で不合格になったらヤだっていう理由なんだけど、今週からはちゃんと出るから問題ない!

 もし何か言われたら「わたしは今までボーイでした」で押し切ろう!

 バレバレの嘘だけど、それが嘘だと証明する方法は、ないっ!

 ふ、証拠不十分ってヤツさ、くくく。

 などと、未来を生きるために過去の自分を捨てたヤマダ・ザ・ガールは、唇の端をひん曲げて、さも悪人っぽい表情を(たぶん)浮かべながら、出席管理の機械を隣に座る女性に手渡した。

 アゲハさんは、私の内にある悪事など気づく様子もなく、ありがとうといった感じで目を細めながらそれを受け取ると――


 そのまま、後ろに座る男子学生に手渡した。


「……あ」


 色々とごちゃごちゃしてた頭の中が、すうっと。

 まるで猫の毛を丁寧にブラッシングしたときのように、整えられていく。

 

 思いだす。

 屋上で会ったとき、アゲハさんが言っていた「違和感」のこと。

 アゲハさんと別れた後、じっとスマホを見つめてたら、その意味はわかった。

 これ、何でだろう? と、すぐにネットで調べた。

 だから、アゲハさんが「絞り込めた」と言った理由もわかったし、「内緒にして欲しい」とお願いされた理由もわかった。さっきアゲハさんが、わたしに尋ねようとしたことも、大体想像がつく。


 けど――少し違った。

 アゲハさんは気が付かなかったようだけど、わたしは――あのメールにある、もうひとつの違和感について、ずっと不審な気持ちを抱いていた。


 おじいちゃん先生の声だけが響く、広い教室。

 わたしは何の気なしに、自分の前髪をいじる。

 大学に入学すると同時に、少し明るく染めた髪。

 しいちゃんに「少し大人っぽく見えるかも」とか言われて。

 すごく嬉しかったことを思い出して――


 すべてが、つながった。


 でもしょせん、馬鹿なわたしの想像で……いや、けど。

 たぶん間違いない。

 推理と呼んでもいいと思う。

 けど、でも……それが、事実だとすると――


「――悪魔、か」


 思わずつぶやいて、わたしは小さく息を吐いた。

 その後、授業が終わるまで、色々と考え込んでしまう。

 それこそ勝手な想像で、推理でも何でもないのだけど……

 

 わたしは、何だか少し、悲しい気持ちになってしまっていた。


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