5. にゃん子と探偵②
ベンチに座ったまま足を組み、じっとこちらを見つめるスーツ姿の女性。
ふせた形で右手に持っている本は、赤い布目のハードカバー。
おそらく小説ではなく、何か専門的な本だろう。
ゆっくりとなびく黒髪。冷静な目つき。
頭の良さそうなそのきれいな顔を、ついじっと見つめてしまい……
わたしの気持ちは、再びどぎまぎと落ち着かなくなる。
わたしは茶トラを胸に抱えたまま、おどおどと。
「……こ、こんにちは」
とりあえず挨拶の言葉を述べる。時間的には、おはようございます、が正しいのだろうけど、そこまで気が回らなかった。
女性は組んだ足をほどき、両脚を前でそろえてから。
「こんにちは」
そう返してくれた。けど、表情は動かない。
見つめあって、沈黙。
いや、えっと……何を話したらいいのか、わからない。
わたしの長所は人見知りせず、誰とでも初対面で話せるところだと思っていたけれど、あまりにも突然すぎる出会いだし、素性も知らない相手だし、しかもド美人。
出てくるはずの言葉も、出てきやしない。
「え、ええと、あ、あなたは──」
気まずさに耐えきれず、わたしは思わず言葉を絞り出していた。
──どなたですか。
と、聞くのが失礼なのは、流石のわたしでもわかる。
──何をしているんですか。
は、質問としておかしくないけど、答えはたぶん読書。
ほんわかと暖かいし、静かだし、見晴らしは良いし、猫はいるし。
読書するには本当に良い場所だ。わたしも今度からここで……
って、違う違うっ……! あなたは、に、続く言葉だよ!
え、ええと、そもそも、わたしだって、いったいどうしてここに来たんだっけ?
確かここにいるのは、猫か、探偵か……それとも。
「──悪魔ですか?」
などと、ついバカなことを訊いてしまうわたし。
「は?」
いきなり何を言うの? と、そんな感じの唖然とした表情を見せる女性。
だって、そんな素振りだって女優さんの演技みたいというか、なんというか美人すぎて……人間離れしてるって印象から……つい……
「あ、い、いえいえ、すいませんっ! 違うんですっ!」
わたしはペコペコと謝る。その間も腕の中で大人しくする茶トラ。
何とか気持ちを整える。そして軽く息を吸ってから。
「ここには悪魔がいるって──そんなことを聞いたんです」
素直にそう言ってみるも……
言葉にしてみると、やっぱりバカバカしいこと、この上ない。
けれど聡明な目をした彼女は。
「ふうん……?」
と、なにか興味をもった風につぶやく。
そして。
「ここには──探偵がいると、私はそう聞いたのだけど」
そう続けて。
「実際に来てみたら、その猫がいたのよ」
すうっと、細い指先でわたしの胸元を指差した。
にゃあ、と、応じた風に茶トラが鳴く。
「猫はいたけれど、探偵はいなかった──」
それこそ演技じみた口調で。
「屋上探偵、なんて存在がいたら面白いと思ったのだけど、まあ探偵なんてものは、しっかりと地に足をつけて活動すべきよね」
言って、くす、と小さく笑った。
うわあ、世の男性が総オチするほど素敵な、お嬢様の微笑みだ……
私と似たようなセンスを持ってるくせに、どうしてここまで
机があればバンバンと叩きたくなるほどの激しい嫉妬と、
「けど」
彼女は話を続ける。
「悪魔がいる、なんて話は聞いたことはないわね……」
ふむ、と、あくまでも優雅に首を傾げる。
わたしの中のダーティーな気持ちはおいておいて、しいちゃんいわく、ここに悪魔がいるという七不思議な話の出どころは、プレゼミの眼鏡先生だ。あの先生が話をでっち上げたのか、もしくは最近作られた七不思議なんだろうか?
探偵も、悪魔もいなくて。
猫だけは本当にいた。
ま、その三つなら一番可能性がありそうな結果ではあるけれど……
ん? ホントにそうか?
わたしは抱えていた茶トラを両手でつかみなおして、赤ん坊をあやすかのように高く掲げると、左右に揺らす。そしてその場で、ぐるり、ぐるりと回ってみる。
ここは屋上。周囲に見える空はきれいな水色。
「……お前、どうしてこんなところに?」
ぶらーん、ぶらーんと、伸ばした全身を空中でリラックスさせる茶トラ。
ちなみに男の子。
「その子、ここに住みついているらしいのよ」
猫の代わりに美女がそう答えてくれる。
「事務の人が外に連れ出しても、いつの間にか戻ってきてしまうそうよ」
「へえ……」
わざわざ階段を上ってきてるのだろうか。あのドアは自分で開けてるのか?
謎は深まるが、どうせ誰か先生か学生だかが連れてきているのだろう。
いたって健康的だし、変な虫もついてないみたいだし。
猫好きの誰かが、ちゃんと面倒を見ている形跡がある。
ま、この子がこの場所を嫌がってないなら、どうでも良いっちゃどうでも良い。
大丈夫だと思うけど、何かの拍子に落ちてしまわないことを祈るばかりである。
きゅっと、茶トラを抱きしめるわたし。
にゃあ、と、穏やかに鳴く茶トラ。相思相愛。ラブラブである。
──じい。
と、何か冷たくて……こわい感じ。
振り返れば、美人さんがこちらを見ている。
表情は相変わらずクールそのもの。しかし、確かに感じたのは──
「ふむ?」
わたしは、すたすたっと、彼女の座るベンチに三歩ほど近づく。
そして抱えていた存在を、すっと下に置いた。
女性の方を向いてぺたんこと座る茶トラ。
彼女もわたしの意図に気付いたのか、持っていた本をベンチの上に置いた。
そして、すっと立ち上がると、腰を低くしながら脚をそろえて曲げる。
そのまま両手を地面に近づけると、少し遠慮がちに。
おいで、おいで。
とばかりに、そのきれいな手を動かした。
にゃあ~、と、小さく鳴くも、動かない猫。
じいっと、穏やかに見つめる女性。
もう一度手を動かして。
とっとっとっ、と、舌を鳴らしてみる。
猫、動かない。
じいいいっと、美しくも強い眼差しで見つめながら。
すっすっと、両手を素早く動かして。
ひゅ、ひゅ、ひゅっ、と、何度も口笛を吹く女性。
猫、不動。
じいいいいいぃぃっ! と、激しくにらみつけるように──
「あの」
わたしは思わず苦笑しながら言う。
「いったん、その子から目を離してみてくれますか?」
「え?」
女性は不思議そうにわたしに目を向けるも、すぐに、ぷいと、顔をそらした。
「そのまま10秒くらい、待機しててください」
「はい」
あさっての方向を見ながら、素直に返事をする女性。
そのまま10秒待つ間に、もぞもぞと動き始める茶トラ。
わたしは手を地面に近づけてから、ポンと、その子のお尻を叩いた。
とととと、と歩きだして、女性の近くに座り込んで。
なでて、なでてっ!
とでも言うかのように、ごろんと転がった。
「……あら」
その様子に気付いた女性。
白くてきれいな手を、ふわふわした喉元に近づけて。
ゆっくりと、なでた。
気持ちよさそうに目を細め、喉を鳴らす猫──
その後、しばらくの情景は、わたしだけのものにしておきたい。
猫をもふもふする、ではなく、猫を愛でる、と、そんな様子。
空の水色、屋上の灰色。
本当に絵になるなあ、と、感動すら覚えて。
その姿に嫉妬するなんてことは一切なかった。
……で。
なでられ飽きたのか、茶トラはするりと抜け出して。
ふわぁと、あくびをすると、屋上の一角、貯水槽の方に向かって歩いていく。
そしてその貯水槽の陰にごろんと横になった。
どうやらそこが定位置らしい。
そしてよく見ると、黄色いプラスチックのエサ入れが置いてあった。
やっぱり誰かが飼っているのだろう。
もしかしたら地域猫ならぬ、大学猫みたいな存在なのかもしれない。
「それで──」
いつの間にかベンチに戻っていた女性。
冷静な表情でわたしの方を見ながら、細い指先で前髪をかきあげる。
それはまさに、クールで知的な仕草と呼べるものだけども。
ふふんと、鼻息が荒いというか、満足気な様子がどことなくうかがえる。
それを見て、わたしはようやく。
──このひとも、わたしと同じ大学生なんだ、と。
そんな当たり前のことに気がついた。
人間離れした美人だとか、男を惑わすお嬢様だとか、散々失礼なことを思ったりもしたけれど……いや、まあ、何というか。そのスーツ姿も相まって、このひと、その麗しい見た目と、優雅な仕草で、色々と損をしてるんじゃないだろうか?
そんなわたしの余計な心配なぞ、もちろん知るよしもなく。
「あなたは──どうして、こんなところにやってきたのかしら?」
穏やかな表情で、彼女は、わたしに訊いた。
「あなたが用事があったのは、猫? 悪魔? それとも──」
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