7. にゃん子と探偵④
わたしが研究棟の屋上で出会った、美人でスタイルのよい女性。
彼女のきれいな黒髪も整った顔つきも、今のわたしの目には、うるんで見える。
その女性──改め、小鴉アゲハさんは、わたしの前でポカンと立ちすくんでいた。
そりゃまあ自己紹介をした直後に、その相手がポロポロと涙を流し始めたら、誰だって呆然とするだろう。
わたしは慌てて、自分の目を手の甲でぬぐう。
この場面で涙を流すのが変だということのは、自分でもわかってる。
それでも──
「どうして、アゲハさんのお母さんのネーミングセンスが……わたしのお母さんには、なかったんだろう……」
いや、別にセンスのいい名前じゃなくても良かったんだ。
にゃん子とか、チーターとか、アルパカとかじゃなくて……
あのだらしない、わたしのお母さんは、どうして、普通の、名前を、つけることができなかったんだろう……
そんなバカバカしいことが、今のわたしの心には、ひどく深く突き刺さる。
ぐずぐずと鼻をすするわたしを、じっと見つめるアゲハさん。
わたしがつぶやいた言葉から、何かを察したのか。
戸惑いながらも、慎重に言葉を選ぶような目つきで。
「ネココさんという名前は、とても可愛らしくて良い名前だと思うけれど」
そんな風に言ってくれたのだけど──
「違うんですっ! わたし、ネココじゃないんですっ!!」
驚くアゲハさんの前で、わたしはついに感極まって。
その場で、声をあげて泣き始めてしまった。
ガキじゃないんだし、バカみたいだとわかってはいても──止められなかった。
それは別に名前のことだけじゃなくて。
今までのこと、ぜんぶ。
それこそ物心ついた頃から抱えてこんできた気持ちが、すべて灰色の濁流となってあふれ出てしまった、そんな感じだった。
母子家庭で、お母さんが家にいないときはひとりぼっちで。
ぜいたくもできなくて。
頑張って勉強しても、ぜんぜん頭に入らなくて。
もちろん初対面のひとに名前でバカにされることもあった。
それでも猫たちがいて、友達がいて。
お母さんも、わたしなんかのために頑張ってくれて。
何とか大学に入ってみたものの、通学に時間はかかるし。
やっぱり勉強はできなくて。
さらには変なメールがきて、先生に怒られて。
落ち込んで、将来について……不安で、不安で、たまらなくて。
ちゃんと大学を出て、きちんとした企業に入れ、と。
そんなお母さんの望みを、叶えることなんて、わたしには──
そのすべてを、わたしは──アゲハさんに打ち明けてしまった。
途中からうながされるようにベンチに座って。
わたしの隣でアゲハさんは、ずっと真剣に話を聴いてくれた。
途中でわたしが再び感極まって、泣き止まなくなってしまったときには。
辛そうな、それでも穏やかな表情で、わたしを見守ってくれていた。
やがて話も終わり、涙も止まって……
相変わらずの屋上の場面。わたしはハンカチで目元をぬぐう。
さっきよりも陽光が強く当たり、灰色のコンクリートが妙にまぶしい。
暖かな空気の中、貯水槽の下では茶トラがすやすやと眠っていた。
「……ごめんなさい、わたし」
急に恥ずかしさがこみ上げてきて、わたしは視線を落とす。
アゲハさんは、そんなわたしの肩をポンとたたく。
「いいのよ。そもそも私が言ったことでしょう。悩みを抱えているなら、相談に乗ってあげるって」
「でも……」
わたしはアゲハさんの顔を見上げる。
にこっ、と、クールな印象とは程遠い、その優しい微笑み。
「あなたの悩みごとをすべて解決するのは大変かも知れないけど──この大学の先輩として、私が相談に乗れることや、少しでも手伝ってあげられることはあると思うから、ひとつずつ解決していきましょう」
力強く誠実に、宣言するかのように、アゲハさんはそう言ってくれた。
「……ありがとうございます」
わたしは再び泣いてしまいそうになるのをこらえて、丁寧に頭を下げた──
と、そこで。
「……あれ?」
衝撃の事実と言うのか、いや、嫌な予感とでも言うのか……
わたしは顔をあげると。
「アゲハさん。さっき……自己紹介のとき」
今さらながら思い出して。
「2年生って言いました?」
そのことを確認する。
「そうよ」
淡々と返すアゲハさん。
「大学院ではなく?」
「学部生よ」
「……えっと、誕生日、いつですか?」
「6月26日、来週の月曜日」
「それはおめでとうございます」
「ありがとう、お祝いして頂戴ね」
「ええ、それはぜひ。で、失礼な質問ですけど、浪人とかしてないですよね?」
「してないわよ」
「留年も」
「もちろん」
「ふむ」
なお、このナキムッシのヤマダッチこと、山田猫子の誕生日は5月3日。
その数字を並べた503という文字列を横から見ると、猫に見えるということから猫子と名づけられたという事実は、わたし界隈では有名な話で、ふざけるな、とお母さんに何度も抗議した話である。けど小さい頃は「うちのお母さんはマジでセンスある!」とか思ってたのは黒歴史。なお常人には見えないので要注意。5の上のとこの横棒が尻尾だ。5を少し上にずらして書いてみると見えやすいかも知れない。いや、やっぱり見なくて良いです、時間を無駄にするだけなので。
さておき、何が言いたいかというと、今日は6月21日水曜日。
わたしはもう今年の誕生日を迎えているが、アゲハさんはまだ。
わたしは大学1年生、アゲハさんは大学2年生。
おわかりだろうか?
結論、わたしと、このひと、今現在。
19歳で、同じ年。
「うそだっ!!」
うがぁぁー! と、両手をあげて勢いよく立ち上がるわたし。
すぐに振り返って、じぃぃっ! と、思わず睨みつけていたのは──その美しい顔ではなく、胸元だった。
「不公平じゃないですかっ!」
一番の差分はそこだと、女の本能で認識していたらしい。
しかしあれだ。散々悩みを聴いてもらった相手に逆ギレ。
いや、逆もなにも、嫉妬とひがみで勝手にキレただけという。
感情のままに行動する、ザ・コドモである。
「そう言われても……」
わたしの鋭い視線の先にあるモノに気づいたのか、アゲハさんはそっと自分のおっぱいに手をあてる。
そして、しばらく困り顔を見せながらも、思案する素振りを見せ始めた。
どうやら依頼人(と言っていいのか?)であるわたしの、そんな悩みですら解決しようとしてくれているらしい。
なんだ、この善人。
「ええと……毎朝、牛乳を飲めばいいのよ。私は飲んでいるわよ?」
「わたしだって飲んでますよっ!! えぶりもーにんぐ! わんカップミルク!」
再び、うがーと両手を天高く掲げて、わざとらしく頬を膨らませる。
これくらいの感覚でおっぱいも膨らんでくれればいいのにと、わけのわからない発想をしながら、目の前に座る華麗な女性の胸以外の部分もじろじろと見始める、失礼極まりないヤマダ・ザ・コドモ。
もちろん胸だけじゃない。目つき、顔つき、身体つき。
カッコいいスーツで決めた女性と、しまむらファッションの女子。
いや、なにより雰囲気とか……まあ今みたいな行動もそうだけどさ……
誰がどう見たって同じ年には見えないし、もし仲良く手をつないで街中を歩いたとしたら、よくて姉妹、下手したら親子にだって……
「……あのね、にゃん子さん」
じっと見上げて、まあ座りなさいとばかりに、ちょんちょんとベンチを指さす。
少し落ちついて、色々と恥ずかしくなっていたわたしは、素直にちょこんと、アゲハさんの横に腰をかけた。
「あなたが不公平だという理由はもちろん理解できるけれど、それを言うなら、私にだって思うところはあるのよ?」
「……と、言いますと」
「女というものは、いつまでも若く見られたいものでしょう?」
わずかにむすっとした風に言うアゲハさん。
つまり、実年齢より上には見られたくないということらしい。
そりゃ、ま……当然か。
「私が高校生のとき、街中を友達と歩いていて、その子の保護者扱いされたことは一度や二度ではないわ」
「ごめんなさい」
「……あなたもそんなことを思っていたのね」
はあ、と、小さく息を吐くアゲハさん。
「この大学の入学式のときも、学生用ではなく、教職員用の待機場所に案内されたのよね」
「……え」
「まあ、それは嘘だけれど」
「嘘ですかい」
けど、わたしも最初に見かけたときは、そんなことを思ったわけで。
しかしまあ……無いものねだりとはよく言ったもの。
隣の芝生は赤いんだか、青いんだか。
気がつくとわたしたちは、お互いの顔をじっと見つめあっていて。
はあ、と、そろって、なんだかよくわからないため息をつくことになった。
「……あなたと私、足して2で割ったら、丁度よい女子大学生ができあがるかも知れないわね」
「そうかもですね……」
「右半身と左半身、どっちになりたい?」
「せめて上下にっ!」
いや、上下でもダメだろう。
よい提案としては、アゲハさんの全身にわたしが着ている服を着せれば、ちょうどよい感じの女子大学生になると思う。いや、サイズが合うわけないし、カジュアルな服をしまむらで買ってくれば……? わたし不要説?
……というか、なんでアゲハさん、スーツ着てるんだろ。
「学び舎にはきちんとした服装で。ポリシーみたいなものかしら」
「ほう……」
学び舎なんて言葉を久々に聞いた気がするけど、なんかカッコいい台詞ではある。
「まあ、服を選ぶのが面倒くさいということもあるけれど」
「あ、わかります。高校までは制服で良かったのに、毎朝、選ぶのが大変で……」
「でしょ」
ふふ、と、なんだか嬉しそうに返すアゲハさん。
けど、その苦労の度合いはだいぶ違う気がする。
極端な話、例えばわたしがジャージを着て通学しても、友達に軽く笑われるくらいで済むだろうけど、アゲハさんみたいな美人がジャージを着ていたら、それこそ事件で、ある意味スーツ姿より注目を集めてしまうだろう。
その辺は元美人である、わたしのお母さん(今でも年の割にキレイだけども)もよく言っていて、その教育のたまものか、わたしは安くてもそれなりに見栄えのする服をちゃんと選んでいたりする。もちろんジャージなんて着てこない。
と。
いつの間にか、下の方、キャンパス全体がさわがしくなっていた。
どうやら1限の授業が終わり、休み時間になっていたらしい。
「──あなたと、もう少し、お話しをしていたいけれど」
アゲハさんはすっと立ち上がると。
「ごめんなさい。私、2限に授業があるから、この辺で」
言って、ベンチに置いたままだった本を手にとった。
「あ、はい。色々とありがとうございましたっ!」
「ううん、気にしないで頂戴。あなたの悩み事については別にして、私も楽しかったから」
ニコッと微笑むアゲハさんに、わたしも嬉しくなってしまう。
「にゃん子さん、あなたも授業?」
「あ、いえ。次はないです」
次の2限は空き時間なので、いつも図書館で映画を見て過ごしている。
1コマが90分だから、大体昼休みの途中くらいに見終わって。
んで、大学にやって来たしいちゃんと一緒にお昼ごはんを食べた後、そろって3限の授業にでるのがいつものコース。
「でも今日は、ここでゆっくりしていこうかなと思ってます」
「そう。それならごゆっくり」
アゲハさんは穏やかな声でそう言った後。
「──ひとつだけ。ラブレターの件は、すぐにでも解決できそうだけど」
わたしの目を見て、そんなことを告げた。
「え!?」
思わずベンチから立ち上がる。
まさかの展開……というか、え?
ラブレターの件は確かにアゲハさんに話したけど、簡単な経緯について説明したのと、なんとなくスマホの画面でメールの文面を見せただけだ。
別に解決してもらおうとか思ってなかったから、わたしの交友関係とか、ましてや相手の目星なんてものも、一切説明なんかしていない。
「なのに……え、犯人がわかったんですか!?」
「犯人という表現は良くないと思うわよ」
「あ、すいません……ええと、あのメールの差出人が……」
「そうね。わかったというより絞り込めただけ。けれど、相手の候補はかなり限られると思う」
「……っ!」
なんだろう。
本物の探偵に出会ったような気持ちというか……いや、この場合、それこそアニメのような探偵、なのだろうか……? よくわからないけど、驚きと感動がごっちゃになったような気持ちが、わたしの中で湧きあがっていた。
「どうして……? さっき、ちょこっとメールを見ただけですよね……?」
「ふふ、そのメール、改めてじっくり見てみるといいわ」
わずかに意地悪く、いたずら好きの悪女のような顔をのぞかせるアゲハさん。
「きっと何か違和感を覚えるはずだから」
「違和感……」
なんだろう。確かに変な誤字とかはあったけれど……
「けどね、にゃん子さん」
そこで真面目な表情を浮かべて。
「もし答えがわかったとしても、他の人には言わないで頂戴。それに、あのメールが届いたということ自体も、なるべくなら内緒にしておいて欲しいの」
「え? あ、はい、わかりました」
「ありがとう。大丈夫、私が絶対に解決してあげるから」
言って、腕時計を見るアゲハさん。
わたしもスマホの時計を見ると、2限の授業が始まる時間だった。
「それでは、にゃん子さん。また会いましょうね」
そう言って背を向けて、歩き始めたあと。
「──ふふ、本当に探偵になったみたい」
小声でそんなことをつぶやいたのを、わたしは聞き逃さなかった。
そんなアゲハさんは、屋上の出入り口のドアを開けると。
なぜか口元に手を当てると、んー、と、うなるような声をあげた。
にゃ? と、貯水槽の下、目を覚ましていた茶トラが反応する。
「小鴉、アゲハでした──」
少し低い声でそう言うと、わたしの方をちらりと見てから──
ドアを閉め、去っていった。
「え、今のなに……?」
屋上に残されたわたしは、きょとんとする。
今のアゲハさんの表情には、なにか物欲しげな感じが確かに含まれていた。
……って、え?
ひょっとして、突っ込み待ちだった?
なに? 今、アゲハさん、何かボケてたの……?
考える。
ええと、たぶん探偵にかかわることで……
んー、と、うなったあとに。
名前を名乗りながら、去っていくと言えば……
「……あ、古畑任三郎か」
探偵じゃなくて、刑事じゃないか、あれ……
微妙に古いし、とっさにわかるかい、んなもん……
なにか呆れた果ててしまったような感じになって、わたしはベンチに腰をおろす。
そこにトコトコと近寄ってきた茶トラを抱き上げる。
暖かい空気、きれいな空。
すてきな出会いに感謝しつつ、わたしは、くすくすと、ひとり笑っていた。
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